顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

石造り金剛力士(仁王)像…睨む顔にも春の風

2024年03月29日 | 歴史散歩

寺院の前で仏教の守護神として睨みをきかせる金剛力士(仁王)像、平安時代末期の源平の戦いで多くの寺院が戦禍を被ったので、敵を堂内に入れないため鎌倉時代になると多数の金剛力士像が造られたといわれています。有名な東大寺南大門金剛力士像は、鎌倉時代初頭の建仁3年(1203)に運慶、快慶らによって造られた高さ8.4mの巨大な像です。


その後各地で作られた仁王像の材質は寄木作りが圧倒的に多いようですが、石で作られた仁王像が水戸市栗崎町の佛性寺にあります。。調べてみると日本全国の石造仁王像は673か所、1369体あるといわれ、なんとそのうちの約8割は九州の国東半島にあると、高野幸司さんの著書「石造仁王像」に載っています。そんなに数多いものではないらしく、我が近辺では約30キロ先の寺院跡にあるものしか見つからなかったのですが併せてご紹介します。


佛性寺は涌石山大日院と号する天台宗の寺院で、天長年間(824~834年)、慈覚大師円仁の創建と伝わります。本堂は全国的にも珍しい茅葺き八角形で、室町時代の建築様式を伝える天正13年(1585)の建立と伝わり国の重要文化財に指定されています。


山門前にある仁王像は高さ1.4mで阿形像の背部に元禄7年(1694)の刻銘があります。


境内には天明9年(1789)の刻銘がある石造りの六地蔵が並んでいました。
天明の大飢饉時に、東北から水戸領に逃れて来るも餓死した者を供養したものといわれています。


風雨にさらされている石造りの仏像は、自然の力でこんな穏やかな表情になるのでしょうか。


なお境内には直径約6.5mメートル高さ約1.5mの円墳、佛性寺古墳があります。


こちらは小美玉市栗又四ケにある石造り仁王像です。

なんと何もないところに二体の仁王像だけが置かれています。


ここには安楽寺という大きな寺院があり、元禄5年(1692)にここより南の霞ケ浦河岸の高浜村にある河岸問屋「笹目八郎兵衛」がその阿弥陀堂に寄進した伊豆石の仁王像で、江戸から船で運ばれてきたと伝わっています。


寺院の方は江戸時代後期に焼失してしまい、1.7mの大きな仁王像だけが同じ場所にそのまま残っています。


階段を上った平地に小さな祠があり、まわりには手水舎らしきものと卵塔(無縫塔)が一つ立っているだけです。


崩れかかった祠の中にある石像は、あまり古さを感じられず近代のものかもしれません。


野晒しの石仏が朽ち果てることなく散らばっていました。


しかし石造りのいいところでしょうか、守るべき仏閣が焼失しても強烈な存在感で残り、その歴史をしっかと伝えているようです。
それにしても一体3トンというこの仁王像を舟で運んできたというのもスゴイですね。

出世の名が付く神社など…水戸市栗崎町

2024年03月23日 | 歴史散歩

仙人棲家の近くに「これより出世街道」という文字が消えかかった木製の案内板があり、その街道沿い約800mの間に東を向いた小さな神社が三つあるのが気になっていましたので、調べてみました。


この案内板の方は、ずいぶん前に地元の水戸市常澄商工会むらおこし連が建てたそうですが、3つの神社のうち一番南に位置する出世稲荷神社が街道名の原点のようでした。


この出世稲荷神社の沿革などの詳細は不明ですが、全国の稲荷神社の祭神である宇迦之御魂大神(うかのみたまのかみ)を祭神としています。調べると全国に「出世稲荷神社」という名の神社は他にも10数社あります。


一説では稲荷神を信仰していた豊臣秀吉が天正15年(1587)造営の聚楽第にも稲荷神を勧請し、行幸した後陽成天皇が立身出世を遂げた秀吉に因んで「出世稲荷」の号を授け、出世開運の神として大名や公家から庶民までの崇敬を受けたと伝わります。これが現在の京都大原にある出世稲荷神社で、この他にWikipediaには松江、埼玉、東京などにある12社の同名の神社が載っています。


万延元年(1860)に祀られたというこの社も御利益のある特別な神社として、県内外各地から数多くの参拝客が訪れ、周辺には店や宿屋などが連なっていた、と現在の状態からは考えられない話が伝わっています。そして神社に至る山中の道は「出世街道」と呼ばれ、明治以降には出征する兵士や家族達の参拝が多かったことから「出征街道」とも呼ばれていたそうです。



