顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

長倉城と結城寅寿の墓

2017年08月31日 | 歴史散歩

常陸大宮市(旧御前山村)長倉にある長倉城址は、標高130m、比高約70mの地にありますが、いまは夏草の中その遺構を確かめることはできません。
佐竹氏8代行義の次男義綱が、文保元年(1317)この地に分封されて長倉氏を称し、長倉城を築きました。戦いが続き本家との争いや、足利持氏の6000余騎の大軍で包囲された戦場にもなりましたが、文禄4年(1595)佐竹領内の知行割替えで廃城になりました。

その後徳川頼房の8男、松平頼泰が一門として3000石で独立した松平家が、天保9年(1838)9代松平頼位(後の8代宍戸藩主)の時に、斉昭の命により長倉城の東麓に長倉陣屋を築き、次の代頼譲が3000石で陣屋に移り明治維新まで続きました。
左側の低いところが長倉城の竪堀跡、右方面が陣屋跡と思われます。

長倉城址から約1300m北側の山王山(標高253m)展望台から東側を見ると、多分矢印のなだらかな山が長倉城だと思います。

さて、結城寅寿(諱は朝道)は、文政元年(1818)水戸藩の家老の家に生まれ、保守門閥派の中心人物として藤田東湖ら藩政改革派と対立。弘化元年(1844)藩主斉昭の失脚により,一時は大いに自己の勢力を伸ばしましたが,失脚に関与したとの疑惑を持たれ斉昭の復帰によって弘化4年(1847)に隠居,のち嘉永6年(1853)長倉陣屋に幽閉され,安政3年(1856)死罪となりました。享年39歳。

遺骸は、藩命によって「打ち捨て」とされたようですが、隣地の蒼泉寺住職がこれを憐れんでひそかに寺内に葬り、その後結城家の縁者によって墓石が建てられたと言われています。

南嶽山達磨院蒼泉寺は曹洞宗の古刹、山門には開祖佐竹氏の「五本骨扇に月丸」紋、「南嶽山」の扁額は明の帰化僧で光圀に招かれ水戸の祇園寺を開いた心越禅師の書です。

山川菊栄の「幕末の水戸藩」には、安政3年4月25日、御目付役で北辰一刀流免許皆伝の久木直次郎が部下数人を従えて長倉陣屋に表れ、幽閉中の結城を斬ったが、結城は「ただ一度のご糾明もなく」と叫んでいたという。また、東湖が安政の大地震で亡くなったのを聞いた時、結城は顔色を変え、「東湖は私を憎んでいるがあれだけの人物だから殺しはしない、亡くなったいま、あとの連中は抑え手がなくなり何をするか分からぬ」と嘆いたと書いてあります。

なお、水戸市元吉田の清巌寺にも結城家の墓域があり、その一角に結城寅寿(朝道)、長男の一万丸(種徳)、七之助の合葬墓石があります。一万丸も家禄と屋敷を没収され蟄居処分を受け、寅寿と同じく拘禁されましたが絶食して牢死したといわれています。
七之助は、結城家が絶えることを惜しんだ斉昭公の計らいで、寅寿の娘美智の婿となって結城家を継いだ若年寄大森弥三左衛門の実弟ですが、市川三左衛門に従い明治元年(1868)北越戦争で戦死、後に建てられたこの墓に合葬されました。

山川菊栄の祖父青山延寿の話が「幕末の水戸藩」に出ています。結城は悪逆無道の悪人ではなく、1000石取のご家老の若様で世間知らず、斉昭派が一斉失脚の時さっと身を引けばいいものをその地位に留まったため、門閥派から利用されいい気分になりすぎた挙句の失敗であるとは書かれていますが、結城の一族は殺し尽くされ、その言い分などは残っていません。真実は歴史の奥深く埋められてしまいました。合掌。

残暑の中に秋の気配が…

2017年08月28日 | 季節の花

シュウカイドウ(秋海棠)は、春に咲く海棠に似た花を秋に咲かせていることから、名がつきましたが、色はよく似ている反面、木に咲く海棠の花は牡丹桜のようです。江戸時代に中国から渡来、ベゴニアの仲間、手間がかからずいくらでも増えるので園芸流通はしていません。

