顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

蜘蛛の巣にアルファベットが?…KMNAWIW

2022年07月30日 | 日記

庭の蜘蛛の巣にアルファベット!……、早速ウエブで調べると、ABC蜘蛛というニックネームのナガマルコガネグモ(長丸黄金蜘蛛)が出ていましたが、これは沖縄や南西諸島に生息というので、我が常陸国ではナガコガネグモ(長黄金蜘蛛)がどうもそれらしいです。

アルファベットのように見える部分は「隠れ帯」といって、巣の中央にわが身を隠す帯状の網を張り、その形に身体を合わせて隠れるそうですが、この個体は見え見えでした。
ナガマルコガネグモの白い隠れ帯は紫外線反射率が高く、餌となる昆虫を呼び寄せる役目もしているとか、さらにナガマルコガネグモの雄は交尾後に、自ら進んで雌に食べられるそうですが、ナガコガネクモはどうなんでしょうか?蜘蛛に生まれないでよかった!!

有り余るほどの時間があると、普段見過ごしていたものにも気が付くので、コロナのステイホームのおかげかもしれません。

ついでに庭に棲んでいる両生類と爬虫類をご紹介いたします。

我が家は小高い段丘の上の住宅地の一角なので、もちろん川も沼もありませんが、小さなアマカエルが庭にたくさん顔を出しています。オタマジャクシでの生育環境がどこにもありませんので不思議です。

しかし2センチにも満たない愛嬌ある姿は、心の和むひとときを与えてくれます。

カナヘビ(金蛇)も子供が生まれて、我が家然として大きな顔をしています。カエルを丸呑みするほどの大きさはありませんが、家庭菜園も守備範囲にしてバッタの子供やアブラムシを退治してくれている気がします。


今朝の朝刊「編集手帳」に子供たちの理科離れが話題になっていました。大人たち自身が「理科離れ」をしているからだと、自然や化学の理解は実体験が大切だと書かれていました。幸い我が孫の一人は蛇を飼育していますが、この実体験には家族のものが辟易しているようです…。

偕楽園開設180年と斉昭公の書

2022年07月25日 | 水戸の観光

梅で知られる偕楽園は,水戸藩9代藩主徳川斉昭公が天保13年(1842)に開設して今年で180年になります。前年に日本随一の規模を持つ藩校弘道館を建て藩士子弟の文武修練の場を創り、翌年に「一張一弛」の思想による休息の場の偕楽園を開き、一対の教育施設としてどちらにも梅の木を植樹しました。


たまたま昨年末に、斉昭公をはじめ歴代藩主の梅への思いを示す貴重な拓本が所蔵者より寄贈され、180年を記念して弘道館で展示されています。

正庁と至善堂を結ぶ10間の畳廊下の先に拓本が展示されています。


その拓本「先春梅記」とは……水戸藩6代藩主徳川治保公(斉昭の祖父)が、寛政3年(1791)正月に水戸藩重臣 岡崎朝能(ともよし)の屋敷で見事な梅花を観て詩を吟じました。それから37年後、その屋敷を拝領した児玉匡忠(まさただ)がこの事績を後世に伝えたいと、藩主就任前の斉昭公(当時の名は紀教(のりたか))に紀文を依頼した「先春梅記」を石碑に刻み、屋敷の梅樹のそばに建立しました。しかし石碑は大正7年(1918)の水戸の大火で梅樹とともに焼失して、この拓本だけが唯一残りました。


余談ですが、この6代藩主治保公の次男で美濃高須家を継いだ松平義和の孫に、高須4兄弟といわれる尾張徳川家14代慶勝、一橋徳川家10代茂栄、会津松平家9代容保、桑名松平久松家4代定敬の4人がいます。

幕末の激動期にそれぞれの数奇な運命をたどったことで知られており、明治11年撮影の有名な写真(海津市歴史民俗資料館蔵)が残っています。


なお「先春梅記」の拓本の隣には、斉昭公が水戸に梅を植えた経緯を記した「種梅記」の拓本が並んでいます。この石碑は弘道館公園の中に建っています。


これらの拓本の隷書体の文字は八分体ともいわれ、横長の文字の収筆の右払いが波のように跳ね上がる(波磔)など装飾的な要素を持ちますが、斉昭が好んで使った書体はさらにその特徴を強調しており、特に「水戸八分」ともよばれています。


