よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

日光街道№9古河宿~野木宿~間々田宿(茨城県古河市~栃木県小山市)

2019-06-06 19:20:25 | 奥州街道(日光街道)

令和元年5月1日(水)今日から新しい元号「令和」です。8:15古河のホテルを出発し令和初めてのウォーキング開始です。

古河の街道には、古河市出身の大老「土井利勝」や街道上に松並木を植えた江戸初期の古河藩主「永井直勝」の業績を掲げた案内板が建っています。

金刀比羅宮は、文化11年(1814)建立。平成18年(2006)未明類焼、平成19年(2007)再建しました。幸福神として信仰されています。

   

道標:文久元年(1861)太田屋源六が願主となり、常夜灯型式の道標を八百屋儀左衛門他11名によって建てられました。古河市の指定文化財です。

  

よこまち柳通りに入ります。左側には、「古河提灯竿もみ祭り発祥の地碑」があります。

かつて古河領だった野木神社の神官が神領をまわる「七郷めぐり」を終えて帰ってくるのを、提灯を持って出迎えた人たちが寒さをしのぐために身体を揉み合ったのが始まりと言われ、現在も「おかえり」と呼ばれて人々に親しまれています。古河駅前の特設会場には丸太を組んだ矢来と呼ばれる囲いが作られ、その中で長さ20m近い竹竿の先につけた提灯を20人ほどの若者が支えて、激しくもみ合いながら相手の提灯を消し合います。提灯がぶつかって火の粉が飛び散り、勇壮で迫力のある光景が広がります。毎年12月最初の土曜日に行われるそうです。

   

古河宿北口(日光口)には、燈籠が建っています。この一帯「松並」という地名ですが、昔の中田の松原がこのあたりまであったのでしょうか?

  

塩滑地蔵菩薩:地蔵尊に自分の患部と同じところに塩を塗ると霊験あらたかという。

国境:このあたりが、下野(しもつけ)国(栃木)と下総(しもふさ)(茨城)の国境ですが、案内板もありませんでした。昔は、西側に大榎があったそうです。

余談になりますが、九州育ちの私にとって下野国や下総国の位置関係がどうもちんぷんかんぷんです。調べてみると、

総の国」は、現在の千葉県を主たる地域とし、茨城県・東京都の一部にわたる律令(りつりょう)制以前の旧国名。『古語拾遺(こごしゅうい)』によると、天富命(あまとみのみこと)が阿波(あわ)(徳島県)地方の斎部(いんべ)をこの地に派遣し麻(あさ)・穀木(かじのき)(クワ科の高木)を植えさせたところよく育ったので総国(ふさのくに)と名づけたという。総とは麻の意味と伝える。7世紀後半から末にかけて上総(かみつふさ)・下総(しもつふさ)の二国に分割された。さらに、718年(養老2)に上総(かずさ)国の平群(へぐり)、安房(あわ)、朝夷(あさひな)、長狭(ながさ)の四郡を割いて安房(あわ)国を分置した。房総地方に相当する地域である。

毛の国」上野,下野両国の古称。「けの」とも読む。古代の氏族,上毛野君,下毛野君の根拠地。現在の群馬,栃木両県にあたる。毛野国は最初,上毛野と下毛野の両国に分れ,次いで和銅6 (713) 年,上野 (こうずけ) ,下野 (しもつけ) の2字の国名に改めた。毛とは、作物や木を意味するものだそうです。

 

街道は、下野国へ。4号線と交差する手前に「野木神社」の鳥居があります。ここは、3年前「古河まほろばの里花桃ウォーク」で行ったことがあります。確か、「二輪草」の群生地があったとか・・・・・

  

二輪草は、もう盛りは過ぎていましたが、まだ何輪かお花が残っていました。

境内を覗くと大きな木の周りに望遠レンズを備えたカメラマンの方が10人ぐらいでしょうか、おられます。聞いてみると、木の上に「フクロウ」がいるそうです。私もコンデジではありますが、撮ってみました。

時には、子育てをしているフクロウを見ることができるそうです。

  

 

野木神社には芭蕉の句碑がありました。「一疋の はね馬もなし 河千鳥

   

国道4号線沿いに歩きます。野木宿木戸跡という看板があります。ここが野木宿の江戸口でした。昔は、土塁と矢来柵がありました。

野木宿:野木宿の西を流れる思川には、野渡河岸、友沼河岸があり。江戸との舟運が盛んでした。天保14年(1843)の日光道中宿村大概帳には、野木宿の宿内家数は、126軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で

宿内人口は527人(男271人、女256人)でした。本陣は熊倉七郎右衛門が勤め問屋も兼ねていました。建坪は157坪。

本陣の向かいには、脇本陣があります。熊倉兵左衛門が勤め、建坪は132坪でした。今でも熊倉氏が住んでいます。

   

大平山道標は、「思川の渡し」を越え、日光例幣使道の栃木宿太平山神社に至る。「日光山近裏道」と呼ばれていました。

  

二十三夜は、旧暦23日の月待(つきまち)行事の一つで、全国に広く行われている。毎月行っている所もあるが、いちばん多いのは1、5、9月の3回に行っている例である。11月23日は大師(だいし)講の日なので、

この日も広く行われている。土地によっては二十三夜は男だけで、女は二十二夜にしている所もある。二十三夜の月は出が遅いので、当番の家に集まって簡単な酒肴(しゅこう)を前によもやま話をして待つ。

二十三夜講をつくっている所では二十三夜塔という記念碑を立てている例もある。二十三夜の月のさまを見てその年の作物の豊凶を占っている土地もある。

 

野木宿には、旧家の長屋門が残っていました。建物自体は新しいのですが、何となく昔を感じられました。

  

法音寺には、芭蕉の句碑があります。「道ばたの むくげは馬に 喰れけり

 

 

  

栃木県小山市に入りました。

  

栃木県は梨の生産が全国第3位。梨の花も咲いていました。

  

小山市立車屋美術館:小山市の中央を流れる思川は舟運が盛んで、特に江戸時代から明治時代にかけて、江戸へ直結する重要な物資輸送路でした。小山市乙女に所在する小川家は、江戸時代から明治時代に

かけて乙女河岸で肥料問屋を営んでいた豪商であり、鉄道の発達にともない、明治末年現在の地に移転しました。現存する建造物のうち主屋・土蔵・表門・米蔵・肥料蔵の5棟は、乙女河岸の繁栄を伝える貴重な

遺産であると同時に近代和風住宅としての価値も高く、平成19年8月に国の登録有形文化財として登録されました。小山市ではこの貴重な建造物の活用を図るため整備をすすめ、多くの方々のご協力とご支援

により平成21年4月、小山市立車屋美術館として開館いたしました。 (小山市HPより)

 

左側の小高い所に大きな榎が建っています。ここは、江戸と日光の中間点(共に18里)にあたるところから「間の榎」と呼ばれ、いつしか「逢の榎」となり、縁結びの木として信仰を集めるようになりました。

お酒の銘柄も「逢の榎」、お菓子は「十八里最中」があります。

  

間々田宿は、元和元年(1618)宿駅となり思川の乙女河岸を控え、物資の集積地として賑わいました。天保14年日光道中宿村大概帳によると間々田宿の宿内家数は、175軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠55軒で

人口は、947人(男440人、女507人)でした。本陣は、青木家が勤め建坪157坪で明治天皇の休息地となりました。

  

 

                                                                                                                              つづく


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