出世稲荷神社より200mくらい北にある「千勝神社」はクルマでは通り過ぎてしまうような小さな鳥居です。出世神社の隣で千勝とは縁起よく聞こえますが、関連はあるのでしょうか。


祭神は猿田彦大神(さるだひこおおかみ)、天孫降臨の際、「教導や道開き」の大功を果されたという神様です。Wikipediaにはつくば市や埼玉の千勝神社6社が載っていますが、この社は入っていませんし、詳細は不明です。


なお社殿裏には千勝神社古墳がありました。約4.3m四方、高さ約0.8mの方墳です。この一帯は縄文海進時には海に面した台地だったので、小規模な古墳が数多く残っています。


一番北にあるのが「芳賀神社」です。祭神は大山津見命(おおやまつみのみこと)で山と海を司る神とされます。沿革や詳細は分かりませんが、案内板にはいくつもの祭事暦が書かれていました。

神社入口の両脇には、水戸市の保存樹に指定された樹齢約200年の大ケヤキがあります。


境内は広く、しかも箒の掃き目が残っているほどきれいです。


栗崎護国神社、素鷲神社などの境内社が多く点在していました。


小さいながら厳粛で立派な本殿です。


この時期色彩のない境内には、ピンクの侘助が輝いていました。

水戸市栗崎町にあるこの三社は芳賀神社の神職の方が兼務しているそうで、清掃管理は住民の氏子の方々やっているのでしょうか、3社ともきれいに掃き清められていたのには感心しました。
文部科学省の調査では、全国の神社数は81,158社(茨城2,491)、寺院数は77,256寺(茨城1,298)という数字があるそうですが、どの程度の規模の神社が調査対象に入っているかは分かりません。寺院に比べて建てるのが容易な神社は、地域住民の拠りどころして数多くが知られずに存在しているのではないでしょうか。

菜の花漬け…いつもの河原で

2024年03月15日 | 季節の花

今年はやはり、いつにも増して暖冬でした。
去年より早めに訪れた久慈川支流の河原の土手では、もうすっかり満開の花が笑っていました。


開いた花が多く、開ききらない適度の花だけを摘むのには、思った以上に時間がかかりましたが、春の野に花粉まみれになってしばし憂き世を忘れました。


河原の菜の花は、ほとんどセイヨウアブラナ(西洋油菜)の野性化した交雑種で、この近辺ではセイヨウカラシナ(西洋辛子菜)も混じりますが、葉や葉の付き方で区別できます。
栽培種にはない野性の証しのような軽い苦みが後を引き、毎年この時期には摘みに来ています。


水郡線のキハE130系気動車が鉄橋を渡っています。JR水郡線は名前の通り水戸と郡山を結ぶ全長147キロのローカル線ですが、利用者の少ない線区もあり、廃線の話が時々持ち上がっています。


それでも何とか確保できた菜の花は、洗って熱湯に約10秒くぐらせてよく絞り3%の塩を擦り込めば菜の花塩漬けの完成、一日冷蔵庫で寝かせて塩が馴染めばおいしい春の逸品が簡単に出来上がりました。食べきれないのは小分けにして冷凍すれば、また後で春の味を思い出すことができます。

京都ではその風味と色彩が好まれて名物にもなっており、また花菜漬けという季語で多くの句が詠まれています。

寝足りたる旅の朝の花菜漬  稲畑汀子
花菜漬箸の終りに香りけり  能村登四郎
喪の膳にひとつまみほど花菜漬  近藤一鴻


梅花いろいろ…水戸の梅まつり2024

2024年03月08日 | 水戸の観光

偕楽園と弘道館の梅林を会場に2月17日~3月17日まで開催の梅まつりも終盤を迎え、間もなく主役は桜へとバトンタッチされます。枝いっぱいに咲き誇る満開の桜に対して、個々の美しさを近寄って楽しむとされる梅の品種はどれくらいある?とよくいわれますが、正確な数字は分かりません。というのは一部の実梅を除いてほとんど品種登録されてなく、江戸時代以来新種を発見し作出した方が自分で名前を付けてきた歴史があるからです。通常400~500種といわれていますが、偕楽園で梅の品種を増やす試みの時に県で調査した全国の梅園などの品種は合計825種という数字も残っています。多分同名異品種、異名同品種なども混在しているかもしれませんが…

