顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

偕楽園…何とか間に合った?萩の花

2021年09月29日 | 水戸の観光

毎年萩まつりが行われる9月の偕楽園は、緊急事態宣言と茨城県非常事態宣言を受けて、萩まつり期間中(9月13日~26日)を含めて30日まで休園になっていました。

嬉しいことに感染者の減少傾向が見られ、県の非常事態宣言も解除されて、9月20日から開園できましたので、なんとか散り際の萩を見ることができました

偕楽園の見晴らし広場には、萩の大きな樹叢が150群あり、園創設の天保13年(1842)に伊達藩からいただいたというミヤギノハギ(宮城野萩)や、ヤマハギ(山萩)、シラハギ(白萩)などが咲き乱れて、春の梅花とはまた違った情景を見せてくれます。
 
ところで万葉集で一番詠まれた花は萩の花で、142首もあり、しかも第2位は梅の花の119首です。今から1300年以上前の先人たちの感性に驚きながらも、その2つの花を偕楽園のシンボルとした水戸藩9代藩主斉昭公の見識にも感嘆せざるを得ません。

秋萩の咲き散る野辺の夕露に 濡れつつ来ませ 夜は更けぬとも  (作者不詳)
わがやどに咲きし秋萩散りすぎて 実になるまでに 君に逢はぬかも  (作者不詳)



この萩は、秋の終わりにすべて地上部分は刈り取られます。刈り取った枝は園内の萩垣(柴垣)になり、また来園者の目を楽しませてくれています。和風庭園の垣根とし珍重される萩垣、その希少な材料がここでは豊富に調達できるからです。

園内の好文亭は休館中ですが、緊急事態宣言が解除されることが決まりましたので、10月1日より開館されます。

百日紅が満開の好文亭は外から眺めるしかありません。左手の二層三階の好文亭では、斉昭公が文人墨客や家臣、領民を招き、養老や詩歌の宴を催しました。右手の奥御殿は奥方や女中衆のお休みどころで、襖絵の植物の名の付いた10室からなります。

昨年から入園が有料になった偕楽園の料金所は4か所ありますが、閑散期には東門、表門以外は閉まっている所もありますので注意が必要です。

表門の十月桜はほんの数輪を探すのがやっとでした。

今年はなぜか元気がないような?二季桜です。

マントに高下駄、右手にコンサイスの辞書と文科理科を象徴する二冊の本を抱えた、旧制水戸高校生の立像「向学立志の像」も萩に囲まれていました。

水戸黄門のお供、「助さん」のこと

2021年09月25日 | 水戸の観光

おなじみ「水戸黄門漫遊記」は、水戸藩2代藩主徳川光圀公の晩年を描いた講談本のフィクションですが、お供の助さん格さんはモデルとなった人物がいます。光圀公が編纂を始めた「大日本史」に携わり、どちらも編纂局の彰考館総裁を務めた佐々宗淳(さっさむねきよ=通称/介(すけ)三郎)と安積澹泊(あさかたんぱく=通称/覚(かく)兵衛)の二人です。
彰考館に詰めていた安積覚兵衛に対して、佐々介三郎は史料を集めに各地をめぐり、これが漫遊記の土台になったともいわれています が、史実の光圀公は、世子時代に鎌倉を訪ねた以外は、江戸と国元との往復や領地巡察の記録しか残っていないようです。
(写真はTBS放送のものをお借りしました。黄門/西村晃 助さん/里見浩太朗 格さん/伊吹吾郎)

(JR水戸駅前に建つ黄門一行の像です。水戸出身で元芸術院会員の小森邦夫氏の作品です)

佐々介三郎は、戦国武将佐々成政の流れを引き、寛永17年(1640)瀬戸内海の小さな島に生まれて15歳の時、臨済宗妙心寺の禅僧となり、祖淳と号して修行を積みますが、延宝元年(1673)34歳のとき還俗、江戸に出て水戸藩に仕官し進物番兼史館編修となりました。介三郎の和歌「立ちよれば花の木かげも仮の宿に心とむなと吹くあらしかな」を光圀公が気に入って、召抱えたという逸話が残っています。

(水戸城二の丸跡に建つ彰考館跡の碑です)

