顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

身の回りの花…秋はキク科の花が多いなぁ

2024年11月26日 | 季節の花
この時期身の回りの花を探していたらキク科の花が多いなと気付きました。そもそも「重陽の節句」という菊の節句もありますので、キク(菊)そのものが秋の花の代表ということを再認識しました。

ところで「菊」という字は「キク」という読み方だけで他の読み方がない珍しい字です。奈良時代に中国から初めて渡来した時に「キク」という「音読み」だけが伝わったといわれています。


公園や庭先でこの時期に目立つ黄色い花はツワブキ(石蕗)です。キク科特有の周りを囲む舌状花と中心部の筒状花から成る花ですが、舌状花の幅に大きな個体差があるので並べてみました。


葉にツヤ(艶)があるので「ツヤブキ」とよばれていたのが訛って「ツワブキ」になり、岩場などに自生して蕗に似ているので「石蕗」という漢字になったという説がありました。


海辺の公園で咲いていたイソギク(磯菊)は、筒状花だけで周りを囲む舌状花がありません。白く縁取りされた葉がおしゃれですね。


キバナコスモス(黄花秋桜)は、花期が長く霜が降りるまで咲いているので、よく目にするようになりました。


田んぼのあぜ道には牧野富太郎先生に哀れな名前を付けられたノボロギク(野襤褸菊)、綿毛の出る様がぼろに見えたので名付けたといわれています。


これも牧野博士命名のハキダメギク(掃溜菊)、帰化植物で世田谷の掃溜めで博士に見つけられたため名前が付けられてしまいました。5㎜くらいの小さな花ですが、白い舌状花がきちんと並ぶ様は気品があります。


悪名高きコセンダングサ(小栴檀草)もキク科の筒状花だけの黄色い花が咲きますが、不気味な実は釣り針に付いている「返し」が複雑に仕込まれており、容赦なく衣類に引っ付きます。


この嫌われモンの親戚なのが、同じセンダングサ属のウインターコスモスです。花が秋から冬にかけて咲きコスモスに似ているので名前が付きましたが、コスモスの仲間ではなく正式な名前はビデンスです。


空き地などで見かける野菊は、この辺ではほとんどこのカントウヨメナ(関東嫁菜)です。主に関西に生育するヨメナ(嫁菜)は春の若葉が食用となり、これが名の由来となっていますが、カントウヨメナを食べる話は聞いたことがありません。


あまり野山では見つからなくなったノコンギク(野紺菊)、知り合いからいただいたものが大きな株になっています。


さて皇帝ダリアもキク科ダリア属、最近住宅地などで遠くからでもその存在感が目立つようになっています。我が家でも夏の切り戻しを忘れましたが、台風の襲来がなかった今年は4m以上も伸びています。


例年なら12月10日ころの強い霜で枯死しますので、初冬の空で短い生命を謳歌している姿に親しみと羨望を感じながら撮りました。


曝涼とは…貴重な文化財の虫干し(常陸大宮市)

2024年11月21日 | 歴史散歩
曝涼(ばくりょう)」とは、秋の好日に書籍や所蔵品などを外気に当ててカビや虫を防ぐことで、古代中国から伝わった行事が平安時代には年中行事として定着していました。10月下旬から11月上旬に行われる「正倉院の曝涼」は晩秋の季語にもなっています。



茨城県北の常陸太田市と常陸大宮市では、市内の十数か所の寺院で一斉に集中曝涼を一般公開する例年の催しがあり、今回初めて常陸大宮市の3寺院を訪ねてみました。


Googleの航空写真に訪問したお寺を落とし込んでみたら、ゴルフ場の多さにびっくりしました。


法専寺は山号が楢原山法徳院の親鸞二十四輩第十九番の浄土真宗大谷派の寺院です。


寺伝によると開基は平清盛の孫という平能宗でのちに修験者となった播磨公弁円です。建暦2年(1212)佐竹秀義に招かれてこの地に法徳院を建立、門徒百余名を数えたと伝えられますが、建保2年(1214)に常陸に来住した親鸞が布教を始めると妨害しようと板敷山で待ち伏せしますが、親鸞の尊顔に心打たれて帰依し、弟子となって明法と名乗ったという有名な話が残っています。


