顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

まもなく迫る年の瀬…はたして来年は?

2021年12月29日 | 季節の花

コロナに翻弄された2021年もまもなく終わります。ここ2か月の感染者数は激減して安心していた矢先、新たなオミクロン株が出現しました。
さて、新しい年はある程度コロナをコントロールできるようになるのでしょうか。世界中の叡智を集めて人類のこの難問に向かっていこうとすれば、国家間で争っている余裕などない筈ですが。

季節外れのヒベリカムが、紅葉した葉に囲まれて咲いていました。季節を勘違いしたり、周りが見えない慌て者は植物の世界でも多く見られます。

庭のフユイチゴ(冬苺)が今年はいっぱい実を付けています。小鳥に見つからないように枯葉などで覆っていますが、毎年周りに餌が無くなる時期には見つけられてしまいます。

5mくらいに伸びた皇帝ダリアは強風で倒れ、そこから首を持ち上げて咲いたので、今年は手に取るように観察できましたが、12月14日の朝あえなく霜で果てました。

豆類の霜除けに、笹の葉が付いた篠で覆いました。スナップエンドウとモロッコ豆、寒さに耐えて来春の収穫はいかに?

我が家のナンテン(南天)は日陰のために実を付けないのが難点ですが、公園の日当たりの良い場所では実が満載です。子供が幼いころには雪ウサギの目に…、しかし温暖化のせいか此処では雪だるまも作れなくなりました。

こちらはオタフクナンテン(お多福南天)、実はほとんど生りませんが、矮性で赤い葉が美しいため、公園の植栽などに人気があります。

ウメモドキ(梅擬き)はモチノキの仲間、葉の形がウメの葉に似ているからの命名で、小鳥の大好きな果実です。

似ているニシキギ(錦木)はニシキギ科で紅葉の美しさから命名され、古い枝に付く翼のような形からカミソリノキ(剃刀の木)ともよばれます。

テイカカヅラ(定家葛)は、何枚か紅葉した葉を一年中目にします。調べてみると、常緑性の植物は葉が生え替わる時に紅葉するそうですが、やはりこの時期に一番多く見られると載っていました。

鳥も食べないカラスウリ(烏瓜)、冬枯れの中で鮮やかな色がいちだんと目立ちました。

分別の底たゝきけり年の昏  松尾芭蕉
日当ればみんなしあはせ実南天  星野麥丘人
冬ざれや天より垂るる烏瓜  山口青邨
落ちてなお輝き失せず桜の葉  顎髭仙人

この一年、拙いブログをご覧いただきありがとうございました。
どうぞよいお年をお迎えください。

伊達政宗の起請文…額田城主小野崎氏宛

2021年12月24日 | 歴史散歩
東日本大震災の時に、ひたちなか市の壊れた土蔵から、額田(那珂市)城主小野崎昭通宛ての伊達政宗の天正17年(1589)の起請文が発見され話題を呼びました。密書ともいうべき内容からこの書状は写本にも納められておらず、額田城の最後の城主昭通が主家佐竹氏に「異心あり」として攻められた一件を裏付ける貴重な資料とされています。

戦国期の作法として起請文は熊野三山の護符である牛玉宝印(東国や南奥の領主は那智瀧宝印を使用していたそうです)の料紙の裏に書かれ、伊達政宗の花押と血判も押されています。

起請文は、関東への南下を狙っていた伊達政宗が、小野崎昭通に佐竹氏からの離反を促す内容になっています。
1、南郷出馬之上,何有ろうとも入馬候儀,其元へ可有通信之事(南郷へ出馬着陣した時には、必ず、其元へ連絡を取ること)
1、其元事切候以後、若無事に取成事候者、相談之事(其元が佐竹と手切れした後の身柄や所領の相談に応じること)
1、中川北に江戸領之内、弓前本意に付而者、可宛行事(那珂川北岸の江戸氏の所領のうち、合戦で本懐を遂げたならば、所領を宛行うこと)
此旨偽に候者、梵天、帝尺、四大天王、堅牢地神、熊野三所権現、八幡大菩薩、麻利支尊天、惣而日本国中大小神祇、無紛各々可蒙御討者也、よって如件(此の旨に偽りがあったならば、梵天、帝尺、……日本国中すべての大小神々の罰を間違いなく蒙るものである。よって件のとおり)


