顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

浄妙寺(ひたちなか市)…那須与一の玄孫開基

2025年01月13日 | 歴史散歩
源平の争乱屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一(2代宗隆)の玄孫で6代那須資村の開基と伝わる松日山浄妙寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。※玄孫とは曽孫(ひまご)の子、やしゃごです。



境内にある平成11年建立の本堂改修碑によると…

那須与一宗隆5代の孫那須肥前の守資村の開基なり。資村世の無常を感じ親鸞聖人の弟子となり信願坊と号し諸国を行脚し専修念仏を広む。晩年明法坊弁円の往生を聞き墓参の帰途当地大塚浜の郷侍安藤丹羽守清信の館に立寄り弥陀の本願念仏を伝え村民を教化す。留まること3年すでに年老い建治元年(1275)3月21日81歳をもって寂す。清信は信願坊の死を嘆き悲しみ村民とともに霞ノ浦西方に葬り塚を築き信願堂を建て念仏す。時を経て永正2年(1505)2月三河国浄妙寺14代超淳の弟超義(信空)わが先祖信願の墳墓を探らんとこの地に来たり庄屋黒澤清衛門の発願により信願堂を再建す。元亀元年佐竹義重公の寺地寄進により天正2年(1574)浄妙寺創建、以来420有余年連綿として法灯は継承され今日に至る。源義公光圀の寄進保護あれども世の無常有為転変は免れず火風兵乱の災禍再三に及べり。然しながら門信徒信力結集して寺堂を再建し聞法の道場と成す…(後略)



なお下野国東北を支配した那須氏は、藤原道長の六男・長家の孫資家(貞信)を祖とし須藤氏を称していましたが、那須資隆(太郎)の時から那須氏を称しその子が那須与一で、5代目あとが資村になります。(異説あり)

資村が出家した後の那須氏は、鎌倉幕府の有力御家人となり、室町時代には結城氏や佐竹氏と並んで、関東八屋形のひとつに数えられました。その後上那須家と下那須家に分裂して争い、宇都宮氏や佐竹氏との抗争にも明け暮れ、豊臣秀吉の小田原征伐には遅参したため所領を没収されますが那須資景に5千石を宛行われ、かろうじて改易は免れます。※関東八屋形 / 宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、下野那須藩1万4千石の大名となりますがお家騒動(烏山騒動)などにより改易され、以後1千石の交代寄合として明治維新を迎えました。


写真は那須氏の烏山城祉です。ここを拠点に東の常陸国を領する佐竹氏との争いが繰り広げられました。



さて、浄妙寺の航空写真(Google map)です、東側に海水浴で知られる阿字ヶ浦が見えます。


本堂には室町時代末期作のご本尊の阿弥陀如来像が安置されていますが、会館大広間にもある阿弥陀如来像は江戸時代初頭制作で徳川家康公より寄進されたと伝わります 。


短いながらも雰囲気充分な参道が南側に敷かれています。


重厚な山門が迎えてくれます。


那須氏の家紋は「丸に一文字」ですが、軒丸瓦や懸魚にびっしり付いている寺紋は出自の藤原氏の「下がり藤」でした。


鐘楼での除夜の鐘は、一般の方にも開放しているそうです。


本堂脇には枯山水の要素を取り入れた日本庭園、手入れが行き届いていました。

鎌倉時代からの長い歴史と貴重な逸話が残っていますが、今は地域の人たちとの交流を大切にしたいろんなイベントで親しまれているお寺でした。現在のご住職は21代那須信彰さんです。


酒列磯前神社…逆さに列なる岩礁

2025年01月07日 | 歴史散歩


酒列磯前(さかつらいそざき)神社は太平洋に面した初詣の隠れた名所、その変わった名前の由来は…。神社の東に面した太平洋の海岸は、8000万年前の中生代白亜紀の砂岩、泥岩、礫岩からなる太古の地層が褶曲隆起して、柔かい部分は波に侵食され、硬い部分が残って鋸の刃のようになり、奇妙にもほとんどが南に約45度傾いて列なっています。


この海岸岩礁は古来より神磯とよばれる神聖な場所とされ、その一部が反対の北に傾いていることから、「逆(さか)さに列(つら)なる磯(いそ)の前(さき)にある神社」となり、後に酒の神様を祀ることから「逆」が「酒」となったとされます(異説あり)。


白亜紀層とよばれるこの磯は、潮が引いたときに小魚やヤドカリなどが捕れるので、娘や孫の小さいときには遊ばせるのに絶好のポイントでした。またアンモナイトなどの化石ハンターと出会ったこともありました。