やがて嘉禄2年(1226)に法徳院近くに明法が建立した寺院が法専寺の始まりと伝えられています。明法は建長3年(1251)に72歳で往生し、法泉寺の南西70mの地に明法の墓と伝えられる塚があります。


住職さんによる丁寧な説明がありました。


本尊の阿弥陀如来木像は、江戸時代初期の作で像高38.8cm、金泥が施されています。


親鸞坐像は、室町時代の木像で像高40.9cm、目に玉眼が嵌入され帽子(もうす)を首に巻いています。


明法坐像は、室町時代作の木像で像高46cm、笈(おい)の中に安置され、先々代の住職まではこの笈を担いで遠方まで布教に行ったそうです。


写真が不鮮明ですが、聖徳太子立像です。室町時代作の木像で像高66.2cm、現状は両手首先、両足先などが失われています。親鸞が聖徳太子を厚く信仰したことから初期の真宗では太子像が作られ、常陸大宮市には9体の聖徳太子像が残っているそうです。


快慶作と伝わる阿弥陀如来立像は胎内銘には元禄6年(1693)七条仏師により修復されたと記されています。


阿弥陀院は、正式名称が五仏山阿弥陀院西蓮寺という真言宗豊山派の寺院です。


現在は奈良県の長谷寺の末寺ですが、もともとは那須一族が祈願寺として那須福原に建立した宝持山金剛寿院伝法寺の末寺でした。那珂川流域での真言宗布教の拠点として金剛寿院の影響力は大きく、この地方に金剛寿院の末寺が数多く存在した記録が残っているそうです。佐竹氏の勢力下でもあった当地方が那須氏支配地との国境にあったという状況が分かります。


六地蔵が迎える本堂は、天保期の寺社改革と幕末維新の廃仏毀釈の騒乱を耐えてきましたが、明治35年の暴風により堂宇が破損し、修復して現在の姿になりました。


煌びやかな中にも荘厳な雰囲気が漂う本殿内部です。


本尊の阿弥陀三尊像は、鎌倉時代末期作の檜寄木造りで中尊85cm、脇侍93cmです。
阿弥陀如来坐像は來迎印を結んで結跏趺座(けっかふざ)し、両脇侍は観音菩薩と勢至菩薩像で条帛(じょうはく)と裳をまとって両足をかがめています。
新編常陸国誌には阿弥陀如来像と勢至菩薩像は水戸市の六地蔵寺から移したという記述があるそうです。


戦国時代の作と伝わる彩色された木製不動明王立像です。不動明王は大日如来の化身として信仰されてきました。


別室に並べられた十王図は、死語に冥界で10人の王の裁きを受けそれによって来世が決まるという信仰を絵画にしたもので、一組11幅の十王図が江戸時代後半作のものなど2組が掲げられています。


最初に訪れた常弘寺では、午後からの公開だったので寺の外観だけのご紹介です。


常弘寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は玉川山宝寿院、親鸞二十四輩第二十番の霊場で、昔から多くの信仰を受けてきました。


寺伝によると…、開基の慈善は後鳥羽院の朝臣であった壷井重義で、讒言によって京を追われる身となり正治元年(1199)、諸国を巡る旅に出たという。武蔵国と相模国を経て常陸国に入り、玉川沿いの太子堂にたどり着いた重義は、ここで一夜を明かすことになった。夜半になって枕辺に聖徳太子が現れ、「これより西南に高僧がおられ説法をなさっている。そのかたは阿弥陀如来の化身である。汝よ、早く行って教法を聞くがよい」と夢告を受けたのである。重義はこの指示に従い、稲田の親鸞聖人を訪ねて教えを聞き帰依し、慈善という法名を賜ったと伝わります。
太子堂にて念仏の日々を過ごした慈善は、後に嘉禄元年(1225)親鸞聖人より常弘寺の号を賜り、この地に仏閣を建立したと伝えられています。(親鸞聖人像です)


