顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

梅の木のねじれ

2017年02月23日 | 水戸の観光

老木の多い偕楽園では、なぜ梅の木はねじれるのかと聞かれることがあります。梅に限らず他の樹木でも見られる現象ですが、梅ほどではありません。
梅の木は樹齢が80年くらいを超えると幹にスジが目立ち始め、だんだんと右巻きに(根元から先端に時計回りに)ねじれてくるようです。もちろん個体差もありますし、たまには天邪鬼の左巻きもあるようです。

この原因について、いろいろ調べてもまだ確立してはいないようですが、偕楽園の梅樹の専門職員の意見では、木の成長のため細胞増殖を繰り返している形成層(芯材と樹皮の間)の細胞が斜めに位置していてねじれができ、年数の経過によりスジが強調されるのではということです。同じような見解が、偕楽園の梅に詳しいブログ「庭の花たちと野の花散策記」にも書かれていました。

なお、ねじれがほとんど右巻きなのも、地球の自転、コリオリの法則とか枝が太陽を追いかけるとかいろんな理由が述べられており確立した見解はないようです。
また、176年前の偕楽園開園当初の梅の古木は何本か残っている…、ほとんど無い…と、これも意見が別れるところですので、DNA鑑定でもするしかありません。

しかし、仙人の分身のような「ネジレ幹」は鑑賞対象にもなりますし、偕楽園のみどころの一つでもあります。推定樹齢100年以上の風格や古さが感じられる老梅の雅称、「鉄幹」や空洞の「ウロ幹」、芯が白骨化した「舎利幹」、表皮が朽ちた「サバ幹」など、花のない時期でも眺められる年月を経た古木たちは、偕楽園の大きな魅力です。

梅が香にむせてこほるゝ涙かな  正岡子規
屏風絵に見紛ふごとし梅古木  早崎泰江
梅古木皮一枚の命かな  顎髭仙人

梅まつり2月18日スタート

2017年02月15日 | 水戸の観光

今年は2月18日が土曜日のため、水戸の梅まつりはいつもより2日早く幕を開け、3月末まで開催されます。2月7日現在の開花状況は、偕楽園 737本(全体の約27.4%)、弘道館 220本 (全体の約35%)で、すでに園内の準備も完了し、花もいい状態で開幕を迎えられそうです。偕楽園の南斜面、正岡子規の句碑付近は、いつものように早めに咲き始め、すでに見頃の感じです。

咲き出した偕楽園と弘道館の梅を少しご紹介、まず「田毎(たごと)の月」です。
梅の名前には月が付いているのが多いなかで、「満月」、「滄溟(そうめい)の月」とともに明治時代に「月三銘花」とされていました。多分、棚田の一つ一つに映る月のイメージで名付けたのではないでしょうか。端正な野梅性の花、良果結実品種です。

同じ三銘花の「満月(まんげつ)」、野梅性一重の花です。咲き始めに花弁が重なって丸い月のように見えることから付けられたということですが残念ながら開きすぎていました。1890年(明治23年)昭憲皇太后行啓の際に造られた御成門には、門の両側にその時植えられた「満月」の古木があります。

二名匠の碑近くの「道知辺(みちしるべ)」も 野梅性一重。名前は花の美しさから目立つので付いたのでは?淡紅色の可憐な花で、仙人お気に入りの一つです。花の大きさ、色、蕊ともバランスが取れ、園芸界でも人気の品種だそうです。

珍しいので人気の「てっけん(麗+阝と懸)梅」も東門中央通り沿いに咲き出しました。花弁が退化し、蕊と萼だけの花ですが、実はたくさんつける野梅系、園内に何本もありますが、花が地味のため咲き終わったと思われ、説明がないと見過ごされてしまうかわいそうな梅です。お茶の道具、茶筅に似ているので、別名「茶筅梅」ともいいます。

最近来園者の評判のいい「藤牡丹枝垂」、枝垂れの八重咲きならこの花と言われるくらい園芸界でも人気の豊後性の梅、蕾の先は紫色ですが、開花すると花弁は淡い紅色となる可憐な姿です。

さて弘道館では、売店前の「臥龍梅」、幹は横に寝てしまった老木も満開です。山村暮鳥の詩集「雲」に、『こんな老木になっても 春だけは忘れないんだ 御覧よ まあ、 紅梅だよ』という詩がありますが、紅梅ではなくても、まさにそのものです。

