顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

追想…草津白根山

2018年01月26日 | 山歩き
関東地方に大雪をもたらした翌日の1月23日に噴火した草津白根山は、犠牲者まで出す大惨事になってしまいました。お亡くなりになった方のご冥福を心からお祈りいたします。

今回噴火した本白根山(2171m)と鏡池周辺は、2,3時間で回れる初心者向けの登山コースとして知られ、15年前の夏に行った時も、北側の白根山(2160m)とは違い、休止した火山という認識が強かった記憶があります。詳しく覚えていませんが、高山植物の写真が残っていましたので、ご紹介します。

標高差のあまりないなだらかな登山道は、高山植物が豊富で特に高山植物の女王と言われるコマクサは、地元の中学生が学習活動の一環として育てていると聞きました。

コキンレイカ(小金鈴花)は女郎花の仲間で花もそっくりなので、ハクサンオミナエシ(白山女郎花)の別名があります。

登山道の周りにはハクサンシャジン(白山沙参)、我が家近辺の山野で咲くキキョウ科のツリガネニンジン(釣鐘人参)の高山型で、分類上区別しない説もあるようです。安全な山なので林間学校のコースにも利用されており、そんな時に噴火していたら大変なことになっていました。

こんなきれいなお花畑でもその地下奥深くにマグマが活動を続けており、いつこのような噴火が起きても不思議でない地球に住んでいる以上、自然の異変をいち早く認識する精度を上げなければならないと思います。たとえ、100%自然を御するのは無理だとしても…。

久しぶりの大雪?

2018年01月23日 | 日記

昨日22日の午後から降り出した雪、今朝は快晴、眩しい銀世界が広がりました。ここは太平洋から直線距離で5キロくらいなので結構暖かく、久しぶりのまとまった雪となりました。

庭の雪を測ったら、23.5センチありました。毎日雪と格闘しておられる方々には申し訳ないようですが、普段慣れていない分、この量でも大騒ぎになります。しかし雪かきをしている方は笑顔ばかり、登校時間繰り下げの子どもたちもはしゃぎ声です。

珍しく我が家の屋根にも小さな氷柱が垂れています。気温が低かったせいでしょうか、雪も珍しくサラサラした雪質でした。

素人剪定の柘榴の冠雪が、面白い形になっています。

車は常にノーマルタイヤ、雪が降ったら乗らないことにしてあり、少し遠くまで長靴で歩いてきました。雪の重みで撓った竹が道路を覆っています。

石仏と石の祠が雪に埋もれています。石仏の後面には寛政の年号が読み取れます。

やがて太陽が高く上がり、梢の雪は音をたてて落ちていきます。田んぼには薄っすらと靄がかかり始めました。

道路の雪は日中には溶けて、数日中には視界の中の白いものは完全になくなってしまうのが毎度の地方の大雪騒動でした。


おのづからよき声の出て深雪晴  能村登四郎
陽が射して雪の別れを甘やかす  岩崎法水

1枚の写真

2018年01月22日 | 日記
1枚の写真があります。先日、各新聞誌上にローマ法王フランシスコがこの写真を印刷したカードを教会関係者に配布するように指示したニュースが載りました。カードの裏面に「これが戦争の結果だ」という言葉を沿えて。

この写真「焼き場で順番を待つ少年」は、長崎の原爆資料館に展示されたこともある知る人ぞ知る写真のようです。1845年に原爆投下後の長崎で、米海兵隊の従軍カメラマン、ジョー・オダネルさんにより撮影され、死亡した弟を背負いながら火葬場で順番を待つ1人の少年の姿が写っています。



少年は何の感情も見せず立ち尽くしており、火葬場にいた2人の男が弟を背中から外し、掘られた穴の火の中に置いても、彼は泣かずに立ち続け、噛み締めたその唇には血が滲んでいたとオダネル氏は回想しています。そして炎がおさまると何もいわず立ち去っていったと…。

直立不動の姿勢に感じる当時の軍国主義の教育、裸足に今の生活状態がうかがえ、多分両親もなくなって、近所の人がおんぶ紐で弟を背負わせたのでしょうか。
老躯の干乾びた涙腺を刺激した一枚の写真は、平和なくらしを甘受してそのありがたさを忘れかけている身には、改めて大きな衝撃を与えてくれました。挑発を繰り返し合う国や不戦憲法を弄ぶ国が、もし一歩踏み出した結末も、この写真であると言えるかもしれません。

温室の花たち

2018年01月19日 | 季節の花
寒い世間を横目にぬくぬくと温かい中で花を咲かせているのか、無理やり温かい国から連れてこられて咲かされているのか、花たちの主張は別として、屋外の花が見つからないこの時期、温室の花を探してみましたが、やはり開花しているのは数少ないものでした。

ツンベルギア・フォーゲリアナ  南アフリカ原産 キツネノマゴ科 ほとんど1年中花を咲かせるという熱帯特有の花です。 (茨城県植物園)

ストリクタ  南米ブラジルが主産地のエアープランツ(土がいらない植物)で、耐寒温度5度なので育てやすい方ですが、ある程度の湿度は必要のようです。(茨城県植物園)

マレーシアシャクナゲ 東南アジアの熱帯地方のシャクナゲで約300種類分布しています。ツツジ科。(茨城県植物園)

ストレリチア・レギネ  鳥の鶏冠と嘴のような花から、別名の極楽鳥花で知られています。 亜熱帯アフリカ原産のバショウ科。(茨城県植物園)

ミズレンブ(水蓮霧) マレーシア原産フトモモ科。 コマの形の鮮やかな果実が美しく、生食やサラダの添え物にするそうです。(茨城県植物園)

