顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

華蔵院の梵鐘…まもなく除夜の鐘

2022年12月30日 | 歴史散歩
除夜の鐘を参拝者が撞ける寺院を調べていたら、ひたちなか市の華蔵院が出てきました。
県の文化財に指定せれているこの寺の梵鐘には、幸運にも歴史の波にさらわれずに済んだ話が残っていました。

この梵鐘は、「もともとは那珂郡上檜沢村(現常陸大宮市)の浄因寺(後に満福寺)にあったものが、天保年間に水戸藩9代藩主徳川斉昭による大砲鋳造のために徴収されて、那珂湊に運ばれました。結局、大砲鋳造の原料としてつぶされることなく残ったのは、幸いなことでした。 その後、明治時代に華蔵院の所有となりました。」(茨城県教育委員会)

「江戸時代後期、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が大砲鋳造のため、領内の全梵鐘は鋳つぶされたはずだったが、浄因寺(現、満福寺)の鐘は鋳つぶされることなく残った。理由は明らかでないが、その銘から当時としても由緒ある古鐘ということを理解した心ある者たちによって守られた、と考えることができる。」(満福寺ホームページ)


まずこの鐘は、造られた浄因寺が水戸藩2代藩主徳川光圀の寺院整理で破却されその跡地に末寺の満福寺が移ってきたという来歴をもちます。その後斉昭が海防強化のため寺院の梵鐘などを供出させ天保12年(1841)、水戸城下の神崎に溶解炉を建設し青銅製の大砲を鋳造しましたが、強硬な供出は反発を招き、のちに斉昭の謹慎隠居の一因にもなりました。そのためか「海岸防御のため、諸寺院の梵鐘、本寺の外古来の名器及び当節時の鐘に用い候分は除き、その余り大砲小銃に鋳換えるべき」という太政官符も出されています。この頃にこの梵鐘が供出されたのでしょうか。
その後青銅製の大砲は品質、性能などが落ちるということで 安政2年(1855)、この華蔵院直ぐ上の台地に鉄製の大砲を造る反射炉を建設し、先行した佐賀、薩摩、韮山や各藩も鉄製の大砲の時代に移ってきました。
このような当時の状況と由緒ある名器を大事にする善意が運よく働いて、「領内で凡そ600余」という梵鐘の鋳潰しを免れたのかもしれません。


梵鐘の銘文によると、南北朝時代の暦応2年(1339)に、源義長(佐竹氏一族の中賀野義長)が大工圓阿に製作させたと記されています。鎌倉時代の典型的な梵鐘の形で、高さは117cm、口径は69cmです。なお、中賀野義長は奥州支配を目指した足利尊氏が奥州総大将に任命した斯波家長の有力な侍大将として名が残っています。


大きなお寺です。寺伝では応永年間(1394~1428)、宥尊の開基と伝えられている真言宗智山派の寺院で、号は戒珠山密厳寺(かいじゅさんみつごんじ)です。
この地区ではあまり見たことのない2階建ての本堂です。

徳川幕府より朱印地15石を受け、境内には七堂伽藍、四塔堂、六供院などがありましたが、元治元年(1864)元治甲子の乱(天狗党の乱)の兵火により、寺宝とともに焼失、明治14年(1881)現在の堂宇が再建されました。

山門は南に面していますが、この他に東側には立派な仁王門が建っています。


その仁王門です。傍の石碑には、元治甲子の乱でも唯一消失を免れましたが、明治35年暴風で倒壊し、昭和32年那珂湊出身の弁護士深作貞治ご夫妻の寄進で再建されたと記されています。


仁王門の側面です。彩色された木鼻のいろんな動物が別世界のような華やかさを出しています。


そういえば見事な彫刻がいたるところで見られました。写真は上段が瑠璃光殿(薬師堂)、下段は本堂です。


仁王門のすぐ右側にある龍神堂は、船舶や漁業の鎮護神である八大龍王を祀ってあり、「漁運」「順風」「豊漁」などと書かれた燈篭が並び、漁港としても知られる那珂湊の漁業関係者の厚い崇敬を集めているようでした。


