顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

那珂湊の七ヵ寺…光圀公が一ヵ所にまとめた寺院群

2022年11月28日 | 歴史散歩

ひたちなか市那珂湊地区の館山に、浄土真宗寺院が七つまとまった、通称「館山七カ寺」があります。寛文3年(1663)水戸藩2代藩主徳川光圀公が領内の寺社改革に乗り出し、寺社の破却、移転などを断行した際ここに集められました。

七ヵ寺の中で一つだけ広い寺域をもつ浄光寺は、親鸞聖人直弟子の開基なので別格なのでしょうか。正式名は、衆宝山無量光院浄光寺で寺伝によると、那珂郡枝川村の藤原隼人佑頼貞が、建保二年(1214)稲田に居住していた親鸞聖人の教化を受け、貞応元年(1222)剃髪して、法名唯仏房浄光と賜わり開基したのが始まりとされています。

その後水戸城主江戸氏に崇敬され、さらに佐竹氏に代わってからも保護を受け佐竹義宣は天正1年(1591)、常光寺を水戸城に移しました。江戸時代になって元禄9年(1696)光圀公より、湊村古館の地(現在の館山)に11,605坪及び人夫2万人等の寄付を賜り、堂宇を移し名も浄光寺と改め、他の6つの寺も一箇所に集められ現在の七カ寺になりました。

浄光寺以外の6つの寺院もそれぞれの由緒をもっていますが、すべて浄土真宗本願寺派の寺院です。




松間山光泉寺は了南上人が開基、慶長5年(1600)前浜村に創立。
池のある庭園が見事です。




細谷山正徳寺は林宗上人が開基、慶長19年(1614)茨城郡枝川に創立。
この山門は安政7年(1860)に水戸藩御典医の久保田宗仙が屋敷門として建てたものを、昭和46年(1971)に寄進されました。水戸藩の藩内抗争の際の弾痕が柱に残っているという説明文がありました。




向月山常教寺は教了上人が開基、寛永4年(1627)湊村釈迦町に創立。
大きな本堂です。寺院群のまわりを広い墓地が囲んでいますが、寺院ごとの境界は見当たりませんでした。




田中山清心寺は了知上人が開基、慶長元年(1596)湊村田中坪に創立。
近代的なコンクリートの本堂です。
寺院が同じ宗派でもそれぞれ独特の取り組みをしているような気がしました。




宝珠山専光寺は了周上人が開基、元亀元年(1570)那珂郡枝川に創立。
ひときわ異彩を放つ鐘楼門のお寺です。蓮如上人の像が建っています。

 


月光山専照寺は祐念上人が開基、正保元年(1544)湊村田中坪に創立。
やはり親鸞聖人の像の寺院が多いようです。


ところで、この地区の名前、館山で分かるようにここは平安から中世にかけての城跡でした。常陸平氏の祖、平国香の末裔5代目、大掾重幹が築城したとされますが、詳細は不明です。

浄光寺前の「館山七ヵ寺」案内石碑には、『応永年間(931年頃)に小泉左京亮重幹が住す。応永年間(1394年頃)館右京亮が住す』と彫られています。


確かに太平洋を望む標高約20m、比高約15mの高台は城塞には絶好の立地で、元治元年(1864)8月、元治甲子の乱では武田耕雲斎率いる天狗党の本陣が布陣して激戦場となり、この一帯の各寺院の堂宇、什物、記録などの大部分を消失してしまいました。


なお、この浄光寺の門は、水戸城にあったものを明治になって移設したそうです。浄光寺を水戸城に移した佐竹時代、そのあとの水戸藩でも水戸城本丸の下二の丸には浄光寺門という名で存在していました。

水戸徳川家との縁も深く、浄光寺19代住職唯弘のもとへは、光圀公の養女、たにん姫が輿入れをしたと伝わります。本堂、山門、袖塀などに水戸葵紋が付いています。


浄光寺の墓地には、元治甲子の乱で戦死した幕府追討軍の福島藩兵の墓があります。水戸藩内門閥派の市川三左衛門の天狗党追討要請を受けた幕府の命で出兵してきたのでしょうか。
浄光寺の住職が、この市川三左衛門の縁戚になっていたため、明治維新後しばらくの間当地から追放となり寺も廃寺となっていましたが、檀家の熱心な運動により、明治11年に再興されということでした。