光圀公は明暦3年(1657)駒込の水戸藩中屋敷に初めて史局を設け、寛文12年(1672)には小石川の本邸内に移して彰考館と命名しました。当時光圀公の招きに応じて全国から集まった学者が、多いときは60名を超えたといわれています。元禄11年(1698)隠居した光圀公が常陸太田の西山荘で修史の監修にあたるため、彰考館の主体は水戸城内に移され、江館と水館(江戸と水戸)の2館に分かれて編纂が進められることになりました。

(写真は元禄5年に発掘調査を行った下侍塚古墳です)

介三郎は大日本史編さんのため,畿内をはじめ北陸,中国,九州をめぐり貴重な史料を収集したほか、光圀公の命により貞享4年(1687)~元禄5年(1692)にかけて栃木県の那須国造碑の調査や保存、侍塚古墳の発掘調査も行っています。調査後に現状のまま埋め戻したことから、そこは「日本考古学発祥の地」と、また保存された那須国造り碑は「日本3古碑」といわれています。
この話は拙ブログ「日本三古碑…那須国造碑と考古学発祥の地2019.5.30」で紹介させていただきました。

(光圀公の隠居所、常陸太田の西山荘入口です)

西山荘は藩主の座を退いた光圀公が,元禄4年(1691)から元禄13年(1700)に没するまでの晩年を過ごした隠居所で、ここで光圀公は大日本史編纂の監修に当たりました。
介三郎は彰考館勤務のほかに小納戸役となり300石を給されていましたが、元禄9年(1696)彰考館を辞して西山荘に隠居した光圀公のお傍近くに仕えました。
紀州から取り寄せたという熊野杉が入口を覆っています。

(西山荘入口手前の御前田の一部です)

隠居した光圀公は御前田で家臣と共にコメ作りに汗を流しました。領民のひとりとして太田奉行所に13俵の年貢米を納めたといわれます。

(不老沢跡)

この一帯は不老沢(おいぬさわ)と呼び、西山荘の光圀公に仕えた家臣の屋敷跡ですが、今は用水池になっています。大森典膳(西山での家老職)、佐々介三郎(小姓頭)、剣持與兵衛(御納戸役)、鈴木宗與(御医者)、朝比奈半治(小納戸役)の名が案内板に書かれています。



不老沢の一番奥、長い木道を渡った先の高台が介三郎の住居跡です。元禄11年(1698)、59歳で没するまでここで過ごしました。

葬られたのは近くの正宗(しょうじゅう)寺で、自分が修行した妙心寺と同じ臨済宗のお寺です。佐竹氏の菩提寺として知られています。

墓石には「十竹居士佐佐君之墓」と号名が刻まれています。

墓碑は格さんのモデル、安積覚兵衛による碑文…、友人として「善ク酒ヲ飲ミ 家貧シクモ晏如タリ」と親しげに書かれています。

墓地の隅にオミナエシ(女郎花)が咲いていました。秋の七草で知られる小さな小花の集合体…、野山でも最近めっきり見かけなくなりました。

蔓延る野草…繁殖力でわが世の秋

2021年09月21日 | 季節の花
秋は、強い繁殖力で嫌われている植物がとくに目に付くような気がします。
いずれも可愛い花が咲きますが、どうしようもない厄介者になっている植物もあります。

北米原産のアレチウリ(荒れ地瓜)は、名前の通りどんな所にも南瓜のような大きな葉を広げて繁殖し、「特定外来生物」にも指定されています。

負けずに大きな葉で一面を覆ってしまうクズ(葛)の花、塀や廃屋をあっという間に隠してしまいます。若い葉は天ぷらで食べますが、花も美味とか…、みんなが競って食べると少しは減るでしょうか??

稲作の邪魔者のチョウジタデ(丁字蓼)、別名タゴボウ(田牛蒡)は在来種の雑草ですが、花弁が4枚でよく似た外来種アメリカミズキンバイ(水金梅)、別名ヒレタゴボウ(鰭田牛蒡)は驚異的な繁殖力で、琵琶湖ではその駆除に年間3億円以上の税金が投入されているそうです。(幸いなことに仙人の守備範囲ではその写真を撮ることができませんでした)

それほど嫌われていなくても繁殖力の強いキクイモ(菊芋)は、北米原産で世界中に広がっています。芋のような塊茎は食用になり、血糖値、血圧を抑制する健康食品として最近注目を集めているそうです。

名前からしてヤブカラシ(藪枯らし)、藪までも覆いかぶさって枯らしてしまうほど蔓を伸ばして繁茂します。

オオニシキソウ(大錦草・大二色草)の名は、在来種のニシキソウの茎の赤と葉の緑から命名された「二色草」が、「錦草」と誤記されといわれ、北米原産のこの渡来種にはその大きさから「大」の名前が付きました。

