顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

曝涼とは…貴重な文化財の虫干し(常陸大宮市)

2024年11月21日 | 歴史散歩
曝涼(ばくりょう)」とは、秋の好日に書籍や所蔵品などを外気に当ててカビや虫を防ぐことで、古代中国から伝わった行事が平安時代には年中行事として定着していました。10月下旬から11月上旬に行われる「正倉院の曝涼」は晩秋の季語にもなっています。



茨城県北の常陸太田市と常陸大宮市では、市内の十数か所の寺院で一斉に集中曝涼を一般公開する例年の催しがあり、今回初めて常陸大宮市の3寺院を訪ねてみました。


Googleの航空写真に訪問したお寺を落とし込んでみたら、ゴルフ場の多さにびっくりしました。


法専寺は山号が楢原山法徳院の親鸞二十四輩第十九番の浄土真宗大谷派の寺院です。


寺伝によると開基は平清盛の孫という平能宗でのちに修験者となった播磨公弁円です。建暦2年(1212)佐竹秀義に招かれてこの地に法徳院を建立、門徒百余名を数えたと伝えられますが、建保2年(1214)に常陸に来住した親鸞が布教を始めると妨害しようと板敷山で待ち伏せしますが、親鸞の尊顔に心打たれて帰依し、弟子となって明法と名乗ったという有名な話が残っています。


やがて嘉禄2年(1226)に法徳院近くに明法が建立した寺院が法専寺の始まりと伝えられています。明法は建長3年(1251)に72歳で往生し、法泉寺の南西70mの地に明法の墓と伝えられる塚があります。


住職さんによる丁寧な説明がありました。


本尊の阿弥陀如来木像は、江戸時代初期の作で像高38.8cm、金泥が施されています。


親鸞坐像は、室町時代の木像で像高40.9cm、目に玉眼が嵌入され帽子(もうす)を首に巻いています。


明法坐像は、室町時代作の木像で像高46cm、笈(おい)の中に安置され、先々代の住職まではこの笈を担いで遠方まで布教に行ったそうです。


写真が不鮮明ですが、聖徳太子立像です。室町時代作の木像で像高66.2cm、現状は両手首先、両足先などが失われています。親鸞が聖徳太子を厚く信仰したことから初期の真宗では太子像が作られ、常陸大宮市には9体の聖徳太子像が残っているそうです。


快慶作と伝わる阿弥陀如来立像は胎内銘には元禄6年(1693)七条仏師により修復されたと記されています。


阿弥陀院は、正式名称が五仏山阿弥陀院西蓮寺という真言宗豊山派の寺院です。


現在は奈良県の長谷寺の末寺ですが、もともとは那須一族が祈願寺として那須福原に建立した宝持山金剛寿院伝法寺の末寺でした。那珂川流域での真言宗布教の拠点として金剛寿院の影響力は大きく、この地方に金剛寿院の末寺が数多く存在した記録が残っているそうです。佐竹氏の勢力下でもあった当地方が那須氏支配地との国境にあったという状況が分かります。


六地蔵が迎える本堂は、天保期の寺社改革と幕末維新の廃仏毀釈の騒乱を耐えてきましたが、明治35年の暴風により堂宇が破損し、修復して現在の姿になりました。


煌びやかな中にも荘厳な雰囲気が漂う本殿内部です。


本尊の阿弥陀三尊像は、鎌倉時代末期作の檜寄木造りで中尊85cm、脇侍93cmです。
阿弥陀如来坐像は來迎印を結んで結跏趺座(けっかふざ)し、両脇侍は観音菩薩と勢至菩薩像で条帛(じょうはく)と裳をまとって両足をかがめています。
新編常陸国誌には阿弥陀如来像と勢至菩薩像は水戸市の六地蔵寺から移したという記述があるそうです。


戦国時代の作と伝わる彩色された木製不動明王立像です。不動明王は大日如来の化身として信仰されてきました。


別室に並べられた十王図は、死語に冥界で10人の王の裁きを受けそれによって来世が決まるという信仰を絵画にしたもので、一組11幅の十王図が江戸時代後半作のものなど2組が掲げられています。


最初に訪れた常弘寺では、午後からの公開だったので寺の外観だけのご紹介です。


常弘寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は玉川山宝寿院、親鸞二十四輩第二十番の霊場で、昔から多くの信仰を受けてきました。