モミジアオイ(紅葉葵)は、アオイ科の宿根草で葉がモミジに似ているので名前が付きました。大きく裂けた5弁の花を次々と咲かせますが、儚い一日花です。

フロックスの仲間は67種もあり、色や姿の違う多くの品種が知られており、春の芝桜もその一種です。別名オイランソウ(花魁草)、幼少の頃は長い花柄を鼻に付けて遊び、天狗花と呼んでいました。

ヒヨドリの鳴く頃に咲くから、ヒヨドリソウ(鵯草)ですが、ピーヨピーヨと甲高い鳴き声は、一年中聞こえる気がします。

ガガイモはツル性の多年草、神代の時代から日本に存在する花として知られ、古事記や日本書紀にも古名の羅摩(カガミ)の名で出ているそうです。名の由来は、古名のカガミはしゃがむという意味で、かがむような低い所にあるところからカガミイモがガガイモになったと言う説などいろいろあります。

道端のこの植物は、てっきりハマウド(浜独活)と思っていましたが、アシタバ(明日葉)の特徴に似ているところもあり断定できなくなってしまいました。アシタバは三宅島で50年前に食べたのが最初、園芸店でも苗を売っており増えて自生することもあるので可能性は大ですが…?

キツネノカミソリ(狐の剃刀)はヒガンバナ科の球根植物、彼岸花よりひと足早くお盆頃の開花ですが、今年の夏は遅れて咲いています。花が咲く頃は枯れて消えてしまう葉の形がカミソリに似ていて、また彼岸花や夏水仙のように、何もないところに急に出てきて咲くので、狐につままれたと名付けたのでしょうか。

野菊といえば秋、これはシラヤマギク(白山菊)でしょうか、似ているシロヨメナ(白嫁菜)との違いがよく分かりません。どこにでもある種ですがその交雑種も加わり、余計に区別が難しくなっているようです。

さて、花と植物に詳しい「庭の花たちと野の花散策記」ブログの雑草さんから、区別が難しい野菊のなかでも、シラヤマギクは下部の葉柄に翼があるからわかりやすいとのご指摘と写真を見せていただき、散歩道で確認しましたところシラヤマギクと断定できました。ありがとうございました。

病める手の爪美しや秋海棠  杉田久女
中庭に雨を集めて秋海棠  山口青邨

ふたたびザリガニの威嚇2017

2017年08月25日 | 散歩
熱帯夜の朝、寝苦しくて早く目が覚めてしまい、田んぼの道を歩いていると、小さなアメリカザリガニ、こちらに気が付くとハサミを持ち上げて威嚇し始めました。2年前にも、大きなザリガニに威嚇されて、この拙ブログに載せましたが、こんなにも攻撃的な小さな生き物に感動して再登場してもらいました。

世界でも小さな国と大きな国が威嚇しあって何か滑稽さを感じますが、はずみでブレーキが外れてでもしたらと笑ってばかりではいられません。

やがて威嚇に疲れたのか、老躯の失せた気概に敵意を感じなくなったのか、上り始めた陽の中を立ち去って行きました。
国同士ではこんな幕引きを期待するのは、やはり無理でしょうか。

彼が住んでいたのは、多分ノカンゾウの咲くこの水路、平穏安寧の生活からなぜ新しい冒険の世界に飛び出して行ったのか…、目的地に無事に着けるように見送りました。

夏惜しむ…偕楽園公園

2017年08月22日 | 水戸の観光
今年の夏は、8月に入ると天候不順になり日照時間は平年の半分、レジャー関連産業や農作物への影響も心配ですが、季節は流れ戻ることはできず、はや秋の気配濃厚となってきました。

黄花コスモスだけは、例年通りしっかりと過渡期の花畑を彩っています。キク科の一年草でコスモスの仲間ですが、丈はやや低く、黄色やオレンジ色の鮮やかな花を咲かせ生育旺盛なため一部野生化も見られます。

窈窕梅林の一画にひまわり畑、丈の低い品種でしょうか、あまりの日照時間の少なさに腹を立ててお互いそっぽを向いているようです。

同じキク科の黄色でも、印象が強烈なルドベキアと、爽やか薄桃色のカクトラノオ(角虎の尾)、虎の尾のような花の茎の断面が四角いことから名前が付きました。

次々と花が咲くニチニチソウ(日々草)と涼し気な色のブルーサルビア、どちらも花期が長くこの時期の花壇の定番花です。

辛夷の実です。こぶしという名前はデコボコの実の形が、握りこぶしに似ていることからと言われています。

サンゴジュ(珊瑚樹)の真っ赤な実が、旧制水戸高校の暁鐘の鐘楼を彩っています。

向学立志の像、当時のマント姿の水高生はもう萩の花に囲まれています。萩の季語は秋ですが、早くから咲き始めるので、夏萩という季語もあります。



偕楽園の西門を出てすぐの茨城県歴史館の蓮の花も、花より実のほうが多くなりました。確かに別名のハチスの通り、蜂の巣そっくりの実で、中から蜂の子が覗いているようです。やがて熟れた実が穴から飛び出して水中に跳ね落ちる「蓮の実飛ぶ」は秋の季語です。