その隣には、水戸の六名木の「白難波」(正確には「難波白」と図鑑には載っていますが水戸では白難波で通っています)です。白がより白いと感じられ花で青空をバックにするとそれが際立ちます。雄蕊の一部が花弁に変異した旗弁現象がよく見られます。

白梅に昔むかしの月夜かな  森 澄雄
梅かをり女ひとりの鏡冴ゆ  桂信子
梅二月茅葺き替えし表門  顎髭仙人

那珂湊反射炉跡  (ひたちなか市)

2017年02月11日 | 歴史散歩

水戸藩では9代藩主徳川斉昭が、鉄製の大砲鋳造をするために、安政2年(1855)に大型の金属溶解炉の反射炉2基を建造しました。当時、全国に公営・民営あわせ十数箇所建造されたといわれていますが、佐賀藩、薩摩藩、幕府の伊豆韮山に次いで全国4番目の建造で、モルチール砲(臼砲)、カノン(加農)砲を鋳造しました。 しかし、元治元年(1864)の藩内抗争元治甲子の乱(天狗党の乱)の際、破壊されましたが、昭和12年(1937)12月、跡地に崩れ落ちた煉瓦の一部も使用してほぼ原形どおりに復元されました。 最初は鉄の質が悪くて苦心したようですが、南部藩から良質の銑鉄が供給されるようになると、臼砲だけでなく大型のカノン砲の鋳造にも成功しましたが、期間が短かったので破壊されるまでに20数門が造られたようです。現在、反射炉前に真っ赤に錆びた鉄製のカノン砲が飾られていますが、これは40年程前に製作されたレプリカだそうです。 1200度から1400度に耐える反射炉に使う耐火レンガを40,000枚も焼成したという登り釜の復元模型です。藩領の馬頭小砂で焼かせたということも聞いたことがありましたが、陶土を小砂や水戸の笠原から舟で運んで来てここで焼いたと説明板には書いてあります。 反射炉のある高台への入り口にある山上門、水戸藩小石川上屋敷の正門右側にあった、江戸時代後期に勅使奉迎のために特に設けられた門を昭和11年に移設したものです。小石川藩邸の唯一残存する建築物で、薬医門という形態の重厚な門構えです。 門と袖塀の鬼瓦には葵の門が付いています。柱の下部の補強とかいろんなところに後世の手が加えられた痕が見えますが、佇まいはさすがに風格を備えています。 南方には那珂川の湊大橋と遠くに筑波山が見えます。元治元年(1864)3月、この筑波で挙兵した天狗党の一派は、藩内での抗争を続けた後10月にここ那珂湊を撤退して、大子を経て越前への悲劇の行軍の途につき、敦賀にて幕軍に降伏、353人もが斬罪に処せられました。
討つもはた 討たるるもはた 哀れなり 同じ日本のみため(みだれ)と思えば  (総大将武田耕雲斎の辞世の句)