寺伝によると…、開基の慈善は後鳥羽院の朝臣であった壷井重義で、讒言によって京を追われる身となり正治元年(1199)、諸国を巡る旅に出たという。武蔵国と相模国を経て常陸国に入り、玉川沿いの太子堂にたどり着いた重義は、ここで一夜を明かすことになった。夜半になって枕辺に聖徳太子が現れ、「これより西南に高僧がおられ説法をなさっている。そのかたは阿弥陀如来の化身である。汝よ、早く行って教法を聞くがよい」と夢告を受けたのである。重義はこの指示に従い、稲田の親鸞聖人を訪ねて教えを聞き帰依し、慈善という法名を賜ったと伝わります。
太子堂にて念仏の日々を過ごした慈善は、後に嘉禄元年(1225)親鸞聖人より常弘寺の号を賜り、この地に仏閣を建立したと伝えられています。(親鸞聖人像です)


元々あった太子堂の由来はかなり古く、大化元年(645)に現在の奈良県の橘寺より、聖徳太子自作の像を移して祀ったのが起源であると伝えられています。なお本堂に現存の聖徳太子像は室町時代の作と推定されています。


木鼻の獅子をはじめ素晴らしい彫刻が施された鐘楼です。


境内で見つけました。カラスウリ(烏瓜)とツバキ(椿)が頬寄せ合っているツーショットは、なにか微笑ましい仏像を見るような気がしました。

いま各地の寺院には、若い人のお寺離れによる檀家の減少や葬儀や法事の簡素化による収入減、そして寺院後継者の不足など時代の変化に伴う諸要因が押し寄せているようです。
地域の歴史と密接に結びついている寺社の消滅は寂しいことです。このような催しがお寺に親しんでもらう一助になればと、思った以上に多い曝涼参加者を見て感じました。

上大羽地区の遺産群…中世宇都宮氏の歴史

2024年11月10日 | 歴史散歩

栃木県益子町の上大羽地区は、中世鎌倉時代の宇都宮氏に係わる神社仏閣などの歴史遺産が多数残されており、日本遺産「かさましこ」の構成遺産の一部をなしています。


「かさましこ」の茨城県笠間市と栃木県益子町は、東日本屈指の窯業地として同系統の文化圏にあり、また11世紀から約500年間この笠間と益子を治めた宇都宮氏は、都の貴族との接点を持ちながら宗教、文化という側面でも大きな足跡をこの地に残しました。


大羽山地蔵院は、宇都宮氏3代朝綱が長男業綱の菩提を弔うために建久3年(1192)に創建した一村山尾羽寺を前身とする寺院です。朝綱は建久5年(1194)に公田横領の罪で土佐国へ配流、2年後に許されると尾羽寺に入って「尾羽入道寂心」を名乗って隠棲し、宇都宮氏の菩提寺として境内に浄土庭園などを整備し、初代、2代の墓所を設けました。


地蔵院本堂は、室町時代中期に尾羽寺の阿弥陀堂として造営されたもので、天文11年(1542)に現在地に移築され、江戸時代の後期には尾羽寺の後継寺院となった地蔵院の本堂となりました。
室町時代の阿弥陀堂の貴重な大型建築遺構として国の重要文化財に指定されています。


室町初期の建築とされる観音堂は、昭和58年に解体修理され、その時に茅葺きの上に銅板を被せました。


大きな山門が建っています。大羽山極楽寺地蔵院、真言宗智山派のお寺です。


山門の近くで黄色い菊が咲いていました。ヤクシソウ(薬師草)は日本全国に分布し晩秋まで咲くキク科の二年草で、かっては花や花茎を乾燥させたものが腫物や凍傷に効用があるとされました。


鶴亀の池跡です。3代朝綱が隠棲して寺域整備を行ったときに造成した浄土庭園の一部が残っています。


池のそばの参道に赤い実が輝いていました。ヒヨドリジョウゴ(鵯上戸)と思いましたが、調べてみるとマルバノホロシのような気がします。どちらもナス科でこの時期赤い実が山野を彩ります。



3代業綱が設けた宇都宮氏の墓所は、墓守の家臣を置き初代からの歴代当主を葬ってきました。慶長2年(1597)には22代国綱が秀吉により突然改易されても、多くの家臣が仕官せず土着し墓を守り続けたと伝わります。


