顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

喜多院…江戸城から移築した建物が現存

2019年11月28日 | 歴史散歩
埼玉県川越市にある喜多院は慈覚大師が天長7年(830)に無量寿寺として創建した天台宗の名刹、元久2年(1205)兵火にあい荒廃しますが、永仁4年(1296)、尊海僧正が慈恵大師(元三大師)を勧請して、関東における天台宗の中心的存在になりました。正安3年(1301)には後伏見天皇の勅書、また後奈良天皇の星野山の勅額が下されますが、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で消失、その後慶長4年(1599)、天海僧正が第27世を継承しました。慶長16年(1611)に徳川家康が川越を訪れた際に親しく接見、翌年の慶長17年喜多院と改め、家康の信任を得た天海僧正によって寺勢が高まりました。

寛永15年(1638)の川越大火では山門を除き焼失しますが、3代将軍徳川家光の命ですぐに復興が始まり、江戸城の紅葉山別殿も移築されました。徳川家光誕生の間と言われている客殿、家光の乳母春日局の化粧の間を含む書院、庫裏が移築されており、約400年前の江戸城の建築遺産を現在に伝えています。

山門前には天海和尚の像、家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え権勢を振るい黒衣の宰相と呼ばれました。前半生については謎が多く、明智光秀の生き残り説や足利将軍落胤説などまでもあります。

山門は四脚門瓦葺き、棟札で寛永9年(1632)天海僧正によって建立されたことが分かり、川越大火を免れた喜多院最古の建物とされます。(国重要文化財)

元和2年(1617)駿府で亡くなった家康を翌年日光山に改葬の途中、この喜多院に遺骸を留めて4日間天海僧正が導師になり大法要を営み、その後造営された東照宮社殿を、川越大火の後嘉永17年(1640)に再建したものです。(国重要文化財)

随身門には嘉永10年(1633)後水尾天皇筆の東照大権現の額が掲げられていたといわれています。

慈眼堂は慈眼大師天海をまつる御堂です。正保2年(1645)家光の命により建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されました。(国重要文化財)

慈恵堂は比叡山延暦寺18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつり、大師堂とも呼ばれ星野山無量寿寺喜多院の本堂の役目をしています。(県指定有形文化財)

鐘楼門は川越の大火を免れた寛永10年(16333)の建立ともいわれています。階上の銅鐘には元禄15年(1702)の銘があり、当時の川越城主柳沢吉保の奉納と伝わる国の重要美術品です。(国重要文化財)

水屋の奥に見える多宝塔は寛永16年(1639)に建立されたものが移築、改造、復元されていますが、江戸時代初期の多宝塔建築の特徴を有しています。(県指定有形文化財)

天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間に造られた538体の羅漢像などが並ぶ一角は、色んな表情の石像が微笑ましく、人気のスポットだそうです。

明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで7代100年の川越藩主だった松平大和守の廟所です。川越で亡くなった5人の藩主が葬られています。

客殿、書院などの内部は撮影禁止のため、遠州流の庭園といわれる客殿前の「紅葉山庭園」と書院前の枯山水「曲水の庭」をご紹介いたします。

太平洋戦争末期には空襲が地方都市まで及びましたが、川越市は幸いに免れたため江戸城初期の建造物がこうして残っていることはとても貴重であり、主要市街地の8割近くを消失した都市に住むものには羨ましい限りです。

北浦の景観もご馳走…そば処「松月」

2019年11月25日 | 食べログ
歴史散歩の途中、蕎麦の看板を見て立ち寄りました。

北浦右岸に沿った国道354号線の行方市山田、お店はいちだんと高いところにあり、広い駐車場からは北浦が一望できます。

開放感のある明るいお店には小上がり、テーブル席、外に面したカウンター席があり、何処からも北浦が望めます。

手打ち蕎麦と季節の素材を使った和食が売り物とかで、頼んだ蕎麦と刺し身の定食は、田舎そば風の香り良い蕎麦と、生きの良いマグロとブリの刺し身の取り合わせが絶妙でした。

