よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

ビワイチ徒歩の旅8日目「塩津~長浜」(滋賀県長浜市)

2023-12-04 18:52:31 | 琵琶湖一周徒歩の旅

11/25 ビワイチ徒歩の旅8日目 今日の予定は、前日ゴールした塩津の道の駅あぢさとの里から長浜市長浜城を目指して歩きます。距離で約30km、最近は20km以上歩いていないので

歩けるかな?宿泊した近江今津駅発8:13で近江塩津駅へ。8:32着、ここから道の駅まで歩きます。今日も朝から細かい雨が降っています。

近江塩津駅のホームから改札口までは長い階段があります。この駅は、湖西線と北陸本線の乗換駅ですが、エレベーターもなければエスカレーターもありません。

思い荷物を持っての乗り換えは大変でしょうね。

  

この道国道303号線なんですが、歩道がありません。このまま国道を歩くと危ないので旧道を通ります。

旧道に「塩津海道」という石碑が建っています。塩津海道は、福井県(越前国)の敦賀と滋賀県(近江国)の塩津を結ぶ街道(道路)五里半越、塩津越とも呼ばれています。

「塩津」という地名には、「塩のない近江に塩が入ってくる港」という意味が込められています。塩津を北の港、大津を南の港にして、北陸から京都・大阪までを結んだ道が、

塩津海道と呼ばれる道です。江戸時代には、物流の拠点として賑わい、塩津は大きな宿場町でした。

 

然し近くの塩津神社の由来を見てみると、

祭神は塩土老翁神(しおつちおじのかみ)で、かつては志波谷に塩池があって23戸が製塩を行なっていたと伝えられ、その人々が遠租である塩土老翁神を祀ったのが始まりだと伝えられて

います。まさに製塩をする津(港)という地名 、果たしてどちらが正しいのか?いずれにしろ北陸から来る海産物などが京・大阪に届けられる港町だったので「塩」の「津(港)」と

呼ばれたのだろうと推測します。

  

先に進みます。国道8号線を横断し県道336号線で琵琶湖に向かいます。ここは、横断歩道もなくまた、トンネルを出た車がスピードを上げてくる所ですので安全確認が必要です。

 

 

飯浦から8号線を離れ、賤ケ岳の方向へ。

 

 

賤ケ岳トンネルを出ると、「千手堂」があります。「伊香33番」と書かれていますが、ここ木之本町、高月町、余呉町、西浅井町は、平成22年長浜市に合併する前は、「伊香郡」でした。

 

「賤ケ岳古戦場」という看板が見えてきます。賤ケ岳の頂上にこの遺跡があるそうです。リフトで登れます。先を急ぎますのでパスします。

賤ケ岳古戦場は、安土桃山時代、本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な実権を握っていた「羽柴秀吉」と、織田家の旧臣中、第一の家柄を誇る「柴田勝家」との間に

権力争いが生じ、ついに武力を持って決着を付けようとしました。これが、「賤ケ岳の合戦」です。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が

築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれました。歴史で習いましたね。

 

粉かけ地蔵」というのがあります。説明文を見ると、この地蔵さまは粉かけ地蔵またの名は乳呉れ地蔵とも昔から呼ばれています。粉(はったい粉を供えて、お乳がよくでますように、

また乳離れをお願いすると共に、次の子供が生まれるまで乳を預かって下さると言われています。

その昔、大音の峠越えで山梨子の港へ向かう子連れの旅人が、お地蔵様の前まできたとき背中におぶっていた子が急に泣き出し、お地蔵様の前の大きな石に腰をおろしお乳を飲ませようと

したが、お乳が出なかったので、お地蔵様に供えてあった粉を乳首に付けて含ませたところ、不思議なことにお乳が出るようになり、子供は空腹を満たしすやすやと眠ったと言われています。
大音では昔から、はったい粉を作るたびにお地蔵さまに供える風習があり、子供に供えに参らせたところ、うまく供えられなくお地蔵さまにぶっかけたことから粉かけ地蔵と呼ばれるように

なり広く親しまれています。

 

遠くに「伊吹山」が見えてきました。昨晩の冷え込みからか、山頂には白いものがありました。8号線をそのまま進むと木之本駅です。

2011年だったか、NHK大河ドラマで「江姫」が放映されたとき、長浜ツーデーマーチで余呉湖から長浜城まで40k歩きました。山の中をずーっと歩いた記憶が蘇りました。

まだまだ、若かった??から40kも歩けたと思いますが、今でも若いとは思ってますが、膝痛を抱えていますし、もう歩けないかな~

8号線から県道44号線に入ります。長浜まであと18km。長いな~

 

ここは、サイクリングロードですが、トイレも休憩スペースもありません。ひたすら歩き続けます。

右側に「西野水道」という看板が見えます。水道工事屋さんの看板かな?と思ってましたが、調べると、「滋賀県指定文化財。西野水道(にしのずいどう)は、西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mの排水用の岩穴です。今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業です。能登、伊勢から石工を招き、6年の歳月と1275両をかけてノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴です。(長浜・米原を楽しむ)」

 

トンネルを通り、再び琵琶湖に。トンネルを出ると琵琶湖からの風が強くなりました。寒いです。空からは冷たいものも降ってきました。

 

 

道の駅みずとりステーションが見えてきました。ここで休憩と遅い昼食。軽い昼食と思ってうどんを注文しましようとしましたが、どれも1000円近い値段。

福岡だったら普通500円前後です。やはり道の駅だからかな???

 

休憩後再スタート。琵琶湖に沿って歩きます。

 

 

 

姉川を渡ります。この姉川も歴史で習いましたね。俗にいう「姉川の戦い

元亀1 (1570) 年6月 28日,近江国姉川の流域で行われた織田信長,徳川家康連合軍と浅井長政,朝倉義景の族将同景健連合軍との戦い。

これより先,信長は足利義昭を将軍職に推して上洛したが,越前朝倉氏と近江浅井氏はともに畿内における信長勢力の伸張をはばもうとし,しばしば信長と戦った。元亀1年4月,信長は

朝倉氏追討の軍を起したが,浅井氏は,朝倉氏に呼応したので,信長は家康に援軍を依頼してこれに対した。初め浅井,朝倉連合軍が優勢であったが,徳川軍の奮戦により,結局織田,

徳川連合軍の勝利に終った。織田,徳川軍の兵力は,2万 9000人,浅井,朝倉連合軍のそれは1万 8000人という。この勝利によって,織田信長の畿内における覇権がほぼ決定した。

浅井,朝倉両氏はこの敗戦により,次第に勢力を失い,やがて信長によって滅ぼされた。

 

ここからは伊吹山が綺麗に見えます。

 

 

ヤンマーの工場を過ぎ、遠くに長浜の街が見えてきました。

 

 

長浜城から長浜駅へ。16:20長浜駅に到着。

 

歩行時間7時間30分、距離は30kmでした。

   

 


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