さて、その後の戦時中の金属供出も免れた幸運の梵鐘の音色は如何に…?残念ながら仙人の棲み処はここから直線で約7キロ、聞こえそうにもありません。
しかし、幕末の水戸藩内抗争、元治甲子の乱では、那珂川をはさんで砲銃撃の激しい戦いがここで行われました。その犠牲者の御霊には、平和の鐘の音がきっと届くことでしょう。
※この戦いは「磯浜海防陣屋と日下ヶ塚古墳 2022.12.21」で紹介させていただきました。

今年も拙いブログにご訪問いただきありがとうございました。
どうぞよいお年をお迎えください。

そば処市川…絶妙な組み合わせ

2022年12月26日 | 食べログ
間もなく年越しそばの季節です。名店として茨城新聞社の「常陸秋そば50店」で紹介されている、ひたちなか市十三奉行にあるそば処市川を訪ねました。

4車線道路に面し、駐車場も広く出入りも容易な立地にあります。


頼んだのは市川御膳というセットです。天ぷらは新鮮な海老と湯葉とパブリカ3種、小鉢にはごま豆腐とエリンギの味付け、お稲荷(または梅と高菜のおにぎり)が付いていました。食後にはコーヒーも…、蕎麦屋さんでは初めての経験です。どれも絶妙な組み合わせで蕎麦を引き立てています。

蕎麦は、常陸秋そばを石臼(電動)で挽いた二八蕎麦、あまり専門的な食レポは苦手ですが、固さ、のど越し、香り…、少し辛めのそばつゆも仙人好みでした。

店内は黒と茶を基調とした落ち着いた佇まいで、椅子席と小上がり、一人掛けのカウンター席も多く用意されています。酒のメニューが何枚かあり、銘酒の一升瓶もあちこちに飾られてあるので、多分日本酒党の店主かなと嬉しくなります。
接客の女性たちも声がよく出て感じがよく、食後のコーヒーまでも厳選された味…店主の気配りが隅々まで行き届いているのを感じました。

ところで前から気になっていたここの十三奉行という地名を調べてみました。
八幡太郎義家が蝦夷征討軍を率いて奥州からの帰路、敵に内通していたことが分かったこの地の13人の奉行を打ち首にしたという言い伝えからの地名のようです。

源義家の伝説は近在にいろいろ残っていますが、当時の陸奥への街道はここより15キロくらい西側にあったとされています。

磯浜海防陣屋と日下ヶ塚古墳(大洗町)

2022年12月21日 | 歴史散歩

幕末水戸藩の元治甲子の乱で攻防の舞台になった磯浜海防陣屋は、水戸藩9代藩主徳川斉昭が領国の近海に姿を現した外国船に対処するために天保5年(1834)に設けました。

天保13年(1842)には与力2騎、同心20人、足軽10人が配置され、装備は大砲百匁玉筒を改めて五百匁玉筒とし、車仕掛けのもの三丁、玉は一丁に付20発計60発を常備したという記録が残っています。


陣屋は海を臨む標高約23m比高約15mの丘陵の先端に位置し、高さ約1.5m、東西約20m、南北約45mの平坦な土壇状の遺構が残っています。ここに望楼や砲台が置かれていたと思われます。


この土壇は、もともとあった「日下ヶ塚古墳」を崩した土で盛り上げたとされています。4世紀前半の築造とされる前方後円墳で全長103.5m、眼前に鹿島灘、背後に那珂川、涸沼川を控え、水上交通を掌握した大きな権力者の墳墓とされています。
もちろん当時の情勢では貴重な古墳の遺跡保存などという考えはなかったことでしょう。


前方後円墳の「前方」の部分が半分以上削り取られているのがわかります。


平成24年に行われた範囲確認調査の図面が案内板に書かれていました。方形の半分が消えています。


なおこの一帯は、日下ヶ塚古墳の他に古墳時代前期の約1600~1750年前の古墳が5基発見され、令和2年3月に「磯浜古墳群」として国指定史跡に指定されました。

この海防陣屋周辺が舞台になった元治甲子の乱(天狗党の乱)とは…。
尊王攘夷を掲げて旗揚げした水戸藩内の「天狗党」と門閥派の「諸生党」の争乱を治めるために、元治元年(1864)8月4日、水戸藩10代藩主徳川慶篤は鎮圧のため、名代として御連枝宍戸藩主の松平頼徳を水戸に向かわせますが、途中で榊原新左衛門率いる鎮派(大発勢)、武田耕雲斎の激派などが加わり総勢3000人を超えた一行は、市川三左衛門率いる「諸生党」の勢力下に置かれた水戸城への入城を阻まれます。