神社は太平洋に面し、東側が白亜紀層の岩礁地帯、北側は緩やかな入り江状になって磯崎港、阿字ヶ浦海水浴場、常陸那珂港、東海村原子力研究所などが並んでいます。


大鳥居をくぐると樹齢300年を越えるツバキ、タブノキ、スダジイなどが鬱蒼と覆うトンネル状の参道が300mも続きます。


参道と神社周りのこの広葉樹林は茨城県の天然記念物に指定されています。


社伝では、斉衡3年(856)常陸国鹿島郡大洗の海岸に御祭神大名持命・少彦名命が御降臨になり、「私は大名持命(おおなもちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)である。日本の国を造り終えてから東の海に去ったが、いま再び民衆を救うために帰ってきた。」と託宣され、少彦名命が主祭神の「酒列磯前神社」がここに創建され、また同時期に南隣の大洗町には大名持命が主祭神の「大洗磯前神社」が創建されました。


創建翌年には官社に列せられ、更に「酒列磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。また延喜の制では名神大社に、明治18年には国幣中社に大洗磯前神社と共に列されました。本殿の後ろにも巨木が覆っています。


海の見える鳥居としての撮影スポットが樹叢トンネルの途中にあります。


神楽殿にはさすが酒の神さまなので、地元の酒蔵の奉納酒樽が神輿と一緒に飾られています。主祭神の少彦名命は医薬、醸造の神でもあり、百薬の長である酒の神として特に崇敬を集めています。


境内社と斉昭公腰掛石、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が、境内で行われたヤンサマチという競馬祭を見物する際に腰をかけたと伝わっています。


幸運の亀といわれるこの石像は、頭をなでると宝くじのご利益があると評判です。というのは近くの超大型ホームセンターの宝くじ売り場で年末ジャンボに合わせた当選祈願祭をここの神職が施行しており、その高額当選者がお礼に奉納した亀石像だそうです。


北側の高台には、水戸藩6代藩主治保公が、当時白砂青松の海岸と西に阿武隈の山を望む風光明媚なこの地を賞賛し、寛政2年(1791)に比観亭と名付けた「お日除け」(東屋)を建てさせたという碑があります。この比観亭に掲げられた扁額は、彰考館総裁立原翠軒が筆をとり桜の板に彫刻したもので、隣地の酒列磯前神社に保管されているそうです。


比観亭跡から見える常陸那珂港は、北関東の新たな国際流通拠点として整備され、高速道路と直結した日本で唯一の港湾です。火力発電所の煙突が見えます。


下に見える小さな漁港、磯崎港は、仙人が釣りに夢中の頃に通った気に入りのポイントで、岩場に型のいいアイナメが潜んでいました。


青森県が北限のヤブツバキ(藪椿)は、この辺では海沿いに多く自生していますが、背が高い木が多いので、参道でも落ちているのを見て初めて気が付きます。

昭和38年奈良の平城宮跡の発掘調査で出土した多量の木簡の中に「常陸国那珂郡酒烈埼所生若海菜」と記された墨書文字が発見されました。今から約1300年前の昔、酒列磯前神社に奉納したこの地方のわかめを天平文化の栄えた奈良の平城宮まで頒納されていたのです(神社ウエブページ)。



神話の中で国づくりに力を合わせた兄弟を祀る古社、大洗磯前神社と酒列磯前神社は、太平洋に面した清冽な地に位置し、歴史も場所も初詣にはピッタリの神社と感じました。
※大洗磯前神社は弊ブログ「大洗磯前神社…海沿いに4つの鳥居」 2021.7. 18 で紹介したことがあります。

間もなく除夜の鐘…お寺と鐘楼

2024年12月26日 | 歴史散歩
大晦日は、古い年を除く日という意味から「除日(じょじつ)」ともいわれていました。この除日の夜、つまり除夜に撞く「除夜の鐘」は、108ある人間の煩悩を消し去り新しい年を迎えるために、その数だけ撞くとされています。



この梵鐘を吊るした建物は鐘楼とよばれますが、楼門と一緒になった鐘楼門や下層が袴腰になっているものなどいろんな形があり、歴史散歩でお訪ねした寺院で撮った鐘楼を並べてみました。(なお紹介したお寺では、除夜の鐘を撞かないところもあります)

