顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

大寒波…なかなか「融けない」庭の雪

2023年01月27日 | 日記
関東平野の北端に位置する仙人の棲家は、鹿島灘まで約5キロに位置するため、あまり降雪のない地方ですが、さすがに10年ぶりという今回は例外でした。久しぶりに朝の室内気温はほぼ0℃、洗面所や風呂の窓も凍り付きました。

間違って顔を出してしまったムスカリです。




庭に積もった雪は約3cm、その日は太陽が出ても最高気温は1℃のため翌日(下の写真)もほとんど残っていました。


フクジュソウ(福寿草)の一番花の咲いていたあたりを掘り起こしてみると、雪の下で震えあがっていました。


隣地に借りている家庭菜園も雪に埋もれました。


菜花も寒そうです。


霜よけの篠の下で縮こまっているのはスナップエンドウです。

次の日は最高温度が4.9℃になったので、午後からは雪も融け始めて緑が見え始めました。



ところで雪が「とける」という漢字は、「溶ける」「解ける」「融ける」のどれ?と調べたら、いろんな説が出ていました。一番多いのは「溶ける」で、その次が「解ける」…「融ける」はあまりありません。なお、「中谷宇吉郎 雪の科学館」ホームページでは「溶ける」でした。


ワードの変換では解ける、融ける(常用外)と出ています。


日本語大辞典(講談社)では、「解ける」で「融ける」とも、となっています。

結局答えは出ませんでしたが、試験問題に出たらどれが正解になるのでしょうか。仙人は、融雪剤塩化カリウムから、「融ける」を使わせていただきました。

天気予報を見ていると、日本列島を縦に分けて太平洋側は晴天、日本海側が雪になっていますが、今回は南の九州や四国も降雪が多かったようです。そういう所の皆さんには笑われるような雪の記録でした。
今晩もまた雪の予報、春の訪れはもう少し先のようです。

冬枯れの公園…被写体を探して

2023年01月25日 | 季節の花

一年で一番寒い季節、列島を最強の寒波が襲うと頻繁に報道された朝、我が家でも珍しい積雪3cmを記録しました。雪国の方には申し訳ないこんな雪でも、この地方ではスリップ事故などで大騒ぎになります。


さて、寒い季節の万歩計はめっきり歩数を稼がなくなっていますので、近場の公園で最近撮った数点をアップしました。

水辺で見かけるハンノキ(榛の木)は、湿原や川沿いの普通の樹木がないようなところでも繁殖しています。

ちょうどこの時期に花が咲いていたので、触ってみると花粉が舞いました。雌雄同株の見本のような木、写真で分かるでしょうか。ミニ松かさのような果実は生け花の花材としても人気があるそうです。


道端で見かけた丸い実は、調べてみるとワルナスビ(悪茄子)でした。何度もブログで取り上げた最悪の有害外来植物、明治39年(1906)に牧野富太郎博士が初めて命名し、いまや全国に広がっています。

割ってみると元気なタネがいっぱい入っています。同じナス科のトマトのようなタネ、この種子や地下茎の断片などで強力に繁殖します。ナス科特有の花は、結構かわいいのですが…。  


この時期に紅葉真っ盛りのグラウンドカバーはハツユキカズラ(初雪葛)です。テイカカズラの仲間で、新芽のあとの白いまだらの葉から名前が付きました。




公園でよく見かけるラクウショウ(落羽松)の気根です。ラクウショウは湿地や水中などに生育するため、酸素が少ない地中での根の呼吸を補助する呼吸根が発達しています。ちょうど白鳥が飛び立ちました。


気根の周りにバラの花の形をした松ぼっくりが落ちていました。マツ科ヒマラヤスギの松ぼっくり、シダーローズ(Cedar Rose)とよばれています。

ヒマラヤスギ(Cedar)の細長い球果の頭頂部分がシダーローズ(Cedar Rose)で、周りに落ちているのが球果の鱗片です。なんとも自然の造形はすごい、まったくバラの花です。


