顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

ふぇいす…掘り出された顔かたち

2021年10月31日 | 日記

茨城県立歴史館では、主に県内で掘り出された土器や人形などの顔(ふぇいす)を紹介する企画展が開かれています。(11月23日まで)

撮影禁止の展示以外は写真が撮れましたので、その一部をご紹介いたします。
先人の指が作り出した長閑で穏やかな、少し滑稽な表情を見ると、この秋津洲で生きてきた祖先の息遣いを感じ、なぜか心が和むような気がします。(写真は城里町の青山古墳から発掘された古墳時代の女子の顔です。)


縄文時代の顔は、土でできた小さな土偶です。約一万年の縄文時代に作られた土偶は全国で約2万点も見つかっているそうですが、その使用目的はまだ解明されていません。

乳房や臀部を誇張した女性を表したものがほとんどで、縄文人の女性に対する神秘的な思いから、動植物の繁殖、多産、豊饒を祈願することに結び付ける考えもあります。

また、土偶が完全な形で発見されることは極めて少なく、ほとんどの土偶が意図的に壊された状態で見つかっていることから、病気やけがなどの身代りであったとする説もあります。


弥生時代の顔は、人の顔の造形を持つ土器(人面付壺形土器)です。亡くなって埋葬して骨の状態になったものを、その後壺に入れて再埋葬するときに使われた骨壺で、1遺跡で1個くらいしか出土していないようです。
これらの顔は、中に入っている人物の顔を描いているとされ、縄文時代が女性を描いているのに対し、髭を表現したような男性的なイメージも多くなります。

左の土器は国指定重要文化財で、この種のもので国内最大級です。目や口の周りは入れ墨といわれています。(常陸大宮市泉坂下遺跡)
右は盛り上げた線の中に、細かな点で眼と口を表現しています。(那珂市海後遺跡)

左は盛り上げた顔の輪郭の中に、眼、口、眉を線で表しています。(常陸大宮市小野天神前遺跡)
右は、壺の口が顔の口になっている珍しいもので、国指定重要文化財です。(栃木県佐野市出流原遺跡)


古墳時代の顔は、その中期頃から出現した人物埴輪です。
古墳の王者やそれを守護する武人、馬子、巫女、力士などいろんな階層の人物の埴輪が発見されています。埴輪の製作集団もあり表現がより写実的になり、その表情に当時の人々の様子が浮かぶようです。

左は「挂甲をまとう振り分け髪の男子」、右は「鉾を持つ武人」、どちらも小美玉市舟塚古墳から出土しました。  ※挂甲(けいこう)とは古代の鎧の一種です

左右とも「盾持ち人」で、古墳を守る役目の埴輪ですが、威嚇的ではなくスッキリと優しい顔つきをしています。(小美玉市舟塚古墳)

左は四股を踏む動作の力士、動きが感じられます。(小美玉市舟塚古墳)
右は両手を上げる女子、優しい顔つきをしています。(土浦市今泉愛宕山古墳出土推定)


地味なテーマですが、表情が明らかになる顔を通して我が祖先の当時の暮らしを思い浮かべ、数千年前にタイムスリップすることができました。

しかし現実に戻れば、今日は衆議院総選挙の日、新内閣とそれに対する野党共闘に土器の顔の子孫たちはどんな判定を下すのでしょうか?歴史の中のほんの一瞬でも、この地球を守っていく未来への大事な一歩になるのかもしれません。

道端の秋…見慣れた雑草たち

2021年10月27日 | 季節の花

仙人の棲み処は雲の上ならぬ地方都市の郊外の小さな団地、ちょっと足を踏み出せば自然の残る田舎道で、すれ違う人もほとんどなくマスクも付けずに済みます。久しぶりの7000歩です。

土手はほとんどイヌタデ(犬蓼)で覆われています。植物の名前に付く「イヌ」は、「否」が訛ったもので役に立たないという意味だそうです。柳蓼という辛い香辛料に使われてきたタデに対して名付けられました。

