顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

圓福寺と鳥羽田城址…中世鳥羽田氏の史跡

2025年02月08日 | 歴史散歩

茨城町鳥羽田(とりはた・地元では とっぱた)にある天台宗圓福(えんふく)寺、鹿島神社、鳥羽田城址は、茨城町史に「永享7年(1435)、鳥羽田地頭大檀那鳥羽田大隅守、法叡山高岳院圓福寺を建立し、同時に地内に鹿島神宮の分霊を勧請」と出ているのを見つけ、鳥羽田氏の関連するこの史跡を訪ねてみました。


しかしWikipediaでは、弘仁3年(812)慈覚大師円仁によって開山されたという記述もあり、詳細は分かりませんが、従来あった圓福寺を鳥羽田氏が中興開山したということでしょうか。


数度の災害で記録などを失ったとされていますが、江戸時代前期の「新編常陸国誌」によると黒子村(現真壁郡関城町)千妙寺末で水戸十ヵ寺のひとつ、除地二石余、末寺二ヵ寺、門徒七ヵ寺を有したとされています。さらに、鳥羽田城址に隣接して龍含(りゅうがん)寺が明治時代まであり、廃寺になった際に阿弥陀如来三像を圓福寺に移管したという記述もあります。(茨城町史)


こちらは旧本堂、昭和34年(1959)の建築です。


この地は小栗判官が生涯を終えたところとされ、この小栗堂に小栗判官とその妻照手姫の像が安置されています。小栗判官の居城は筑西市で出自が同じ常陸平氏ですが、この伝承には伝説的な要素が多く、各地に所縁の地が多く残っています。


収蔵庫には、国指定重要文化財で鎌倉初期作の木造阿弥陀如来座像と、県指定で室町時代作の絹本著色阿弥陀如来図などが収納されています。


本尊の阿弥陀如来坐像は、水戸東照宮の別当寺大照院から明治初期に圓福寺に移管されました。胎内の墨書銘によると鎌倉時代の建保5年(1217)に大照院に始めて安置され、後の慶長(1596~1615)および嘉永年間(1848~1854)に修理されています。水戸藩9代藩主徳川斉昭公の寺社改革により別当寺は廃止され、さらに明治維新の廃仏稀釈のときに移されたのでしょうか。
(写真出典/茨城町商工会ホームページ)




広くない境内ですが鐘楼、地蔵像などが整然と配置されて清々しい気持ちのお寺でした。


大きな天水鉢には天台宗の宗紋が中央に、上部には寺紋の武田菱が付いていました。


永享7年(1435)に鳥羽田大隅守が圓福寺内に建立したと伝わる鹿島神社は、別当寺が圓福寺なので、どちらも鳥羽田氏の菩提寺と守護神だったのでしょうか。



元禄12年(1699)水戸藩2代藩主徳川光圀公が鹿島神社に御立山一反歩を下され現在の地に分離し、享保11年(1726)本社を造営、大正元年(1912)に村社に列格されました。(茨城町史)

鳥羽田城址は寛政川支流の逆川右岸にある北へ突き出た標高15m程度の台地先端にあります。鹿島氏の一族とされる鳥羽田氏は、小幡城や海老沢城などの周辺の在地領主と同じく水戸城の江戸氏に臣従していました。


B郭に居館を置いた城跡は簡単なつくりで、しかもBの東南部分は農地などに改変されて遺構は消滅しています。Google mapの航空写真に茨城町史に載っている縄張り図をはめ込んでみました。

さて戦国末期の鳥羽田氏ですが、天正18年(1590)12月19日、秀吉から常陸国の所領を安堵された佐竹氏に攻められて主君の江戸氏は滅亡、江戸重通は水戸城を脱して妻の実家である結城氏のもとへ逃れ、鳥羽田越中守、その子大学助もその後を追いましたが、途中の八郷町河原井の禅院にて重通より暇をもらい鳥羽田に戻って帰農したと伝わります。
現在でもこの近辺には同じ姓の方々がいらっしゃるそうです。

度重なる火災で寺の歴史を証明するものは残っていないようですが、境内に立派な収蔵庫も建てられたので、重要文化財などを未来へしっかり伝えることができるようになりました。



橿原(かしはら)神宮…那珂湊(茨城県)にもあった!

