顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

水の都…、水戸の湧水を訪ねて ③笠原水道

2018年07月28日 | 歴史散歩
日本で18番目に古い江戸時代の水道、「笠原水道」は、初代藩主徳川頼房公の田町越えといわれる低地を埋め立てた下町への商人移住策の後、下町は特に飲料水に不自由したため、2代藩主光圀公が藩主就任直後の寛文2年(1662)、町奉行望月恒隆に水道設置を命じました。その調査に当たった平賀保秀は、笠原を水源地に選び、工事は永田勘衛門が担当して笠原から逆川に沿い、藤柄町まで岩樋を用いた暗渠を作り、細谷まで総延長約10kmの水道が翌年完成しました。
主導水に使用した岩樋が展示されています。偕楽園一帯の崖下で採れる神崎石という凝灰質泥岩で、湧水地帯を通したため岩樋の隙間からきれいな地下水を集めながら通水したという説がブラタモリでも披露されました。なお、備前堀は銅樋で渡して越え、支線は木樋、各戸へは竹樋を使用したようです。
由来などを記した浴徳泉の碑は、文政9年(1826)建てられ、碑面の題字「浴徳泉」は8代藩主斉脩公の「今猶浴先君徳」の句から選んで斉昭公が隷書で記し、「浴徳泉記」は彰考館総裁藤田幽谷の撰文です。
浴徳泉の碑の奥にある竜頭共用栓、明治時代の改修時に下市地区に設置されたものを復元したものだそうです。この水は現在も水道水源として利用されており、ポリタンクを持ち込んで水汲む人が絶えません。なお、ここから出る水はこの湧水に塩素を注入した水道水です。(水戸市のホームページより)
竜頭共用栓の脇の急な石段を登ると、杉林の中に笠原不動と水戸神社があります。
笠原水道は古くからあった笠原不動尊の地を水源に完成したので、以後水源地を守護する不動尊として崇敬を集めましたが、斉昭公の廃仏毀釈で取り払われその跡地に水戸神社が建てられました。昭和になってから付近の住民により再建されましたが、なんと倒壊寸前の状態になっていました。
竜が剣に巻きついたクリカラ不動が安置されていたので、当時は玖離伽羅山銀河寺不動院といわれ、光圀公は「不動の威、厳たり」とたたえたといわれますが、いまは床も抜けていてその威も厳も失せています。
水戸神社は、江戸時代以前から水戸城の東端の高台に水戸明神として鎮座し、光圀公の時代に吉田神社の境内に移築されその末社となりました。さらに斉昭公の時代に笠原不動尊が取り払われた後に移されて水源地の守護神となりました。祭神は、速秋津彦命(はやあきつひこ)で、別名は水戸神(みなとのかみ)、お祓いの水を司る神だそうです。
少し上流の塩橋付近からも、水量の多いきれいな湧水が流れ出しており、ホタル再生地の立て札も建っています。ここが豊富な湧水群であることがよくわかります。
なお、この逆川両岸に連なる斜面林一帯は逆川緑地になっており、豊かな森の木々と湧水を利用した水生植物が遊歩道沿いに配された市街地の中のオアシス的公園になっています。
ミソハギ(禊萩)は旧暦のお盆のときに、ミソハギの枝を水に浸して、仏前の供物に禊ぎ(みそぎ)をしたことから付いた名前。最近まで、ミソ(味噌)だと思っていましたが。
クサギ(臭木)は葉に悪臭があるので付いた名前ですが、花は甘い香りがするので片手落ちの名前の気がしてなりません。
春先に咲くコブシ(辛夷)は、拳(こぶし)に似たこの奇妙な実の形から名前が付いたという説もあります。黒い種子を包んだ赤い実がいくつか集まった集合体で、秋になると割れて顔を出し地面に落ちます。
葉の形がミョウガ(ショウガ科)に似ていますが、この白い花ヤブミョウガ(藪茗荷)はツユクサ科の植物です。
ハンノキ(榛の木)は、水辺が好きな樹木で、治山や川の護岸用にも使われ、かっては木炭の良質な材料でしたが、近年は耕作放棄地に繁殖しているのがよく見られます。
エゴノキの実を潰すと泡が出るので小さい頃は「石鹸ボンボ」といって遊びました。実際に果実に含まれるエゴサポニンは、水に溶けると石鹸のように泡立つ性質があることから、石鹸代わりにも利用していたそうです
きれいな群落ですが、実はワルナスビ(悪茄子)です。牧野富太郎博士の命名の通り、棘と毒のある厄介なナス科の帰化植物が、こんなに蔓延ってしまいました。
一方、ミズキンバイ(水金梅)は、水辺に生育する多年草で水質汚濁や農薬に弱いため生育地がどんどん失われており、絶滅危惧Ⅱ類(VU)に指定されています。