弘道館設立の思想を述べた弘道館記の拓本は、正庁の正席の間に掲げてあり、その本文も同じ水戸八分の隷書体です。記碑は弘道館公園内の八卦堂に納められていますが、東日本大震災で破損し修復されても、とても拓本をとれる状態ではなくなりました。


至善堂の御座の間は、最後の将軍で斉昭公の第7子慶喜公が新政府に恭順の意を表して謹慎した部屋として来館者の人気スポットです。
床の間に掛けられた「要石歌碑」の拓本は、「行末毛 富美奈太賀幣曽 蜻島 大和乃道存 要那里家流」(行く末も 踏みなたがへそ あきつ島 大和の道ぞ 要なりける)という斉昭公の歌が、踊るような草書体で書かれています。この碑も弘道館公園内の大きな楠木の下に建っています。


同じ草書体ですが、「新井源八宛書状」(嘉永元年(1848))は、斉昭公が水戸で養育させていた子息たちの教育方針について教育係の新井源八に指示したものです。七郎麿(慶喜・15代将軍)、八郎麿(昭融・川越藩主)、余一麿(昭縄・木連川藩主)それぞれに細かい指示が書かれています。
(茨城県立歴史館企画展より)

筆まめだったといわれる斉昭公の書は数多く残っていますが、その抑揚のある独特の書体を見ると枠にはまらず幕末を駆け抜けた生涯を見るような気がします。

那珂(那賀)一族の終焉の地…そして江戸氏へ

2022年07月20日 | 歴史散歩
常陸太田市増井の勝楽寺跡に那珂(那賀)一族の終焉の地があります。

那珂氏は、平安時代末期(1090年頃)藤原秀郷の子孫公通が太田太夫として久慈郡太田郷に着任し、その孫通資が那珂川北部の那珂郡を領して、那珂氏を名乗ったというのが通説ですが、詳細は不明のようです。
鎌倉時代を経て約240年間この地に勢力を持った那珂氏は、南北朝の争乱では南朝方に立ち、北朝方に与した佐竹家と争うことになりますなります。


南北朝の攻防が行われた瓜連城址(那珂市)の北側の土塁跡と切岸です。

一時は優勢になったこともありましたが、この地の南朝の拠点で楠木正成の甥、楠正家が籠った瓜連城が落とされ、金砂山城に佐竹氏を攻めていた那珂通辰は背後を突かれ、この場所で一族34人(43人とも)が自刃したとも切られたともいわれます。これによって那珂氏は滅亡し領土も佐竹氏のものになりました。

那珂通辰の墓と伝わる墓石です。


那珂下総守藤原通辰之墓碑です。明治20年建立とされています。手前の土饅頭は一族のものの墓です。


土饅頭に小石を置いただけの一族の墓は粗末なもので、ほとんど風化しつつあります。

一族のうち逃れて生き残った那珂通辰の子通泰は、やがて再起して北朝方に服属し戦功を挙げ、足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を名乗るようになったといわれます。この通高は佐竹氏9代義篤の娘を娶り、嘉慶2年(1388)には南朝方の難台城攻めで戦死し、その褒賞として子の通景は鎌倉公方氏満から河和田、鯉淵、赤尾関などを与えられます。


河和田城(水戸市)は東西約510m、南北約600mを主郭とする広大な城郭でした。

河和田へ本拠を移した江戸氏はやがて応永33年(1426)大掾氏の水戸城も攻め取り、水戸城主として約165年間水戸を支配下に置くようになりました。
しかし天正18年(1590)小田原城を攻め落とした秀吉に常陸国の所領を安堵された佐竹氏が、水戸城など江戸氏の諸城を攻め落として江戸氏は滅亡、常陸54万石の領主になった佐竹氏も家康により出羽国に移封され、御三家の水戸藩が誕生するという歴史の波が押し寄せました。


那珂通辰の墓に建つ案内板には、この那珂氏の居館が那珂西城とされていますが、最近では那珂西城は、大中臣氏流の那珂(中郡)氏の居城だったという説が有力のようです。この大中臣氏系那珂氏は、那珂実久が頼朝の御家人として丹波、摂津、山城の守護も兼ねていましたが、鎌倉幕府内部の抗争などから南北朝時代には丹波国に移住して金山氏、桐村氏の祖になったと伝わっています。

