水戸城三の丸にあった重臣屋敷を立ち退かせて、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が藩士とその子弟教育のために藩校「弘道館」を開設したのは、今から179年前の天保12年(1841)のことでした。
105,000㎡(32,000坪)という当時全国一の規模を誇った敷地内には文館、武館のほかに、医学館、天文台、武の神・鹿島神社、学問の神・孔子廟、弘道館記碑を収めた八卦堂などがあり、文武両道を標榜した総合的な教育施設でした。
幾度の戦火で施設のほとんどは焼失してしまいしたが、現存する正庁、至善堂、正門は国の重要文化財に指定されています。
その正庁の前の「左近の桜」の由来は、斉昭公の正室登美宮が有栖川宮家から降嫁の折、仁孝天皇から京都御所の左近の桜の鉢植えを賜ったことにさかのぼります。初代、二代目は枯朽してこれは三代目、昭和38年に宮内庁より同系統の苗 (樹齢7年)を受領し、弘道館と偕楽園に植えたものです。
同じ時に偕楽園にも植えた左近の桜は、昨年の台風15号の強風で倒伏してしまいました。高さ16mもある見事な大木だったので残念でなりません。
正面玄関の式台からのアングルは、弘道館の写真を撮り続けているMさんの発見、今回もお借りしてしまいました。この式台に浮かび上がった年輪は、明治元年の藩内抗争の最後の戦いで、藩士同士が180人以上も殺し合った弘道館戦争を見ていたと思うと感慨もひとしおです。
桜は吉野の山桜の一種でシロヤマザクラ(白山桜)、御所桜とも呼ばれるそうです。
畳廊下が廻された正庁の正席の間は、24畳の藩主の間で、弘道館の精神を述べた弘道館記碑の拓本が掲げられている厳かな空間です。
白壁の塀で囲われたこの一画には、他にも3本の山桜の古木があります。正庁の手前は武道の試合をした対試場で、藩主が臨席して御前試合も行われました。
弘道館の南側、当時は武館があったところに三の丸小学校があります。校舎も塀も白壁のイメージで校門も冠木門、三の丸というロケーションの景観を保っています。
北側には鹿島神社の入り口があり、左右に土塁と空堀が見えます。三の丸は城の重要な防御拠点なので、空堀と土塁で囲まれていました。
弘道館の馬場や調錬場跡には、茨城県庁舎が昭和5年建てられました。平成11年には郊外に移転しましたが、レンガ貼りのゴシック調の建物は、映画やTVのロケに人気のスポットとなっています。
5段の堀で総構えを構成した水戸城の3番目の堀は三の丸の西側にあり、桜の名所でしたが、昨年植え替えが行われ、かっての華やかさに戻るにはしばらくかかりそうです。
三の丸の先には、北辰一刀流の正当な系譜を残す東武館、手前の洋風な建物は低区配水塔です。
石垣も天守もないためにその存在が薄かった水戸城ですが、大手門、北柵門、隅櫓、土塀などの復元も進み、視覚的に充実し御三家の城らしくなってきました。