公園の花壇のスノードロップ、雪の雫という意味の英名「Snowdrop」は、17世紀頃のヨーロッパで人気の涙滴型の真珠のイヤリングに似ていたのが由来だそうです。


ロウバイ(蝋梅)が満開になっています。今年は春の花の開花が今のところ早そうな気がします。梅に似たロウ細工のような光沢のある花からの命名説が一般的です。

初夏に生る蝋梅の実です。梅の名前が付いていても別種(ロウバイ科)であることがわかります。実はもちろん食用にならず、種子には有毒成分を含むそうです。

横山大観…生誕の地を訪ねる

2023年01月19日 | 水戸の観光

明治、大正、昭和と日本画壇で活躍した横山大観は、明治元年(1868)9月18日に水戸藩士酒井捨彦の長男として、水戸城下の下市、武家屋敷が並ぶ三ノ町に生まれました。幼名を秀蔵、のちに秀松、21歳のとき母方の水戸藩士横山家を継ぎ、名を秀麿と改めます。

出生のエピソードとして伝わるのは、幕末の水戸藩内抗争では父捨彦が諸生派に属していたため、幕府崩壊後に形勢逆転した天狗派の仕返しの勢力が押しかけ、母が逃げ込んだ裏庭の竹藪で産気づき大観を出産したという話が残っていますが、真偽のほどは不明です。
しかし2週間後の10月1日には、会津落城により水戸城に戻ってきた諸生派約500人と城を守る藩士との弘道館戦争が勃発し、双方で約200人もの藩士が命を落としています。

代々地図学者であった家系の父捨松は、その後茨城県庁を経て内務省勧農局に勤めたため、一家は東京に引っ越します。

大観は東京美術学校に第一期生として入学、岡倉天心に師事しやがて同校の助教授になり、大観という雅号を決め、師から褒められたといわれます。
校長岡倉天心の排斥運動に殉じて東京美術学校を辞職した大観は、日本美術院の創立に参画し、茨城県の五浦海岸に師岡倉天心や仲間の下村観山、菱田春草、木村武山らが家族と共に移り住んで制作に励み、近代美術史の輝かしい1ページを残した話が知られています。


生誕の地に建つ銅像は、若い大観でしょうか、彫刻は平戸司郎の作です。


やはり見慣れているのは晩年の顔…、生誕の地の案内板にある大観の肖像画は、弟子の堅山南風の筆です。


茨城県近代美術館などが建つ一画にある横山大観頌碑にも、見慣れた横顔がはめ込まれていました。レリーフ製作は小森邦夫です。



五浦には、2013年に公開された映画「天心」の撮影に使われた日本美術研究所のロケセットが崖の上に残っており、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らが制作に励んでいる様子が展示されています。横山大観役は中村獅童、岡倉天心役は竹中直人でした。


五浦の岡倉天心旧宅の庭に、大観が理事長を務めた天心偉績顕彰会が建てた石碑の「アジアは一つなり(亜細亜ハ一な里)」の文字は大観の揮毫です。


ところで大観といえば、輪郭線を極端に抑え、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した「朦朧体」という技法で知られています。その一部を味わえる大作「生々流転」(重要文化財、東京国立近代美術館蔵)は40.7mに及ぶ画巻で、山間の雲から落ちた一滴の雫が渓流から大河となり、海へ流れ込み、やがて竜巻になって天に昇る様子が描かれています。

この作品は、文化庁の文化遺産オンラインで観賞することができます。

また大変な酒好きとして知られる大観は、米の飯をほとんど口にせず、1日に2升3合の酒と少量の肴だけで済ませていう逸話が残っています。特に広島の「醉心」の蔵元と意気投合し、一生の飲み分が毎年無償で送られ、お返しに大観は毎年一枚の絵を無償で送り続け、蔵元では「大観記念館」を創設しています。

また地元茨城の森嶋酒造(日立市川尻町)の4代目とも親しかった大観が、自らの名にちなんで命名し文字も揮毫した清酒「大観」は、仙人の愛飲銘柄のひとつです。

大観の2升3合は過大表現かもしれませんが、晩年に本人の弁解として1升の酒を朝昼晩と3回に分けて飲んでいると言っていたとか、それでも90歳まで生きたという丈夫な肝臓にあやかりたいものです。