源頼朝の創建と伝わる臨済宗妙心寺派の長勝寺(潮来市)の鐘楼は、下層が袴の裾のように広がっている袴腰付きです。

元徳2年(1330)の銘のある梵鐘は、鎌倉幕府14代執権の北条高時が頼朝の菩提のために寄進したもので重要文化財に指定されています。



善光寺(長野市)の鐘楼は江戸時代後期建立の入母屋造檜皮葺き、切石積基壇上に南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられています。

小江戸といわれる川越市の天台宗喜多院、下層が門になっている袴腰付鐘楼門です。

梵鐘の銘にある元禄15年(1702)に建てられた鐘楼ともども重要文化財に指定されています。


雨引山楽法寺(桜川市)は、アジサイと雨引観音の名で知られる真言宗のお寺です。

ここでは鐘楼堂とよばれる華麗な建物は、建長6年(1254)に宗尊親王により建立され、その後二度再建された文政13年(1830)のもので、屋根だけは瓦葺きに葺き替えられています。

真言宗の華蔵院(ひたちなか市)の梵鐘(※上記タイトル下のイメージ写真)には幸運な歴史が残っています。

江戸時代後期、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が大砲鋳造のため、領内の梵鐘を集めましたが、暦応2年(1339)の銘のある浄因寺(現、満福寺(常陸大宮市))の鐘は、幸いに鋳つぶされることを免れ、後にこの華蔵院に据えられたと伝わっています。

鐘楼門で知られる阿弥陀寺(那珂市)は、土塁や堀の残る中世の額田城の一画にある浄土真宗のお寺です。水戸藩2代藩主徳川光圀公御手植えと伝わる樹齢320年の枝垂れ桜が咲く春には桜まつりで賑わいます。

親鸞聖人が建保4年(1214)那珂西郡大山(城里町)に開いた念仏の道場、大山禅房阿弥陀寺を明徳3年(1392)額田城主小野崎氏が額田城内に移し守護寺としました。


臨済宗の江畔寺(常陸大宮市)は、佐竹氏の一族小瀬義春が康永3年(1344)、小瀬城の大手門前に菩提寺として建立しました。



西光院(大洗町)は応永5年(1398)宥祖上人の開山で、寺号を古内山宝性寺西光院と称し京都醍醐寺無量寿院末の真言宗のお寺です。

西蓮寺(行方市)は奈良時代の延暦元年(782)に桓武天皇の勅願により最澄の弟子である最仙によって創建されたと伝えられる天台宗の古刹です。

最仙上人お手植えと伝わる銀杏の巨樹2株の黄葉が彩る境内に建つ重層の鐘楼には、直線的な袴腰が付いています。


「親鸞聖人法難の地」として知られる浄土真宗の大覚寺(石岡市)、京都の天竜寺庭園を模したとされる「裏見無しの庭」が名所になっています。


浄土真宗の大山寺(城里町)の境内では、意匠を凝らした木組みと流線的な袴腰が美しい鐘楼がひときわ目を惹きました。


茅葺き、袴腰付の小じんまりとした鐘楼は、浄土真宗の無量寿寺(鉾田市)にあり享保12年(1727)の棟札が残っているそうです。本堂も茅葺きでしたが2021年火災により焼失、鐘楼は免れましたが本堂はいま再建工事中です。


宝金剛院(常陸太田市)は真言宗のお寺で、久慈川流域を支配した久自国造舟瀬足尼(すくね)の墳墓と伝えられる全長は160mの前方後円墳、梵天山古墳の南麓にあります。


神社に鐘楼?……東金砂神社(常陸太田市)にある鐘楼は、神仏混合時代の遺産で、明治の廃仏毀釈によって廃寺となった別当寺・東清寺の名残だそうです。


真言宗の仏国寺(城里町)の鐘楼に吊るされた梵鐘には貞享元年(1864)の銘があり、明治の廃仏稀釈で建物は破壊されましたが境内の外れにあったため難をのがれたと伝わります。

最後は柴又帝釈天(東京都葛飾区)、正式な名は経栄山題経寺という寛永6年(1629)開山の日蓮宗の寺院です。

ここは松竹映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんで有名になり、この大鐘楼も今は亡き佐藤蛾次郎演ずる源ちゃんが時を知らせる鐘を鳴らす場面に出てきました。


この一年拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。

暗い話題の方が多かった年でした…せめて五輪や大谷君の活躍で暫し気を晴らせていただきましたが、新しい年には世界各地の紛争が終息し平和な地球になることを切に願いたいと思います。

