顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

夏終わる…コロナと五輪の2021年

2021年08月30日 | 日記

せわしい夏でした…五輪のメダル数が史上最高!の余韻が覚めぬうちに、今までにない感染拡大の波が押し寄せてきました。21都道府県に緊急事態宣言、12県にまん延防止等重点措置が発令されるなか、今度はパラリンピックの開幕です。アスリートたちの努力の結晶を称賛しつつ、感染増加のニュースもつい気持ちに入り込んでしまう複雑な夏でした。

そして8月の終わり、猛烈な残暑が残っていても、秋の気配も感じられるようになってきました。夏の早朝散歩コースは近在では知られた米どころ…、すでに稲刈りの終わった田んぼも見られます。

最近多くなった「飼料用稲」、結実しないうちに茎葉と一緒に刈り取り、ビニールに密閉し発酵させ、主に牛などの飼料にします。稲作の生産調整と飼料の自給率向上に役立つと期待されています。

8月29日、いつの間にか茶色の栗の毬が口を開いているのに気付きました。


たまたま携帯で撮っておいた栗の成長記録を載せてみます。

6月15日、強烈な匂いをまき散らして、ブラシ状の白い花が満開です。

7月28日の青い毬栗、少年時代はこれさえ剥いて、白いみずみずしい実を食べたのを思い出しました。

早朝だからこそ発見しました!ネムノキ(合歓木)の名前の由来です。

午前5時10分、複葉の細かい葉が閉じられて、まるで眠っているようです。

午前5時40分、すっかり目を覚まして葉が開きました。これは「就眠運動」といい、明るさでなく植物自体が時を刻む「体内時計」によるものだそうです。

秋の七草、キキョウ(桔梗)ですが、古来よりの野生の品種は絶滅危惧種に指定されており、公園の花壇のこの花も園芸種だと思います。端正な花の形は武将の家紋によく用いられ、明智光秀の水色桔梗紋が有名です。

ヒヨドリがやってくる頃に咲くというヒヨドリソウ(鵯草)、今は一年中棲んでいるヒヨドリですが…。

まもなくパラリンピックも閉幕、感染者数もピークを過ぎた感じ(希望的推測)もします。このまま続いて2週間後の9月12日には宣言も解除され、少しは静かな秋を迎えられることを願うばかりです。

高部城…中世の山城と高部宿

2021年08月25日 | 歴史散歩

ここ常陸国北部の中世城郭は佐竹氏の山城が多く、山を削って堀を掘ったり土塁を盛り上げた土の城で、建物も木造の簡易なものでした。小さな集落を抱えただけの高部城も、城下を持つ領国経営的な城には程遠く、隣国との攻防戦の戦略的な城だったと思われます。
現地案内板の城郭イメージ図に「図説茨城の城郭(茨城城郭研究会)」掲載の郭を重ねてみました。

コロナ禍で現地踏査をする予定が実行できないまま、とりあえず外観だけの紹介です。
(麓の常陸大宮市美和支所からみた高部城です。)

城は常陸国と下野国の国境で、山方と馬頭(栃木県)を東西に結ぶ街道と大子へ至る南北の道が交わり、那珂川支流の緒川が流れる要衝の地の標高291m(比高約130m)の館山に築かれています。

鎌倉時代末期(1260年頃)佐竹氏7代義胤の5男景義(高部氏初代)の築城と伝わります。その後数代にわたり高部氏がこの地を領しますが、佐竹氏の内紛、山入の乱が起こると明応9年(1500)前後に山入義藤に攻め落とされ、上檜沢城に移ります。永正元年(1504)佐竹義舜に敗れて大田城を追われた山入氏義は、小田野氏を頼り高部城に入りますが、佐竹氏と通じていた小田野氏に急襲され討たれたといわれます。

高部城はその後、佐竹氏分家の東家が治め、対抗する那須氏など下野国への守りを固める拠点でしたが、佐竹氏の秋田移封に伴い廃城になりました。

城跡一帯は、地元の人々が草刈などの整備に力を入れ、城下に位置する高部宿の町並みとともに保存活動を行っています。

江戸時代には、この高部宿は特産の和紙や葉煙草の流通が盛んで大きな商店が軒を連ねていました。山間の寒村にはその後の開発もなかったため、今でも当時の街並みが残る貴重な一画となっています。

