よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

歴史の伊都国散策(福岡県糸島市)

2020-12-13 11:58:43 | ウォーキング

12/9(水)のふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「歴史の伊都国散策」でした。魏志倭人伝に出てくる「伊都国」には、歴史的にも多くの遺跡が残っています。

今日は、その一部を見て回ります。集合場所は、JR周船寺駅。参加者44人。スタート前、家内が100回参加の表彰を受けました。

 

周船寺駅裏の畑には、10月ごろまで畑一面コスモスが咲いていました。現在は刈り取られています。

  

今宿古墳群とは、今宿平野に築かれた古墳群。4世紀中頃~6世紀に築かれた前方後円墳13基(うち現存は11基)と350基以上の群集墳が東西3km、南北1.5kmの範囲に分布しています。

このうち7基の前方後円墳が国指定史跡となっています。この中の一つ「飯氏二塚古墳」は、標高30~35mの低丘陵上に立地、全長約50mの前方後円墳。後円部径約25m・前方部幅約35m、

2段築成で葺石を備える。埴輪は見つかっていない。後円部中央に構築された横穴式石室は石材のほとんどが持ち出されてしまい、破壊が著しい。出土遺物は装身具や馬具、須恵器など。

6世紀初頭~前半頃の築造。国指定史跡(今宿古墳群)、2004(平成16)年指定。

飯氏二塚古墳を下りていくと、県立筑前高校があります。歌手山内惠介さんの母校です。

  

染井の井戸

日本書紀は仲哀天皇の皇后を神功皇后(息長足姫尊)といいます。九州地方に、クマソ一族が強い勢力を持っていたという時代。大和朝廷の威力を広げるため、奈良を出発した天皇の軍隊は、

クマソとの戦いで仲哀天皇が、敵の矢にあたり陣中で亡くなられます。クマソの勢力が強いのは、新羅(朝鮮半島東南部)の後押しがあるからだと判断され、玄界灘を渡り新羅へ

軍を進めようとされました。皇后の軍が、怡土の山麓に本陣を置いて、滞在されたときは、大和の国を出て、すでに二年余りが過ぎていました。仲哀天皇は亡くなられ、将兵は悲しみと、

戦いの旅に疲れ果てて、故郷恋しさの思いが、全軍の心を重たく包んでいたのです。皇后は、みずからも男装し、悲しみをのりこえる勇気をふるい立たせるため、将兵たちに一つの奇蹟を祈ろうと

思われました。ある朝、皇后は将兵をつれて近くの泉に行かれ、一つの白生地のヨロイを手に高くさし上げて見せられました。このヨロイは、九州の朝倉の戦いで亡くなられた夫、仲哀天皇の

まだ使われていないヨロイの一つです。「皆の者、われらは天皇の意思を継ぎ、今遠く海を渡り、新羅の国へ進もうとしている。昨夜、不思議な神霊のお告げが私に現れた。

もし、この泉でヨロイが赤く染まることがあれば、この戦いは必勝である。万一染まらないならば望みなし。早々に軍を引き返したがよいとのお告げ。みなの者、心を静めて見つめるがよい。」

ヨロイは全軍が見守る中、静かに泉の中に沈められます。一刻、二刻の後、再びゆっくりと引き上げられたヨロイに、奇蹟がおこりました。真清水の泉から現れた白生地のヨロイは、

色も鮮やかな真紅色に染まってキラキラと、したたり輝いているではありませんか。「勝ちいくさだ。」皇后も将兵も吾を忘れて朝空に叫びました。うち沈んでいた全軍の士気が、

ふるい立ったのは、もちろんです。ヨロイは、やがて近くの松の枝にかけて干されました。この松は古来より「ヨロイ掛けの松」と称し、見事な枝ぶりの巨樹となり、近くの染井神社の境内に

生存したことを「筑前国続風土記」に貝原益軒が書いています。
近年になり、この松は枯死し、その幹株が染井神社に保存されています。この後。皇后の軍は西(二丈町)へ向かって出発し、深江の子負が原海岸で必勝と海路安全と安産を祈り、