那智大社のホームぺージに載っている牛玉宝印(烏牛王神符)、独特の烏文字で書かれています。御初穂料 800円と出ていました。

ところで小野崎氏は、常陸国久慈郡小野崎(常陸太田市瑞竜町小野崎)に興った武門の家系で、藤原秀郷を祖とし、天仁2年(1109)秀郷の玄孫と伝えられる藤原通延が、下野国から常陸国久慈郡太田郷の地頭に任じられ太田大夫と称して、太田城を築いています。
一方、後三年の役(1051~1062)の戦功により佐竹郷を領有した源昌義(新羅三郎義光の孫)が佐竹氏を名乗り勢力を拡大し、その子隆義の代には当時の太田城主藤原通盛を服属させています。
通盛は小野崎の地に遷され小野崎城を築き小野崎氏を名乗ったといわれます。
佐竹氏に臣従した小野崎氏は、宿老格の重臣として「佐竹四天王」とも呼ばれ、後に山尾、石神、額田の三つに分流し、数々の戦いで軍功を重ねました。
ただこの小野崎三氏の中で額田小野崎氏だけは、臣従しながらも藤原氏系の出である矜持や独立性が強く、山入の乱の混乱時に佐竹氏の所領を横領するなどしたため、佐竹宗家から危険視されていたともいわれています。

額田城は古代より陸奥への交通の要所に位置し、鎌倉時代初期に佐竹氏4代義重の第2子義直が額田の地を領して額田氏を名乗り築城、その後拡張を続けて現在の規模になりましたが、10代義亮の時、佐竹宗家と対立し、応永30年(1423)佐竹13代義人に攻められて落城し滅びます。
その後、城主となったのが、佐竹義人の重臣小野崎氏で、江戸氏から養子を迎えるなどして以後7代昭通まで続きます。

16,000㎡もある広い額田城本丸跡です。
この額田城を歩いてみると茨城県内最大規模の中世城址ということが実感できます。南に有が池、北が久慈川という自然の要害である額田台地の真ん中に位置し、難攻不落といわれました。現在残っている本丸、二の丸、三の丸の城跡だけで77,000㎡、外郭をすべて加えると東京ドームの約21倍の広さだったとされます。

さて額田城の最後の城主、小野崎昭通は江戸氏の家臣の争いで主家佐竹氏に敵対し、小田原の戦後秀吉から常陸国の所領を安堵された佐竹氏は、天正19年(1591)に額田城を攻めますが、堅固な守りと額田700騎と称えられた強力な兵力で持ちこたえます。攻めあぐねた佐竹氏は石田三成を介して太閤秀吉の退城勧告「太閤奉書」を突きつけたため、小野崎昭通はやむなく城を捨て黒羽大関氏を頼り、日光中禅寺を経て伊達氏に3000石で迎え入れられました。
関ケ原の合戦には伊達政宗の許で従軍し、佐竹氏が出羽に移封されると額田城片庭屋敷に戻りますが、大坂冬の陣、夏の陣では伊達政宗の姫が嫁いだ松平忠輝麾下で従軍しています。しかし忠輝の改易により再び額田に戻っていたところ、元和四年(1618) に芝増上寺の推薦により、水戸徳川家初代頼房に600石で召し抱えられ、代々額田久兵衛を名乗り仕えました。

約220年後、天保11年(1840)の江水御規式帳にも「大番頭 額田久兵衛享通 700石」と名前が載っていました。
水戸城下の田町水門に屋敷を拝領し、4代までは本米崎(那珂市)の上宮寺にあった墓所は、5代目から水戸市酒門の共有墓地に移っています。(写真は、那珂市の上宮寺、浄土真宗の古刹です)

酒門共有墓地は、常磐共有墓地と同じく寛文6年(1666)に、水戸藩2代藩主徳川光圀が藩士に与えた墓地で、前者が主に城下上町居住者に利用されたのに対して、下町居住者のためでした。当初は墓域も墓碑も一定の大きさに定められていましたが、現在では共同墓地として利用されています。(写真は額田久兵衛という名の見える一族の墓所です。)