それはともかく水戸の梅まつりに、偕楽園と弘道館で春をおとどけしている梅の花の数輪をご紹介いたします。

八重西王母  中国の崑崙山に住む伝説の仙女に因んで名付けられたようですが、梅や椿にも西王母の付いた名前があります。


滄溟の月  移り白という咲き方で、蕾は紅色でも開くにつれて白くなってきます。滄溟とは大海原のこと、4センチくらいある大きい花が海上に浮かんだ月のようです。


淋子梅  豊後性八重、花弁が波立ち不結実、面白い名前ですが由来は分かりません。「庭の花たちと野の花散策記」ブログでは、綸旨梅という説も紹介されていました。※綸旨とは天皇の意を受けて発給する命令文書


白牡丹  梅とは思えない大型で豪華な、名前の通りの花です。明治時代の銘花三牡丹(玉牡丹、紅牡丹)の一つです。


品字梅  座論梅や八房梅ともよばれるようですが、雌しべの数が多く3個実を付けた様が「品」という字のようだという命名が個人的には気に入っています。


八重松島  松島の名前の由来は分かりません。野梅系の結実種、盆栽、庭木として人気があります。


白滝枝垂れ  白い滝のようだという枝垂れ梅の向こうに、弘道館の正庁が見えます。


八重茶青  茶青とは摘まれたばかりの茶葉の色、野梅系で梅田操「ウメの品種図鑑」には梅花集、梅花名品集に伝わる名品と載っています。


蘇芳梅  蘇芳とは伝統的な色の名で、マメ科の蘇芳(スオウ)の樹皮を染め上げた「黒みを帯びた赤」色です。


月影  野梅系青軸性の名花で水戸の六名木、萼や若枝が緑で花も青白く、園内でも人気の品種です。なお月影とは月の光のことです。


江南所無  遅咲きの杏系、水戸の六名木です。中国の三国時代の呉の武将陸凱が江南から親友に梅の枝を一枝送り、後に贈った詩「江南無レ所レ有、聊贈一枝春」(江南に二つとない梅をひと枝、ほんの少しの春を贈ります)を引用して名付けられたと伝わります。


家康梅  家康公が11男で水戸藩初代の頼房の出生を祝って駿府城に自ら植えたと伝わります。


内裏  花弁の裏の方が濃い紅色で、表側に透き通って見える「裏紅」という咲き方です。


朱鷺の舞  薄紅色の繊細な美しさは、朱鷺色といわれる絶滅危惧種の艶やかな姿のようです。


書屋の蝶  青梅産出で、青梅に住んだ吉川英治に因み書斎から見たら蝶のようだという命名説もあります。花弁の一部の先端が三角形のように尖がっています。


玉英  同じく青梅産出で、青梅に居を構えた河合玉堂、吉川英治の二文字を名前にしました。梅では最初の登録品種で果肉が厚く、やや早めに収穫できます。

変わった梅の花を2種…


酈懸梅  花弁が退化し蕊だけの花ですが、野梅系の結実品種です。能の「菊慈童」に出てくる不老長寿の水が流れ出る酈懸(てっけん)山に因んで名付けられたといわれます。


華農玉蝶台閣  今年はいつもの木に台閣咲きの花が見当たらなかったので2年前に撮影のものです。花の真ん中に小さな別な花が咲いているように見えます。

このように花の中心の雌蕊が花弁化した二段咲きのことを台閣咲きといい、梅田操著 「ウメの品種図鑑」には10種類の台閣梅が載っています。雌蕊の役目をしてないので、もちろん不結実種です。

春に先駆けて咲く梅の花…次に登場するのは日本人には特別の思い入れの桜…その前線が北に向かって駈け上がり春本番がやってきます。

水戸の梅まつり…ままにならない開花時期

2024年03月04日 | 水戸の観光

水戸の梅まつりは2月10日から3月17日まで開催されています。しかし思い通りにいかないのが梅の花の開花で、桜ほどではないにしても開花のピークが開催期間になかなか合いません。今年は正月の頃は少し遅いと感じましたが、2月に入っての異常高温の日が続き、一気に開花スピードが早まったのか2月末にはもう満開になってしまいました。