ハワイ出身の元力士?… コニシキソウ(小錦草)は、明治中期に渡来した北米原産の「小さい」錦草で、地面にぴったりと貼りついた様子はいたるところで眼にします。 

ワルナスビ(悪茄子)は牧野富太郎博士の命名通り、駆除の困難な雑草で、1cm以下の茎の断片からも再生する繁殖力、茎葉に棘を、実には毒を持つナス科最悪の植物です。

気分を変えて、たった一輪のノギクハナグモ…ノギクは多分カントウヨメナ(関東嫁菜)、ハナグモ(花蜘蛛)は花に棲み花に集まる虫を捕食する、うらやましい蜘蛛です。

そういえばコロナ禍の徒然に、図書館から「独り群せず」という北方謙三の本を借りました。(現在は図書館までも休館中ですが…)

足元に日のおちかかる野菊かな  一茶
別れ来て淋しさに折る野菊かな  尾崎放哉
心急き歩みおくるゝ野菊濃し  星野立子

山方城…悲話を語る五輪塔

2021年09月18日 | 歴史散歩
9月14日の拙ブログ「頃藤城(大子町)…謀殺された嶋崎城主親子」の続きになります。

常陸大宮市の山方公民館の裏手、常安寺の門前に建つ五輪塔は、常陸大宮市の指定文化財とあるだけで由緒の説明はありません。実はこの五輪塔は、戦国末期に佐竹氏が鹿行地方の領主を謀殺した「南方三十三館の仕置き」で犠牲になった鹿島城主清秀、清房親子の供養塔と最近知りました。
確かに五輪塔の脇にある卒塔婆には、鹿島清房供養と書いてあります。しかし父親の清秀はどうしたのでしょうか。その場から逃れ諸沢地区の山中で捕まり殺されたという言い伝えが残っていますが…

天正19年(1891)に佐竹義宣が常陸大掾一族などを、常陸太田城に呼び寄せ酒宴中に惨殺したという話は、和光院(水戸市)過去帳に、「天正十九季辛卯二月九日 於佐竹太田生害衆、鹿島殿父子、カミ、嶋崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、3武田殿已上十六人」と書かれた2行が大元になる資料として知られています。
しかし、いろんな伝承から、一部の城主は佐竹氏が家臣に預けて討たせたという説があり、鹿島城主親子は山方城主山方能登守に預けられ、山方城に上る橋のところで殺されたということになっています。
討たれた鹿島氏も同じ身分の城主であることを哀れんで、討った山方氏がその場所に供養のため建てた五輪塔が、現在残っているものとされています。

現在、その橋は歎願橋という名が付いており、農民が領主に願い事をするときここで言上したと伝わりますが、命乞いの歎願をしたのではという説もあります。
橋のたもとに建てられた五輪塔はその後、道路拡幅に伴い山方城主の菩提寺の常安寺の現在の場所に移されました。
奥の林の中が山方城址、そこに至る上り坂は五輪塔にちなみ五輪坂と呼ばれたそうです。

山方城本丸跡には、御城展望台という模擬天守が建っています。
(山方城は拙ブログ「佐竹氏の興亡の歴史…山方城 (常陸大宮市)2019/01/06」で紹介させていただきました)

山方宿の街道から常安寺への参道は、JR水郡線が横切っていますので、跨線橋を渡らなければなりません。 (大正11年(1922)水戸―山方宿開通)

跨線橋を渡ると「五本骨扇に月丸」の佐竹の紋がくっきりと刻まれた石柱の山門、曹洞宗の常安寺です。

大棟に佐竹紋を載せた本堂です。常安寺由緒によると、開創は文明2年(1470)の山方氏の菩提寺で白馬寺と称しましたが、領主の所領換えの地に移転した跡に、文禄元年(1592)佐竹氏18代義重公が父義昭公の菩提のために太平山白馬院常安寺として建立しました。

なお、城主謀殺の知らせを受けた鹿島城では、清秀の妻(和光院過去帳にある鹿島氏親子、カミとあるうちカミは妻を指すという説もあります)は、家臣たちと町田備中守を大将とする佐竹軍に立ち向かい必死に抵抗しますが、大砲を打ちかけられてついに落城、妻女カミも自害してしまいました。

(遠く北浦を望む鹿島城址です)

