顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

長塚節…生家と歌碑

2020年01月09日 | 俳句

昨年12月、常総市の豊田城(常総市地域交流センター)を訪ねた時に、郷土の歌人、長塚節の銅像が城の入り口にあり、天守の6階は長塚節の資料展示室になっていました。係の人に聞くと近くに生家が残っているというので行ってみました。

長塚節(明治12年(1879)~大正4年(1915))はこの地の国生村(常総市国生)の豪農で父は県会議員を務めるほどの名士の長男として生まれ、3歳で小倉百人一首をそらんじるほどで神童といわれたそうです。水戸中学にも首席で入るほどでしたが病弱のため中退し、療養のかたわら短歌に目覚め正岡子規に入門しました。

節は子規に地元の産物を送り続け、栗を拾って送った時の子規の礼状が知られれています。
明治34年9月20日付の封書で
栗ありがたく候

真心の虫喰ひ栗をもらひたり

鴫三羽ありがたく候

淋しさの三羽減りけり鴫の秋

病床にて 規   たかしどの


正岡子規の死後「馬酔木」の編集同人として活躍し、伊藤左千夫とともに「アララギ」も創刊した一方、病魔に冒され、婚約をも破棄した節は病気療養を兼ね諸国を旅し、深い透察で自然を詠んだ歌を残しましたが、九州の地で36歳の生涯を閉じました。
明治43年(1910)に朝日新聞に連載された小説「土」は、夏目漱石が絶賛し、現在でも「農民文学不朽の名作」として評価されています。

生家跡の前に立つ歌碑、明治41年5月のはじめ雨の日にあひて興を催してよめると詞書して詠んだ暮春の歌の1首で、30歳のときの作品であると案内板に書かれています。
すがすがしかしがわか葉に天ひびきこえひびかせて鳴く蛙かも


生家近くの空き地にも歌碑がありました。
明治41年、29歳の時に深まりゆく秋の風情を水棹に託して詠んだもので、秋雑詠8首の中の1首である(案内板より)
鬼怒川を夜ふけてわたす水棹の遠く聞こえて秋たけにけり


長塚節の俳句です。
白帆遙にわかさぎ船や蘆の花
芭蕉ある寺に一樹の柚子黄なり
鳴きもせで百舌鳥の尾動く梢かな


大儀寺…芭蕉と仏頂禅師

2019年12月13日 | 俳句

鉾田市阿玉にある臨済宗妙心寺派の宝光山大儀寺は、松尾芭蕉と親交のあった仏頂禅師が貞享元年(1684)に中興開山した寺で、芭蕉が門人曽良と宗波を伴って訪れて月の句を詠んでいます。



「鹿島紀行」に記されているこの旅は、貞享4年(1687)、芭蕉が名月を見るため、門人曾良・宗波を伴い鹿島、潮来方面へでかけたもので、これは禅の師である仏頂禅師に会う旅でもありました。
仏頂禅師は、住職をしていた鹿島の根本寺が鹿島神宮との所領訴訟のため、末寺の江戸深川の臨川寺に滞在した折、すぐ近くに住む芭蕉が親しく禅の教えを受けました。
やがて勝訴して帰郷した仏頂禅師を根本寺に訪れますが、禅師はすでに大義寺に移っていたためここを訪れ一泊して月の句を詠みました。

本堂の扁額には、仏頂禅師・芭蕉庵桃青の月見寺と書かれています。

本堂の手前には仏頂禅師の石像があり、傍らには芭蕉の句碑、案内板には仏頂禅師の歌が載っています。
寺に寐てまこと顔なる月見哉  桃青
折り折りに変らぬ空の月かけも ちゞのなかめハ雲のまにまに  佛頂




門人二人の句碑もあると出ていましたが、見つかりませんでした。
雨にねて竹起かえる月見かな  曽良
月さびし堂の軒端の雨しずく  宗波


寺の裏の竹林の中には石に彫られた句碑が並んでいます。これは芭蕉が確立した俳句を愛する方々が自筆の句碑を建てたもので、なんと160基以上あるそうです。新しく建てられた句碑もあり、わかりやすい句が多く親しみを持てました。

なお、芭蕉は元禄2年(1689)には仏頂禅師が修行した、栃木県大田原市の雲巌寺を訪ねたことが「奥の細道」に出ています。
※拙ブログの「芭蕉ゆかりの名刹…雲巌寺(2018.9.17)」でも紹介させていただきました。