こちらのイヌホオズキ(犬酸漿)はナス科ナス属、バカナスとも呼ばれ、同属のホオズキやナスのように役に立たないので名付けられました。小さな花は可愛いいのですが…。

ノゲシ(野芥子)は、葉の形がケシ(芥子)に似ているので命名された、背丈が大きく厄介な雑草です。この真っ白な綿毛が飛んでまた子孫を増やしてしまいます。

こちらは今から咲き始めるアキノゲシ(秋野芥子)、花の色が白っぽい黄色です。レタスも同じアキノゲシ属なので、この種も新芽や若葉が食べられるそうですが…。

触れればすぐ落ちそうなムカゴ(零余子)は山芋(自然薯)の葉の付け根に出る球芽です。ムカゴご飯がよく知られていますが、山の上で塩ゆでしてビールのつまみにしたことを思い出します。

この辺でヤマブドウ(山葡萄)というのは、同じブドウ科ブドウ属のエビヅル(海老蔓)のことが多いようです。仙人も少年時代よりずっと山葡萄として口にしてきました。

こちらはノブドウ(野葡萄)でブドウ科ノブドウ属、別名イヌブドウと言われるように食用にはなりません。

藪の中でお茶の花が咲いていました。高い土手の上なので、下向きの花がよく撮れました。

秋を感じさせる野菊、この辺で見かけるのはほとんどカントウヨメナ(関東嫁菜)です、もっともそれ以外はよく知りませんが。図鑑では淡紫色になっていますが、青い色が濃い花や白い花もあります。

伊豆諸島で有名なセリ科のアシタバ(明日葉)の花、畑の種子が飛んできたのでしょうか、冬季にも耐え完全に野生化しています。

早めに紅葉が始まったきれいな葉は、かぶれ成分が漆の仲間では最強というツタウルシ(蔦漆)です。

今年も見つけたハツタケ(初茸)、まわりを探すと結構見つかりました。

少し大きくなってしまいましたが、出汁の美味しいキノコです。お裾分けもでき、美味しくいただきました。

嬉しいことにわが県のここ3日間の感染者数は0,0,3名です。なぜこんなに急減したのかは専門家でも分からないそうですが、果たして第6波があるのでしょうか?人類にとって初めてのケースなので推測の域を出ませんが、やはりマスク着用などの感染対策はそのままに、せめて心だけは秋晴れになりたいですね。

渋沢栄一と一橋家…茨城県立歴史館

2021年10月23日 | 歴史散歩

大河ドラマ「晴天を衝け」の渋沢栄一が仕えた一橋徳川家は、当主で後に最後の将軍になった徳川慶喜が水戸藩9代藩主徳川斉昭の第7子で、何かと水戸に縁があり、茨城県立歴史館には一橋徳川家記念室が設けられています。
これは昭和59年(1984)に、当時の一橋家第12代当主宗敬が伝来の家宝5600点を寄贈されたことによるものです。

宗敬は、水戸徳川家12代当主徳川篤敬の次男で徳川慶喜は大叔父にあたります。夫人は慶喜の5男で鳥取池田家の池田仲博の長女、幹子で、養子縁組をした一橋家11代当主徳川達道の夫人は慶喜の三女、鐵子という深い関係があります。
寄贈された貴重な資料は一般に公開され、テーマを決めて展示替えが行われています。

現在は、テーマ「一橋家の大奥」によるものと、大河ドラマ「晴天を衝け」に関する所蔵品が展示されており、その一部をご紹介いたします。

一橋徳川家の伝達指示や人事などの内部記録「書送帳」(慶応元年(7865)10月~翌年3月)です。国指定重要文化財
赤い矢印の箇所に、渋沢栄一(篤太夫)と従妹の喜作(成一郎)が、前年に慶喜に従い天狗党追討のため近江まで出陣した際の情報収集や探索での働きを認められ、御目見え以上の小十人並に昇進したことが書かれています。当時、当主の慶喜は禁裏守衛総督として京都に滞在していました。

