顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

西山の里「桃源」のかき揚げ天せいろ

2019年03月31日 | 食べログ

水戸黄門(徳川光圀)の隠居所として名高い西山荘入口のある西山の里「桃源」は、お食事とお土産の観光施設ですが、蕎麦の街常陸太田の蕎麦イベントにも参加するほど、蕎麦メニューには力を入れています。

細いそばは固めで食感がよく濃いめの汁との相性もぴったりです。
大きなかき揚げは野菜主体ですが、カラッと上がっており量も多く充分に腹を満たしてくれました。

梅林の花も終わりに近づいていましたが、春日野、鈴鹿の関、座論などが最後の花を見せてくれました。

満開の紅梅の大木?近づいて見ると花弁の先が丸くなく、枝先に葉が見えるので、桃の花でした。

梅の花びらの浮く水辺には、オタマジャクシがびっしりと孵っていました。ちょうど午後の陽が水面の真ん中で反射しているのを避けて撮りました。
春の季語、おたまじゃくしは蛙の子、蝌蚪(かと)ともいい、十七文字の俳句では字数の少ないほうが好まれます。

あるときはおたまじゃくしが雲の中  飯田龍太
日輪や蝌蚪の水輪の只中に  水原秋櫻子
古水にうじゃうじやとゐる蛙の子  日野草城
花びらの零れて浮かぶ蝌蚪の水  顎髭仙人

佐竹氏発祥の…馬坂城址

2019年03月27日 | 歴史散歩

戦国末期には常陸54万石を領した佐竹氏の発祥の地、馬坂(まさか)城址の本郭跡の案内板には、「平安時代の末期、新羅三郎義光(源義家の弟)の孫昌義は久慈郡佐竹郷に永住し佐竹氏を名乗り馬坂城を築いた」と書かれていますが、藤原秀郷流でこの地に勢力を持っていた太田氏(後の小野崎氏)の一族天神林氏の居城を奪い取ったという説もあります。
ここは源義家の陸奥征伐の兵站地とされ、馬の飼育や飼料の補給をしていたので馬坂の名がついたといわれます。



3代目の隆義は太田氏(小野崎氏)が館を構えていた常陸太田の地を奪いその地に移り佐竹宗家となり、4代義清からは稲木氏を名乗り宗家の西南の地を守リましが、稲木氏8代義信は応永24年(1417)、山入の乱で宗家を裏切って山入側に加担したため滅ぼされ、佐竹宗家14代義俊の子義成が天神林氏を名乗り後を継いだといわれます。
馬坂城実測図は現地案内板のものです。

城域は西に張り出した比高30m程度の台地を三つの郭に分けた連郭式平山城で、大手は東の佐竹寺側とされます。本郭とされる一帯は農地や宅地などになっています。

本郭の真ん中に案内板と石碑が建っています。当時の城域は400m四方、約16ha(約5万坪)位あったと推定されるそうです。



西城の土塁と空堀、下の写真は土塁と腰曲輪です。

西城には源氏塚と呼ばれる高さ6mもの古墳があり、それを物見台として利用していたようです。

西城から西に伸びた尾根先の石洞山(石塔山)の案内板によると、頂上に五輪塔があったための命名とかで、ここも物見に絶好のロケーションです。鶴ヶ池工事の人柱になった女子を供養する弁財天という石碑もありましたが、安政3年と刻まれていました。

西北方向には田園地帯が広がります。この約6キロ先には佐竹の支城久米城があります。

古城跡にはヤブツバキがよく似合います。西城一帯は最近地元の方によって整備が行われたばかりで、新しくできた通路、案内板がやさしく導いてくれました。

2郭の押葉平の北方に突き出た尾根の先端にある稲村神社も、出城の役目をしていたと推定されています。

神社参道には春の陽射しを浴びてタチツボスミレの群落がありました。


台地続きの東側には佐竹寺があります。
当時は現在地から西北西に約700m西北の地に観音寺と称してあり、初代の昌義が、馬坂城を奪取する前に居住したとされます。天文15年(1546)に佐竹義昭の寄進によりここに移して再建された茅葺き寄棟の本堂(国指定重要文化財)が現存しており、五本骨扇に月丸の佐竹紋があちこちに付いていました。