サルオガセモドキ(猿尾枷モドキ)  長い顎髭のようなエアープランツ、北米南部から中南米原産。根のように見えるのは細い茎の集合体で、根は退化し、空気中の水分を吸収して生きています。目立たない小さな緑色の花を夏咲かせるようです。(茨城県植物園)

パキスタキス・ルテア  熱帯アメリカ原産のキツネノマゴ科 周年開花性があり、冬でも温室などで開花します。鉢植えや夏の花壇などではよく見かけます。(水戸市植物公園)

ベロペロネ・グッタータ  熱帯アメリカに分布するキツネノマゴ科。苞とよばれる赤褐色の葉が鱗状に重なり合うのがエビに似ているので、コエビソウ(小海老草)の名で知られていますが、本名はなんともひょうきんな名前です。(水戸市植物公園)

ホワイトキャンドル  熱帯アフリカ原産のキツネノマゴ科。細かい毛の生えた白い苞の間から花が伸び出てくる様子はまさに名前のとおりです。(水戸市植物公園)

パッションフルーツ  パッションは情熱でなくキリストの受難を意味し、十字架のような蕊の形から名前が付き、一方、花が時計にも見えることからトケイソウといわれる園芸品種が出まわっています。ブラジル原産、トケイソウ科(水戸市植物公園)

ネベンテス・アラタ  熱帯アジアなどに自生する食虫植物の代表種で、和名ではヒョタンウツボカズラといいます。胃袋のような捕虫袋が不気味です。(水戸市植物公園)



水戸市植物公園では、この時期、大輪の球根ベゴニア展が開催されています。ボタンやツバキのような豪華な花は、ベゴニアの女王と言われ、太い茎が立ち上がるスタンドタイプと、柔らかい茎が垂れ下がるハンギングタイプがあります。

また、いつものように徳川家の蘭展も開催されています。水戸徳川家14代の徳川圀斉氏は洋ランの育種家で、パフィオペディルムの限りなく白い花を理想とし、作出した数多くの品種が,英国のオーキッドリストに登録されています。写真はメドウスイートピュリティです。

温室の外では、スノードロップが顔を出しました。ヨーロッパからコーカサス山脈に約10種が分布するヒガンバナ科の球根植物で、雪の雫のようだと名付けられました。

以上の植物はやはり、一般的な歳時記には載っていませんでした。


宍戸城から宍戸陣屋へ…悲劇の宍戸藩

2018年01月16日 | 歴史散歩
水戸線宍戸駅周辺は、建仁3年(1203)常陸の守護で小田氏の始祖、八田知家の四男家政が常陸国宍戸荘地頭職となり、宍戸氏を称したことに始まりました。当初小田氏に従っていた宍戸氏ですが、佐竹氏の勢力が拡大し、小田氏が衰退すると佐竹氏に属しました。やがて佐竹氏が慶長7年(1602)出羽国秋田へ転封となると従わず土着するもの、秋田へ移ったものと分かれました。

宍戸氏時代の城郭内にあったとされる寺院、新善光寺跡に、八田知家とその子宍戸家政を偲んで、江戸時代に末裔が建てたといわれる五輪石塔が建っています。

なだらかな丘陵の一角には、初代の宍戸四良左衛門安芸守常陸介家政から、宍戸十良兵衛尉義純まで約400年の墓銘碑と、風化した石塔が集められています。ちょうど見下ろすように蝋梅の林がありました。

佐竹氏と入れ替わりに、慶長7年(1602)出羽国秋田より秋田実李が5万石で移封され、近世の宍戸城が新しく北東に築かれましたが、正保2年(1645)秋田俊季のとき、陸奥国三春へ転封となり、その後は幕府直轄領となり城郭は破却されました。
宍戸歴史民俗資料館にある宍戸城絵図には、本丸、北丸を囲む土塁と周りに配置された家臣の屋敷が詳しく書かれています。

GoogleMap上に城郭図をいたって大雑把に載せてみました。安倍貞任の後裔を称し平安時代後期から出羽、津軽地方を領する名族が、この地に新しく築城しなければならない不満があったようですが、5万石の城下町にふさわしい規模の縄張りです。

その後、この地に天和2年(1682)徳川光圀の末弟松平頼雄が1万石で立藩、城郭跡に陣屋を設け、以後松平氏が代々続きましたが、幕末の天狗党の乱に巻き込まれ、悲惨な歴史を刻みました。

旧陣屋跡には末廣稲荷神社があり、鎮座しているのが城郭跡の土塁の上にあることが分かります。周り一帯は市街地になっており、城跡はよく判別できませんが、陣屋門は約6キロ南の土師地区に移設されたものが残っています。

この陣屋跡の北西すぐのところにある養福寺には、その元治甲子の変(天狗党の乱)で水戸藩主徳川慶篤の名代として鎮圧にあたり、はからずも犠牲となった藩主松平頼徳ほか家臣62名の殉難碑があります。(※水戸の回天神社には宍戸藩殉難志士として74名が祀られています。)

36歳の藩主頼徳は元治元年(1864)10月5日早朝切腹させられ、その前9月25日には市川派の策略により藩主が囚われた責任を感じて、随従していた家臣小幡友七郎ら7名が切腹し、他の随従26名も主君の死を知らされないまま10月末に打首になり、天狗党と共に戦った藩士たちも年末に降伏し、多勢が獄死しています。

わずか1万国の小藩の約半数以上が切腹、斬首、獄死などで非業の死を遂げました。
頼徳の辞世の歌は「思いきや野田の案山子の竹の弓 引きもはなたで朽ち果てんとは」でした。

宍戸歴史民俗資料館にはこの殉難碑の拓本があります。文字部分のみ刷られた拓本ですが、その素朴さにかえって心が動かされます。
なお宍戸藩の江戸の菩提寺亮朝院にも殉死者62名の供養碑が建っているそうです。