明治20年(1887)に偕楽園(水戸市)の好文亭を模して当時の当主が建てたという、岡山家の木造三階櫓「喜雨亭」は、杜甫の詩「春夜喜雨」から名前をとり、茶会や歌会にも使用されていたとか、「花の友」という銘柄の「花」は梅花で庭園には梅の古木が多く見られるそうですが、日本酒醸造は廃業してしまいました。

間宮家住宅は明治35年(1902)の建築で、3階建ての洋館と2階建ての和風建築がつながった和洋折衷建築、銀行としても使われたり、ビリヤードやダンスができるホールなどもあったそうです。

秋すだれ旧街道はすぐに尽き  村上恵生
町並はモダンにユリの木黄葉して  高澤良一
山城の山あきらかに秋澄めり  上野青逸

閑中閑話…不要不急の日々

2021年08月19日 | 季節の花
いつも仙人暮らしでも、さすがにステイホームでしばらく外出せずに過ごしましたので、身の回りしか眼が向きません。この地方は申し訳ないほど大雨の被害もなく、1週間ぶりに晴れ間の見えた朝、庭の芝生によく見るキノコが出ていました。

閑に任せて調べてみるとキコガサダケ(黄小傘茸)という雨後によく出るキノコで、英語ではwhite dance capというそうです。

しかし朝6時に撮ったこの小さな侵略者は、2時間後の午前8時には萎びてしまい、やがてほとんど消えていました。繁殖力の強い雑草は嫌われモンですが、こんな儚い小さな生命は憎みようがありません。
(しかし、スマホとデジカメではこんなに芝の色が違ってしまいます!?)

庭で増えている背の高い三尺バーベナは、クマツヅラ科バーベナ属の多年草で、野生化が進み道端でもよく見かけます。柳のような葉と花笠のような形から「柳花傘」という名もあります。

同じ仲間のバーベナが田んぼ道で野生化、朝露に濡れていました。

ベゴニアもいろんな種類がありますが、これはセンパフローレンスという系統でしょうか、毎年元気よく花を咲かせます。

ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)の名前を分解すると、匂は芳香、蕃は外国、茉莉はジャスミン類のことで、南米原産のジャスミンのような香りの常緑性低木です。花の色が青紫から白に変化しますが、左の陰に白花が見えるでしょうか。そういえば梅の花にも、紅色がだんだん白くなる「移り白」という咲き方があります。

ブルーベリーは、自らの花粉では実が生りにくい「自家不和合性」のため、2種植えていますが、売っているものより小さく、酸味が強いのは品種のせいでしょうか。

今年の家庭菜園で成績が良かったのはこの伏見甘とうがらし、江戸時代からの伝統的な京野菜です。昨年までは、この改良種「万願寺とうがらし」を植えていましたが、実が黒くなるのに対応できず変えてしまいました。

モロヘイヤは、野菜の中でも飛びぬけて栄養価が高く、重病のエジプト王がこのスープで治ったという故事から「王様の野菜」といわれます。エジプト原産のため、もちろんクレオパトラも愛用した?という話の方が有名ですが…。

一週間ぶりに外出したホームセンターの上に秋の空、浮かんでいる雲は綿雲ともよばれる積雲(せきうん)で、とくに秋の雲ではないようでしたが…。

お盆期間は長雨でした、それも線状降水帯とかいう大雨で、無情にも拡大するコロナ禍にあえぐこの国に被害をもたらし、貴重な命をも奪ってしまいました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

通字(とおりじ)と偏諱(へんき)…歴代の水戸城主と常陸国

2021年08月14日 | 歴史散歩

通字(とおりじ)とは、先祖から代々にわたって付けられる漢字二字からなる名前の一字です。また、偏諱(へんき)とは、将軍や大名が自分の名前の通字でない方の一字を、臣下などに与えることです。
中世からの武家社会に多く見られたこの通字、偏諱を、歴代の水戸城主など常陸国に見てみました。
(写真は復元された水戸城二の丸大手門です)


大掾氏  家紋 「対い蝶(むかいちょう)」
平安時代、桓武平氏の平国香が常陸の大掾となって土着し、3代目の維幹からの「(もと)」の字が通字になりました。維幹の直系子孫は常陸平氏の本家となり、南東部に大きな勢力を持った多くの庶家もすべて「幹(もと)」を使用しました。