2025年01月26日 | 歴史散歩
奈良県橿原市にある橿原神宮は神武天皇が即位したと伝わる橿原宮の跡に建つ神社として有名ですが、ひたちなか市那珂湊にもあるのを、近くに住んでいながら初めて知りました。


社伝によると創建されたのは元明天皇の和銅年間(708~715)といわれ、最初は涸沼のほとり石崎村升原(茨城町中石崎)というところに鎮座したと伝わります。



仁寿年間(851-854)に湊村の宮山町(明神町)に奉還され、延長5年(927)に常陸大掾の平国香が崇敬した桓武・崇道両天皇を合祀し、そのころから柏原大明神と称されてきました。
常陸大掾の祖、平国香は承平5年(935)に甥の平将門に攻められて焼死していますが、当時この一帯にも勢力を伸ばしてきた桓武天皇を祖とする常陸平氏一族の守護神としたのでしょうか。


社殿は徳川時代の寛文12年(1672)に炎上し、同年8月に富士ノ上に遷され、以来353年の歳月が経過しています。


さて海を見下ろす台地上に駐車場もありますが、急な階段を上って参拝です。


那珂湊港と太平洋を見下ろす高台で、地名が「富士の上」というのもなにか謂れがありそうですが…。


南方には関東平野に屹立する筑波山周辺の山々が連なっています。


入母屋造りの豪壮な拝殿には16菊紋が付いています。水戸藩主2代徳川光圀公、6代治保公、9代斉昭公の参拝記録が残っており、斉昭公は剣と馬を寄進し剣はいまも社宝として残っているそうです。


本殿は神明造りで伊勢神宮と同じ、冬空に鋭角に聳える姿は、厳粛そのものでした。


本殿を取り囲む瑞垣正面に建つ奥門もどっしりとした入母屋造りです、塀の隙間から撮りました。

調べてみるとこの那珂湊の橿原神宮の方がずっと昔から橿原神宮を名乗っていたことになりますが、江戸時代に火災に遭っているためか、創立時の社名や由来などの詳細は不明な点も多く、その分想像をかき立てられました。


※奈良県橿原市にある橿原神宮は、明治22年(1889)に神武天皇即位とされる畝傍山東南の橿原宮址への神社創建を民間有志が請願し、認可した明治政府は、社殿として京都御所の内侍所(賢所)と神嘉殿の2棟が下賜されました。翌年(1890)1月に移築完了、3月には社号を橿原神宮とし、官幣大社に列せられることになりました。

浄妙寺(ひたちなか市)…那須与一の玄孫開基

2025年01月13日 | 歴史散歩
源平の争乱屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一(2代宗隆)の玄孫で6代那須資村の開基と伝わる松日山浄妙寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。※玄孫とは曽孫(ひまご)の子、やしゃごです。



境内にある平成11年建立の本堂改修碑によると…

那須与一宗隆5代の孫那須肥前の守資村の開基なり。資村世の無常を感じ親鸞聖人の弟子となり信願坊と号し諸国を行脚し専修念仏を広む。晩年明法坊弁円の往生を聞き墓参の帰途当地大塚浜の郷侍安藤丹羽守清信の館に立寄り弥陀の本願念仏を伝え村民を教化す。留まること3年すでに年老い建治元年(1275)3月21日81歳をもって寂す。清信は信願坊の死を嘆き悲しみ村民とともに霞ノ浦西方に葬り塚を築き信願堂を建て念仏す。時を経て永正2年(1505)2月三河国浄妙寺14代超淳の弟超義(信空)わが先祖信願の墳墓を探らんとこの地に来たり庄屋黒澤清衛門の発願により信願堂を再建す。元亀元年佐竹義重公の寺地寄進により天正2年(1574)浄妙寺創建、以来420有余年連綿として法灯は継承され今日に至る。源義公光圀の寄進保護あれども世の無常有為転変は免れず火風兵乱の災禍再三に及べり。然しながら門信徒信力結集して寺堂を再建し聞法の道場と成す…(後略)