水戸城址の紅葉…土塁と堀だけの城ですが

2022年11月23日 | 水戸の観光

水戸城三の丸の西側に残る堀跡には、大きなイチョウの木が黄葉を見せています。

水戸城は、南の千波湖と北の那珂川に挟まれた河岸段丘の上にある連郭式平山城です。現在も土塁や空堀の遺構が残り、街中での紅葉を楽しませてくれます。

この土塁には上部の堀側に小段状の犬走りがあることから,全国的にも珍しい城郭遺構となっています。


土塁上のケンポナシ(玄圃梨)の大木はすでに落葉していました。


ケンポナシの実が落ちていました。丸く小さな果実をつける肥厚した果柄が名前の由来で、齧るとまさしく梨の味がします。悪酔、二日酔に効くそうですが、毎日嗜んでいる仙人もすっかり酒量が減り、効能のお世話になることもなくなりました。


三の丸には茨城県庁の旧庁舎が残っています。昭和5年建設の近世ゴシック建築様式で、重厚なレンガ張りの外観はロケなどによく使われています。


三の丸にある水戸藩の藩校弘道館は、181年前の姿で残っています。正庁前にある左近の桜の紅葉が正門附塀越しに見えます。


弘道館公園にある梅林、梅の木の紅葉はあまり気にしませんでしたが、梅紅葉(うめもみじ)という季語もあるのを知りました。因みにこの梅は「駒止」という品種で、大輪の白梅です。
散り行くも二度の歎きや梅紅葉  嵐雪


大手橋手前のムクロジ(無患子)の黄葉と重要文化財の弘道館正門です。


面白い形のムクロジの実、丸くて黒い種子は、羽根つきの羽に用いられたといわれています。


三の丸小学校の白壁の塀に黄葉がよく似合います。水戸城址は文教地区になっていて学校が5校もあり、城址のイメージに合わせて建物外観や塀が整備されています。


三の丸から大手橋を渡って大手門を潜り、枡形を曲がると二の丸で、江戸時代は水戸藩の藩庁と御殿が置かれていました。


二の丸、三の丸間の堀は深さ12m、幅40m、下は旧6号国道の幹線道路です。


二の丸には茨大付属小、水戸二中、水戸三高があり、通りの両側は白壁の塀が連なっています。


樹齢400年以上とされる椎の木です。城址には椎の巨木が他にもありますが、籠城の際の食糧確保の意味もあったのでしょうか。


椎の実がたくさん落ちています。仙人の少年時代は戦後の食糧難で、貴重なおやつとして夢中で拾ったことを思い出しました。種子の中の白い部分は今でも甘い味がしました。


見晴らし台から見下ろした那珂川は水戸城の北を守る天然の堀で、那須を源流とし延長150km、ここから10kmくらい下流で太平洋に流れ込みます。


那珂川の河岸から上がった道にある杉山門、向こうに本丸への本城橋が見えます。


二の丸から本城橋を渡った本丸は水戸一高の敷地になっています。立ち入り禁止ですが枡形の先にある薬医門までは見学できます。


「水戸城は建久年4年(1193)源頼朝から地頭馬場資幹がこの地を賜り、常陸大掾に任ぜられたのに始まる」と書かれています。その後江戸氏、佐竹氏、水戸徳川家と約670年の歴史を刻んできました。


この薬医門は建築様式から、安土桃山時代末期の佐竹氏が水戸城主の時期に建てられたものとされています。


本丸と二の丸間の堀の幅は約40m、深さは22mもあり、現在はJR水郡線が走っています。

御三家水戸藩初代は家康の11男の頼房で、慶長14年(1609)藩主になった6歳のこの末っ子のために、家康は城代の芦沢信重に石垣構築を命じますが準備中に家康が亡くなったために頓挫し、3代将軍家光も寛永13年(1636)に水戸城の石垣築造を命じ、伊豆で採掘した石材を江戸に運びますが、この計画も途中で家光が亡くなったために実現しなかったと伝わります。
やがて泰平の世になり、当時の2代水戸藩主光圀は石垣よりも「大日本史」という修史事業に藩の方向を舵取りしたともいわれています。
幕末の藩内抗争と昭和20年の空襲で城内の建物はほとんど消失し堀と土塁が残るだけですが、天然の地形を利用したその規模に御三家の一端をうかがえると思います。

