除夜の鐘を参拝者が撞ける寺院を調べていたら、ひたちなか市の華蔵院が出てきました。
県の文化財に指定せれているこの寺の梵鐘には、幸運にも歴史の波にさらわれずに済んだ話が残っていました。
この梵鐘は、「もともとは那珂郡上檜沢村(現常陸大宮市)の浄因寺(後に満福寺)にあったものが、天保年間に水戸藩9代藩主徳川斉昭による大砲鋳造のために徴収されて、那珂湊に運ばれました。結局、大砲鋳造の原料としてつぶされることなく残ったのは、幸いなことでした。 その後、明治時代に華蔵院の所有となりました。」(茨城県教育委員会)
「江戸時代後期、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が大砲鋳造のため、領内の全梵鐘は鋳つぶされたはずだったが、浄因寺(現、満福寺)の鐘は鋳つぶされることなく残った。理由は明らかでないが、その銘から当時としても由緒ある古鐘ということを理解した心ある者たちによって守られた、と考えることができる。」(満福寺ホームページ)
まずこの鐘は、造られた浄因寺が水戸藩2代藩主徳川光圀の寺院整理で破却されその跡地に末寺の満福寺が移ってきたという来歴をもちます。その後斉昭が海防強化のため寺院の梵鐘などを供出させ天保12年(1841)、水戸城下の神崎に溶解炉を建設し青銅製の大砲を鋳造しましたが、強硬な供出は反発を招き、のちに斉昭の謹慎隠居の一因にもなりました。そのためか「海岸防御のため、諸寺院の梵鐘、本寺の外古来の名器及び当節時の鐘に用い候分は除き、その余り大砲小銃に鋳換えるべき」という太政官符も出されています。この頃にこの梵鐘が供出されたのでしょうか。
その後青銅製の大砲は品質、性能などが落ちるということで 安政2年(1855)、この華蔵院直ぐ上の台地に鉄製の大砲を造る反射炉を建設し、先行した佐賀、薩摩、韮山や各藩も鉄製の大砲の時代に移ってきました。
このような当時の状況と由緒ある名器を大事にする善意が運よく働いて、「領内で凡そ600余」という梵鐘の鋳潰しを免れたのかもしれません。
梵鐘の銘文によると、南北朝時代の暦応2年(1339)に、源義長(佐竹氏一族の中賀野義長)が大工圓阿に製作させたと記されています。鎌倉時代の典型的な梵鐘の形で、高さは117cm、口径は69cmです。なお、中賀野義長は奥州支配を目指した足利尊氏が奥州総大将に任命した斯波家長の有力な侍大将として名が残っています。
大きなお寺です。寺伝では応永年間(1394~1428)、宥尊の開基と伝えられている真言宗智山派の寺院で、号は戒珠山密厳寺(かいじゅさんみつごんじ)です。
この地区ではあまり見たことのない2階建ての本堂です。
徳川幕府より朱印地15石を受け、境内には七堂伽藍、四塔堂、六供院などがありましたが、元治元年(1864)元治甲子の乱(天狗党の乱)の兵火により、寺宝とともに焼失、明治14年(1881)現在の堂宇が再建されました。
山門は南に面していますが、この他に東側には立派な仁王門が建っています。
その仁王門です。傍の石碑には、元治甲子の乱でも唯一消失を免れましたが、明治35年暴風で倒壊し、昭和32年那珂湊出身の弁護士深作貞治ご夫妻の寄進で再建されたと記されています。
仁王門の側面です。彩色された木鼻のいろんな動物が別世界のような華やかさを出しています。
そういえば見事な彫刻がいたるところで見られました。写真は上段が瑠璃光殿(薬師堂)、下段は本堂です。
仁王門のすぐ右側にある龍神堂は、船舶や漁業の鎮護神である八大龍王を祀ってあり、「漁運」「順風」「豊漁」などと書かれた燈篭が並び、漁港としても知られる那珂湊の漁業関係者の厚い崇敬を集めているようでした。
さて、その後の戦時中の金属供出も免れた幸運の梵鐘の音色は如何に…?残念ながら仙人の棲み処はここから直線で約7キロ、聞こえそうにもありません。
しかし、幕末の水戸藩内抗争、元治甲子の乱では、那珂川をはさんで砲銃撃の激しい戦いがここで行われました。その犠牲者の御霊には、平和の鐘の音がきっと届くことでしょう。
※この戦いは「磯浜海防陣屋と日下ヶ塚古墳 2022.12.21」で紹介させていただきました。
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