よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

九州オルレ奥豊後コース(大分県豊後大野市~大分県竹田市)

2020-09-29 12:27:46 | 九州オルレ

9/27(日)は、九州オルレ奥豊後コースに挑戦しました。

自宅から奥豊後コースのスタート地JR朝地駅まで車で約3時間。9時現地到着を目標に自宅を午前6時に出発しました。

大分道湯布院ICを下り、ここから約50km一般道を走ります。朝早かったせいか朝地駅には、8時50分に到着。

観光案内所でスタンプをもらい、9:10奥豊後コーススタート。

 

  

 

踏切を渡ると坂道が待っています。

  

2kmぐらい歩くと人の塊でしょうか?私たちを出迎えてくれています。よく見ると「案山子」でした。

  

歩いていると彼岸花が・・・・

 

朝地町には、水を田んぼに供給するため道路の上に水路を設けています。

    

用作(ゆうじゃく)公園にやってきました。用作公園は、江戸時代に岡藩主が家老の中川平右衛門長伸に賜った別荘地で、明治13年には吉良家に譲り受けられ、

現在では朝地町が管理しています。岡藩の参勤交代の経路に位置するこの地には、藩主中川氏が参勤交代の途上などにたびたび立ち寄るとともに、田能村竹田や頼山陽といった文人墨客も多く

来訪し、岡藩の玄関、接客所としての役割を果たしました。心字池を中心に、500本を越えるモミジやカエデなどの紅葉樹が植えられ、11月の紅葉期間中の週末や祝日にはライトアップが行われ、

多くの見物客で賑わいます。(大分県観光情報公式サイトより)

※ 用作公園の紅葉写真

 

丹字池を見ると少し紅くなっています。見ごろは、11月中旬だそうです。次回このオルレを歩くときは、紅葉のシーズンがいいかな?

  

  

用作公園を後に里山に戻ります。この風景いいですね。のどかで時間が経つのを忘れそうです。

  

普光寺の近くまでやってきました。ここまでスタートして1時間10分。約4kmです。

  

普光寺に着きました。普光寺は、高さ11,3mと全国でも最大級の摩崖仏は、約12万年前の阿蘇火山大噴火でできた「阿蘇溶結疑灰岩」の岩壁に彫られたものです。

初夏にはあたり一面に咲くアジサイが美しいことでも有名です。(奥豊後オルレパンフより)

「豊後国志」によると、6世紀九州出身で百済の王に仕えた「日羅」によって創建。日羅は豊後国内に7か所の寺院を創建し、それぞれに磨崖仏を彫ったといい、普光寺磨崖仏は

その一つとされています。

本殿の前には、「撫で仏」があります。真言「オンカカカビザンマエイソワカ」を唱えながら体の悪い処と同じ部分をさすると治るといわれています。また、知恵を授かるともいわれています。

私も頭と、ひざ、腕などをさすってみました。

  

お寺の境内から磨崖仏の方に行ってみます。

  

窟の中にも石仏があります。

   

 

普光寺で少し休憩し再スタート。遠くに傾山、祖母山が見えています。

  

このあたりが豊後大野市と竹田市の市境かな?コースは、万里が坂に差し掛かります。この舗装した道路の下には、昔の石畳があります。お殿様もこの道を通ったのでしょうね。

     

歩いていると、川の音が聞こえてきます。十川の柱状節理ももうすぐです。濁淵川にかかる狭田橋を渡ります。

  

   

旧城下町の十川(そうかわ)地区は鎌倉時代・室町時代(志賀氏)に竹田の城下町があった場所です。1594年(文禄3年)に岡城に入封した岡藩初代藩主・中川秀成(なかがわひでしげ)が現在の

竹田市大字竹田町に城下町を移転させました。現在では数軒の民家があるだけの静かな集落となっています

  

十川(そうがわ)の柱状節理です。柱状節理は、火山の噴火の際に起こる火砕流が冷えて固まる際にできる縦方向のひび割れの事。十川の河岸に見られる柱状節理は、

約9万年前の阿蘇火山大噴火の際にできたもので、太古の地球のダイナミズムを今に伝えています。(オルレ案内文より)

  

コースは、発電所の横を通り旧岡城址に向かいます。

  

右の小高い丘を走っていくものがあります。イノシシです。そういえば途中、猪が掘った穴などがありました。こちらに来たらどうしようか?と考えましたが、

イノシシは私たちには目もくれず走り去っていきました。この日、リュックにクマよけの鈴をつけていましたがこれが効果を発揮したのかな?