どうぞよいお年をお迎えください。

立野神社…山里に長い歴史の式内社

2024年12月07日 | 歴史散歩

「式内社」は「延喜式内社」ともいい、律令制度による支配を行った大和国家で平安時代中期の延喜5年(905)に編集された「延喜式」の中の、当時の官社(律令制の神祇官または国司の祀るべき神社)として神名帳に載っている神社のことです。


式内社は全国で3132座(祭神の数)、2861社(神社の数)が記載されており、それらは約1200年前に実在した由緒正しい、格の高い神社ということになります。
常陸国では大社7座7社(いずれも名神大社)、小社21座20社の計28座27社が記載され、常陸大宮市ではこの立野神社だけです。

立野(たての)神社は、社伝では約1400年前の大化2年(646)に久自国造の物部氏の一族、立野連が現在地から約1キロ離れた西塩子との境の立野山の山腹に祖神を祀ったのが始まりとされています。


その後、天正年間(1573~1592)にこの一帯を治めていた佐竹氏の一族の小瀬庄三郎義隆が、現在地にあった白幡山の鹿島神社に合祀して立野鹿島神社と称して、小瀬の総鎮守としましたが、その後いつの頃からか立野神社と呼ばれるようになったと伝わります。


木製の鳥居は、近辺では珍しい本柱の前後にそれぞれ低い控え柱を設けた両部鳥居です。


大きな石をくり抜いた手水舎はこじんまりとしてまわりの景観に溶け込んでいます。

御祭神は級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなつとべのみこと)で、風の神とされ、風を防ぐことから五穀豊穣の神、嵐除けの神としても地域の人々に信仰されてきました。

天保5年(1834)水戸藩9代藩主徳川斉昭公より地方二十一石寄付され、また、明治5年(1872)には最後の藩主だった昭武公より水戸家重宝の塗弓一張が奉納されました。


本殿の千木は外削ぎ、鰹木は5本でした。千木の削ぎ方や鰹木の数で男神、女神を分けるという説は現在では俗説とされているようですが。


伊勢神宮遥拝門…500キロ以上離れた伊勢神宮に行かなくてもここから遥拝することができます。


茨城県北の2社5寺で「佐竹七福神巡り」を設けており、ここは大黒天でした。


摂社が多く中には小さいながら凄い彫刻の施された社もありました。

見事な龍の彫刻と木鼻まで付いた摂社は稲荷神社です。


本殿の下には緒川が流れています。約10キロ南で那珂川に合流し、那珂湊で太平洋に流入します。

左右の狛犬は長い年月を経て表情がまろやかになったような気がします。


神輿殿には社紋の左三つ巴の入った金色の神輿が格納されていました。


6月初旬に行われる境内社の素鵞(そが)神社の祇園祭ではこの神輿の渡御があり、静か山里は威勢のいい喧騒につつまれるそうです。(※写真はチャレンジ茨城県民運動HPよりお借りしました)

昔の儘のたたずまいを残すこの緒川地域には1100世帯ほどが散在しているだけですが、地域の方々に崇敬され、ともに長い歴史を刻んできた神社の姿を見ることができました。

曝涼とは…貴重な文化財の虫干し(常陸大宮市)

2024年11月21日 | 歴史散歩
曝涼(ばくりょう)」とは、秋の好日に書籍や所蔵品などを外気に当ててカビや虫を防ぐことで、古代中国から伝わった行事が平安時代には年中行事として定着していました。10月下旬から11月上旬に行われる「正倉院の曝涼」は晩秋の季語にもなっています。



茨城県北の常陸太田市と常陸大宮市では、市内の十数か所の寺院で一斉に集中曝涼を一般公開する例年の催しがあり、今回初めて常陸大宮市の3寺院を訪ねてみました。


Googleの航空写真に訪問したお寺を落とし込んでみたら、ゴルフ場の多さにびっくりしました。


法専寺は山号が楢原山法徳院の親鸞二十四輩第十九番の浄土真宗大谷派の寺院です。


寺伝によると開基は平清盛の孫という平能宗でのちに修験者となった播磨公弁円です。建暦2年(1212)佐竹秀義に招かれてこの地に法徳院を建立、門徒百余名を数えたと伝えられますが、建保2年(1214)に常陸に来住した親鸞が布教を始めると妨害しようと板敷山で待ち伏せしますが、親鸞の尊顔に心打たれて帰依し、弟子となって明法と名乗ったという有名な話が残っています。


やがて嘉禄2年(1226)に法徳院近くに明法が建立した寺院が法専寺の始まりと伝えられています。明法は建長3年(1251)に72歳で往生し、法泉寺の南西70mの地に明法の墓と伝えられる塚があります。