元々あった太子堂の由来はかなり古く、大化元年(645)に現在の奈良県の橘寺より、聖徳太子自作の像を移して祀ったのが起源であると伝えられています。なお本堂に現存の聖徳太子像は室町時代の作と推定されています。


木鼻の獅子をはじめ素晴らしい彫刻が施された鐘楼です。


境内で見つけました。カラスウリ(烏瓜)とツバキ(椿)が頬寄せ合っているツーショットは、なにか微笑ましい仏像を見るような気がしました。

いま各地の寺院には、若い人のお寺離れによる檀家の減少や葬儀や法事の簡素化による収入減、そして寺院後継者の不足など時代の変化に伴う諸要因が押し寄せているようです。
地域の歴史と密接に結びついている寺社の消滅は寂しいことです。このような催しがお寺に親しんでもらう一助になればと、思った以上に多い曝涼参加者を見て感じました。

晩秋の偕楽園…花を探して

2024年11月16日 | 水戸の観光

偕楽園周辺も晩秋から初冬への装いになり、さすがに園内の花も数少なくなりました。

梅で知られる偕楽園は、広さ12.7haで標高差約20mの水戸台地上にありますが、周辺の沖積層の水辺を含めた緑地は、偕楽園公園とよばれ約300haの面積を誇ります。

いま園内では、早春の梅まつりを待ちきれず咲いてしまう数輪の梅の花を見つけることができます。

早咲きの品種ではなく、季節を早とちりしがちな個体のいわゆる狂い咲きでしょうか、高い枝先の数輪はコンデジではなかなか捉えきれません。(偕楽園公園の田鶴鳴梅林で11月上旬撮影)。


毎年この時期に偕楽園で見られるのは、見晴らし広場の二季桜で名前の通り春と秋の二回咲きますが、今年は酷暑の影響でしょうか、例年より花の数が激減しています。この二季桜の苗が、彦根市の井伊直弼銅像の近くに植えられて毎年咲いているそうですが、今年はどうでしょうか。


表門にある十月桜は、八重で薄い紅色が入ります。名前の通り10月から咲き始め冬の間も何輪かが咲き続け、4月には他の桜の開花に合わせて花をいっぱい咲かせます。こちらも今年は、やっと数個の花を見つけるほどの状態です。


偕楽園内の梅の苗畑の垣根にお茶の花、すでに花期を過ぎていましたが。


園内各所で今満開なのはサザンカ(山茶花)です。サザンカとツバキ(椿)の見分け方は、花弁がパラパラ散るのが山茶花、花ごとポトリと落ちるのが椿と覚えるのが簡単です。


生け垣に咲いていた白い山茶花は貴婦人のようでした。


ハギの花も刈り取られる前の最後の力を振り絞って咲いていました。


梅林の下にイヌタデ(犬蓼)の群生です。「蓼食う虫も好き好き」といわれるのはヤナギタデ(柳蓼)という品種で、刺身のつまについている赤紫の小さな芽、ピリッと辛い香辛野菜として使われてきました。


こちらはノビル(野蒜)です。禅宗寺院の門前でよく見る「不許葷酒入門」とは、大蒜(ニンニク)・韮(ニラ)・葱(ネギ)・辣韮(ラッキョウ)・野蒜(ノビル)の5種と酒の持ち込みを禁ずということですが、すべて仙人の好物ばかり、野蒜の球根に味噌をつけ辛さを我慢してよく食べました。

偕楽園から見下ろした千波湖畔のモミジバフウ(紅葉葉楓)も秋色に染まってきました。約3か月後の梅の時期まで園内は静謐な空間となり、いつもと違った顔を見せることでしょう。




上大羽地区の遺産群…中世宇都宮氏の歴史

2024年11月10日 | 歴史散歩

栃木県益子町の上大羽地区は、中世鎌倉時代の宇都宮氏に係わる神社仏閣などの歴史遺産が多数残されており、日本遺産「かさましこ」の構成遺産の一部をなしています。


「かさましこ」の茨城県笠間市と栃木県益子町は、東日本屈指の窯業地として同系統の文化圏にあり、また11世紀から約500年間この笠間と益子を治めた宇都宮氏は、都の貴族との接点を持ちながら宗教、文化という側面でも大きな足跡をこの地に残しました。