初代宗円より大正時代の33代正綱まで、五輪塔29基、石碑4基が並び、最大のものは塔高172㎝…約900年の歴史の重みを感じる一画です。
国綱の子23代義綱は寛永年間に水戸藩の家臣となり高家格百人扶持となり、家督を継いだ隆綱は1,000石を賜り子孫は明治維新まで水戸藩に仕えたと伝わります。天保11年(1840)の江水御規式帳には中寄合、宇都宮権太郎朝綱800石と出ています。


宇都宮氏はこうして江戸時代になっても水戸藩重臣として存続していたので墓所も守られていたものと思われます。



綱神社は、公田横領の疑いで土佐に配流された3代朝綱が、土佐の一の宮である賀茂神社に領地に戻ることを祈願し早期釈放が叶ったため、賀茂神社を勧請して建久5年(1194)土佐明神として建立しました。朝綱に因んで綱神社と親しくよばれていたので、明治維新を期に改称したと伝わります。


本殿は、室町時代の大永年間(1521~1528)の建築で、美しい曲線の茅葺き屋根が質素な佇まいながら歴史を感じさせてくれます。国の重要文化財に指定されていますが、屋根の傷みが気になりました。


隣にあるのが、同じく国の重文指定の大倉神社、大同2年(807)近隣西方の地にある愛宕山の大倉林に創建され、社殿は大永7年(1527)の建立とされています。現在地への移転は昭和になってからのようですが、こちらも傷みが目に付きました。


境内に季節外れのスミレが、それも数多く咲いていました。


この一帯は石仏、石碑群が道路沿いに多く見られることで知られています。



大きな馬頭尊の石碑が建っていました。裏面に安政4年2月 芦沼村大石工 石井弥市と刻されていました。


鄙びた農村地帯で大きな道路の敷設や開発もなかったために、北関東の名族、宇都宮氏の歴史遺産がそのまま残っており、暫し中世の世界に浸ることができました。

武茂(むも)城址…中世300年の歴史を秘めて

2024年10月29日 | 歴史散歩

栃木県那珂川町にある武茂城は、鎌倉幕府の評定衆であった宇都宮景綱の三男泰宗が正応元年(1288)に武茂荘14郷を領し武茂氏を名乗り築きました。その後本家宇都宮家を相続するために何度か武茂氏は途絶えますが、戦国時代に再興した武茂兼綱は東隣の佐竹氏と争いを繰り返すも苦戦を重ね、永禄年間(1558~1570)には佐竹氏の傘下に入り、戦国末期の配置替えまでの約300年間この地を治めました。


武茂氏は小田原戦後に常陸国に配置換えになり、武茂城は佐竹氏家臣の太田五郎左衛門資景が城主となりましたが、関ケ原の戦い後、佐竹氏の秋田移封にともない廃城となり、江戸時代になるとこの一帯は水戸徳川家の所領となります。
なお、佐竹氏に従い秋田に移った武茂氏は、大舘城代佐竹西家の家老職を代々務めたと伝わっています。


城跡は那珂川町の中心部の那珂川と支流の武茂川を臨む河岸段丘にありますが、その尾根の両側の谷を挟み、東側尾根には武茂東城、西側尾根には武茂西城があり、東西からの敵を防ぐ出城的な役割をしたと思われます。(今回は支城の踏破はしていません)



静神社の155段の急石段が武茂本城の入り口になっています。あまり急段のため隣の女坂を登りました。


静神社は大同年間(806~809)誉田別命((ほむたわけのみこと)を祀る八幡神社として郷内にあり武茂氏の守護神として崇敬されていましたが、元禄年間に水戸藩2代藩主徳川光圀公が廃城となった武茂城の南端に静神社として遷座し、手力男命(たぢからをのみこと)を併祀しました。
当時、常陸国では光圀公による寺社改革で八幡神社が廃社改編されており、その一端として領地の武茂でもその施策を実行し、常陸二ノ宮の静神社を分祀し、名前も変えたといわれています。


さて、静神社の急坂から3段の腰曲輪を登ると三の丸、二の丸、本丸と続く連郭式山城になっています。


三の丸から二の丸へ深い堀があり土橋が架かっています。


二の丸の平地は広く、木製の台座が2基置かれていましたが休憩用でしょうか、訪れる人もいないように思いますが。


二の丸の奥に鳥居があり、一段と高いところが本丸櫓になっています。静神社の奥の院の役割をしていたのかもしれません。


本丸跡の木製標柱はほとんど文字が消えています。一段と高い約20㎡くらいのこの土壇が本丸櫓台とされます。西側の本丸とされる1画も広くないので、実際はすぐ下の二の丸が主郭のようです。


