顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

偕楽園の紅葉と茶室の床柱

2015年11月30日 | 水戸の観光
最近は偕楽園公園の南側、徳川ミュージアムに向かう谷がもみじ谷として有名ですが、偕楽園本園内の吐玉泉南側周辺も紅葉がきれいです。今年の紅葉は早いと言うことですでに散り始めて絨毯のようですが、なかなかの風情です。土曜日なのに人影まばら、駐車場はいっぱいなので、もみじ谷へまわった人が多いのでしょうか。


今日は一転して好文亭の茶室「何陋庵(かろうあん)」に向かいました。
と言うのは、江戸末期の1805年(文化2年)掛川藩が掛川偕楽園を造ったときの茶室の床柱が、この好文亭茶室創建時と同じ薩摩の躑躅の古木を二分したものと言われているという情報を眼にしたからです。掛川偕楽園は、その後の天保大飢饉による藩財政逼迫でとても維持できなくなり、荒廃してしまいましたが、茶室の方は何度か移築され、今は川坂屋という脇本陣格の旅籠跡に残っているのが下の写真です。

写真は掛川市のホームページより

水戸の好文亭茶室何陋庵(かろうあん)の床柱は、創建時の躑躅の古木は薩摩藩主島津斉彬公から寄贈されたとされ、終戦13日前の水戸大空襲で好文亭が消失しての再建時には、茨城県知事が熊本営林局長に依頼して似ている躑躅古木をを探し回って、屋久島産の現在のものになったとされています。


確かに下部の曲がり具合など、掛川のものとよく似ています。この茶室自体は、北向きに作られた簡素清朴な草庵風の四畳半で、特徴として、茶室入り口は一般的な躙口(にじりくち)でなく、左右に開く二枚障子による織部口(貴人口)になっています。
この二つの茶室の床柱が兄弟だったという真偽のほどは解明できませんので、当時を思い浮かべて空想の世界に遊ぶしかありません


ふゆいちご

2015年11月25日 | 季節の花
この時期になると山野でも庭でも色彩が乏しくなります。そんな中で目に付く鮮やかな赤、冬イチゴです。
関東以南の山野に分布、この辺でも筑波山、笠間周辺、奥久慈などいたる所で眼にしました。地上に這ったランナーで繁殖しますが、我が家でも花瓶に挿しておいて根が出たものを、庭に植えたら、日陰や湿度などの生育条件が良かったのか、元気に増えました。


バラ科キイチゴ属、常緑匍匐性の小低木、口に含むと酸味は強いがまさしくいちご味、トッピングなどにいいかもしれません。因みに、流通している苺はバラ科オランダイチゴ属の多年草です。

江戸時代中期に医師の寺島良安が編纂した百科辞典「和漢三才図絵」には、「果実は甘く、酸、五臓を安んじ精気を益し、志を強くし、力を倍す。久しく服すれば身を軽くし老いず」という記述があり、 滋養強壮、老化防止の薬効があるとされているそうです。今度山に入ったら、積極的に摘まんでみたいものです。

ひとり来て山の音聞く冬いちご 桑原視草
光あるうち光蓄めおけ冬苺   角川源義

秋色の水戸城三の丸

2015年11月18日 | 水戸の観光
ボランティアの研修会、終わってから水戸城の秋の色を探しました。


まず、三の丸西側の空堀、石垣や天守閣はなくてもやはり御三家にふさわしい規模です。
ギンナン拾いの方も、最近では見かけられなくなりましたが、この土塁と空堀は原形をとどめる形で残っており、石垣がなく,土塁の空堀側法面に小段状の犬走りがあることから,全国的にも珍しい城郭史跡だそうです。
この犬走り部分に植えられた樹齢およそ90年と推測される銀杏の根が張りすぎて,地表面に大きく露出したり、400年という長い年月の中での崩落が進んでいたため,平成18年に修復工事が行われました。


空堀の東側、三の丸旧県庁の土塁上の木々も紅葉が始まっています。三の丸は9代藩主の斉昭公が弘道館を作るまでは、12の重臣屋敷があったところ、すべて立ち退かせて日本一の規模(178,400㎡、54,000坪)を持つ藩校、弘道館を建てました。当時の敷地図を見ると、土塁の内側のこのあたりには馬場があったとあり、百拾四間全幅三間五尺と載っていますので、205.2mもの長さがあったようです。


大手橋付近も、すっかり秋の装いです。
奥行き5.5mもあった大手門の北側で、先日瓦塀が発掘されましたが、その部分はいまシートがかかっています。千枚以上の瓦を使った重厚なつくりで、徳川家の威信を高めようと装飾性を高めたのではないかと言われています。大手門復元に向かっての明るい話題になりました。


二の丸との間の20m以上の深さのある空堀を挟んだ弘道館側にある空き地は、もと法務省官舎跡と聞きましたが、二季桜が見る人もないまま見事に咲いていました。このあたりも、大手門復元のときには統一景観をつくるプランがあるのでしょうか。

百観音(常陸大宮市・旧緒川村那賀)

2015年11月15日 | 山歩き
那珂川大橋から旧緒川に向かって5km、百観音公園があります。標高120m位、駐車場からの比高も60m位の山(男体山と言う名前とか)の南向き斜面に約90体の観音像が点在しているところから、この名が付いたといわれています。


文化六年(1809年)この地、旧緒川村那賀在住の小森清蔵という盲目の人が掘ったとされている石像の観音は、聖観音、千手観音、如意輪観音、十一面観音が主体で、中腹にある洞窟の両側に観音三十七体、最奥には大日如来座像が安置されています。また、この山中にも五十二体の観音像が散在しており、さらに山中に埋もれてしまっているものもあるようです。


洞窟の一番奥にある大日如来像です(ストロボ使用)


観音像のある一帯を過ぎ、最奥の展望台に向かう山道は、落葉の絨毯が敷きつめられ、ひっきりなしに新しい落ち葉が降ってきます。
左側の白い柵内の窪みは、佐竹義宣が金を掘らせた穴の跡という看板が付いています。

徳利提げて巫女帰り行く落葉哉  正岡子規(明治26年)
石仏の目鼻やさしく落葉風   顎鬚仙人

涸沼のハゼ丼

2015年11月14日 | 食べログ


涸沼畔の海側、大洗町松川にある食堂「いきいき」まで、俳句仲間とサイクリング、ここの売りはなんと言ってもハゼの天ぷら、新鮮な地元野菜もたっぷり、からっと揚げられています。しかも広い窓からは涸沼を一望、葭原を飛ぶ大きな鳥が見えたのは、多分オオワシだったかもしれません。


ここ松川という地は、水戸徳川家のご連枝、松川藩2万石の陣屋があったところです。水戸藩藩祖徳川頼房の四男松平頼元が、光圀から2万石を分与されて額田藩を立藩しその後領地を陸奥国守山藩に移されたため、旧領を全て水戸藩に返還し、以後は守山藩として存続しました。
守山藩は明治3年(1870年)、藩庁を守山から常陸国松川に移したため、ここに松川藩が立藩しますが、すぐに廃藩置県となり短い松川藩時代は終わります。(何も残っていないようですが、今度陣屋跡を見てくる気持ちが出てきました。)