大羽山地蔵院は、宇都宮氏3代朝綱が長男業綱の菩提を弔うために建久3年(1192)に創建した一村山尾羽寺を前身とする寺院です。朝綱は建久5年(1194)に公田横領の罪で土佐国へ配流、2年後に許されると尾羽寺に入って「尾羽入道寂心」を名乗って隠棲し、宇都宮氏の菩提寺として境内に浄土庭園などを整備し、初代、2代の墓所を設けました。


地蔵院本堂は、室町時代中期に尾羽寺の阿弥陀堂として造営されたもので、天文11年(1542)に現在地に移築され、江戸時代の後期には尾羽寺の後継寺院となった地蔵院の本堂となりました。
室町時代の阿弥陀堂の貴重な大型建築遺構として国の重要文化財に指定されています。


室町初期の建築とされる観音堂は、昭和58年に解体修理され、その時に茅葺きの上に銅板を被せました。


大きな山門が建っています。大羽山極楽寺地蔵院、真言宗智山派のお寺です。


山門の近くで黄色い菊が咲いていました。ヤクシソウ(薬師草)は日本全国に分布し晩秋まで咲くキク科の二年草で、かっては花や花茎を乾燥させたものが腫物や凍傷に効用があるとされました。


鶴亀の池跡です。3代朝綱が隠棲して寺域整備を行ったときに造成した浄土庭園の一部が残っています。


池のそばの参道に赤い実が輝いていました。ヒヨドリジョウゴ(鵯上戸)と思いましたが、調べてみるとマルバノホロシのような気がします。どちらもナス科でこの時期赤い実が山野を彩ります。



3代業綱が設けた宇都宮氏の墓所は、墓守の家臣を置き初代からの歴代当主を葬ってきました。慶長2年(1597)には22代国綱が秀吉により突然改易されても、多くの家臣が仕官せず土着し墓を守り続けたと伝わります。


初代宗円より大正時代の33代正綱まで、五輪塔29基、石碑4基が並び、最大のものは塔高172㎝…約900年の歴史の重みを感じる一画です。
国綱の子23代義綱は寛永年間に水戸藩の家臣となり高家格百人扶持となり、家督を継いだ隆綱は1,000石を賜り子孫は明治維新まで水戸藩に仕えたと伝わります。天保11年(1840)の江水御規式帳には中寄合、宇都宮権太郎朝綱800石と出ています。


宇都宮氏はこうして江戸時代になっても水戸藩重臣として存続していたので墓所も守られていたものと思われます。



綱神社は、公田横領の疑いで土佐に配流された3代朝綱が、土佐の一の宮である賀茂神社に領地に戻ることを祈願し早期釈放が叶ったため、賀茂神社を勧請して建久5年(1194)土佐明神として建立しました。朝綱に因んで綱神社と親しくよばれていたので、明治維新を期に改称したと伝わります。


本殿は、室町時代の大永年間(1521~1528)の建築で、美しい曲線の茅葺き屋根が質素な佇まいながら歴史を感じさせてくれます。国の重要文化財に指定されていますが、屋根の傷みが気になりました。


隣にあるのが、同じく国の重文指定の大倉神社、大同2年(807)近隣西方の地にある愛宕山の大倉林に創建され、社殿は大永7年(1527)の建立とされています。現在地への移転は昭和になってからのようですが、こちらも傷みが目に付きました。