仏頂禅師は、芭蕉より2歳年上ですが芭蕉より21年も長生きし、正徳5年(1715)この雲厳寺で73歳の天寿を終えたといわれます。

芭蕉句碑と愛宕山神社

2019年10月20日 | 俳句

笠間市岩間の愛宕山(305m)山頂にある愛宕神社は、社伝によると大同元年(806)徳一大師の開山と伝わります。



中世の沿革は不詳ですが常陸大掾氏、江戸氏、佐竹氏などその時代の領主の崇敬を受けたともいわれ、江戸時代にはこの地の領主で土浦藩主土屋氏が特に崇敬したといわれています。

愛宕山には昔、天狗が住んでいたという伝説があり、天狗にちなんだ話や山全体が密教系修験道の霊場としても知られていました。

愛宕山頂上駐車場の二番目の鳥居をくぐると急な階段がありますが、正式の参道は中腹にあります。

愛宕山を開いたと伝わる徳一大師の宝塔です。平安時代前期の法相宗の僧、最澄や空海との法論で知られています。

300mからの眺望です

本堂裏手の飯綱神社脇に芭蕉句碑があります。
夏来ても只一ツ葉の一ツかな

貞享5年(1688)に岐阜県長良川の旅路で詠んだもので、寛政7年(1795)茨城町野曽の佐久間青郊によって芭蕉没後百回忌に建てられました。

ヒトツバ(一ツ葉)は関東以西から琉球列島に分布する単葉のシダ植物で、この地方にも自生が見られると茨城県自然博物館の資料に載っていました。
「夏になって木々が葉を茂らせているのに、一ツ葉だけは葉が一枚のままで淋しいのは我が身と同じだなぁ」というような意味でしょうか。
写真はWikipediaからお借りしました。

湊公園(ひたちなか市)に吟行 

2017年09月20日 | 俳句

30年以上続いている俳句の会、月一回の例会は室内で行われることがほとんどですが、その月の当番さんの企画で外に出て吟行になることがあります。9月は顎髭仙人の当番で、湊公園に出かけました。

ここは涸沼川と合流した那珂川がすぐに太平洋と流れ込む北側の日和山(御殿山)という標高21mの台地で、水戸藩2代藩主徳川光圀公が別荘「夤賓閣」を建てました。建物は幕末の天狗の乱で焼失しましたが、当時の見事な松が数本残っています。

秋晴れの高台は暑いくらいの陽気ですが、さすがに海の風は秋の涼しさを運んでくれます。参加者は思い思いに園内を歩きながら鉛筆を走らせ、またお喋りにもつい花が咲いてしまいます。

句座は公園内のふれあい館2階の実習室、軽い昼食は手作りの栗ご飯、その後清書された投句を選句して、披講、相互に選評を行います。師のいない句会ですので各々唯我独尊的メンバーが、辛口評もあれば、作者の意図とまるっきり違った解釈もあったりして、楽しいひとときを過ごしました。


航跡を長くのこして秋の江  てる
水澄むや河の終わりは港町  やす
重陽や海の高さを見てをりぬ  多
涼風の吹き来る道あり湊公園  かつ
ハマギクの蕾は固し太平洋  阿
秋風に髪は乱れて御殿山  あん
息まけど秋声と覚ゆ風やさし  みち
鯊舟はここまで河は海に入る  よし

柘榴、珍しく実をつけた…

2016年10月26日 | 俳句
庭に植えてから30年以上、大きく育った柘榴の木、前は生った年もありましたが、ここ何年も花は咲くけどみな落ちてしまいます。リン酸系の肥料などを与えても効果はなく諦めていましたが、今年は6個、大きな実が付きました。それも直径8センチ以上もあります。

一実百花という言葉があるくらい、ザクロは花が咲いても果実が少ない果樹とか、果実になる花とならない花両方が咲く習性があるとか…、ネットの情報も悲観的です。
10年以上前、スペイン・グラナダを訪れたとき、柘榴のことをスペイン語でグラナダということを知りました。レコンキスタの最後の砦、アルハンブラ宮殿にも柘榴の木がちゃんと植わっていました。

季語は秋、裂けた果肉からルビー色の輝く実が顔を出す様が美しく、名句がいろいろ詠まれています。有名な三鬼の句、そして一茶の句、柘榴は人肉の味がするとかよく言われますが食べた人がいるのでしょうか。

実ざくろや妻とはべつの昔あり  池内友次郎
我が味の柘榴に這はす虱かな  小林一茶
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