東日本大震災の時に、ひたちなか市の壊れた土蔵から、額田(那珂市)城主小野崎昭通宛ての伊達政宗の天正17年(1589)の起請文が発見され話題を呼びました。密書ともいうべき内容からこの書状は写本にも納められておらず、額田城の最後の城主昭通が主家佐竹氏に「異心あり」として攻められた一件を裏付ける貴重な資料とされています。
戦国期の作法として起請文は熊野三山の護符である牛玉宝印(東国や南奥の領主は那智瀧宝印を使用していたそうです)の料紙の裏に書かれ、伊達政宗の花押と血判も押されています。
起請文は、関東への南下を狙っていた伊達政宗が、小野崎昭通に佐竹氏からの離反を促す内容になっています。
1、南郷出馬之上,何有ろうとも入馬候儀,其元へ可有通信之事(南郷へ出馬着陣した時には、必ず、其元へ連絡を取ること)
1、其元事切候以後、若無事に取成事候者、相談之事(其元が佐竹と手切れした後の身柄や所領の相談に応じること)
1、中川北に江戸領之内、弓前本意に付而者、可宛行事(那珂川北岸の江戸氏の所領のうち、合戦で本懐を遂げたならば、所領を宛行うこと)
此旨偽に候者、梵天、帝尺、四大天王、堅牢地神、熊野三所権現、八幡大菩薩、麻利支尊天、惣而日本国中大小神祇、無紛各々可蒙御討者也、よって如件(此の旨に偽りがあったならば、梵天、帝尺、……日本国中すべての大小神々の罰を間違いなく蒙るものである。よって件のとおり)
那智大社のホームぺージに載っている牛玉宝印(烏牛王神符)、独特の烏文字で書かれています。御初穂料 800円と出ていました。
ところで小野崎氏は、常陸国久慈郡小野崎(常陸太田市瑞竜町小野崎)に興った武門の家系で、藤原秀郷を祖とし、天仁2年(1109)秀郷の玄孫と伝えられる藤原通延が、下野国から常陸国久慈郡太田郷の地頭に任じられ太田大夫と称して、太田城を築いています。
一方、後三年の役(1051~1062)の戦功により佐竹郷を領有した源昌義(新羅三郎義光の孫)が佐竹氏を名乗り勢力を拡大し、その子隆義の代には当時の太田城主藤原通盛を服属させています。
通盛は小野崎の地に遷され小野崎城を築き小野崎氏を名乗ったといわれます。
佐竹氏に臣従した小野崎氏は、宿老格の重臣として「佐竹四天王」とも呼ばれ、後に山尾、石神、額田の三つに分流し、数々の戦いで軍功を重ねました。
ただこの小野崎三氏の中で額田小野崎氏だけは、臣従しながらも藤原氏系の出である矜持や独立性が強く、山入の乱の混乱時に佐竹氏の所領を横領するなどしたため、佐竹宗家から危険視されていたともいわれています。
額田城は古代より陸奥への交通の要所に位置し、鎌倉時代初期に佐竹氏4代義重の第2子義直が額田の地を領して額田氏を名乗り築城、その後拡張を続けて現在の規模になりましたが、10代義亮の時、佐竹宗家と対立し、応永30年(1423)佐竹13代義人に攻められて落城し滅びます。
その後、城主となったのが、佐竹義人の重臣小野崎氏で、江戸氏から養子を迎えるなどして以後7代昭通まで続きます。
16,000㎡もある広い額田城本丸跡です。
この額田城を歩いてみると茨城県内最大規模の中世城址ということが実感できます。南に有が池、北が久慈川という自然の要害である額田台地の真ん中に位置し、難攻不落といわれました。現在残っている本丸、二の丸、三の丸の城跡だけで77,000㎡、外郭をすべて加えると東京ドームの約21倍の広さだったとされます。
さて額田城の最後の城主、小野崎昭通は江戸氏の家臣の争いで主家佐竹氏に敵対し、小田原の戦後秀吉から常陸国の所領を安堵された佐竹氏は、天正19年(1591)に額田城を攻めますが、堅固な守りと額田700騎と称えられた強力な兵力で持ちこたえます。攻めあぐねた佐竹氏は石田三成を介して太閤秀吉の退城勧告「太閤奉書」を突きつけたため、小野崎昭通はやむなく城を捨て黒羽大関氏を頼り、日光中禅寺を経て伊達氏に3000石で迎え入れられました。
関ケ原の合戦には伊達政宗の許で従軍し、佐竹氏が出羽に移封されると額田城片庭屋敷に戻りますが、大坂冬の陣、夏の陣では伊達政宗の姫が嫁いだ松平忠輝麾下で従軍しています。しかし忠輝の改易により再び額田に戻っていたところ、元和四年(1618) に芝増上寺の推薦により、水戸徳川家初代頼房に600石で召し抱えられ、代々額田久兵衛を名乗り仕えました。
約220年後、天保11年(1840)の江水御規式帳にも「大番頭 額田久兵衛享通 700石」と名前が載っていました。
水戸城下の田町水門に屋敷を拝領し、4代までは本米崎(那珂市)の上宮寺にあった墓所は、5代目から水戸市酒門の共有墓地に移っています。(写真は、那珂市の上宮寺、浄土真宗の古刹です)
酒門共有墓地は、常磐共有墓地と同じく寛文6年(1666)に、水戸藩2代藩主徳川光圀が藩士に与えた墓地で、前者が主に城下上町居住者に利用されたのに対して、下町居住者のためでした。当初は墓域も墓碑も一定の大きさに定められていましたが、現在では共同墓地として利用されています。(写真は額田久兵衛という名の見える一族の墓所です。)