水戸藩士から慶喜の側近くに仕えた原市之進の漢詩書「一聲霜雁界河秋」です。
慶喜の側近では中根長十郎と栄一を家臣に推挙した平岡円四郎が相次いで暗殺され、市之進も慶応3年(1867)にかって同僚の水戸藩士に暗殺されました。偕楽園に彼の大きな石碑「菁莪遺徳の碑」が建っています。

渋沢栄一とパリから帰国し、水戸徳川家を相続した徳川昭武に新政府からの達書(命令書)です。
開陽丸など旧幕府軍艦を引き連れて江戸を脱走し、函館の五稜郭に籠った榎本武揚などの勢力への出兵追討を命じたものです。渋沢栄一の従妹、喜作(成一郎)ら一橋家家臣もそこで戦っていました。

徳川慶喜筆 「東照宮遺訓」    国指定重要文化財
徳川家康の遺訓とされる「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し…」を、書を得意とした慶喜が明治になってから揮毫したものです。一説には水戸藩2代藩主光圀公の「人のいましめ」が、後に改変され家康の作として世に広まったともいわれています。

書付控「御部屋様御世話被進候趣ニ而一ツ橋江引取之儀ニ付奉伺候」 国指定重要文化財
一橋家2代治済の息子、豊千代と薩摩藩8代藩主島津重豪の娘、茂姫がどちらも3歳の時に婚約、一橋家に迎え入れる際に幕府に出した伺い書の控えです。文書上部に貼り付けられた付札はそれに対する幕府の回答で、当時の書式形式を知ることができます。
やがて豊千代は15歳の時に11代将軍家斉となり、一緒に養育されていた茂姫もその正室となり名を改め近衛寔子(ただこ)、後の広大院になりました。

叢梨子地竹唐草葵裏菊紋散蒔絵櫛台  国指定重要文化財
一橋家7代慶寿の夫人で、伏見宮貞敬親王の娘、東明宮直子(徳信院)の婚礼調度の雛道具、黒漆地に蒔絵は竹唐草文に葵紋と裏菊紋を散らした精巧なミニチュアです。彼女の雛道具は100点以上残っているそうです。

その徳信院が詠んだ和歌色紙です。  国指定重要文化財
11歳で一橋家の9代を継いだ慶喜の祖母にあたりますが、年齢的には8歳しか違わなかったので、慶喜との仲を疑われた記述も出回っています。
慶喜の元服を祝って、有栖川流の流麗な筆蹟で若き当主を祝っています。

慶喜の正室、美賀子の詠んだ和歌の短冊です。国指定重要文化財
美賀子は公家の今出川家から一条忠香の養女となって慶喜に嫁ぎました。波乱万丈の慶喜に付き従いましたが、二人の間に生まれた女子は夭折し、側室新村信、中根幸との間に10男11女が誕生しています。

一橋宗敬はまた、養父の一橋家11代当主達道が収集した江戸時代の写本、版本約5万冊を昭和18年(1943)に東京国立博物館にも寄贈しています。個人所有だったお宝を日本人のお宝にした英断のおかげで、歴史を語る貴重な資料を目に触れることができました。

正宗寺(常陸太田市)…佐竹氏菩提寺の宝篋印塔

2021年10月19日 | 歴史散歩

萬秀山正宗寺(しょうじゅうじ)は、この地方に450余年君臨した佐竹氏の菩提寺として知られている臨済宗円覚寺派の古刹です。

延長元年(923)に平将門の父、平良将が律宗の増井寺を建立したことに始まります。その後真言宗に変わり勝楽寺と改称され、鎌倉時代には佐竹氏8代行義が寺中に正法寺を建立しました。南北朝時代になり、9代貞義の庶長子月山周枢が臨済宗に改め、夢想国師を中興の勧請開山とし、自らは開基二世となり寺中に正宗庵を設けました。

室町時代になって10代義敦がこの正宗庵を正宗寺と改め、その後佐竹氏歴代の菩提寺として庇護されて、勝楽寺、正法寺など共に3カ寺合計で寺領4万石を給され、関東十刹のひとつにまで数えられました。しかし、天正年間(1573~1593)の兵火による多くの堂宇焼失のため勝楽寺と正法寺は衰退し、正宗寺だけが残りました