吉田松陰…水戸藩士との友情

2021年12月19日 | 水戸の観光

幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰は東北遊学の途中、嘉永4年(1851)12月19日水戸に寄り、翌年1月20日まで水戸藩士永井政介宅に滞在しました。今回滞在先の永井家のご子孫から松陰自筆の漢詩が弘道館に寄託されたのを受け、松陰が水戸に到着した日に合わせて関係資料とともに公開されました。


弘道館は9代藩主の斉昭公が開設した水戸藩の藩校で、ここでの学問は「水戸学」といわれ、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。幾度かの戦火を奇跡的に免れた当時の建物が残っており、国の重要文化財に指定されています。


約1か月の滞在中に当時22歳の松陰は政介の長男で19歳の芳之介と意気投合し、芳之介の案内で偕楽園や瑞龍山、鹿島神宮などを訪問しました。永井家のご子孫から今回寄託されたのは、「有憶長井順正」(長井順正に憶(おもい)あり)と題した漢詩で、黒船の記述があるので嘉永6年のペリー来航以降に松陰が芳之介(長井順正)に贈ったものとみられ、乱れた幕末の世の中でも志を持って生きていこうと記されています。
松陰は、嘉永7年(1854)ペルーの再航時に密航を企てて伝馬町牢屋敷に投獄、その後萩で幽囚されていたので、獄中での作ともいわれています。自分の名前を「長門の国の奴」と名乗り卑下している様子も見えます。


もう一つの漢詩は、松陰が永井家を辞して東北遊学に出発する際に、芳之介から贈られた詩に返した惜別の漢詩で、昭和54年に寄託されました。「四海皆兄弟(けいてい)」(同じ志をもつ世界の人々はみな兄弟同胞)で始まる詩は、同志としての絆を誓い合った内容になっています。


松陰はまた水戸藩の学者で当時弘道館教授頭取であった会沢正志斎が著した「新論」に感銘を受け、滞在中に会沢正志斎宅を7回(1回は不在)も訪問し、そのたびに供された酒を酌み合いながら学説を拝聴しました。「新論」の説く尊王攘夷思想は幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新への思想的背景となったともいわれています。


水戸藩でも剣士として知られた永井政介は、神道無念流の岡田十松の門下生であり、交流のあった斎藤弥九郎の練兵館では松陰の門下生である木戸孝允(桂小五郎)が塾頭を務めていました。
特別公開には、水戸での滞在先として松陰に永井家を紹介した斎藤弥九郎(初代と2代目)が連名で、永井政介に宛てた暑中見舞いなどの書簡も展示されていました。


斉昭公の側近の藤田東湖も岡田十松の開いた撃剣館に通って一級の実力を持っていたといわれ、弘道館の武館にあった道場訓「神道無念流壁書」を揮毫しています。上段に版木、中段に巻物になった拓本、下段に読み下し文が展示されました。


松陰の東北遊学は藩の許可を待たずに脱藩しての行動だったので、藩校弘道館には立ち寄ることはできなかったようです。


弘道館の正庁の前庭に早咲きの梅(八重冬至)が数輪咲いていました。

この後、吉田松陰は安政6年(1859)10月27日、伝馬町牢屋敷にて死罪になります。享年30歳
永井芳之介も元治甲子の変(天狗の乱)で捕縛され、古賀藩預けとなり元治元年(1864)10月16日に刑死しています。享年31歳
国を憂い改革の気概に燃えた二つの若い命は、明治維新を待たずに散ってしまいました。

水戸藩でも幕末の藩内抗争などで1800人以上の命が失われ、この弘道館も明治元年10月1日(1868)にその激戦の舞台にもなり、日本一の規模を持った藩校も正庁と正門以外はすべて焼失してしまいました。

西成田洋子展…記憶の領域(Field of memory)

2021年12月13日 | 日記

古着や使い古したものを素材にし、そこに宿る時間と記憶を造形化する作品で知られる、西成田洋子さんの個展が水戸の常陽藝文センターで開かれています。

藝文プラザの会場には大きな立体作品4点と平面作品2点が展示されています。


現代美術はわからないという人がほとんどで、仙人もその一人ですが、「現代美術は鑑賞者と作者との対話」で、作者が問いかけ鑑賞者が何かを感じてもらえることで完結するそうなので、圧倒的な存在感のある作品を前にして、それぞれ自分なりに何かを感じればそれでいいのでしょうか。
無題 2019年 130.3×193