なお下野国東北を支配した那須氏は、藤原道長の六男・長家の孫資家(貞信)を祖とし須藤氏を称していましたが、那須資隆(太郎)の時から那須氏を称しその子が那須与一で、5代目あとが資村になります。(異説あり)

資村が出家した後の那須氏は、鎌倉幕府の有力御家人となり、室町時代には結城氏や佐竹氏と並んで、関東八屋形のひとつに数えられました。その後上那須家と下那須家に分裂して争い、宇都宮氏や佐竹氏との抗争にも明け暮れ、豊臣秀吉の小田原征伐には遅参したため所領を没収されますが那須資景に5千石を宛行われ、かろうじて改易は免れます。※関東八屋形 / 宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、下野那須藩1万4千石の大名となりますがお家騒動(烏山騒動)などにより改易され、以後1千石の交代寄合として明治維新を迎えました。


写真は那須氏の烏山城祉です。ここを拠点に東の常陸国を領する佐竹氏との争いが繰り広げられました。



さて、浄妙寺の航空写真(Google map)です、東側に海水浴で知られる阿字ヶ浦が見えます。


本堂には室町時代末期作のご本尊の阿弥陀如来像が安置されていますが、会館大広間にもある阿弥陀如来像は江戸時代初頭制作で徳川家康公より寄進されたと伝わります 。


短いながらも雰囲気充分な参道が南側に敷かれています。


重厚な山門が迎えてくれます。


那須氏の家紋は「丸に一文字」ですが、軒丸瓦や懸魚にびっしり付いている寺紋は出自の藤原氏の「下がり藤」でした。


鐘楼での除夜の鐘は、一般の方にも開放しているそうです。


本堂脇には枯山水の要素を取り入れた日本庭園、手入れが行き届いていました。

鎌倉時代からの長い歴史と貴重な逸話が残っていますが、今は地域の人たちとの交流を大切にしたいろんなイベントで親しまれているお寺でした。現在のご住職は21代那須信彰さんです。


酒列磯前神社…逆さに列なる岩礁

2025年01月07日 | 歴史散歩


酒列磯前(さかつらいそざき)神社は太平洋に面した初詣の隠れた名所、その変わった名前の由来は…。神社の東に面した太平洋の海岸は、8000万年前の中生代白亜紀の砂岩、泥岩、礫岩からなる太古の地層が褶曲隆起して、柔かい部分は波に侵食され、硬い部分が残って鋸の刃のようになり、奇妙にもほとんどが南に約45度傾いて列なっています。


この海岸岩礁は古来より神磯とよばれる神聖な場所とされ、その一部が反対の北に傾いていることから、「逆(さか)さに列(つら)なる磯(いそ)の前(さき)にある神社」となり、後に酒の神様を祀ることから「逆」が「酒」となったとされます(異説あり)。


白亜紀層とよばれるこの磯は、潮が引いたときに小魚やヤドカリなどが捕れるので、娘や孫の小さいときには遊ばせるのに絶好のポイントでした。またアンモナイトなどの化石ハンターと出会ったこともありました。


神社は太平洋に面し、東側が白亜紀層の岩礁地帯、北側は緩やかな入り江状になって磯崎港、阿字ヶ浦海水浴場、常陸那珂港、東海村原子力研究所などが並んでいます。


大鳥居をくぐると樹齢300年を越えるツバキ、タブノキ、スダジイなどが鬱蒼と覆うトンネル状の参道が300mも続きます。


参道と神社周りのこの広葉樹林は茨城県の天然記念物に指定されています。


社伝では、斉衡3年(856)常陸国鹿島郡大洗の海岸に御祭神大名持命・少彦名命が御降臨になり、「私は大名持命(おおなもちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)である。日本の国を造り終えてから東の海に去ったが、いま再び民衆を救うために帰ってきた。」と託宣され、少彦名命が主祭神の「酒列磯前神社」がここに創建され、また同時期に南隣の大洗町には大名持命が主祭神の「大洗磯前神社」が創建されました。