本丸奥の西側は深さ6mくらいの堀切に落ち込んでいます。


城址の斜面に咲いていた野菊、カントウヨメナ(関東嫁菜)、当時も城兵の行き来を眺めていたのでしょうか。



武茂本城の東側の谷にあるのが曹洞宗の龍澤山大渓院乾徳寺で、武茂氏中興の祖6代兼綱が建立し、武茂氏の菩提寺としました。


入り口には武茂氏初代武茂康宗の銅像が建っていました。地方豪族の銅像というのは珍しく感じましたが、康宗は父宇都宮景綱の影響を受け、鎌倉や京都歌壇との交流が深く、後拾遺和歌集などの勅撰歌集に15首の秀作が載る文化人でした。


武茂家の家紋(三巴紋)が刻された山門は、切妻、銅板葺き、一間一戸の四脚門で武茂城の大手門を移築したと伝わる安土桃山時代の建築様式で、安永2年(1773)の改修棟札が残されています。


境内には数多くの石仏が優しい顔で迎えてくれました。


明応8年(1499)耕山寺(常陸太田市)11世舜芳和尚を招き開山したのが始まりと伝えられています。
元禄2年(1689)、正徳5年(1715)改修の棟札が残っていますが、明治36年(1903)民家の火災により七堂伽藍が焼失、9年後に復興しています。


本堂奥の山腹にある武茂氏300年の歴代墓碑は、享保16年(1731)に散逸していたものをここに集めたと記された古文書が残っているそうです。それぞれの時代を反映した宝篋印塔が並んでいました。


白い山茶花の淡い紅が、陽の陰った谷間の境内でひときわ目を惹きました。


なお城域の西麓にある武茂山十輪寺馬頭院は、真言宗豊山派の寺院で、寺伝では建保5年(1217)の開山、当時の本尊は地蔵菩薩で寺名は「勝軍山地蔵院十輪寺」で武茂氏の崇敬を得て隆盛していました。

江戸時代になると、この地方は水戸藩の領地となり、元禄5年(1692)2代藩主徳川光圀公が訪れて、当山の本尊を馬頭観世音菩薩に、そして寺名も馬頭院と改めました。
その際、この地方の郷の名「武茂」も「馬頭」に改めたとされています。



小さな町ですが地方豪族の史跡がまとまって残っていて、短い時間でしたが充分に中世から江戸時代への変遷の歴史を味わうことができました。

天狗党の乱で消失の水戸藩遺跡…反射炉と夤賓閣 ②

2024年09月24日 | 歴史散歩
幕末水戸藩の元治甲子の乱(天狗の乱)で焼失した反射炉と夤賓閣(ひたちなか市那珂湊)、②は夤賓閣のご紹介です。

夤賓閣(いひんかく)は、水戸藩第2代藩主徳川光圀公が、太平洋に面した日和(ひより)山と呼ばれる台地に元禄11年(1698年)に建設した藩の別邸で、湊御殿、浜御殿、別館ともよばれていました。夤賓閣の名称は中国の書『暁典』の「夤賓日出・(つつしんで日の出をみちびく)」という文から採り、接待所や迎賓館という意味を持つそうです。


もともと那珂湊には、天正18年(1590)以降、水戸領主になった佐竹氏の湊御殿が台地北側の山下にあって水戸藩成立後も使用され、光圀公も何度かこの御殿を訪れてこの地方の寺院整備や蝦夷地探検の快風丸の製造などを指揮したといわれています。隠居後にその集大成として機能を拡大した夤賓閣が建設されました。

夤賓閣の当時を伝えるものはあまり現存せず、彰考館所蔵のものを模写した「湊御殿敷地図」(原図は水戸空襲で焼失)、平成18年に古書店で見つかった「夤賓閣図」、それに天保10年(1839)水戸藩に招聘された農政学者長島尉信が訪れた記録が主なものですが、それをもとに夤賓閣復元研究会で作った想像図が現地案内板に載っています。