那珂西城址(城里町)の南側の土塁跡です。


そこで南北朝の乱で一族が滅びた那珂氏の居城といわれる那珂(那賀)城址を訪ねてみました。常陸大宮市那賀地区の久慈川の支流緒川に張り出した標高約75mの河岸段丘の端に位置しています。

地元の人に尋ねると城跡には何にも残ってないよと言われた通り、台地の上にはかすかに土塁と空堀らしきものが散見されるだけでした。


県道から見上げた比高約20mの城址台地です。


城址の平坦な台地は果樹園になっています。北西の端に一族の末裔と伝わる石川家の墓地がありました。


西側にある土塁と空堀です。


緒川を見下ろす東側は、天然の要害の感があります。

那珂氏の城にしては規模が小さすぎるので、西側にも城郭が続いていたという説や、那珂氏のあとに佐竹一族の小田野氏が管理していたなどの説があるようですが、詳細は不明です。今後の新たな発見と解明を待ちたいと思います。


城址の南東に建つ鹿島神社は、那賀太郎藤原通資が鹿島大神を崇拝して延応元年(1239)に建立したと伝わります。その後那珂氏の氏神として祭祀され、室町時代の文明6年(1474)の棟札に記されている、一族の末裔石川主計助光尚とその子孫が社殿の管理をしていたとされます。佐竹氏の支配が続いた後、江戸時代にも村の鎮守として地域住民の信仰を集めました。(現地の案内板より)

元和6年(1620)に造られた本殿四方の彫刻は、日光東照宮の彫刻に携わった左甚五郎によるものと伝わっており、常陸大宮市文化財に指定されています。(現地の案内板より)

八重になりたい花たち…雄しべが花弁に!

2022年07月14日 | 季節の花

今年初めて気が付きましたが、庭のサツキの花に「旗弁」という、雄しべが花弁化する現象が多数見られました。
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サツキは雌しべが1本で雄しべは5本、花は5弁ですが根元が合着している合弁花です。
通常の姿は写真の右の花のようになります。左の花は、雄しべに白い旗のような小さな花弁が出ています。


雄しべの片側は花弁化して、白い花糸状のものと濃い色の葯は、雄しべから花弁に変化しつつある痕跡を残しています。


もう完全に八重化していて、雄しべの姿は見えず、雌しべ1本だけが立ち上がっています。


公園の白いサツキにも旗弁が出ていました。




そもそも「旗弁(はたべん・きべん)」とは、マメ科の花の一番目立つ大きな花弁のことで、“ここに美味しい蜜があるぞぉ~”と植物を呼び寄せる旗の役目をしているといわれます。


いろんな植物で雄しべが花弁になっていく現象もこの「旗弁」ということが多く、これが進んで八重の花になるともいわれています。ムクゲ(槿)にも多く見られます。


この梅の花は、偕楽園の「紅千鳥」です。旗弁があたかも紅い千鳥が飛んでいるようだというのが命の由来とされていますが、松崎睦生著「水戸の梅と弘道館」には、旗弁が多くみられ不揃いな花冠が千鳥足のようだという命名説が載っています。


秋に咲く「十月桜」に見つけた旗弁です。
桜には旗弁が多数出るのもあり、荒川堤には名前にもなった「旗桜」があるそうです。


ヤブカンゾウ(藪甘草)の花糸と葯が完全に花弁の一部に取り込まれています。


サザンカ(山茶花)やツバキ類にも旗弁はよく見られます。


植物は進化していく過程で、葉が萼片や花弁、雄蘂のような花の器官に変形していったとされています。種を残すために昆虫を呼び寄せたり、雄しべや雌しべを守る役目の花弁を増やすのは、植物にとって新たな進化の一歩なのかもしれません。身近な植物でその兆しを見つけると、なぜか嬉しくなってしまいます。

水戸黄門の城下インフラ整備…笠原水道

2022年07月09日 | 水戸の観光
平和な国だと信じている日本に歴史を巻き戻したような出来事が起こりました。大きな功績を残した半面いろんな問題もありましたが、施政者には毀誉褒貶はつきもの、それをテロで決着しようとする行為は絶対に正当化できません。