創建翌年には官社に列せられ、更に「酒列磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。また延喜の制では名神大社に、明治18年には国幣中社に大洗磯前神社と共に列されました。本殿の後ろにも巨木が覆っています。


海の見える鳥居としての撮影スポットが樹叢トンネルの途中にあります。


神楽殿にはさすが酒の神さまなので、地元の酒蔵の奉納酒樽が神輿と一緒に飾られています。主祭神の少彦名命は医薬、醸造の神でもあり、百薬の長である酒の神として特に崇敬を集めています。


境内社と斉昭公腰掛石、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が、境内で行われたヤンサマチという競馬祭を見物する際に腰をかけたと伝わっています。


幸運の亀といわれるこの石像は、頭をなでると宝くじのご利益があると評判です。というのは近くの超大型ホームセンターの宝くじ売り場で年末ジャンボに合わせた当選祈願祭をここの神職が施行しており、その高額当選者がお礼に奉納した亀石像だそうです。


北側の高台には、水戸藩6代藩主治保公が、当時白砂青松の海岸と西に阿武隈の山を望む風光明媚なこの地を賞賛し、寛政2年(1791)に比観亭と名付けた「お日除け」(東屋)を建てさせたという碑があります。この比観亭に掲げられた扁額は、彰考館総裁立原翠軒が筆をとり桜の板に彫刻したもので、隣地の酒列磯前神社に保管されているそうです。


比観亭跡から見える常陸那珂港は、北関東の新たな国際流通拠点として整備され、高速道路と直結した日本で唯一の港湾です。火力発電所の煙突が見えます。


下に見える小さな漁港、磯崎港は、仙人が釣りに夢中の頃に通った気に入りのポイントで、岩場に型のいいアイナメが潜んでいました。


青森県が北限のヤブツバキ(藪椿)は、この辺では海沿いに多く自生していますが、背が高い木が多いので、参道でも落ちているのを見て初めて気が付きます。

昭和38年奈良の平城宮跡の発掘調査で出土した多量の木簡の中に「常陸国那珂郡酒烈埼所生若海菜」と記された墨書文字が発見されました。今から約1300年前の昔、酒列磯前神社に奉納したこの地方のわかめを天平文化の栄えた奈良の平城宮まで頒納されていたのです(神社ウエブページ)。



神話の中で国づくりに力を合わせた兄弟を祀る古社、大洗磯前神社と酒列磯前神社は、太平洋に面した清冽な地に位置し、歴史も場所も初詣にはピッタリの神社と感じました。
※大洗磯前神社は弊ブログ「大洗磯前神社…海沿いに4つの鳥居」 2021.7. 18 で紹介したことがあります。

間もなく除夜の鐘…お寺と鐘楼

2024年12月26日 | 歴史散歩
大晦日は、古い年を除く日という意味から「除日(じょじつ)」ともいわれていました。この除日の夜、つまり除夜に撞く「除夜の鐘」は、108ある人間の煩悩を消し去り新しい年を迎えるために、その数だけ撞くとされています。



この梵鐘を吊るした建物は鐘楼とよばれますが、楼門と一緒になった鐘楼門や下層が袴腰になっているものなどいろんな形があり、歴史散歩でお訪ねした寺院で撮った鐘楼を並べてみました。(なお紹介したお寺では、除夜の鐘を撞かないところもあります)

源頼朝の創建と伝わる臨済宗妙心寺派の長勝寺(潮来市)の鐘楼は、下層が袴の裾のように広がっている袴腰付きです。

元徳2年(1330)の銘のある梵鐘は、鎌倉幕府14代執権の北条高時が頼朝の菩提のために寄進したもので重要文化財に指定されています。



善光寺(長野市)の鐘楼は江戸時代後期建立の入母屋造檜皮葺き、切石積基壇上に南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられています。

