平和な国だと信じている日本に歴史を巻き戻したような出来事が起こりました。大きな功績を残した半面いろんな問題もありましたが、施政者には毀誉褒貶はつきもの、それをテロで決着しようとする行為は絶対に正当化できません。
水戸藩初代藩主徳川頼房公の田町越えといわれる城下整備で、低地を埋め立てた下町への商人移住策の後、この新しい町は特に飲料水に不自由していました。そこで2代藩主になった光圀公は、藩主就任直後の寛文2年(1662)、町奉行望月恒隆に水道設置を命じました。
その調査に当たった平賀保秀は、笠原を水源地に選び、工事は永田勘衛門が担当して笠原から逆川に沿い、藤柄町まで岩樋を用いた暗渠を作り、細谷まで総延長約10kmの水道が翌年完成しました。これが日本で18番目に古い「笠原水道」です。
水戸の地形は、水戸層とよばれる水を透さない凝灰質泥岩の上に上市礫層があり、砂礫の間に蓄えられた水が数十年かけて湧水となり各所から湧き出しています。(水戸市埋蔵文化財センター展示より)
水戸台地の地質がよくわかる断層が市内の各地で見られます。水を透さない凝灰質泥岩の上の砂礫層から水が染み出しています。
この水を透さない凝灰質泥岩は、柔らかく加工がしやすく、偕楽園一帯の崖下で採れるものは神崎石とよばれ、この笠原水道の岩樋として利用されました。また水戸城内でも暗渠として敷設されているのが発見されています。
水源地近くに岩樋の実物が展示されています。
笠原水源地一帯は湧水が多く、岩樋の隙間からきれいな地下水を集めながら通水したという説がNHKのブラタモリでも披露されました。
水道は基本的には蓋石、左右の側石、底石により構成された暗渠で、要所に桝が設置されていましたが、竣工後に度重なる補修がされていたようです。(水戸市埋蔵文化財センター展示より)
備前堀を横切る際は銅樋、各戸への給水には木樋や竹樋など場所に応じての材料が使われていました。第6次発掘調査の岩樋状況写真です。(水戸市埋蔵文化財センター展示より)
第10次調査で発見された岩樋内部の土管は、明治42年の改良工事時に設置されたとされています。(水戸市埋蔵文化財センター展示より)
この頃から水質の悪化や水路途中での盗水、水量不足などの問題が起き、補修工事を重ねていましたが、昭和7年の近代水道の完成によりその役目を終えました。
岩樋の本管から下市地区の城下町には各戸に配置する支管が張り巡らされ、その分岐に使用された木製の桝が発見されました。(水戸市埋蔵文化財センター展示より)
現在のgoogle mapにはめ込んでみると、逆川から桜川、那珂川へゆったり流れる川の勾配をなぞっているように感じました。国土地理院の地形図では笠原水源が海抜7mくらいで、水道先端の細谷あたりが約5.5m、標高差1.5mを10キロかけて流れてくることになります。
永田勘衛門は土地の高低を、測る場所に置いた提灯の灯りが千波湖の水面に映るのを視て測量したと伝わっていますが。
水源地には、由来などを記した浴徳泉の碑が建っています。文政9年(1826)建てられ、碑面の題字「浴徳泉」は8代藩主斉脩公の「今猶浴先君徳」の句から選んで9代斉昭公が隷書で記し、「浴徳泉記」は彰考館総裁藤田幽谷の撰文です。
浴徳泉の碑の奥にある竜頭共用栓、明治時代の改修時に下市地区に設置されたものを復元したものだそうです。この水は現在も水道水源として利用されており、ポリタンクを持ち込んで水汲む人が絶えません。なお、ここから出る水はこの湧水に塩素を注入した水道水です。(水戸市のホームページより)
この一帯は逆川緑地として自然の残る街中の公園になっています。逆川という名は、付近の川が東や南に流れるのに対し、千波湖東で桜川に合流するまで真北に流れているので付いたといわれています。両岸の河岸段丘から湧水が数多く流れ込んで、小さい川ながらこの一帯を通ると水量が多くなり川幅も広がります。
なおこの工事を短期間で完成させた永田勘衛門の祖は、武田氏に仕えた金山衆で、その土木、鉱山技術により藩内の多くの水利施設を建設しました。
光圀公より圓水の名を賜った勘衛門は、光圀公から与えられた公の生母を祀った久昌寺の墓地の一角に眠っています。