二つの玉石を懐中にして船出されます。軍が日本へ帰還の後、皇后が御出産されたのが応神天皇と神話は伝えます。安産祈願に懐中された石を祀ったのが、鎮懐石八幡宮です。

軍が深江へ向かう途路「飯原」で駐屯された時、雉の鳴く声が琴の音のようにひびいたという吉兆の場所に雉琴神社が現存しています。神功皇后に関する伝説神話は、瀬戸内海から北部九州沿岸の

いたる所に、鞍かけ石、馬つなぎ石、櫛置き石、船出浜など数多くの遺跡が点在します。染井神社は、神話を秘めた古式の雰囲気を今も山中にただよわせる社です。

福岡藩六代藩主、黒田継高はこの地に遊び神水を汲み、歌を献じています。

濁りなく音をうつす鏡とは けふぞ初て三染井の水     前原市  (案内文より)

井戸の中を覗くと草が生い茂り水を見ることができませんでした。

  

染井から国史跡「怡土(いと)城址」に向かいます。

  

怡土城は、糸島市と福岡市の境にある高祖山西斜面に築かれた奈良時代の山城です。「続日本紀」には、756年(天平勝宝8)6月から768年(神護景雲2)2月まで約12年を要して

完成されたと記されていて、築城の責任者には太宰大弐(太宰府の長官)であった吉備真備でした。

遺構には北西屋根線上に五か所、南西線上に一か所の望楼跡(物見櫓)があり、山裾には、南北約2kmにわたって土塁(防御用の堤防、復元高10m)が走っています。

これまでの調査では部分的ではあるものの土塁の前面にはテラス状の構造が確認され、土塁の外側には幅15mの濠があったともわかっています。

怡土城の特色の第一点は、正史に築城の担当者とその期間が明確に記載され、遺跡の所在地も確認されていることです。

第二点は、築城する際に中国式山城の築城法が採用されていることです。朝鮮式山城は土塁を山の等高線に沿って「はちまき」状に築きますが、怡土城は、高祖山の急斜面から平地部にかけて

「たすき」状に土塁を設けています。この背景には、遣唐使として二度にわたって中国に渡り、特に兵法に長じた吉備真備の存在があると考えられます。

第三点は築城の為「防人」までも動員していて(続日本紀)、急を要する事業であったことが伺えることです。

この築城の目的については8世紀ごろ新羅征討が論じられた際にその一環として築城されたと考える説と唐で755年(天平勝宝7)に勃発した「安禄山の乱」に備えるためと考える説があります。

更に海岸部と日向峠(ひなたとうげ)を見渡すことができ、「主船司(船を管理する役所、現周船寺)とも隣接したことからこれらを含めた軍事的構想の下で築城されたと理解することができます。

その後中世(戦国時代)の糸島を支配した原田種継氏はこの場所を再利用して「高祖城(たかすじょう)」を築き、1587年(天正15)に豊臣秀吉に滅ぼされるまで拠点としました(案内文より)

※吉備真備と安禄山の乱は、クリックすると説明されます。

然し、8世紀ごろ、中国で起こった内乱がすぐ日本に伝わってその防御のために築城するなど、今でこそ携帯、PCがありますが、この時代の通信はどのようなものであったのでしょうか?

 

  

伊都国ファームパークで休憩。

 

細石神社(さざれいしじんじゃ)・・・木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)、磐長姫命(いわながひめのみこと)の姉妹二社を祀る神社。旧社名は、佐々禮石神社。

伊都国の中心部にあり、神田も多く大社でしたが、兵乱によって社殿を焼失してしまいました。さらに天正15(1587)年、豊臣秀吉の太閤検地によって神田が没収されて衰退。

祭日に行われていた儀式・流鏑馬(やぶさめ)も途絶えてしまいました。寛永(1624〜1644年)の末、庄屋小原金右衛門(おばらきんうえもん)という人物が、社前に81間の馳道を作って

流鏑馬を再興しましたが、現在は行われていません。

この神社の西側には、伊都国の王と后とみられる「三雲南小路遺跡」があります。

   

11:55 ゴールの伊都菜彩に到着しました。

伊都菜彩は、糸島の農家が心を込めて育てた生産物を、新鮮で安く消費者の皆様にお届けするために、平成19年4月に生まれたJA糸島直営の直売所です。

伊都菜彩で、家内の参加100回記念ということで「赤飯」を買い隣のいとうどん店でいただきました。

 

今日のGPSです。