水戸藩初代藩主徳川頼房公の田町越えといわれる城下整備で、低地を埋め立てた下町への商人移住策の後、この新しい町は特に飲料水に不自由していました。そこで2代藩主になった光圀公は、藩主就任直後の寛文2年(1662)、町奉行望月恒隆に水道設置を命じました。
その調査に当たった平賀保秀は、笠原を水源地に選び、工事は永田勘衛門が担当して笠原から逆川に沿い、藤柄町まで岩樋を用いた暗渠を作り、細谷まで総延長約10kmの水道が翌年完成しました。これが日本で18番目に古い「笠原水道」です。


水戸の地形は、水戸層とよばれる水を透さない凝灰質泥岩の上に上市礫層があり、砂礫の間に蓄えられた水が数十年かけて湧水となり各所から湧き出しています。(水戸市埋蔵文化財センター展示より)


水戸台地の地質がよくわかる断層が市内の各地で見られます。水を透さない凝灰質泥岩の上の砂礫層から水が染み出しています。
この水を透さない凝灰質泥岩は、柔らかく加工がしやすく、偕楽園一帯の崖下で採れるものは神崎石とよばれ、この笠原水道の岩樋として利用されました。また水戸城内でも暗渠として敷設されているのが発見されています。


水源地近くに岩樋の実物が展示されています。
笠原水源地一帯は湧水が多く、岩樋の隙間からきれいな地下水を集めながら通水したという説がNHKのブラタモリでも披露されました。


水道は基本的には蓋石、左右の側石、底石により構成された暗渠で、要所に桝が設置されていましたが、竣工後に度重なる補修がされていたようです。(水戸市埋蔵文化財センター展示より)


備前堀を横切る際は銅樋、各戸への給水には木樋や竹樋など場所に応じての材料が使われていました。第6次発掘調査の岩樋状況写真です。(水戸市埋蔵文化財センター展示より)


第10次調査で発見された岩樋内部の土管は、明治42年の改良工事時に設置されたとされています。(水戸市埋蔵文化財センター展示より)
この頃から水質の悪化や水路途中での盗水、水量不足などの問題が起き、補修工事を重ねていましたが、昭和7年の近代水道の完成によりその役目を終えました。


岩樋の本管から下市地区の城下町には各戸に配置する支管が張り巡らされ、その分岐に使用された木製の桝が発見されました。(水戸市埋蔵文化財センター展示より)


現在のgoogle mapにはめ込んでみると、逆川から桜川、那珂川へゆったり流れる川の勾配をなぞっているように感じました。国土地理院の地形図では笠原水源が海抜7mくらいで、水道先端の細谷あたりが約5.5m、標高差1.5mを10キロかけて流れてくることになります。
永田勘衛門は土地の高低を、測る場所に置いた提灯の灯りが千波湖の水面に映るのを視て測量したと伝わっていますが。


水源地には、由来などを記した浴徳泉の碑が建っています。文政9年(1826)建てられ、碑面の題字「浴徳泉」は8代藩主斉脩公の「今猶浴先君徳」の句から選んで9代斉昭公が隷書で記し、「浴徳泉記」は彰考館総裁藤田幽谷の撰文です。


浴徳泉の碑の奥にある竜頭共用栓、明治時代の改修時に下市地区に設置されたものを復元したものだそうです。この水は現在も水道水源として利用されており、ポリタンクを持ち込んで水汲む人が絶えません。なお、ここから出る水はこの湧水に塩素を注入した水道水です。(水戸市のホームページより)


この一帯は逆川緑地として自然の残る街中の公園になっています。逆川という名は、付近の川が東や南に流れるのに対し、千波湖東で桜川に合流するまで真北に流れているので付いたといわれています。両岸の河岸段丘から湧水が数多く流れ込んで、小さい川ながらこの一帯を通ると水量が多くなり川幅も広がります。


なおこの工事を短期間で完成させた永田勘衛門の祖は、武田氏に仕えた金山衆で、その土木、鉱山技術により藩内の多くの水利施設を建設しました。
光圀公より圓水の名を賜った勘衛門は、光圀公から与えられた公の生母を祀った久昌寺の墓地の一角に眠っています。