瑞巌寺から偕楽園へ…伊達政宗公ゆかりの臥龍梅

2019年03月22日 | 水戸の観光


偕楽園には臥龍梅が約30数本ありますが、そのうち東門からの大通り左側に紅白2本の臥龍梅が植えられています。特に紅梅の方は、臥龍梅独特の樹形にはなっておらず異論のあるところですが、説明板には次のように書かれています。

「この臥龍梅は東日本大震災からの復興を記念して平成24年2月7日に植樹したものです。
臥龍梅の名称は、その姿が臥せた龍に似ていることから付けられました。この梅の木は昭和58年(1983)、宮城県松島の瑞巌寺の臥龍梅の穂木(白梅と紅梅)を譲り受け偕楽園の梅に接ぎ木して育てたものです。
親木の臥龍梅は、伊達政宗が豊臣秀吉の命で朝鮮に出兵した折に兜を植木鉢にして持ち帰り、慶長14年(1609)の瑞巌寺の上棟の祝に植えさせたものの後継と伝えられています。」

ところで親木のある瑞巌寺のホームページを見ると…
(写真はホームページより)
「政宗公が文禄2年(1593)朝鮮出兵の折、鉢植えにして持ち帰り、慶長14年(1609)、当寺落慶の際、五葉松と共に本堂正面に手植えされた梅。本堂に向かって、右が紅梅、左が白梅である。地面を這うような姿と八重咲で7,8個かたまって実をつける事から、「臥龍八房」の異称がある。」と書かれています。

さて偕楽園に植えられた臥龍梅の紅梅の花です。雌しべが多数見え、8本も見えるものもあり、まさしく牧野富太郎博士命名の八房梅、別名座論梅…ルーツは間違いなく瑞巌寺の臥龍梅です。

なお、臥龍梅とは品種でなく、梅の樹形をいう名称ということなので、臥せなくなった枝の梅は名称返却かもしれませんが、所縁の梅ですので今後の枝の変化を見守りたいと思います。
(写真は、偕楽園南崖の臥龍梅、一重の白梅です。)

弘道館前庭にも完全に寝てしまった白梅の臥龍梅があります。

梅の老木の美として「疎痩横斜」という言葉があり、枝がまばらな「疎」、肌のごつごつ感の「痩」、横や斜めにくねくね伸びた様子を「横斜」と言うようです。横斜の龍の臥せたような枝を持つ梅は、品種名よりも臥龍梅と呼んだほうがいいのかもしれません。

国宝 迎賓館(赤坂離宮)

2019年03月19日 | 日記

江戸時代には紀州徳川家中屋敷だった西苑が、明治5年(1872)に皇室に献上され明治42年(1909)東宮御所として建築家片山東熊のもとで当時の粋を尽くして作られたネオバロック様式の宮殿です。

戦後は国に移管され国会図書館などに使用されていましたが、外国賓客を接遇する必要性から5年余をかけて修理改修が行われ、迎賓館赤坂離宮として昭和49年(1974)に完成しました。
敷地面積/約12万㎡、本館構造/鉄骨補強煉瓦石造、地上2階(地下1階)、延床面積/約15000㎡

明治期の近代洋風建築の頂点と評価され本館、正門、主庭噴水などが平成21年(2009)に国宝に指定されました。

この正門も明治42年(1909)建設で国宝指定、パリの鉄製品装飾会社に注文したものです。最上部には菊の御紋を載せた門は黒色でしたが明るく親しみやすいように白く塗ったと聞きました。

正門から本館までの約220メートルを結ぶ「前庭」は、ベルサイユ宮殿の前庭にならって趣のあるピンコロ石(立法体の花崗岩)が敷き詰められています。

ベストアングルといわれる、主庭の噴水を入れた本館のワンカット、日本に居ることを忘れてしまうような気がします。

<噴水も国宝に指定されています。上半身が鷲、下半身がライオンの伝説の怪獣「グリフォン」は王家の象徴とされます。

外国の元首など要人が宿泊をされたり、首脳会談、歓迎行事や晩餐会など、最高のおもてなしをするための迎賓館赤坂離宮ですが、2016年からは、外国からの接遇業務に差し障りのない範囲で、通年で一般公開が行われています。