偕楽園公園の紅葉…いろんな色の競演

2022年11月18日 | 水戸の観光

偕楽園公園の「桜山」は名前の通り桜の山です。桜紅葉(さくらもみじ)という季語があるほど、他の木に先駈けて変化に富んだ色を見せてくれます。残念ながら撮影時には散ってしまったので、暇な仙人が落ち葉を並べてみました。


偕楽園公園とは、偕楽園と取り巻く周辺の緑地帯300ha、自然が残る園内ではいろんな樹木が秋の顔を見せてくれます。


「護国神社」の杉林で撮った絡み付いた紅葉、上部の一枚葉の紅葉はツタ(蔦)、下部の三枚複葉でまだ緑色はツタウルシ(蔦漆)、こちらはかぶれ成分最強といわれるウルシなので要注意です。


前は駐車場だった谷に植えたもみじが大きくなった「もみじ谷」は、この時期人気の紅葉スポットにすっかり定着しています。


ここは名前の通り谷の中なので明暗がはっきりし過ぎて、仙人の技術やコンデジでは見た感じの色が再現できません。


やはり紅葉はいろんな色が混じった方がいいかな、仙人の拙い感想です。


もみじ谷の一角に柿の木がありました。大きな柿の葉の艶やかさは、他を圧倒しています。


「茨城県立歴史館」のイチョウ並木も、近隣の黄葉名所として知られ、13日まではイチョウ祭りが行われました。


銀杏(ぎんなん)がたくさん落ちていますが、最近では拾う人も見かけなくなりました。


洪積層台地上の歴史館の南面は沖積層の「沢渡川緑地」で水辺が多く、蓮池などのまわりには巨大なメタセコイヤが秋の色を見せています。


よく似ているのがラクウショウ(落羽松)、これは「西の谷緑地」にもあります。


葉の形を比べてみました。細かい葉が交互に(互生)出ているのがラクウショウ、向かい合って(対生)出ているのがメタセコイヤといわれます。また、ラクウショウは名の通り、羽のように繊細な感じとか…、区別がわかるでしょうか。


いちばんよくわかるのが、ラクウショウの気根です。水辺に生えるので、土中の酸素が不足するため地上に呼吸する根が顔を出しています。


「偕楽園」本園は洪積層台地上にあり、南側の崖下は沖積層の水辺で、新たに整備されたこの一画でも紅葉が見事です。


旧制水戸高校の寄宿舎にあった「暁鐘」は、戦時中に供出されたものがここに復元されました。まわりを黄葉が覆っていました。


台地上の偕楽園の池は、天然の千波湖を借景として取り入れているといわれますが、崖からの湧水を引いたこの水辺ではまた違った風景を見せています。
右側の林の上が偕楽園の本園です。

街中で色付いた自然を充分に堪能できる季節も間もなく終わりを迎えます。

鎌倉殿の13人…八田知家の小田城(つくば市)

2022年11月13日 | 歴史散歩

NHK大河ドラマで市原隼人が演じる北関東の御家人八田知家は、胸をはだけた野性的な姿でお茶の間を賑わしましたが、11月6日放映時に「隠居しようと思っている」と述べて、出演の終わりを示唆していました。この八田知家は、生没年も不詳の謎につつまれた武将なので、他の御家人のように抹殺されぬストーリーで退場できたのは何よりです。(写真はNHKの番組案内より)

さて、八田知家が初代の常陸国守護に任ぜられ、この地に築いたのが小田城です。
知家は下野国(栃木県)の宇都宮宗綱の4男で、姉の寒川尼が頼朝の乳母であった関係もあり 頼朝の信任も厚く、常陸国南部に勢力を拡げていきました。
しかし400年に及ぶ小田氏の治世は決して穏やかではなく、南北朝期には7代治久が南朝方の北畠親房を迎え入れたために、北朝軍に攻められて降伏、8代孝朝は勢力を挽回しますが、鎌倉府に反抗した小山若犬丸を匿ったために討伐されています。北畠親房の「神皇正統記」は、この小田城で書かれたことで知られています。