展覧会パンフレットより抜粋です。
水戸市生まれの西成田洋子さんは、最初はデザインを学びましたが、制作時に絵の具を盛り上げるなど三次元への志向が強いことに気づき、身の回りの衣類や日用品など様々な素材を用いて立体作品を制作し始めます。金属や廃材などを取り入れた大型作品で注目を浴びた時代もありましたが、文化庁海外派遣によるニューヨーク滞在制作を経て再び古着や身の回りの品々を素材にすることに戻りました。
コルセット 2020年 133×150×176



西成田さんは漠然とした構想だけであとは手の赴くままにこれらの素材を切断したり縛ったりして形を作っていきます。使い古されたこれらの素材に宿っている記憶が彼女自身の記憶を呼び起こし、その手を自由に動かします。柔らかく手に馴染む古布は、糸で縫い縮められ赤や茶色に着色されますが、繊維の質感は生々しく残ります。重苦しく凝縮された結果、立ち現れた形は深淵を覗き見るような穴を持つ記憶の集積物となり、観る者の心の奥底にある記憶や閉ざされていた感情を揺さぶり起こすのです。
記憶の声 2019年 146×170×163 
   


藝文ギャラリーの会場には小品と、いろんな色の紙で作られた立体ドローイングが壁に留めてありました。


小品の一部を紹介いたします。どうぞ作品との対話をお試みください。

記憶を連れて2018  2018年 42×25×75 
 

Realm of memory 2015年 27×20×36 


記憶の領域 N.Y


夜に歩く 2018年 33×37×23


記憶の芽 2019年 36×32×37


第1会場●藝文ギャラリー
前期/2021年12月1日~12月26日 後期/2022年1月5日~1月30日
第2会場●藝文プラザ  2021年12月10日~2022年1月30日
AM10:00~PM5:45 水戸市三の丸1丁目    (入場無料)

国民宿舎「鵜の岬」…日本一の宿泊利用率

2021年12月09日 | 旅行
日立市の北部、「日本の白砂青松百選」の松林に囲まれた国民宿舎「鵜の岬」は、全国に58ある公営国民宿舎の中で宿泊利用率が32年連続第1位です。
コロナ感染者数が小康状態のなか、普段はなかなか予約が取れないこの宿に、町内のシルバー会の行事で宿泊することができました。

15ヘクタールの広大で自然豊かな伊師浜国民休養地内に建っており、白い砂と断崖が太平洋と見事な景観をつくり上げ、山側の松林では四季折々の草木や花が楽しめます。

鵜の岬はその名のとおり、「ウミウ(海鵜)」の渡来する岬で、全国で唯一ウミウの捕獲が許されています。宿泊棟の東側の断崖絶壁にある捕獲場では、囮のウミウで飛来する仲間をおびき寄せ、長いカギで引っ掛けて捕獲し、長良川鵜飼いなど全国11か所へ供給しています。
(写真は日立市のホームページよりお借りしました)

宿泊棟は客室58室、204人収容でどの部屋からも海を眺められ、8階には展望大浴場があります。

宿舎前の小さなビーチ、押し寄せる波ときれいな砂浜はまるで別天地のようです。

展望大浴場は撮影禁止ですが、2年前に昼間利用したときに無人の浴槽を撮った写真がありました。

8階からの北側の眺望、まさに白砂青松のきれいな海です。ここから約80キロ北の海岸線に福島第一原発があります。

海に面した周辺の松林の中には、断崖沿いの遊歩道が設けられています。

遊歩道のどこからも海が見下ろせます。

遊歩道の周りは自然のままの松林、茨城県以北の太平洋側に自生するハマギク(浜菊)はすでに萎んでいました。

海岸沿いに生息するトベラ(扉)も、赤い実を付けていました。独特の臭気のあるこの枝を扉に挟んで、節分の鬼除けにしたというのが名前の由来といわれています。





泊ったのは6階、部屋からの定点撮影、夜、日の出前、朝の表情です。暇ですねぇ、めっきり酒も弱くなった高齢者は、時間が有り余っています。

ロビーやフロントなど館内は、国民宿舎なので豪華ではありませんが、隅々まで細かい気遣いが感じられたのは確かです。ここの魅力は、美しい景色、季節のお料理、みんなの笑顔だとか…、景色はもちろんコストパフォーマンスも含めて他の魅力も十分納得できました。