小江戸といわれる川越市の天台宗喜多院、下層が門になっている袴腰付鐘楼門です。

梵鐘の銘にある元禄15年(1702)に建てられた鐘楼ともども重要文化財に指定されています。


雨引山楽法寺(桜川市)は、アジサイと雨引観音の名で知られる真言宗のお寺です。

ここでは鐘楼堂とよばれる華麗な建物は、建長6年(1254)に宗尊親王により建立され、その後二度再建された文政13年(1830)のもので、屋根だけは瓦葺きに葺き替えられています。

真言宗の華蔵院(ひたちなか市)の梵鐘(※上記タイトル下のイメージ写真)には幸運な歴史が残っています。

江戸時代後期、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が大砲鋳造のため、領内の梵鐘を集めましたが、暦応2年(1339)の銘のある浄因寺(現、満福寺(常陸大宮市))の鐘は、幸いに鋳つぶされることを免れ、後にこの華蔵院に据えられたと伝わっています。

鐘楼門で知られる阿弥陀寺(那珂市)は、土塁や堀の残る中世の額田城の一画にある浄土真宗のお寺です。水戸藩2代藩主徳川光圀公御手植えと伝わる樹齢320年の枝垂れ桜が咲く春には桜まつりで賑わいます。

親鸞聖人が建保4年(1214)那珂西郡大山(城里町)に開いた念仏の道場、大山禅房阿弥陀寺を明徳3年(1392)額田城主小野崎氏が額田城内に移し守護寺としました。


臨済宗の江畔寺(常陸大宮市)は、佐竹氏の一族小瀬義春が康永3年(1344)、小瀬城の大手門前に菩提寺として建立しました。



西光院(大洗町)は応永5年(1398)宥祖上人の開山で、寺号を古内山宝性寺西光院と称し京都醍醐寺無量寿院末の真言宗のお寺です。

西蓮寺(行方市)は奈良時代の延暦元年(782)に桓武天皇の勅願により最澄の弟子である最仙によって創建されたと伝えられる天台宗の古刹です。

最仙上人お手植えと伝わる銀杏の巨樹2株の黄葉が彩る境内に建つ重層の鐘楼には、直線的な袴腰が付いています。


「親鸞聖人法難の地」として知られる浄土真宗の大覚寺(石岡市)、京都の天竜寺庭園を模したとされる「裏見無しの庭」が名所になっています。


浄土真宗の大山寺(城里町)の境内では、意匠を凝らした木組みと流線的な袴腰が美しい鐘楼がひときわ目を惹きました。


茅葺き、袴腰付の小じんまりとした鐘楼は、浄土真宗の無量寿寺(鉾田市)にあり享保12年(1727)の棟札が残っているそうです。本堂も茅葺きでしたが2021年火災により焼失、鐘楼は免れましたが本堂はいま再建工事中です。


宝金剛院(常陸太田市)は真言宗のお寺で、久慈川流域を支配した久自国造舟瀬足尼(すくね)の墳墓と伝えられる全長は160mの前方後円墳、梵天山古墳の南麓にあります。


神社に鐘楼?……東金砂神社(常陸太田市)にある鐘楼は、神仏混合時代の遺産で、明治の廃仏毀釈によって廃寺となった別当寺・東清寺の名残だそうです。


真言宗の仏国寺(城里町)の鐘楼に吊るされた梵鐘には貞享元年(1864)の銘があり、明治の廃仏稀釈で建物は破壊されましたが境内の外れにあったため難をのがれたと伝わります。

最後は柴又帝釈天(東京都葛飾区)、正式な名は経栄山題経寺という寛永6年(1629)開山の日蓮宗の寺院です。

ここは松竹映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんで有名になり、この大鐘楼も今は亡き佐藤蛾次郎演ずる源ちゃんが時を知らせる鐘を鳴らす場面に出てきました。


この一年拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。

暗い話題の方が多かった年でした…せめて五輪や大谷君の活躍で暫し気を晴らせていただきましたが、新しい年には世界各地の紛争が終息し平和な地球になることを切に願いたいと思います。

どうぞよいお年をお迎えください。