境内に季節外れのスミレが、それも数多く咲いていました。


この一帯は石仏、石碑群が道路沿いに多く見られることで知られています。



大きな馬頭尊の石碑が建っていました。裏面に安政4年2月 芦沼村大石工 石井弥市と刻されていました。


鄙びた農村地帯で大きな道路の敷設や開発もなかったために、北関東の名族、宇都宮氏の歴史遺産がそのまま残っており、暫し中世の世界に浸ることができました。

シュウメイギク(秋明菊)など…秋を彩る花

2024年11月04日 | 季節の花

個人的にはもっとも秋を感じる花という印象のシュウメイギクは、菊という名前でもキク科でなくアネモネの仲間のキンポウゲ科で、中世の頃に中国から伝来したと伝わる帰化植物です。


花弁のように見えるのは萼が変化したもので、このように花弁と萼が一体になったものを花被といいます。真ん中に黄色い雄しべに囲まれた薄緑色の雌しべのかたまりがありますが、実は生らず地下茎によって繁殖するそうです。


花を裏返しして撮ってみると、確かに萼らしきものが無く、白い花弁状の物が萼と一体だということが分かります。花被は5枚かそれ以上ですが、この個体はずっと多いようです。


原種は濃いピンク色で八重咲きだとされていますが、やはり白の一重が私的には気に入っています。


ただ難点は、増えすぎてしまうことと、花も背が高く、葉も黒ずんで汚くなることですが、ネットの情報では初夏に根元まで切り戻すと、背の低い葉の青々とした株になると出ていました。試してはみませんが…。


同じく秋の花というと、ホトトギス(杜鵑草)が好きな花です。ユリ科ホトトギス属の日本固有種です。

ホトトギスも、花弁と萼が一緒になったユリ科の他の植物と同様に花被が6枚で、幅の広い外側の3枚が萼の変化した外花被、細い幅の3枚が内花被です。
紫色の斑点が、鳥のホトトギス(杜鵑、不如帰)の胸にある模様に似ていることから名前が付き、漢字名では草を付けた杜鵑草とするのが一般的なようです。


束状に立ち上がる花糸から6本の雄しべが分かれ先端に花粉を出す葯があり、その内側の3本の雌しべの柱頭は2裂しています。

花被の根元にある黄色い班点は、蜜がここにあるぞぉ~と昆虫を呼び寄せる誘導案内板の役目をしていて「蜜標」や「ハニーガイド」という魅惑的な名前が付いています。


萼片に相当する外花被3枚の下には大きな突起物があり、これが昆虫のお目当ての蜜の壺です。


この変わった花の形には自然の仕組みが濃縮されています。蜜を吸いに来た昆虫の背中に垂れ下がった葯が触れ花粉を付け、飛んで行った先の花に運び他家受粉をさせます。


公園の花壇では、秋が深まってもおなじみキク科の花が咲き残っていました。


ジニアはヒャクニチソウ(百日草)の名前の方が親しみのある世代の仙人は、夏休みの誰もいない校庭でいつまでも咲いていた景色を思い出してしまいます。


花壇といえばマリーゴールド、これも長持ちする花の代表品種です。
野菜の傍に植えると、独特の香りや根の周りの菌によって害虫を遠ざけるコンパニオンプランツとされていますが、まだ試したことはありません。


ダリアの開花時期も長く6月中旬から11月までと園芸サイトには出ています。以前ほど見かけることが少なくなったような気がしますが、今はこれから咲く皇帝ダリアがあちこちの庭で晩秋を彩ります。

雑草の花も数少なくなったこの季節、花壇の周りの草むらでカタバミ科の花が元気でした。


カタバミ(片喰)は、夜に葉が半分閉じた状態になるので名前が付きました。いまは北米原産の帰化植物オッタチカタバミ(おっ立ち片喰)がこの辺りでも勢力を伸ばしています。


すっかり雑草となって我が物顔のイモカタバミ(芋片喰)は、南米原産の帰化植物で戦後観賞用として入ってきたものがまたたく間に広がりました。芋のような塊茎から名前が付きました。


公園のモミジバフウ(紅葉葉楓)も色付き始めました。

やがて晩秋となり木々の紅葉が散ると、モノトーンの冬がやってきます。昨年は暖冬でしたが、今年の12月、1月は寒さ厳しいとの予想が出ていますので、まだ復興できてない被災地の方々の息災を願うばかりです。