屋内は撮影禁止なので、公開されている絢爛豪華な部屋は迎賓館のホームページ写真をお借りしました。

梅いろいろ④…水戸の梅まつり

2019年03月15日 | 水戸の観光
開花期間が長く、開花時期が早咲き中咲き、遅咲きと違う梅が次々と咲き競い約40日間の梅まつりを彩ってきましたが、園内はいま満開になり豪華なフィナーレを迎えようとしています。

遅咲きの梅には大輪が多い気がします。「白牡丹」は李系豊後性、スケールを並べて撮ってみました。約4センチもの大輪です。明治時代の梅銘花三牡丹(玉牡丹、紅牡丹)の一つです。(偕楽園)

同じく4センチちかくの大輪の「江南所無」は遅咲きの代表、杏系豊後性、写真の通り雌しべの退化が多く見られ、結実しません。江南とは揚子江の南、中国伝来の古い品種とされています。(弘道館)

「滄溟の月」も李系豊後性の大輪です。滄溟とは大海原のこと、大きな月が上がっている情景が浮かびます。大きな実が生ります。蕾のうちは紅色で開くに連れて白くなる“移り白”です。(弘道館)

「駒止」は李系豊後性、“移り白”(蕾のうちはピンクで、開花すると白色)の遅咲きで大輪、3m~6mの樹高になるので、馬上から思わず見とれたのが命名の由来かと勝手に想像しています。(弘道館)

紅色の蕾と白い花弁で“移り白”という咲き方がはっきり分かる「蓬莱」は李系難波性、不老不死の仙人が住む山の名にふさわしい気品があります。(偕楽園)

「佐橋紅」は李系紅材性(木質部が紅色をしている)で、本紅という濃紅色の丸い花弁と長い蕊に特徴があります。天保年間に旗本、佐橋氏邸の実生が佐橋紅と名付けられたという説もありますが…。(偕楽園)

「白滝枝垂」は枝垂系野梅性、弘道館正庁を背景に白い滝のように流れています。(弘道館)

「八重唐梅」は李系紅材性、花弁の裏のほうが紅色が濃く、縁が白くなる裏紅覆輪の豪華な衣装を纏っています。(偕楽園)

「紅加賀」は実梅で、花は野梅系の「白加賀」に似ていますが、こちらは李系豊後性です。明治35年静岡県興津試験場で収集された品種だそうです。(偕楽園)

「八重西王母」偕楽園東門前の人気品種です。杏系紅筆性で裏紅ぼかし、花弁の裏が紅色で濃淡のぼかしが入っています。西王母とは中国の神話に出てくる崑崙山に住む仙女の女王のことです。(偕楽園)

見れば驚くほど素晴らしいと名前がついた「見驚」、野梅系の大きな花ですが、実はほとんど生らない花梅の代表種です。(弘道館)

「座論梅」には雌しべが数本見えます。これが受粉して4,5個生った様が座って議論している様子に見えるのが命名の由来といわれます。
宮崎県にある国の天然記念物の湯之宮座論梅は、樹の下で領地問題を議論した故事から名付けられた梅で、しかも一株の枝が垂れて地に着きその枝から四方に約80株も増えていった臥龍梅としても有名です。(偕楽園)

花弁の裏が紅い裏紅の綺麗な「内裏」は李系紅筆性、咲きかけの蕾は薄紅色の筆型になります。内裏とは御所のこと、雅な雰囲気が漂います。(偕楽園)

「鹿児島紅」も李系紅材性で本紅色の代表的な人気品種です。雄しべが多い反面、雌しべには退化が見られます。花弁に波がないので平べったく見える花です。(弘道館)

「無類絞り」は李系難波性、類を見ないほど綺麗な絞りという命名でしょうか、薄く紅を引いたような絞りが何とも上品です。裏紅、吹き掛け絞りと花色の説明文も優雅です。ほとんど結実しません。(偕楽園)

梅の花についてはまだ学術的にも完全に確立してなく、また永年の交雑により純粋な原種が特定できぬこともあり、専門家でも品種確定が困難だという話を聞いています。そんな梅花を臆面もなく、名札頼りの上辺だけの記述で梅まつりの花の一部として紹介させていただきました。(満開の烈公梅の写真左上には、花弁6枚の花も見えます)