何よりも北浦の広々とした眺望が、味を一層引き立てていたのは言うまでもありません。

秋の実探して-③…2019

2019年11月23日 | 季節の花
秋は赤い実が多いと思いませんか!
秋の実を近くの公園などで探して…第三弾です。

サルトリイバラ(猿捕茨)は棘や巻き蔦に絡まって猿も捕まってしまうという命名、野山で見られましたが生花やドライフラワーなどに人気のため姿を消しつつあります。

似ているのはノバラ(野薔薇)別名ノイバラ(野茨)の実、バラの仲間ではないサルトリイバラの丸い葉に対し、バラ独特の奇数の羽状複葉なので区別できます。

クロガネモチ(黒鉄黐)は、光沢ある緑の葉と鮮やかな赤い実で人気の庭園樹で、公園でもよく見かけるようになりました。

ハナタカメン(鼻高面)は雌雄異株のヤマイモ(自然薯)の雌株の種子です。鼻につけて遊んだ記憶が蘇ります。

ハス(蓮)の古名、ハチス(蜂巣)は実の形状を蜂の巣に見立て、それがハスに転訛したといわれています。晩秋に花托の穴から実が飛んで水中に落ちる様が、蓮の実飛ぶという季語になっていますが、もうすでに半分くらいが落ちています。

蓮の実のこぼれつくして何もなし  正岡子規
蓮の実の飛びそこなうてしなびけり  寺田寅彦



海辺でよく見かけるアキグミ(秋茱萸)は小粒で食べる部分はあまりありません。鹿島灘に穏やかな波が立っていました。

タマサンゴ(玉珊瑚)は南米原産の常緑小低木、ナス科の特徴を持っていますが食用にはならないようです。

公園樹や海沿いに自生も見られるトベラ、名の由来は枝や葉が臭い匂いがするので節分に鬼除けとして扉に付けたことからと言われています。

ケンポナシ(玄圃梨)が落ちています。果実は白い球形で、その果柄が肥大化したものが甘く梨の味と香りがするので名前が付きました。秋の実とはいえないかもしれませんが…。

最後はフユイチゴ(冬苺)、花瓶に挿した茎に根が出て庭で増えています。大きな葉の下に隠れて鳥の目から実を守っているようです。

正福寺と徳蔵寺…800年前の僧兵の戦い

2019年11月20日 | 歴史散歩
鎌倉時代の初期、笠間地方は真言宗の正福寺(笠間市佐白山麓)と徳蔵寺(城里町徳蔵)の争いが絶えず、正福寺は百坊、徳蔵寺は三百坊といわれる勢力で抗争を繰り返していました。

劣勢だった正福寺の生田坊は下野の守護宇都宮頼綱に援軍を求め、元久2年(1205)頼綱は甥の塩谷時朝を派兵し、佐白山西麓に拠点を築いた時朝は徳蔵寺の僧兵を打ち破り、やがてはその勢いを恐れて敵対した正福寺勢を佐白山に攻め堂宇僧坊をことごとく破壊し滅ぼしてしまいました。

時朝はその後笠間氏を名乗り、佐白山に笠間城を築きその城内に観音堂を再建、破却した本尊に代わる千手観音像を祀ったと伝わります。(写真は現在の正福寺参道です)

約400年の戦乱の世を近隣の各勢力の間で存続した笠間氏でしたが、天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の際、宗家の宇都宮氏に攻められ滅亡してしまいました。笠間氏滅亡後にも本尊は祀り続けられ、やがて宥明上人が再興し勝福寺と改め、貞享3年(1686)になって正福寺となりました。
明治初年の廃仏毀釈により焼失。本尊諸仏は難をのがれ近隣寺院に預けられ、昭和5年(1930)現在地に仮の本堂が建てられました。昭和58年(1983)寺号を観世音寺と改めましたが、平成24年(2012)に正福寺と戻しました。(写真は現在の正福寺本堂です)

現在の佐白山正福寺は、普門宗(真言宗系単立)の寺院として鎌倉時代中期の木造佐白観音座像や金銅千手千眼十一面観世音菩薩が祀られています。

佐白山頂に向かう道に大黒石という大きな石が鎮座しています。ある時徳蔵寺の僧兵たちが大挙して押し寄せ正福寺を攻撃し、正福寺側が山頂近くに追い詰められたとき、山頂にあった巨石が突然動き出し、徳蔵寺の僧兵たちを追い散らしたと伝わる石です。