ひと夏の終わり、生命を燃やし果てたアブラゼミは、最後には蟻の食料となり一生を終わりました。(季語については、この拙ブログで一年前に「蝉の死骸の季語は?」の拙文を載せました。)

働かねば喰えぬ日々草咲けり  佐伯月女
夏萩や志士と呼ばれてみな若き  林  翔
笑つては飛び怒つては飛び蓮實無し  正岡子規

井伊谷三人衆の鈴木重時の子孫は、水戸藩家老

2017年08月19日 | 歴史散歩
NHK大河ドラマの「女城主 直虎」に出てくる井伊谷三人衆は、今川家が井伊家の目付に任じた鈴木重時、近藤康用、菅沼忠久 (写真左から)です。このうち菅原大吉演じる鈴木重時は、遠江と三河の境、山吉田を拠点とする国衆で、井伊直親の母は鈴木の出のため、井伊家と縁戚関係があるせいか、井伊家にもやや同情的な役柄です。

やがて鈴木重時は他の二人とともに今川から徳川家康に寝返り、浜名湖西岸の城攻めに活躍しますが堀江城の戦いで戦死、子の重好が家督を継ぎ、後に家康から徳川四天王となった井伊直政の配下に付けられました。
彦根城の家老を務めるも藩内の権力争いに巻き込まれ、閉居生活を送っていましたが、元和4年(1618)、徳川秀忠により水戸藩付きを命ぜられると、孫の長松丸(のちの鈴木重政)を伴って赴任、知行5千石を給され、代々従五位下に叙されて石見守を名乗り、水戸藩の家老・城代を務めた名家となりました。
水戸城の東二の丸下に水堀に囲まれた出城的役割の広大な居館を構えていました。

それから8代目の鈴木重棟は、水戸藩家老職として門閥派諸生党の中でも最も禄高が高く、名目上諸生党の領袖とされ市川三左衛門らとともに藩政の実権を掌握し、元治2年には、加増されて7,000石。さらに家格は附家老中山氏と山野辺氏に次ぐ1万石とされました。
しかし慶応4年(1868)、明治維新により諸生党と尊攘派天狗党の立場は逆転します。3月10日水戸を脱出、その後諸生党の主要勢とは別れ、江戸に潜伏しましたが捕えられ、4月23日、斬罪に処されました。享年30歳。
幼少の二人の息子も斬罪となり、8歳の長男・銛太郎は泰然と斬られましたが、次男甚次郎は菓子を手に、兄と同じ目になるのは嫌だと泣きながら斬られたということです。(二人とも赤沼で獄死の説もあります)
隠居していた父の重矩も、捕えられた後に食を絶ち獄死しました。

その鈴木石見守の墓所は、水戸市元吉田の天台宗の古刹、薬王院にあります。
一族の広い墓域の中に重棟親子の墓碑名は探せませんでしたが、「従五位下源朝臣重政鈴木石見守」という水戸での2代目の墓碑はなんとか見つかりました。

一画は盆に訪れる子孫もなくひっそりしていますが、隣地の墓域には分家の鈴木重義(縫殿)一族で、諸生党追討で活躍し維新後水戸藩政務局総裁にもなった敵味方の間柄というのも、幕末の水戸藩の陰惨な一面を見るような気がします。

さて、石見守の屋敷の北側にある明星が池(上記地図の○72あたり)は、水戸城の水堀の一部でしたが、石見守が水戸を脱する時に千両箱を13箱沈めたという言い伝えがあり、明治と昭和の始めに水浚いやボーリングをしましたが、出てきたのは刀一振りだけだったと網代茂さんの「水府異聞」に書かれています。
いま日赤病院の東側の明星が池跡は住宅密集地になり、昔の面影はありませんが、谷中の保和苑の池に、その名前だけが残っています。

保和苑・明星が池は紫陽花で有名です。