水戸徳川家の蘭…パフィオペデルム

2023年01月14日 | 季節の花
いま水戸市植物公園では「水戸徳川家の蘭展」が開催されています。(1月22日まで)

水戸徳川家14代当主の徳川圀斉氏(明治45年(1912)~昭和61年(1986))は、若い時から蘭の収集と栽培をはじめられ、空襲の時も真っ先に蘭を池に投げ込んだというエピソードが残っています。
特に興味を持ったのは、「貴婦人のスリッパ」の英名をもつパフィオペデルムという蘭で、英国などの有名な蘭園から輸入した優秀な品種を自ら交配して新しい品種を数多く作出したことで知られています。

1957年に、このメドウスィートピューティに出会って限りない白さに衝撃を受け、その後数々の交配を重ね、白く美しい高貴な花を誕生させ注目を集めました。


新しい品種には旧水戸徳川家に因んだ名前が多くみられます。
マユミという名前は、阿武隈山系から続く常陸五山のひとつ真弓山と思われます。水戸徳川家の墓所のある常陸太田市にあります。

マユミの兄弟品種で、マユミカンスイです。
その真弓山では、白い「寒水石」が採れ、当時は水戸藩の御用石で、偕楽園内の吐玉泉の井筒や、弘道館記や水戸八景の石碑などに使われました。


ギンレイ
生前に交配育成され未登録であったものを、1991年向ヶ丘遊園で英国王立園芸協会に新品種登録を行いました。


ユキチドリ
これも、1991年に英国王立園芸協会に新品種登録を行いました。


スワンゴールド カントク
圀斉氏作出のスワンゴールドの兄弟品種です。


スワンゴルド ミユキ
これもスワンゴールドの兄弟品種です。


このヒタチは、常陸?日立?多分常陸の国の方でしょうか。


サクラガワ
偕楽園下を流れる桜川は、光圀公が磯部(桜川市)の桜を移植したので命名されたと言われています。


サンノマル
水戸城三の丸にある藩校弘道館は、当時の姿のまま現存し重要文化財に指定されています。


このフィプスは育てやすいため、白花パフィオの交配種の親として氏が栽培していました。
蘭科協会の初代会長も務めた氏の蘭は、没後向ヶ丘遊園を経て現在水戸植物公園で管理栽培されています。

仙人にはほとんど同じように見えますが、この微妙な違いが愛好家にとってはたまらないのでしょう。

和田平助…新田宮流抜刀術の開祖

2023年01月08日 | 歴史散歩
正月のTV番組で神田伯山の講談「鉄砲斬り」に出てきた和田平助正勝は、水戸藩士で2代藩主光圀公の側近に仕えた剣の達人として知られています。

ところで水戸では「和田平助」という名前だけは知っている人が多いのですが、それは名前を下から読むと「助平だワ」という洒落が、特に年配の方には浸透していたからかもしれません。
(今でも和田平助で検索すると、助平なことと出てくるので、350年くらい前の剣の達人に申し訳ないような気がします。)


(写真は、今も伝わる新田宮流抜刀術の技を守る水戸東武館です。)

和田平助の先祖は甲斐武田氏の家臣でしたが、父道也の代に水戸藩初代藩主頼房公に仕え、慶安年間(1648~1652)に江戸藩邸詰め、御庭同心頭で300石の禄を給せられました。子の平助は幼き時より剣を志し朝比奈夢道に田宮流居合術を学び、15歳にして剣の修業に諸国を渡り歩いて技を磨き、やがて新田宮流を興しました。
光圀公も習得したといわれるこの流派は、常に先手を打って相手を倒す実践性が特徴で、両手と腰の動作で、長刀を雷光のように素早く抜き放つのを極意としたそうです。
公の側近に仕える小姓となった平助は、父の禄高とは別に100石を賜り、寛文3年(1663)39歳の時に父の隠居により家督を継ぎ大番頭300石の扶持で、この居合抜刀術の師範役も兼務しました。