建坪は約300坪(約1000㎡)、一部は地形を利用した2重構造だったと推定されています。20畳敷きの御座の間や御寝所のほか御小姓部屋や御医師部屋など大小30以上の部屋で構成されています。
東側と南側は礫岩が露出する岸壁の上の高台に築山式枯山水庭園が造られ、築山と石組みが配置され見事な黒松が植えられた大名庭園の趣を伝えていたといわれています。


また、台地の東側の突端には異国船番所があり、海防の備えの役目も担っていました。いまは東屋が立っている先の崖上あたりでしょうか。


その後、定府制の水戸藩藩主の帰国の際にはこの湊御殿が別荘として使われることもあり、また貴賓の接待や家臣への慰労などにも使用されました。光圀公が御殿入りの際には、近隣の華蔵院、願入寺、六地蔵寺、久昌寺などの住職が招かれ、酒宴や詩歌の会が催されたと伝わっています。

この夤賓閣は幕末の水戸藩の内乱、天狗党の乱ともいわれる元治甲子の乱(1864)でこの一帯が激戦地になりすべて破壊消失されてしまいました。


跡地は「湊公園」として整備され、当時の松が12株、庭石などとともに残っています。


この松は光圀公が源氏物語でも知られる須磨明石(兵庫県)から苗木を取り寄せたといわれる樹齢約350年以上の見事な黒松です。


永い歴史を生き抜いた黒松、激動のいろんな場面を見てきた太い幹は何も語ってはくれません。


御殿のあった辺りには湊公園ふれあい館が建っています。ここの2階で私が当番の時に句会を開いたのは7年前の9月…、その句会もコロナ禍を期に解散となって、当時のメンバーもお二人が他界された今ここを訪れると、季節の移ろいの早さが身に染みました。
天狗党の乱では、現在は海門橋が架かっている那珂川を挟んだ両岸から、大砲や銃撃戦が行われました。


標高21mの日和山と、西側に砲台のような台地が、南側の那珂川を見下ろしています。天狗党の乱ではここを砲台として対岸との激しい戦闘が行われました。しかし幕府の軍艦による砲撃は正確に威力を発揮するのに、水戸藩で作った大砲は敵までとどかなかったという話も残っています。


日和山から見た南側には、那珂川と合流する涸沼川 その向こうに筑波山が見えます。夤賓閣建設から約320年、反射炉からは約170年…今も滔滔と流れる那珂川河口に面した二つの遺跡周辺では、夏の喧騒も過ぎ静かな季節に入っています。文明は大きく進歩しましたが、約14km北にある東海第二原発が再稼働問題で揺れている現在を、先人たちは雲の上から見ているでしょうか。


300年以上生き抜いてきた黒松の下にはツルボ(蔓穂)の花があざやかな色を見せていました。


天狗党の乱で消失の水戸藩遺跡…反射炉と夤賓閣 ①

2024年09月17日 | 歴史散歩

幕末水戸藩の元治甲子の乱(天狗党の乱)で焼失した反射炉と夤賓(いひん)閣(ひたちなか市那珂湊)…、①は反射炉のご紹介です。昭和12年(1937)に復元されています。


今から約200年前の幕末の水戸藩では、外敵の脅威が現実になってきたため9代藩主の徳川斉昭公が寺院の梵鐘などを供出させて(そのために幕府より謹慎処分を受けました)造ったのは銅製臼砲で、射程距離が短く威力に乏しいため、高性能の鉄製の大砲を鋳造する反射炉の必要性に迫られていました。

嘉永6年(1853)斉昭公の腹心藤田東湖が旧知の三春藩士熊田嘉門に相談したところ、南部藩の大島総左衛門が反射炉に詳しいということで、藤田が模型を作らせると大島は薩摩藩の竹下正右衛門の協力で完成、早速斉昭公は3人それぞれの藩主に水戸藩への出向許可を取ります。

製作の元締めとなった水戸藩の佐久間貞介は建設地を湊村の吾妻台と決め、反射炉の先進地薩摩藩へ技術習得に派遣した地元の飛田与七が反射炉製作の棟梁となりました。


建設地の約1キロの北西の地、中丸川が那珂川に合流する右岸には、中丸川の水力を利用して反射炉で鋳造された円柱状の砲身を内刳(うちぐり)して穴を開け、仕上げを行う水車場も造られました。