水戸近辺に土着した一族、石川家幹の次男が後の水戸城となる台地東端に館を構え、馬場資幹を名乗りました。大掾職も引き継いだ資幹の子孫は約240年この地を治めましたが、応永33年(1426)、大掾満幹の時に江戸通房が水戸城を攻め落としてしまいます。府中に本拠を移した大掾氏は、天正18年(1590)には佐竹義宣に攻められ、大掾清幹が府中城で自刃して約400年の歴史を閉じました。

(写真は現在の水戸城址、大掾氏の時代の居館は本丸の東端、東二の丸(下の丸)付近にあった小規模なものだったといわれます)

江戸氏    家紋 「左三つ巴」
大掾満幹を府中に追いやって水戸城に入った江戸氏は、藤原秀郷五代の孫公道の子通直を祖とする那珂市の一族と伝わり、通字は「(みち)」です。水戸城居留164年、天正18年(1590)佐竹義宣に攻められて水戸城は落城、江戸重通は姻戚関係の結城氏に身を寄せました。

(江戸氏の水戸進攻の拠点だった河和田城址です)

佐竹氏   家紋 「五本骨扇に月丸」
江戸氏の後に水戸城に入った佐竹氏は清和源氏の正統で、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の孫である源昌義が常陸国佐竹郷に土着し佐竹氏を名乗り勢力を伸ばしました。通字は源氏で用いられる「(よし)」です。その後常陸国守護として大田城を本拠に領地を拡げて約450年、小田原の戦後に秀吉より常陸国548,000石を安堵され水戸城を攻め取りますが、関ヶ原の戦いで去就を明らかにしなかったため家康により慶長7年(1602)秋田に移封となり、わずか12年で水戸城を去りました。

(佐竹昌義が最初に築城したとされる馬坂城址です)

水戸徳川家  家紋 「水戸葵紋」
関ヶ原の戦いの後、秋田に移封された佐竹氏に代わって水戸城に入ったのは、徳川家康64歳の時の11男、頼房です。「」も源氏の家系で用いられる通字ですが、2代目光圀は、3代将軍家光から「光」の偏諱を享け、その後当時将軍からの偏諱が代々の通例となりました。

(水戸城本丸にある薬医門です)

3代藩主徳川綱條(4代将軍家綱から偏諱)、4代藩主宗堯,5代藩主宗堯(8代将軍吉宗から偏諱)、6代藩主治保、7代藩主治紀(10代将軍家治より偏諱)、8代藩主斉脩、9代藩主斉昭(11代将軍家斉より偏諱)、10代藩主慶篤(12代将軍家慶より偏諱)、11代藩主昭武(9代藩主斉昭より偏諱)…と10代までは当時の将軍からの偏諱で、11代からは父祖の偏諱を享けています。

因みに将軍家は、徳川家康からの通字「家」が代々使われましたが、2代秀忠(秀吉より)、5代綱吉(家綱より)、8代吉宗(綱吉より)、15代慶喜(家慶より)はそれぞれ偏諱を享け「家」は使用していません。


小田氏  家紋 「洲浜(すはま)紋」 ※河口にできた三角洲などの島形の洲を図案化したもの
小田氏は、中世常陸国の筑波地方に勢力を持った豪族で、藤原北家八田流が祖とされます。常陸における南朝方の中心として活躍した小田治久が後醍醐天皇(諱は尊治)から偏諱を享けた(はる)や父祖の一字、(とも)を通字としました。北条、結城、上杉、佐竹などの周辺勢力との争いを重ね、戦国時代末期、居城小田城を何度も落とされ敗走したことから、「戦国最弱」ともいわれる小田氏治の代に終焉を迎えました。

(写真は小田城址です)


真壁氏  家紋 「橘」
桓武平氏大掾氏の一族で多気直幹の四男長幹が、承安2年(1172)真壁郷に築城し真壁氏を称しました。大掾一族なので通字は「(もと)」です。
鎌倉~室町時代には近在に一族を分立させて勢力を伸ばし、「夜叉真壁」として勇名を馳せた真壁久幹などの名も残っています。やがて戦国時代には佐竹氏に臣従しますが、佐竹氏の秋田移封に伴い430年間、19代の治世は終わりを迎えました。
真壁氏は当主房幹と弟の重幹が出羽国へと移りますが、減封を伴っため家臣の多くはこの地に残らざるを得ませんでした。

(写真は真壁城址です)