一方正福寺の約10キロ北に位置する徳蔵寺は、寺縁起によると、笠間三白(佐白、正福寺)と遺恨あり、法敵にして相争い法戦を重ね、三白の衆徒(百坊)援兵を宇都宮(藤原時朝)に乞い、徳蔵寺伽藍兵火に合い灰塵に帰すも諸仏は難を逃れ、後に僅かに堂を構え之を護り、大永2年(1522)空法上人来たりて再び徳蔵寺を興す、とあります。

引布山金剛光院徳蔵寺…大きな本堂の手前には、弘法太子の像が建っています。

大師堂は天正6年(1578年)の建立、木造等身大の太子座像は鎌倉時代初期の作で、徳蔵寺を約800年前に開山した弁海上人が勧請したと伝わり、茨城県の重要文化財です。

ずらりと並んだ石仏には四国88か所のお寺と本尊の名前が書かれ、太子堂の前のある御砂踏場には四国八十八ヶ所の砂が埋められているので、足の形をした踏み石を踏めばすべての霊場を参拝したことになるそうです。

平安中期から戦国時代にかけて活躍した僧兵は、近畿の大きな寺院では数千の僧兵を抱えて守護地頭などと抗争までしましたが、織豊政権の全国統一が進むにつれて次第に消滅してしまいます。東国のこの地方でもこのような集団が存在して同宗派間の争いを繰り広げていたということに興味を覚えますが、800年前の争いの正確な事実はわからず、現在の正福寺のホームページには塩谷時朝による正福寺攻撃についての異論が出ています。

偕楽園の入園が有料になりました

2019年11月16日 | 水戸の観光
天保13年(1842)水戸藩9代藩主徳川斉昭公によって開園された偕楽園は、孟子の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」から命名され、斉昭公撰文の偕楽園記にも「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」とあり、藩主や藩士ばかりでなく庶民にも開放する目的を掲げた近代の公園に近い性格を開園当初から持っていました。

このためか、日本三名園ながらずっと入園無料で通してきましたが、昨年から有料化の話が持ち上がり、開園当初の精神や無料というのが偕楽園の魅力であるという意見も多くありましたが、管理者である県議会ですんなりと議決され、11月1日から有料になってしまいました。
面積12.7ha、東京ドームの約3.7倍の広さを持つ偕楽園には今まで5箇所の入り口でしたが、今回の有料化に伴い4箇所の料金所が設けられました。

東門料金所
東門は、観光バスやJR偕楽園臨時駅の利用者が利用する、売店なども揃ったメインの入口です。

表門料金所
正門にあたる表門は、創立当時の黒門が建っていて、ここから入ることで斉昭公が意図した陰と陽の世界を体感できます。

表門入り口には、十月桜が申し訳無さそうに咲いていました。

南門料金所
斉昭公は水戸城下から船に乗り、当時は船着き場があった南門から入ったといわれています。この料金所から南門をくぐり、櫟門を上って見晴広場に出ます。

吐玉泉料金所
偕楽園は洪積層台地に位置するため、地形上と園内の回遊コースの都合上この料金所が必要になったと思われます。吐玉泉から竹林、表門に向かう通路になります。

西門は隣接する茨城県歴史館との回遊性を高めるために、岩間街道の下をトンネルでつなぎ、平成18年に開通しましたが、ここは有料区域外にして、従来どおり梅桜橋を経て桜山、田鶴鳴梅林、千波湖方面に行き来できるのは嬉しい限りです。



隣接の茨城県歴史館では、人気の銀杏並木や水車小屋の紅葉がちょうど見頃でした。



入園料は一般300円、小人と70歳以上150円、県内在住者は梅まつり期間以外は無料とややこしい設定ですが、いずれにしても入園料を払っていただいたお客様に満足いただけるような歴史や景観に考慮したソフト、ハード面の整備をしていかねばなりません。
向学立志の像のマント姿の旧制水高生も、そんな思いの顔をしているようにも見えました…。