そこで大発勢一行は薬王院から長福寺を経て、物資の豊かな那珂湊を目指しますが那珂川の渡河船が対岸に引き上げられており、願入寺と海防陣屋からの砲撃に足止めされますが、8月12日何とか涸沼川を渡河し、海防陣屋を占拠し松平頼徳の本陣とします。海防陣屋を撤退した守備兵などは願入寺に退去しますが、追討の大発勢の前に那珂湊へ退却、この戦いで願入寺は山門を残して燃えてしまいました。

翌13日には、那珂川を挟んで那珂湊の日和山台場からは諸生党側が対岸の岩船山方面に砲撃し、これに応じて大発勢も祝町下の向洲台場から応戦しました。これらの台場は斉昭が外国船の襲来に備えて築いたものですが、皮肉なことに使われたのは、この藩内抗争が最初で最後になってしまいました。

翌14日には、潮来勢といわれる藤田小四郎らの天狗党の精兵500余人が松平頼徳からの要請で合流、勢力を増した大発勢は8月15日、那珂川を渡河しようと攻撃を開始し、砲撃や銃撃を掻い潜って川を渡り、華蔵院や反射炉の敵を破り、諸生党勢は湊御殿に火を放ち水戸へと敗走し、頼徳は焼けた御殿の跡に本陣を設けました。

一方、幕府の命で出兵した近隣諸藩の兵を主力とした幕軍は勢いを盛り返し、那珂川南岸の総攻撃を磯浜村などへ始めました。9月4日には長福寺を本陣にして、大砲を据え付けて磯浜海防陣屋などへも砲撃し、22日には磯浜海防陣屋、西福寺や民家の大部分が焼失しました。
磯浜付近に布陣していた潮来勢などは那珂湊に後退、民家の大半は消失してこの一帯での戦闘は終結し、幕軍が進駐してきました。


さて、その後ですが………9月26日に謀略により幕府軍陣営に誘い出された松平頼徳は、10月5日には切腹させられてしまします。10月23日の戦いでは鎮派の榊原新左衛門ら1,100余名が幕軍に投降し、武田耕雲斎、藤田小四郎、山国兵部ら天狗党強硬派約1000名は包囲された那珂湊を脱出し、当時京都に滞在していた一橋慶喜公を頼って西上の途に就きますが、頼みの慶喜が追討軍を率いていることを聞き12月20日加賀藩に降伏、翌年352人が斬首という近世史上稀にみる悲惨な結末になりました。



海防陣屋から冬の大洗港を見下ろすと、北海道航路のフェリーが2隻泊まっていました。
水戸藩は反射炉を造って大砲の鋳造をした数少ない藩ですが、技術では欧米諸国との差は歴然、実際外国船と砲撃戦になったら打ちのめされていたのは長州、薩摩の例を見ても明らかでした。


古墳の後円部分には散り際の紅葉にツバキ(椿)が寄り添っていました。
外国船に備えたこの砲台がただ一度使われたのは、藩内の仲間同士の戦いだったという、悲しくも哀れな出来事として伝わっています。

師走の公園…いろんな実が色付きました

2022年12月16日 | 季節の花
クリスマスやお正月…、街に赤い色が多くなる季節ですが、庭や野では色彩がめっきり少なくなり、せっかく色付いた木の実も鳥たちにとって美味しいものから先に消えていくようです。

マユミ(真弓)はヒヨドリ、ツグミなどの好物ですが、有毒成分を含むのでもちろん食用不可です。


日本古来の野性バラ、ノイバラ(野茨)の実を食べた記事が出ていました。甘酸っぱい味とか、鳥は好物のようですが、漢方では下剤として使うそうなので、2,3粒にしておいた方がよさそうです。


ウメモドキ(梅擬)は、樹姿と葉の形が梅に似ていることからの命名、実は発芽抑制物質を含むので、鳥が食べて消化器官を通過しないと発芽しにくい仕組みになっているそうです。