  

岡城址は、奥豊後の山深く、稲葉川と白滝川に挟まれた断崖絶壁の地に、天高く聳え立つ高石垣。広大な敷地に広がる山城「岡城」は、総石垣のまさに「難攻不落の堅城」です。

岡城は、兄である源頼朝に追われた源義経を迎えるため、文治元年(1185)に緒方三郎惟栄が築城したという伝説にはじまります。

時は流れ、やがて岡城は豊後国守護大友氏の一族である志賀氏の居城となります。天正14年(1586)、薩摩の島津義弘率いる大軍が、志賀親次の守る岡城を3度にわたり攻撃します。

島津軍は、険峻な要害である岡城を落とすことができずに撤退し、岡城は「難攻不落の城」として世に広く知られることになりました。その後豊臣秀吉の朝鮮出兵で主家の大友氏が失脚すると

志賀氏はこの地を去ることになりました。代わって播磨国三木城から中川秀成氏が岡城の城主となり、総勢4千人余で入部、明治4年(1871)の廃藩置県により城を去るまでの277年間、

岡城は中川氏の居城となりました。中川氏の時代に岡城の大改修が行われ、要害堅固な地形を土台とした総石垣の広大な近世城郭へと変貌していきました。

明治になり、廃城令の施行に伴い、役目を終えた岡城の構造物は、明治7年(1874)に競売にかけられ、石垣のみが残る城跡になりました。少年時代を竹田で過ごした作曲家「滝廉太郎」は、

岡城をモデルにして名曲「荒城の月」を作曲したと云われています。阿蘇くじゅうの山々や祖母山を遠方に望む岡城址では、雄大なスケールの石垣と、四季折々に変化する自然が唯一無二の

景色を楽しむことができます。(岡城址パンフより)

  

  

遠くには、くじゅう連山が見えます。

  

岡城址の駐車場で入城料金300円を払い、岡城址を後にします。ゴールまであと2km。竹田市には、大きな岩があります。これも火山の副産物でしょうか?

  

トンネルを抜けると右側に広瀬神社があります。日露戦争の旅順戦で戦死した軍人広瀬武夫は、幕末岡藩勤王の志士 広瀬重武の次男として竹田茶屋の辻で誕生。

彼を顕彰するために昭和10(1935)年に広瀬神社が建立されました。境内には広瀬武夫記念館があり遺品などを展示。鳥居の前に広瀬武夫胸像があり、神社の境内には伊豆坂から丘越えで

弥五兵衛坂を通って武家地の鷹匠町と城下町の上町通りを結ぶ江戸時代の城下道も残されています。(おんせん県大分観光より)

 

  

コースは終盤に差し掛かりました。豊後竹田駅が見えてきます。ゴールは駅の横の竹田温泉花水木です。

 

花水木には、足湯がありました。

 

スタートしてから3時間50分(13:00)にゴールしました。ここからスタート地点の朝地駅まで戻ります。発車時間まで(13:52大分行)時間があるので駅周辺をブラブラします。

 

今日のGPSです。

このコース、カンセやリボン、矢印が整備され間違わずに歩くことができました。次回は紅葉のシーズンに歩きたいと思っています。

 

 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
baripoleさん (よっくん)
2020-10-04 10:25:35
コメント有難うございます。私も歴史探訪ウォークが好きです。というか、歩き始めてから好きになりました。九州オルレ奥豊後コースは、これから紅葉の時期が一番良いのではないかと思っています。
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Unknown (baripole)
2020-10-04 07:50:32
初めまして
歴史探訪ウォーク大好きな 高齢♀︎です
奥豊後オルレに大変興味を持ち 調べていた所、ご縁があり辿り着きました
フォローさせて頂きました
度々訪問させて頂きたいと思います
宜しくお願い致します
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