戦国時代に再び勢力を挽回しますが、15代氏治の代には江戸氏、大掾氏、結城氏、佐竹氏などの近隣勢力や後北条氏や上杉氏などの侵攻勢力との抗争で、何度も落城の憂き目を見ますがその都度土浦城へ逃れ小田城奪還を繰り返します。天正2年(1574)には佐竹義重によって土浦城も落城し、救援を求めた北条氏政も秀吉に滅ぼされたため、小田氏の所領はすべて没収されました。のちに秀吉に許された小田氏治は結城秀康の客分として300石を与えられたと伝わります。
城には佐竹氏の一族、小場義成が入りますが、慶長7年(1602)に佐竹氏の秋田移封で廃城になりました。

筑波山の東側に位置する宝篋山(461m)の南麓に広大な城域を構えた平山城です。

鎌倉時代以降何度も作り替えられ、廃城後に土塁を崩して堀を埋めるなどの改変が行われています。現在確認できる遺構は最終期の戦国時代のもので、方形のⅠ郭(本丸)を中心に三重の郭が取り囲み、史跡指定範囲でも南北550m、東西450mの規模です。
(google mapにつくば市教育委員会のパンフレットの縄張りを大雑把に落とし込んでみました)


土塁に囲まれた本丸です。もとは関東鉄道筑波線(昭和62年廃線)の線路が本丸を縦断していました。
復元整備では戦国時代最後の地面を約1mの厚さで保護し、確認した建物や池などの遺構をその真上に復元、堀は埋まっていた部分を彫り直し、土塁は本丸の地面より2m高さに盛り上げました。


南東角にある涼台(櫓台)の上に建つ小田城址の碑です。


本丸の北虎口とⅡ郭の間に架けられていた幅3mの土橋が復元されています。


本丸の東虎口とⅡ郭(東曲輪)の間には、木橋と土橋が組み合わせで架けられ、ここが大手口とされています。城址のどこからも北西に筑波山が見えます。


涼台(櫓台)から見た南堀跡と前方には方形の馬出曲輪があります。


北東側の土塁は櫓台状になって堀に張り出しています。堀は幅約20~30m、深さは復元の現状より2m深い4~5mで、底を凸凹にした「障子堀」でした。


小田城の歴史を見守ってきた筑波山は、日本百名山で一番低い山(877m)ですが、関東平野に屹然と立つ姿は古来より「西の富士、東の筑波」と称され歌などに詠まれています。
仙人にとっても馴染みの双耳峰で、多分数十回登っていると思います。

筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな                                                                      高橋虫麻呂(万葉集)
をしなべて春はきにけり筑波嶺の木のもとごとにかすみたなびく                                                                               源実朝

行春やむらさきさむる筑羽山 与謝蕪村
赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり  正岡子規


平成21年から7年かけて発掘調査をもとに本丸周辺の遺構を復元、小田城歴史ひろばとして整備されました。その駐車場入り口には案内所を設置して400年の歴史を絵巻風に再現しています。

 
城址からは土器類が大量に出土しており、多くの家臣や客人が集まって儀式や宴会が行われた様子や、高級な陶磁器や茶道具も多く含まれ、優雅な暮らしぶりもうかがうことができます。また戦乱を物語る火災で焼けた痕跡の土器や鉄砲玉も展示されています。

会津藩校「日新館」…「ならぬことはならぬ」の教え

2022年11月08日 | 歴史散歩

会津藩の藩校日新館は、寛政10年(1798)に家老田中玄宰の進言で計画され、享和3年(1803)会津藩の御用商人須田新九郎の出資により鶴ヶ城に隣接した地に完成しました。藩士の子弟だけの教育機関で10歳から入学した生徒数は約1000~1300人もいたといわれています。
慶応4年(1868)戊辰戦争により焼失し、現存するのは城址西側の天文台跡だけです。
昭和62年(1987)残っていた図面や資料をもとに総工費34億で現在の地に復元されました。
                                                                                      ※全景写真は日新館ホームページより


