至道無難(しどうぶなん)禅師は、
現代の臨済宗の中興の祖、白隠禅師の法のうえの祖父にあたります。
至道無難がいなければ、今の臨済宗は、別な形となっていたでしょう。
臨済宗にとって重要な位置にある方です。
愚道国師--至道無難--正受老人--白隠--東嶺
至道無難禅師は、慶長8年(1603年)美濃、関が原で生まれる。
家業が、本陣問屋であった。その家業のかたわら在家のまま、愚道国師に参禅し、
坐禅修行して、47歳の時、悟る。
52歳で、出家、江戸麻布の庵(東北庵)に住む。ここは、後に東北寺となる。
江戸、小石川戸崎町に家屋を買い、転居した。至道庵と呼ばれた。
延宝4年、遷化、74歳。東北寺に墓所、後、寺が渋谷に移され、墓所も移転。
後、東嶺禅師が、分骨して、至道庵にも墓所を作る。
至道庵は、その後、明治年間、在家の手にわたり、廃絶。
大正2年、小石川茗荷谷に、新らしい至道庵を復興し、墓所を移転。
以上、HP「現代人の禅」より
凡夫めら あまりに物な欲しがりぞ
我が身さえ我が物ならぬぞよ
殺せ殺せ我が身を殺せ殺し果てて
何もなき時 人の師となれ
身の業の尽き果てぬならば何も無し
仮に仏というばかりなり
何もなき心を常に守る人は
身の災いは消えはつるなり
何も言いますまい。
一句一句
一文字一文字をかみしめたいと思います。
現代の臨済宗の中興の祖、白隠禅師の法のうえの祖父にあたります。
至道無難がいなければ、今の臨済宗は、別な形となっていたでしょう。
臨済宗にとって重要な位置にある方です。
愚道国師--至道無難--正受老人--白隠--東嶺
至道無難禅師は、慶長8年(1603年)美濃、関が原で生まれる。
家業が、本陣問屋であった。その家業のかたわら在家のまま、愚道国師に参禅し、
坐禅修行して、47歳の時、悟る。
52歳で、出家、江戸麻布の庵(東北庵)に住む。ここは、後に東北寺となる。
江戸、小石川戸崎町に家屋を買い、転居した。至道庵と呼ばれた。
延宝4年、遷化、74歳。東北寺に墓所、後、寺が渋谷に移され、墓所も移転。
後、東嶺禅師が、分骨して、至道庵にも墓所を作る。
至道庵は、その後、明治年間、在家の手にわたり、廃絶。
大正2年、小石川茗荷谷に、新らしい至道庵を復興し、墓所を移転。
以上、HP「現代人の禅」より
凡夫めら あまりに物な欲しがりぞ
我が身さえ我が物ならぬぞよ
殺せ殺せ我が身を殺せ殺し果てて
何もなき時 人の師となれ
身の業の尽き果てぬならば何も無し
仮に仏というばかりなり
何もなき心を常に守る人は
身の災いは消えはつるなり
何も言いますまい。
一句一句
一文字一文字をかみしめたいと思います。