予科練平和記念館と雄翔園  (阿見町)

2018年07月23日 | 日記
阿見町には大正時代に霞ヶ浦海軍航空隊が開かれ、昭和14年には飛行予科練習部(予科練)が横須賀から移転してきて、終戦までの間、全国の予科練教育訓練の中心的な役割を果たしました。

この地に当時の貴重な予科練の歴史や記録を保存展示するとともに、次の世代へ正確に伝承し命の尊さや平和の大切さを考えるために予科練平和記念館が建てられました。

昭和5年に教育を開始した予科練は、14歳半から17歳までの少年を全国から選抜し、終戦までの15年間に約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地に赴きました。特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼりました。(手前は人間魚雷回天の実物模型です)

館内は7つボタンに因み、7つの空間で入隊から特攻までのストーリーを展開しています。館内撮影はできませんが、今の中学2年生から高校生ぐらいまでの少年が夢と希望を持って入隊したその無邪気な笑顔の写真、希望と不安の中で訓練に明け暮れた手紙や手記につい孫の顔が重なってしまします。

少年たちが実戦で飛び立つ時のあこがれのゼロ戦、零式艦上戦闘機二一型の実物大模型が展示されています。全長9.05m、全幅12m、最高時速 288ノット(533Km)、航続距離 1200海里(2222Km)とありました。

隣接した雄翔園は、予科練の戦没者約1万9千人の霊璽簿を収めた予科練の碑(予科練二人像)を正面に配した庭園です。

「若鷲の歌」の碑です。「予科練の歌」とも言われ、作詞西条八十、作曲古関裕而の二人が土浦航空隊に一日入隊して作られ、霧島昇などの歌で昭和18年に発売された「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨、今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃでっかい希望の雲が湧く」と短調ながら単純明快で暗さのない曲は大ヒットしました。

園内の雄翔館は、予科練戦没者の遺書、遺品約1500点を収蔵、展示しています。予科練出身者、遺族などで構成される公益財団法人海原会が管理しています。

特別攻撃隊で出撃する20歳前後の若者の別れの手紙や手記に心がうたれます。静かに立ちすくむ人や、思わず涙ぐむ姿も見られ、記念館よりは生々しく印象も強烈で、平和への思いがさらに強くなります。ぜひ国のリーダーを自負する人たちには見てもらいたいものです。

白雲は天上の花敗戦日  上田五千石
終戦日一機の雲のなほも伸び  鷹羽狩行


鎌倉時代から400年…戦国の山城、茂木城

2018年07月18日 | 歴史散歩

鎌倉幕府の有力御家人宇都宮一族の八田知家は、奥州藤原氏討伐の際の功により、源頼朝から下野国茂木郡を賜り、三男知基に茂木氏を名乗らせて建久年間(1190~1199)比高80mの桔梗山に城を築きました。
(↓ 駐車場から千人溜方面)

その後の承久の乱、南北朝の乱、禅秀の乱、永享の乱などで城を消失することもありましたが、与する相手を替えながら戦国の世を生き残りやがて佐竹氏に臣従し、天正13年(1585)には北条、結城の連合軍により一時は落城の憂き目を見ましたが、その後奪回、文禄3年(1594)佐竹義重の命により小川城(茨城小美玉市)に移るまで400年16代の支配が続きました。
(↓ 溜池付近から本丸方面、高い土塁の上が本丸です。)

