ひたちなか市那珂湊地区の館山に、浄土真宗寺院が七つまとまった、通称「館山七カ寺」があります。寛文3年(1663)水戸藩2代藩主徳川光圀公が領内の寺社改革に乗り出し、寺社の破却、移転などを断行した際ここに集められました。
七ヵ寺の中で一つだけ広い寺域をもつ浄光寺は、親鸞聖人直弟子の開基なので別格なのでしょうか。正式名は、衆宝山無量光院浄光寺で寺伝によると、那珂郡枝川村の藤原隼人佑頼貞が、建保二年(1214)稲田に居住していた親鸞聖人の教化を受け、貞応元年(1222)剃髪して、法名唯仏房浄光と賜わり開基したのが始まりとされています。
その後水戸城主江戸氏に崇敬され、さらに佐竹氏に代わってからも保護を受け佐竹義宣は天正1年(1591)、常光寺を水戸城に移しました。江戸時代になって元禄9年(1696)光圀公より、湊村古館の地(現在の館山)に11,605坪及び人夫2万人等の寄付を賜り、堂宇を移し名も浄光寺と改め、他の6つの寺も一箇所に集められ現在の七カ寺になりました。
浄光寺以外の6つの寺院もそれぞれの由緒をもっていますが、すべて浄土真宗本願寺派の寺院です。
松間山光泉寺は了南上人が開基、慶長5年(1600)前浜村に創立。
池のある庭園が見事です。
細谷山正徳寺は林宗上人が開基、慶長19年(1614)茨城郡枝川に創立。
この山門は安政7年(1860)に水戸藩御典医の久保田宗仙が屋敷門として建てたものを、昭和46年(1971)に寄進されました。水戸藩の藩内抗争の際の弾痕が柱に残っているという説明文がありました。
向月山常教寺は教了上人が開基、寛永4年(1627)湊村釈迦町に創立。
大きな本堂です。寺院群のまわりを広い墓地が囲んでいますが、寺院ごとの境界は見当たりませんでした。
田中山清心寺は了知上人が開基、慶長元年(1596)湊村田中坪に創立。
近代的なコンクリートの本堂です。
寺院が同じ宗派でもそれぞれ独特の取り組みをしているような気がしました。
宝珠山専光寺は了周上人が開基、元亀元年(1570)那珂郡枝川に創立。
ひときわ異彩を放つ鐘楼門のお寺です。蓮如上人の像が建っています。
月光山専照寺は祐念上人が開基、正保元年(1544)湊村田中坪に創立。
やはり親鸞聖人の像の寺院が多いようです。
ところで、この地区の名前、館山で分かるようにここは平安から中世にかけての城跡でした。常陸平氏の祖、平国香の末裔5代目、大掾重幹が築城したとされますが、詳細は不明です。
浄光寺前の「館山七ヵ寺」案内石碑には、『応永年間(931年頃)に小泉左京亮重幹が住す。応永年間(1394年頃)館右京亮が住す』と彫られています。
確かに太平洋を望む標高約20m、比高約15mの高台は城塞には絶好の立地で、元治元年(1864)8月、元治甲子の乱では武田耕雲斎率いる天狗党の本陣が布陣して激戦場となり、この一帯の各寺院の堂宇、什物、記録などの大部分を消失してしまいました。
なお、この浄光寺の門は、水戸城にあったものを明治になって移設したそうです。浄光寺を水戸城に移した佐竹時代、そのあとの水戸藩でも水戸城本丸の下二の丸には浄光寺門という名で存在していました。
水戸徳川家との縁も深く、浄光寺19代住職唯弘のもとへは、光圀公の養女、たにん姫が輿入れをしたと伝わります。本堂、山門、袖塀などに水戸葵紋が付いています。
浄光寺の墓地には、元治甲子の乱で戦死した幕府追討軍の福島藩兵の墓があります。水戸藩内門閥派の市川三左衛門の天狗党追討要請を受けた幕府の命で出兵してきたのでしょうか。
浄光寺の住職が、この市川三左衛門の縁戚になっていたため、明治維新後しばらくの間当地から追放となり寺も廃寺となっていましたが、檀家の熱心な運動により、明治11年に再興されということでした。