リースや生け花に人気のツルウメモドキ(弦梅擬)、この近辺でも里に近い野山ではめっきり少なくなりました。


クチナシ(梔子)の実は、栗きんとんの着色材として知られています。


ネムノキ(合歓木)はやはりマメ科であるのが実を見るとわかります。


鳥の大好物、ネズミモチ(鼠糯)の実は、ネズミの糞に似ているので命名されました。多分若い世代は見たことがないかもしれませんが、仙人世代はなるほどと合点します。


中国原産のトウネズミモチ(唐鼠黐)はあまりにも多量に生る種子が鳥を呼び寄せ、糞拡散で殖え従来生態系に影響を与えるとして「要注意外来生物」に指定されてしまいました。


これは初めて撮ったアオツヅラフジ(青葛篭藤)の実、杉林の中で美味しそうに輝いていましたが有毒植物です。ツルを編んで葛籠などを作るので名が付けられました。


正月の縁起物とされマンリョウ(万両)を散歩道で見つけました。鳥が種子を運んで我が庭にも出現したことがありました。


毎年実をつける庭のフユイチゴ(冬苺)は枯葉で隠しておきますが、餌がない時期なのですぐに見つかり鳥たちの御馳走になってしまいます。


かって一面に優雅な花を咲かせたハス(蓮)の池も、すっかり冬の装いに変わりました。

蓮枯るる満目の中黄の一葉  山口青邨
枯蓮考へてゐて目が動く  岸田稚魚
つつ伏さぬ一茎もなし枯蓮   鈴木貞雄
一斉に傘をつぼめて枯れ蓮   顎鬚仙人

紅葉…色付きの早い木遅い木

2022年12月11日 | 季節の花

今年も充分に楽しませてもらった紅葉…いわゆるモミジ類は同じ場所の木でも、紅葉する時期に1か月くらいの差があるのを見かけます。

個体差といってしまえばそれまでですが、同じ種類でも環境から受ける刺激は少しずつ違い、光の当たり具合や水湿、風、土壌などの外的環境と、色素を作り出す酵素系の違いが複雑に絡み合って起こる現象といわれます。

紅葉の仕組みは、秋も深まり気温も低く日照時間も短くなると、葉と枝を結ぶ葉柄に離層ができ、葉で作られた糖類やアミノ酸類の栄養分が木に供給されず葉に蓄積されたところに、光合成によりアントシアニンという赤色の色素が発生するとされます。

また紅葉時期の差は、各個体や同じ個体でもそれぞれの葉の、紅葉に至る老化の進み具合など、植物のもつ個々の生理的状況にも強く影響を受けるとされます。

人間だって同じ種のホモ・サピエンスなのにいろんな人種がうまれ、同じ日本人でもDNAのわずかな違いや環境状況からいろんな差が出てくるのと同じでしょうか。

この紅葉は古来より日本人の心をとらえ、1200年以上前の万葉集でも多く詠まれています。ただ「もみち」と濁らずに記されており、いわゆるモミジではなく色づいた秋の木の葉を広く指す言葉だったようで、黄葉と書かれています。
万葉の時代には赤よりも黄色のほうが人々に好まれたとする説もあります。

奈良山をにほはす黄葉(もみち)手折(たお)り来て 今夜(こよい)かざしつ散らば 散るとも  三手代人名(みてしろのひとな)
春日野に時雨ふる見ゆ明日よりは 黄葉(もみち)挿頭(かざ)さむ高円の山                                     藤原八束(ふじわらのやつか)


万葉集から約100年後の古今和歌集になると、もみじを紅葉と記すのが普通となり、また紅葉の燃えるような紅の色を強調する歌が多くなりました。

雨降れば笠取山のもみぢ葉は行きかふ人の袖さへぞ照る  
壬生忠岑(みぶのただみね)  
     もみぢ葉の流れてとまるみなとには 紅ふかき波やたつらむ   
                                                               素性法師(そせいほうし)


いずれにしても散るまでの束の間の輝きを愛おしむ美意識が、1000年以上前の日本人にあったということを不肖な子孫の仙人は、ただただ感心するばかりです。

時期をずらして充分楽しませてくれた紅葉の秋から、モノトーンの冬に向かっていつものように時は過ぎてゆきます。