代わって佐竹家臣の須田盛秀が茂木城代となりましたが、慶長7年(1602)佐竹義宣が秋田へ転封となり、その後慶長15年(1610)佐竹氏に代わり細川忠興の弟興元が10154石で入封、城下に陣屋を設けたので廃城になりました。
(↓ 本丸から茂木の町、右手遠方に芳賀富士(272m)が見えます。)

茂木氏も秋田移封に従い佐竹重臣を務め、戊辰戦争では秋田藩十二所城代として第30代茂木知端が新政府側で華々しい活躍をしたことが伝えられています。
(↓ 姫入水の伝えが残る鏡池と土塁の上の二の丸跡の杉林、ここに城主の館があったそうです。)

中央の広い千人溜を「コ」の形で囲む3つの郭で構成された珍しい縄張りの山城は、明治以後は耕地や山林として利用されてきましたが、空堀や土塁、池など戦国時代の山城の戦略的な機能はそのまま保存されていて貴重な城址となっています。
(↓ 本丸南西側に望楼跡らしい出丸があります。)

(↓ 模擬の望楼が建っていました。姫の望楼伝説の案内板があります。)

細川興元はその後谷田部(茨城県つくば市)にも6200石を領し、藩庁は参勤交代に便利な谷田部陣屋に移した後も茂木陣屋は残し、明治を迎えました。天保11年(1840)の記録では、江戸屋敷58名、茂木陣屋47名、谷田部陣屋43名の藩士、その他、奥女中や足軽、門番人その他となっています。
なお、こんな少さな藩でも寛政6年(1794)、茂木、谷田部の両地に藩校弘道館を設立しています。
(↓ 城下に茂木藩陣屋跡の石碑が建っています。遺構は残っていませんが、西側の橋は、御本陣橋と呼ばれているそうです。)

城の東方1700mにある曹洞宗塩田山能持院は、茂木知基により貞応元年(1222)に創建、文明年(1471)11代知持の代に小田原海蔵寺の僧、模堂永範大和尚により中興開山され、以後茂木氏とその後の細川氏の菩提寺となりましたが、この間2回の火災で伽藍は消失しました。しかしこの総門(山門)は難をのがれ約550年前の姿を保ち重要文化財に指定され、梁上に能持院の七不思議といわれる火伏せの斧跡があるそうです。

境内には、茂木藩細川氏9代の墓所があります。墓には墓石がなく、その代わりに一本の杉の木が植えられその前に没年月日を陰刻した石灯籠が設けてある、全国でも珍しい墓所です。なお、茂木家の歴代墓所はどこに?茂木城を出て424年、その間に埋もれてしまったのでしょうか。

朝露の散歩道で…

2018年07月15日 | 散歩
この時期は明るくなるのが早いので時々眼が覚めてしまい、つい散歩に出ることがありますが、朝の冷気は日中の酷暑が嘘のような爽やかさを与えてくれます。

ハマヒルガオ(浜昼顔)は、日本全国、海外にも広く分布し海岸の砂浜に群生すると図鑑に出ていますが、ここは海から直線で5キロの田んぼのあぜ道です。みずみずしさが炎天で咲いているいつものイメージとはずいぶん違います。

ツユクサ(露草)はツユクサ科ツユクサ属の一年生植物でどこでも見かけますが、朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることから、名前がついたという説もあります。
朝露のいちばん似合う花かもしれません。

草刈り後に花茎が伸びたので命拾いしたノカンゾウ(野萱草)が開き始めています。ニッコウキスゲなどの仲間で、夕方には萎んでしまう一日花です。似ているヤブカンゾウ(藪萱草)は花が八重で上向きに咲きます。

イヌゴマ(犬胡麻)は、胡麻に似ているが食用にならぬ役立たずという命名、湿性の環境を好むシソ科の多年草ですが、まさにピッタリの環境で大きく育っています。

ユウゲショウ(夕化粧)は、夕方に花を開かせるので付いた名前ですが、いまは一日中化粧を落とさず開いています。南アメリカ原産の帰化植物で、明治時代に観賞用として移入されたものが日本全国に野生化しています。

坂の途中の山百合は、草刈りをする人に残してもらえるように、仙人が事前に棒を立ててヒモで縛っておいたものです。無事に7,8本の山百合が花をつけ、甘すぎる匂いを振りまいています。