笠間氏 家紋 「藤巴」
藤原北家道兼流を祖とする宇都宮氏の庶流、笠間氏は、鎌倉時代の元久2年(1205)初代笠間時朝以来385年笠間を領しました。通字は「(とも)」、宇都宮氏の通字「」を使ったこともありました。戦国末期の小田原北条攻めに参陣せよとの本家宇都宮国綱の命に反したため、18代笠間幹綱は攻め滅ぼされてしまいました。

(笠間城本丸郭跡です)

このように中世の武家時代では通字による一族の結束や、偏諱を与えて主従関係の強化を図りましたが、常陸大掾一族の「幹」の通字を持つ一族同志の多くの争いや、陶隆房(後の陶晴賢(すえのはるたか))が偏諱を享けた主君大内義隆を攻め滅ぼすなど、親兄弟でさえ殺し合いをした世の中では、目論見通りにならなかった例も数多くあるようです。

残念!生田の大滝…そして来迎院

2021年08月09日 | 日記

山の中の滝に涼しさを求めて常陸太田市の「生田(おいた)の大滝」へ、ここ里見富士(638m)のある一帯は山菜採りに何度も訪れたところで、登り口にある大小さまざまな滝を目指しました。通行止めの看板が出ていますが、気にかけず上って行ったところ、狭い林道の端が崩れたり、川のようになっていたり…、とても我が年代物の愛車では先へ進むのは危険とあきらめました。
どうも東日本大震災後の維持管理はいまだに行われていないようでした。(滝は8年前の写真を載せました)

車を方向転換するのに夢中で、林道の証拠写真は撮るのを忘れましたが、沢沿いの林道の両脇はヤマアジサイが群生していました。

下りてきて振り返った里見富士のある山塊です。標高差400m位の山ですが、水が豊富に湧き出して急流をつくり、小さな滝をいくつも出現させています。

里川を挟んで反対側に見える鍋足山(528m)は、3つのピークが鉄鍋の足のようだと名付けられました。頂上付近は岩山で、ハイキングの人気コースですが、もはや仙人は眺めるだけになってしまいました。


さて、帰り道に偶然茅葺きの楼門を見つけて車を停めました。後で調べてみると「お阿弥陀様」と親しまれている来迎院(らいごういん)という天台宗の無住寺で、地域の方が保存会を立ちあげて管理しているということでした。

もともと真言宗の富貴山阿弥陀院安楽寺でしたが、江戸時代初期に当時の住職が大罪を犯して廃寺となっていたところに、天和3年(1683)、水戸藩主光圀公の神仏分離政策により大洗磯前神社(大洗明神)の別当寺、大洗山普賢院般若寺が移転されてきました。元禄5年(1688)には日光の輪王寺から来迎院の寺名を授かり光明山安養寺来迎院と改称しました。

茅葺きの山門は宝暦10年(1760)に建てられた三間一戸の八脚楼門形式、2層目には高欄を廻した江戸時代中期の楼門建築の貴重な遺構となっています。

金網の間から撮った左右の仁王像が何とも親しみやすい顔でした。

享保3年(1718)に建てられ、移築再建されたと伝えられる茅葺きの阿弥陀堂は、桁行3間、梁間3間の正方形で、お堂と回廊を一体にした堂宇造りという様式です。

やはり無住寺、埃の積もった堂内でした。1間四方の四天柱を立てた内陣の御本尊は、鎌倉時代とされる木造阿弥陀如来坐像で、普賢院の本尊として大洗から運ばれてきたと伝えられます。
秋に常陸太田市で開かれる集中曝涼の際には、お披露目になるそうです。

阿弥陀堂の回廊を取り巻く木鼻彫刻がすごい!正面には龍、四方には獅子や獏などが睨みをきかせています。
木鼻は「木の端」が転じた、頭貫などの横木が柱から突き出した部分に彫られた彫刻ですが、その美しさを競うようになると、別の木に彫刻した木鼻を張り付けるようになりました。

滝を撮りに行ったのが不発でも、途中で見ごたえのある寺院に立ち寄ることができました。


一年延期のオリンピックが様々な感涙をとどけて閉幕、会期中には国内のコロナ感染が急増しています。オリンピックを中止にしても感染増加は避けられなかったと個人の考えですが、コロナ禍の中での開催を後世はどんな評価を下すのでしょうか。
いずれにしても沈滞していた気持ちが、久しぶりに清々しい高揚感に包まれました。あとはワクチン接種効果が早く表れることを願うばかりです。