ごろり二分

この反射炉以前の水戸藩の大砲製造では、天保11年(1840)斉昭は水戸の神崎に溶鉱炉4基をつくり銅製の大砲を作りはじめ、当初は失敗続きで銅も足りなくなり、藩内の仏像、梵鐘などの仏具を鋳潰して、それも原因の一つとなり弘火元年の斉昭自身の幕譴、蟄居に至りました。
その時の大砲について、山川菊栄の「幕末の水戸藩」に「ごろり二分」という記載があります。(一部略、年号追加)
「斉昭が領内の梵鐘や金銅仏を鋳潰して作り上げた大砲は見かけ倒しで実戦の用には立たなかった。何分大きくて重いので運ぶのに大勢の手間を要しごろりと一回転させるのに金二分はかかるというので民間では「ごろり二分」と呼んだという。ペリー来航(1853)のとき、幕府の要請で七五挺とか、この大砲を江戸まで送り込んだものの実戦がなくてボロを出さずにすんだものがもうけものだったと古老は語った。(常磐神社に残る太極砲のことか?75門のうち幕府に納めたのは74門とされていますが。)
「子年のお騒ぎ(元治甲子の乱1864)」のときは、幕府は外国から買い入れた優秀な軍艦を持ち、外国軍人に仕込まれた熟練した砲手もいたので、そういう軍艦がただ一隻那珂湊の沖にあらわれ、武田耕雲、藤田小四郎の連合天狗勢に向かって砲撃を開始するや一発の無駄もなく目標に命中して修羅場をくり広げた。しかるに天狗党の方は烈公様の化身のようにあがめ神通力と信じていた「ごろり二分」は何たることかやっとの思いで海岸まで運び出しても、敵の砲丸が目にも見えずに飛んでくるにひきかえ、こちらの弾丸は砲身を離れることは離れても、赤い色をして人目にわかるほどゆるゆる回ったかと思うと、目の前の海にボチャン、ジャボンと飛び込んでしまう。何発うっても同じこと、そうそうは弾も続かないうちに、敵の方は息もつがずに撃ちまくりこちらの砲も人間も吹っ飛んでしまう…。」
天狗党がこの戦いで負けたのは、あの軍艦一隻が大きく、その後の敦賀への西上になったと書いてあります。 結局15年後の安政3年(1856)に神勢館構内に溶鉱炉を移すまで、この神崎の地では実に大小合わせて291門の大砲が造られたといわれています。


フェリーさんふらわ 大洗入港

2017年02月08日 | 日記

大洗港と苫小牧間のフェリーの運行表を見ると、出発が夕刻7時位で到着が翌日午後2時位の夕方便がさんふらわ「さっぽろ」、「ふらの」の2隻、出発が真夜中の1時半くらいでその夜10時位到着のさんふらわ「しれとこ」、「だいせつ」の2隻が交互にほぼ毎日運行されています。

約18時間の船旅を終えて停泊中のさっぽろを歓迎して、岸壁の磯節銅像の踊り子たちが磯節踊りを披露しているようです。真ん中のブルーは、イベントスペースの地面の塗装の色です。

船体の日輪に向かって泳いでいく水鳥一羽、イカロスのようです。ギリシャ神話のイカロスは、蠟で付けた翼で幽閉先を脱出し、あまり高く飛ぶと太陽の熱で溶けるという父の忠告を無視して、太陽に近づいていき墜落死するという話…勇気と傲慢の戒めによく使われます。
そういえば昭和52年、千波湖畔でのサーカスで若いクラウンが墜落死し、それが「翔べイカロスの翼」(草鹿宏著)という小説になり、松山善三脚本の映画化ではさだまさしが主演、彼が作った主題曲「道化師のソネット」は笑ってよ~僕のために~という有名なフレーズで今でも歌われています。

雛三題…那珂のひなまつり

2017年02月04日 | 日記
今日より立春、春といえば雛人形、那珂のひなまつりの会場の一つ、那珂市歴史民俗資料館のひとこまです。

それほど広くない館内は、今流行りのつるし雛は作品発表でしょうか賑やかです、雛壇は個人所蔵の江戸、明治、昭和など年代ものの出品、また引受手募集の雛まであって、春の色が満載です。

江戸時代享保年間(1716~1736)に流行した「亨保雛」。
大型で豪奢な享保雛は、奢侈禁止令などで幕府から取締られたほどで、雛人形が商業化されて、一般町人の世界に広まってきた時代のものといえます。

「古今雛」は、江戸時代の明和年間(1764~72)頃に作られ、「古今集」などの王朝への憧れから名づけたとされています。現代の雛人形もこの系統を継いでいるそうです。

地元の「桂雛」もありました。旧桂村(現 城里町)で代々製作が続けられてきた雛人形で、平成3年には茨城県郷土工芸品に指定されています。
通常は分業の雛人形の体部を一貫して手作りで製作、平安時代に確立した色の組み合わせである「かさねの色目」を西陣織の他に、結城紬、西ノ内和紙を使用するなど積極的に地元の素材を使用し優美なグラデーションを醸し出しています。

那珂市は古来より那珂川、久慈川の間で開けた暮らしやすい土地のために、数多くの遺跡があり、そこで発見されたものがこの資料館では常設展示されています。
市内門部リュウガイ遺跡で出土した密教法具、平安時代に開化した天台、真言密教の修法に不可欠の法具で銅製、鎌倉時代のものとされています。