跡地に建つ水車場の案内版には水力で砲身に穴をあける仕組みが描かれています。


安政2年(1855年)に飛田与七の設計により着工し、翌年に完成しましたが、元治甲子の乱(1864年)で焼失してしまいました。水車場跡地には案内版と石碑が建っているだけです。


また耐火煉瓦の土は水戸藩領の下野小砂(馬頭)の土が最適として敷地内に耐火煉瓦の製造所も建て、薩摩の竹下が連れてきた煉瓦焼成の名人福井仙吉が担当しました。

復元された煉瓦焼成窯です。


安政元年(1854)水戸藩は反射炉建設資金として幕府より1万両の借り入れをして地鎮祭を行います。安政3年(1856)鋳造が始まりますが完成品に至らず、台風被害などで反射炉での大砲鋳造は滞り、藩の軍事訓練場である那珂川畔の神勢館に設置された大砲製造所で銅製大砲の鋳造を続けざるを得ませんでした。

反射炉の仕組みが市のパンフレットと現地案内板に出ていました。



燃料(木炭、石炭、コークスなど)は鉄材と離して燃焼部に置き、燃焼すると熱風と燃焼ガスがドーム状の壁に反射して高温となり鉄材を溶かします。解けた鉄は炉内の斜面を下り湯口から落ちて大砲の鋳型に流し込まれます。

安政6年(1859)やっとモルチール砲、カノン砲の製造が順調になった祝いの酒宴の席に斉昭公が国元永蟄居になった報せが届きました。反射炉は操業停止になり再開の見込みもないまま、元締めの佐久間貞介は失意の中で自刃、出向してきた3人もそれぞれ各藩に戻りました。

※砲の写真は名古屋刀剣ワールドのウェブページよりお借りしました。

翌安政6年には斉昭公も逝去し柱を失った水戸藩では藩内抗争が激化していきます。文久2年(1863)飛田与七が中心となって反射炉の稼働が再開しますが、翌年の元治元年(1864)に天狗党の乱が起こると那珂川を挟んだこの一帯が2か月に及ぶ攻防の激戦地となり、反射炉と夤賓(いひん)閣は跡形もなく消失破壊されてしまいました。



結局ここで造られた大砲は約20数門ということですが、先行していた佐賀藩や薩摩藩には、量的にも質的にも遠く及ばず、特に外国製のアームストロング砲などとの性能の差は歴然で、その後の戊辰戦争で証明されてしまいました。

しかし盛岡藩の大島高任がこの反射炉の銑鉄を得るため藩内の釜石に築いた大橋様式香炉は日本の近代製鉄の原点とされ、やがて技術者を派遣した八幡製鉄へと進化し、大島は「日本近代製鉄の父」とよばれました。このことから水戸藩の反射炉は我が国の製鉄業の発展に大きく寄与したという評価もされています。


なおこの反射炉は、那珂湊出身の弁護士・深作貞治氏が、陸軍省から土地を購入し、私財を投じて昭和12年(1937)に使われていた煉瓦も再利用して実物大で復元したものです。


反射炉の煙突の間にある建立趣旨の碑には、東郷平八郎元帥の絶筆という「護国」の字が刻まれています。平八郎の甥である東郷吉太郎が反射炉研究家であったことが縁となって実現したそうです。


この反射炉で作られていたカノン砲の複製が置かれています。


反射炉に上る石段の上には水戸藩小石川上屋敷にあった山上門が、反射炉を再建した深作貞治氏により昭和11年に移築されて市に寄贈されました。

もと上屋敷の正門右側にあり、勅使奉迎のために設けられたもので、幕末には、佐久間象山、西郷隆盛、橋本左内などが、この門を出入りしたといわれています。門は、後に小石川邸の山上に移されたので山上門と言われるようになりました。


薬医門形式のこの門は 東京空襲で焼失した水戸藩上屋敷の唯一残った建築物として貴重な門になっています。

また、反射炉に使う煉瓦の原料を採取した下野小砂村では、その後大金彦三郎が自ら現地に陶窯を築きました。

現在では小砂(こいさご)焼として知られ、金色を帯びた黄色の金結晶や桃色がかった辰砂など、素朴な中にも上品な色合いの陶器を数軒の窯元が世に出しています。(写真は小砂焼きのウェブページよりお借りしました)




復元された耐火煉瓦の焼成窯から見る南西方向には、水車場のあった那珂川と遠くに筑波山が見え、手前には令和の平和な街の暮らしが広がっていました。