この山百合を見た近くの人から、うちでも見事に咲いたからぜひ見に来てといわれ撮って来ました。午前9時、朝露はすでに消え、今日の猛暑が始まっていました。

山百合が目覚めといふをくれにけり  細見綾子
山百合のうつむきがちに霧流れ  伊東宏晃

水に浮かぶ亀…土浦城址(亀城公園)

2018年07月14日 | 歴史散歩

土浦城は、霞ヶ浦周辺の水を引き入れ幾重にも堀をめぐらした水城ともいうべき平城で、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたので亀城の別名があります。本丸、二の丸を中心に三の丸、外丸のほか武家屋敷や町屋を含み、北門、南門、西門を結ぶ堀で囲む総構えの規模を有していました。
現在の城址は本丸と二の丸の一部が亀城公園になっているだけで、広大な城域は市街地の中に埋もれてしまいましたが、一部土塁が残っているところもあるようです。
 
天慶年間(938~947)に平将門が砦を築いたという伝説はありますが、永享年間(1429~1441)に常陸守護、八田知家の後裔、小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初とされています。永正13年(1516)、若泉五郎左衛門が城主の時、小田氏の部将・菅谷勝貞によって城を奪われ、一時、信太範貞が城主を務めましたが、後に菅谷勝貞の居城となります。やがて上杉・佐竹勢に徐々に圧迫された小田氏治は、たびたび小田城から土浦城に逃げ、その後何度か小田城を奪回しますが永禄12年(1569)ついに小田城は陥落、小田氏治を匿い続けた菅谷範政も天正11年(1581)土浦城を佐竹氏に明け渡しました。

その後結城秀康、江戸時代には松平氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平氏が入封し、貞享4年(1687)土屋政直が再度6万5千石で入封すると、31年間幕府老中を務め三度の加増で9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋氏が11代、約200年間世襲して明治維新を迎えました。
城内の建物は廃城の際取り壊されたり火災で焼けたりして現存するのは、太鼓櫓、霞門、旧前川口門(高麗門)だけで、東櫓、西櫓は平成の復元です。

本丸の楼門を、明暦2年(1656)朽木稙綱が櫓門に改築したもので、2階の櫓に時を知らせる太鼓があったことから太鼓櫓とも呼ばれていました。江戸時代前期の櫓門としては関東地方唯一のものです。

東櫓は平成10年(1998)に復元され、土浦市立博物館の付属展示館として公開されており博物館の入場券で入館できます。木造の大きな梁や柱の迫力に圧倒されます。

西櫓は昭和24年(1949)のキティ台風の被害を受け、復元するという条件つきで解体されたものを、平成4年(1992)に保管されていた部材を用いて復元されました。

東側にある本丸裏門の霞門は、霞橋を渡って入ります。貞享元年(1684)松平信興の構築で門外側に桝形があります。左手に見える東櫓はこの門の守りの役目を果たしていたようです。

旧前川門は、文久2年(1862)年建築、搦手門に通ずる要所にありましたが、その後移築を重ね、二ノ門のあった現在地に建てられました。本柱の後ろの控柱にも切妻屋根を載せた高麗門型なので、高麗門ともいわれています。
なお明治新政府は太政官布告で櫓や門の取り壊しを命じましたが、新治県では一部払い下げも行われ、移築された門が近在に残っているそうです。

隣接する土浦市立博物館は、土屋氏関係の資料が展示されています。特に国宝1、重要文化財4、重要美術品6口を含む土屋家の刀剣83口(フリ・ク)を所蔵しており、入れ替えして並べられています。
主に2代藩主政直が所有していたもので、その中には将軍家から下賜されたものや他の大名家から贈られたものも多数あり、水戸中納言(光圀)隠居の際に水戸少将(綱條)より贈られた重要文化財の「恒次(つねつぐ)」(鎌倉時代初期)は、残念ながら展示サイクル外でした。

土屋家の九曜紋や三ツ石紋の入った行基(ほかい・食物などを入れて戸外に運ぶ容器)や蒔絵の箱など、大名の生活が偲ばれるものや古文書などもいろいろ展示されています。
展示品の撮影は、撮影禁止マークの付いてないものは可能ということなのでご紹介できました。