住職さんによる丁寧な説明がありました。


本尊の阿弥陀如来木像は、江戸時代初期の作で像高38.8cm、金泥が施されています。


親鸞坐像は、室町時代の木像で像高40.9cm、目に玉眼が嵌入され帽子(もうす)を首に巻いています。


明法坐像は、室町時代作の木像で像高46cm、笈(おい)の中に安置され、先々代の住職まではこの笈を担いで遠方まで布教に行ったそうです。


写真が不鮮明ですが、聖徳太子立像です。室町時代作の木像で像高66.2cm、現状は両手首先、両足先などが失われています。親鸞が聖徳太子を厚く信仰したことから初期の真宗では太子像が作られ、常陸大宮市には9体の聖徳太子像が残っているそうです。


快慶作と伝わる阿弥陀如来立像は胎内銘には元禄6年(1693)七条仏師により修復されたと記されています。


阿弥陀院は、正式名称が五仏山阿弥陀院西蓮寺という真言宗豊山派の寺院です。


現在は奈良県の長谷寺の末寺ですが、もともとは那須一族が祈願寺として那須福原に建立した宝持山金剛寿院伝法寺の末寺でした。那珂川流域での真言宗布教の拠点として金剛寿院の影響力は大きく、この地方に金剛寿院の末寺が数多く存在した記録が残っているそうです。佐竹氏の勢力下でもあった当地方が那須氏支配地との国境にあったという状況が分かります。


六地蔵が迎える本堂は、天保期の寺社改革と幕末維新の廃仏毀釈の騒乱を耐えてきましたが、明治35年の暴風により堂宇が破損し、修復して現在の姿になりました。


煌びやかな中にも荘厳な雰囲気が漂う本殿内部です。


本尊の阿弥陀三尊像は、鎌倉時代末期作の檜寄木造りで中尊85cm、脇侍93cmです。
阿弥陀如来坐像は來迎印を結んで結跏趺座(けっかふざ)し、両脇侍は観音菩薩と勢至菩薩像で条帛(じょうはく)と裳をまとって両足をかがめています。
新編常陸国誌には阿弥陀如来像と勢至菩薩像は水戸市の六地蔵寺から移したという記述があるそうです。


戦国時代の作と伝わる彩色された木製不動明王立像です。不動明王は大日如来の化身として信仰されてきました。


別室に並べられた十王図は、死語に冥界で10人の王の裁きを受けそれによって来世が決まるという信仰を絵画にしたもので、一組11幅の十王図が江戸時代後半作のものなど2組が掲げられています。


最初に訪れた常弘寺では、午後からの公開だったので寺の外観だけのご紹介です。


常弘寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は玉川山宝寿院、親鸞二十四輩第二十番の霊場で、昔から多くの信仰を受けてきました。


寺伝によると…、開基の慈善は後鳥羽院の朝臣であった壷井重義で、讒言によって京を追われる身となり正治元年(1199)、諸国を巡る旅に出たという。武蔵国と相模国を経て常陸国に入り、玉川沿いの太子堂にたどり着いた重義は、ここで一夜を明かすことになった。夜半になって枕辺に聖徳太子が現れ、「これより西南に高僧がおられ説法をなさっている。そのかたは阿弥陀如来の化身である。汝よ、早く行って教法を聞くがよい」と夢告を受けたのである。重義はこの指示に従い、稲田の親鸞聖人を訪ねて教えを聞き帰依し、慈善という法名を賜ったと伝わります。
太子堂にて念仏の日々を過ごした慈善は、後に嘉禄元年(1225)親鸞聖人より常弘寺の号を賜り、この地に仏閣を建立したと伝えられています。(親鸞聖人像です)


元々あった太子堂の由来はかなり古く、大化元年(645)に現在の奈良県の橘寺より、聖徳太子自作の像を移して祀ったのが起源であると伝えられています。なお本堂に現存の聖徳太子像は室町時代の作と推定されています。


木鼻の獅子をはじめ素晴らしい彫刻が施された鐘楼です。


境内で見つけました。カラスウリ(烏瓜)とツバキ(椿)が頬寄せ合っているツーショットは、なにか微笑ましい仏像を見るような気がしました。

いま各地の寺院には、若い人のお寺離れによる檀家の減少や葬儀や法事の簡素化による収入減、そして寺院後継者の不足など時代の変化に伴う諸要因が押し寄せているようです。
地域の歴史と密接に結びついている寺社の消滅は寂しいことです。このような催しがお寺に親しんでもらう一助になればと、思った以上に多い曝涼参加者を見て感じました。