清秀の子、伊勢寿丸は下総へ落ち延び、やがて江戸時代になると家臣たちが家康に鹿島氏の再興を願い出て、鹿島惣大行事家という鹿島神宮の社人して200石で存続したと伝わります。

(鹿島氏の鹿島城は拙ブログ「鹿島城…常陸平氏の最大勢力2020/01/22」で紹介させていただきました)

頃藤城(大子町)…謀殺された嶋崎城主親子

2021年09月14日 | 歴史散歩

大きく東に蛇行した久慈川が造り出したシャモジ(杓文字)型の台地に築かれた頃藤(ころふじ)城(小川城)は、国道118号とJR水郡線が城域を突き抜き、中心部も道路や住宅、畑になって遺構らしきものはほとんど残っていません。

年代は不明ですが、最初は山田右近大夫道定という武将が居城したと伝わります。城跡の詳細な縄張りを推測するのは困難ですが、城址とされる平坦な一角に山田氏の子孫の方が建てた城址碑があります。
その後、建治年間(1275~78)に佐竹氏7代義胤の4男が、この小川の地に配され小川大和守義継を名乗って築城し、家老の神長氏、清水氏が城代を務めました。佐竹氏の内乱「山入の乱」の混乱の際には、白河結城氏に奪われるも佐竹氏が奪回し小川氏が城主に復帰しますが、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封に小川氏も随従し廃城となりました。

左手が城址碑の建つ一角です。台地のようになっていますが、道路などで改変されているかもしれません。

西側には明らかに分かる深い堀跡がありました。


城址碑のある所から100mくらい西側の物置のような建物の奥に小さな石の祠が建っています。
実は、ここが佐竹氏による「南方三十三館の仕置き」で嶋崎城主の嶋崎氏親子が殺された地ということが、今回訪ねた理由です。

天正18年(1890)に小田原征伐の後に秀吉より常陸国の領土を安堵された佐竹義宣は、常陸大掾一族などの鹿島、行方地方の領主たちを常陸太田城に呼び寄せて謀殺したといわれます。その詳細は、和光院(水戸市)過去帳に、「天正十九季辛卯二月九日 於佐竹太田生害衆、鹿島殿父子、カミ、嶋崎殿父子、玉造殿父子、中居殿、釜田殿兄弟、アウカ殿、小高殿父子、手賀殿兄弟、3武田殿已上十六人」と書かれた2行が大元になる資料として知られています。

(和光院は康安元年(1361)開基の真言宗智山派の古刹です)

ただ嶋崎氏親子については、六地蔵寺(水戸市)の過去帳に、嶋崎安定は「上ノ小河ニテ横死」、長子徳一丸は「上ノ小川ニテ生害」という記述があり、またそれぞれの土地に残る伝承などから、三十三館の一部の領主は佐竹氏がその家臣に預けて殺させたという説が有力になってきました。

(六地蔵寺は光圀公ゆかりの真言宗の古刹で、所蔵する典籍1975冊・文書479通は県指定文化財です)

それらによると、頃藤城主小川大和守義定は嶋崎安定(義幹)、徳一丸親子を預かって居城に戻り、家臣の清水信濃守に討つように命じ、信濃守は親子を家に招き鉄砲にて討ったとされています。
嶋崎安定の妻は、小川大和守の娘なので、主君の命令とはいえ自分の婿と孫を殺させたということになります。その祟りを恐れて、討ち取った清水信濃守の屋敷に小祠を建て供養したと伝わっています。

(清水信濃守の屋敷跡付近の写真です)


なお小祠には、末裔の方が平成29年10月に建てた慰霊碑があり、「嶋崎城主安定公・長子徳一丸終焉の地」、建立者として「次子吉晴裔孫」、その方々の名前が刻まれています。
嶋崎安定の次子、吉晴は嶋崎城落城の際、幼少のため家臣佐藤豊後守に守られて逃れ、後に多賀郡に土着し、その地区に多く残る島崎氏の祖となったそうです。

城跡に咲いていた可憐な花、調べてみるとサクラタデ(桜蓼)? 頼りなさそうな姿がこの哀れな話に似合い過ぎていました。

なお、嶋崎氏の嶋崎城については、拙ブログ「嶋崎城(潮来市)…戦国期城郭の遺構がしっかり残っています!2019/12/25」「島崎城ふたたび…発掘された石塔の謎 2021.10.10」で紹介させていただきました。