しかし、桜よりは開花期間が長く、しかも早咲き、遅咲き100種以上の梅が次々と咲き競うので、梅まつり期間は遅咲きの花が彩ってくれています。


観光バスなどの来園者が多い東門から入るのが通常のコースです。


右手に梅林、東側は広い芝生の見晴らし広場です。園内の紅梅の濃さで一二を争う「佐橋紅」も満開です。


標高約25m、比高約20mの洪積層河岸段丘上の偕楽園、見晴らし広場から見下ろした千波湖は、水戸城の南に面した堀の役目をしていました。


偕楽園の南側は河川が二つ流れ込む沖積層の低地で、ここにも三つの梅林があります。昨年秋のサミットでも使用された飲食施設が偕楽園を望む場所に、茨城県が初めて採用した「パークPFI」方式で建てられました。


猩猩梅林、窈窕梅林の奥の台地には、徳川ミュージアムがあります。徳川家康公の遺品(駿府御分物)を中心に家康公の11男の初代頼房公、2代光圀公ら歴代藩主遺愛の什宝約3万点や古文書類約3万点の史料が順次展示されています。


藩主来園時のお休みどころ「好文亭」では、領内の文人墨客や家臣、領民を招き、養老の会や詩歌の会などが催されました。


右手の奥御殿は藩主夫人やお付きの女中衆のお休みどころです。


薄紅の「連久」が彩る奥御殿には10部屋あり、各部屋の襖には松竹梅をはじめ10種の植物が描かれて部屋の名前になっています。


この表門から入ると、天保13年(1842)に開設した水戸藩9代藩主徳川斉昭公の意図した陰陽の世界が体現できるコースが楽しめます。


斉昭公の諡号の付いた「烈公梅」は水戸で発見された品種で、薄紅色で花弁の隙間が離れており、幕末を駆け抜けた公の激しい生き様が感じられます。


航空写真ではこの場所にはお土産店が写ってますが、撤退した跡に緋毛氈の縁台が置かれたお休み所になっています。


仙人が勝手に名付けた「案山子梅」がまだ健在でした。太い幹の樹皮の一部だけが一本足になって地面から養分を吸い上げ、新しく出た枝にも花を咲かせています。


老木の多い偕楽園は、くねくねと曲がったり中が空洞になったりした梅がしっかり花を咲かせているのを見るのも一興です。梅の樹に養分を運ぶ維管束形成層は樹皮の内側で細胞分裂して外側に成長しますが、年輪部分のある中心部は古木になると枯朽してしまうので樹齢を推定することはできません。

そういうことで、よく話題になる偕楽園の梅の樹齢は、結論から言うとよく分からないということに尽きると思います。一般に梅の寿命は100年くらいといわれますが、国内には越生梅林の樹齢670年の「魁雪」、伊達政宗が朝鮮から持ち帰った樹齢400年以上の「朝鮮梅」、狭山市の樹齢400年の「不朽梅」などのいろんな古木が知られています。しかし科学的には証明されてはおらず、今後のDNAなどの検査技術の進歩に期待するしかありません。

いま水戸市では観賞用の梅ばかりでなく、作物としての梅の実をブランド化して販売しています。その生産者の方の話では、梅の樹は25年くらいで実の収穫が極端に落ちるため伐採して新たに植え直すと聞きましたので、よく言われる収穫用の梅より観賞用の梅の方が寿命が長いという話も頷けました。
偕楽園の場合、実を付ける実梅が6割、実の生らない花梅が4割くらいといわれています。ここで生った梅の実は、6月中頃収穫して一般の方に販売しますが、毎年すごい人気です。

また偕楽園の梅の種類と総本数は流動的ですが苗畑も入れると約200種、本数は老木の枯死と、若木移植でも最近は木の間隔を開けているようなので、2700本位というのが現状のようです。その中で白梅が約7割、紅梅が3割くらいといわれています。

10年以上前に梅の種類を増やそうと402種、920本の梅の苗木を集めましたが、その育苗畑で梅のウイルスPPVに罹っているのが数本見つかり、全部を焼却処分しました。その経験から新しい品種の導入には最大の注意を払っているそうです。(写真は「入日の海」です)

なお、偕楽園公園センターのホームページの梅図鑑には96種の梅花が写真入りで紹介されています。  https://ibaraki-kairakuen.jp/zukan/

少しずつ新しい品種を含めた世代交代が進んでいますので、品種の特徴を保ち来歴のはっきりした樹がこれからもしっかり花を咲かせて来園者を迎えてくれることでしょう。