さらに佐竹氏の秋田移封に伴い庇護者を失いますが、江戸時代になると徳川家光より朱印百石を拝領し、また水戸藩初代頼房以来歴代藩主の厚い尊崇を享けました。天保9年(1838)総門を残し焼失し、現在の本堂は昭和63年(1988)に建てられたものです。

本堂には五本骨扇と月丸の佐竹紋、扁額は臨済宗円覚寺派の総本山管長円覚慈雲の書です。

境内の柏槙(びゃくしん)はイブキ(伊吹)の1種で禅寺に多く見られ、樹齢650年、樹高約10m、天保9年(1838)に正宗寺が火災にあったときの焼け焦げた跡が残っています。

正宗寺裏山中腹にある墓地の一角に佐竹氏の墓所があります。

ここは佐竹氏歴代の墓所と伝えられ、13基の宝篋印塔が並んでいます。境内の各所に散在していたものを戦後集めたと案内板には書かれています。佐竹氏が秋田に移封されたときに一族の墓石も運んで行ったとも伝わりますが、位牌だけを秋田に移したのでは、という説もあります。
いずれにしても何代の誰の墓石ということはわかりません。

また、佐竹氏の秋田移封に伴い、一族の菩提寺で秋田に移ったお寺も多く、その中の天徳寺には歴代の墓所があるそうですが、秋田佐竹氏の初代佐竹義宣からが歴代として埋葬されているようなので、常陸から墓石は持っていかなかった? のではないでしょうか。


また近隣の清音寺(城里町)、浄光寺(常陸太田市)、常光院(常陸太田市)にも、佐竹氏一族の墓と伝えられる宝篋印塔や墓石が残っています。

特に清音寺の宝篋印塔は、佐竹氏8代貞義(1287~1352)と9代義篤(1311~1362)の墓とされていますので、それに似た特徴から正宗寺の宝篋印塔も同じ時代のものといわれています。
なお、清音寺については拙ブログ「清音寺…罹災3度の古刹2020.7.7」で紹介させていただきました。

宝篋印塔は宝篋印陀羅尼を納めるための塔でしたが、やがてこの形をした塔の名称となり、供養や墓碑の石塔として中世以降盛んに使われました。笠の四隅にある馬の耳のような「隅飾り」が直立している特徴は、鎌倉時代後期から南北朝時代のものとされるそうです。

約1000年以上の歴史を持つ歴代住職の墓所、たまご型をした塔身は無縫塔という名で、禅僧の墓石としてよく用いられてきました。「無縫」は無形無相という禅の思想を表しているそうです。

フウセントウワタ(風船唐綿)…風船の中に綿毛

2021年10月14日 | 季節の花

果実の面白い形から最近人気のフウセントウワタ(風船唐綿)はキョウチクトウ科フウセントウワタ属、越冬できない日本では一年草として扱われていますが、原産地の南アフリカでは亜低木(高さ2m未満の低木)だそうです。

7月ころに白い花が7,8個垂れ下がって咲きます。上部の反り返った5枚が花冠で、中心部は雄蕊と雌蕊が合着した蕊(ずい)柱と呼ばれ、その下部にある紫色の花は、副花冠と呼ばれます。

露の付いた可愛らしい様子は、この後の不気味な果実を想像させません。

先端の紫色の副花冠には蜜がふんだんにあるのでしょうか、いつもたくさんの蟻が寄ってきます。

先に咲いた花から8月末には風船のような果実をつけ始めます。棘のような突起は柔らかいものです。

だんだん大きくなる風船、測ってみると8cmもの大きさで、ついつい潰したい欲求にかられます。

そして10月、ある日突然に風船は破裂して綿毛の付いた種子が風に乗って飛び出します。長く軽い綿毛は遠くまで飛んでいき、子孫を増やします。

よく見ると風船の内部は二重構造で、すぐ飛び出せるように種子と綿毛がきっちりたたまれています。

なお、茎を切ると出てくる白い液体には毒性があり、目に入ると角膜炎を起こすことがあるので、充分注意するようにとの情報です。
以上、暇な仙人の観察記録でした。