しかし彼の晩年は一転して悲惨なものになります。天和元年(1681)56歳の時、息子の金五郎直勝21歳が平助の課した苛烈な剣の修行、四六時中油断させず睡眠中も打ち込んだりすることに耐え切れずに心身を病み急逝します。
その後平助は藩より改易放逐処分を受け、郊外の中根寺で切腹します。天和3年(1683)9月11日 享年59歳でした。

改易の理由については、①常軌を逸した狂気な行動が多くなった、②妬みによる讒言によるもの、③光圀公に世継ぎの件で諫言して怒りをかった,④同僚朝比奈某の事に坐し罪を得たり(神応寺の碑文)などの話が伝わっています。仙人の勝手な想像では、③を信じたい気持ちになりますが。



さて、その来迎山中根寺は水戸市加倉井町にある、元仁元年(1224)文寛の開山と伝えられる真言宗豊山派の古刹です。


平助は長らく仕えた光圀公ゆかりのこの千日堂の前で自刃したと伝わります。常陸千日堂は、承久3年(1221)恵心僧都御作の阿弥陀三尊を祀り、光圀公の時に飛騨の内匠により改築したことで飛騨内匠一夜作りの別名も持っています。


平助が自刃したときに護持佛として所持していた摩利支天尊を祀る摩利支天堂には、剣聖和田平助堂の標札も掛かっています。命日の猪年9月11日に御開帳になるそうです。


この摩利支天堂で神田伯山が講談「和田平助 鉄砲斬り」を奉納したと住職からお聞きしました。一度お参りしたいと思っていた伯山が、住職の呼びかけに快く応じたようです。(2018年8月10日付の伯山のツイッターにも出ています。)


墓所は樹齢850年という欅の巨木の下にあります。この中根寺は一時期住職不在の時があり、その時に末流の門人が水戸城近くの神応寺にお墓を移したそうですが、ここも墓所として残っています。


その移された神応寺は、水戸市元山町にある時宗のお寺です

当時水戸城主だった佐竹義宣の開基で、一時時宗の総本山でもあった由緒あるお寺です。


広い墓地の一角に、鳥居まで付いたお堂が建っていて、その中に墓石が納められています。


名前を下から読んだ文字の功徳からでしょうか、花街を控えるこの地区では何故か花柳界の方の参詣が多く、ゲン担ぎに墓石を削って持ち去るので形が変わってしまったのが右側の墓石です。
そのために、お堂の中に入れて新しい墓石(左側)を建てたといわれています。


墓所の後ろに建つ碑は、大正5年(1916)に新田宮流居合術の門人らによって建てられました。上部に「夢覺」という平助の号が彫られ、碑陰には新田宮流初代和田平助から16代にわたる流派継承者の年代と氏名が刻んであり、行末尾に明治十年一月 十六代 大日本武德會劍術教士 水戸東武館長小澤一郎弘武謹識と記されていました。

なお新田宮流はその後、門外不出の水戸藩御留流として伝わり、幕末には藩校弘道館の武館での正式科目にもなりました。
 
神応寺の石碑の代々の流派継承者にも、当時の弘道館教授小澤寅吉が「安政六年十月 十四代 小澤寅吉政方号東武」と名前が刻まれていました。


藩校弘道館の對試場で行われた演舞の写真(2020年2月撮影)です。新田宮流抜刀術の幟が立っていました。


現在、水戸東武館古武道保存会の2名の方が新田宮流抜刀術の技を保持しており、平成25年(2013)水戸市の無形文化財に指定されています。


神応寺の境内では、ミツマタ(三椏)の蕾が大きく膨らんでいました。寒い日でしたが、なにかほっこりする暖かい写真になりました。

三椏の蕾々の宙にあり  高澤良一 
三椏の蕾のまゝの長かりし  平山愛子
家系亡びて三椏の花ざかり  鷲谷七菜子