南門は、藩主や上級武士だけが出入りを許されているため普段は閉じられ、生徒は東門と西門を使用していました。


2つ目の門は大成殿の戟(げき)門です。扁額の「金聲玉振」は、孟子が孔子を称えた言葉で才知や人徳が備わって大成しているということだそうです。
(※「戟」とは古代中国の武器のことで、戟を持った衛兵が守っていたなどの謂れがあります。)


「大成殿」は儒教の祖である孔子を祀る正殿のことで、他の藩校では孔子廟、聖堂などともいわれています。特徴的な屋根の動物は、大棟の上に火災避けの鬼犾頭(きぎんとう)と降り棟には孔子の徳を慕って現れる鬼龍子(きりゅうし)で、どちらも聖廟を守る霊獣で戟門の上にも載っています。


内部には孔子座像と左右に顔子、曾子、子思、孟子の像、その前には孔子を祭る釋奠(せきてん)に使用する珍しい祭器や祭具が陳列してあります。

東塾には当時の様子がわかる人形の置かれた教室が並んでいます。

「素読所」での教科書は論語、大学などの四書五経といわれる中国の古典です。どの家でも入学する前の6歳頃から近所の寺子屋などで素読をさせていました。また9歳くらいまでは、「什(じゅう)」と呼ばれる10人くらいのグループをつくり、日新館入学前に会津武士の心構えを身につけさせるために「ならぬことはならぬものです」という「什の掟」を暗唱しました。


「書学所」は習字、筆道を学ぶ場で8等級に分かれ、最高の等級「免許」に受かると書道の師範になることが許されたそうです。 


天文台も備えていた日新館では、地球儀などの教材を使い「天文学」や「地学」も勉強していました。 
15歳まで学ぶこの素読所を修了した者で成績優秀な者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許されました。


「礼儀作法所」では膳椀の置き方から切腹の作法など、武士としての必要な礼儀作法を学びます。
人形は刀剣の受け渡しを学んでいるところです。片手で懐紙を持ち、相手方に礼を示します。


「素読所」を修了した者で成績優秀なものが入学を許された「講釈所(大学」での学習は、生徒の自主的な研究や討論が主なものでした。


「水練場」は日本で初めて作られたプールといわれます。
池の周囲は85間(約135m)もあり、向井流という泳法と甲冑を付けての水練を学びました。


「武講」は軍事の基礎というべき兵学を研究するところで、城の造り方や軍事教練も行い、今の防衛大学校のようなものでした。当時の兵学や武術に関する貴重な資料を展示してあります。

ところで、大成殿の扁額は水戸藩藩主6代徳川治保(はるもり)の筆で、復元された扁額も水戸家の当主が書いたという話を館員の方から聞きました。
そういえば10数年ほど前に訪れた時にも、館長さんに会津藩は水戸藩と縁があるという話を聞いたことがあり、後で調べたことですが、幕末の会津藩主松平容保(かたもり)は水戸藩6代藩主徳川治保の孫にあたります。というのは尾張藩の支藩で美濃高須藩に養子に入った治保の次男が高須藩9代松平義和(よしなり)となり、その子松平義建(よしたつ)には高須4兄弟という幕末に活躍した息子たちがあり、その一人が会津藩主松平容保です。
さらに藩主容保は鳥羽伏見の戦いの後江戸に戻った時に隠居して、水戸藩9代藩主徳川斉昭の19男喜徳(のぶのり)を養子に迎えています。
このようなことからも松平容保は、水戸藩9代藩主徳川斉昭の7男で最後の将軍徳川慶喜に従って幕末の動乱の波をまともに被ってしまいました。

大成殿の前で紅葉している楷の木は、孔子の生誕地、中国山東省曲阜にある孔子廟にあり、学問の聖木として各地の孔子廟に植えられています。
因みに水戸弘道館の孔子廟に植えられている楷の木は、ここから苗をいただいたと聞いています。


こちらは水戸弘道館の楷の木、さすがに常陸の国ではまだ青々としていました。(10月27日撮影)


孔子廟には付きもの池(泮水)の奥に、鋭角的な山容の会津磐梯山が見えていました。
会津を見守ってきた磐梯山は、鶴ヶ城陥落から20年後の明治21年(1888)、突然大噴火を起こして山容も大きく変わり、集落の埋没や死者477人という大きな被害が伝わっています。