顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

酷暑を耐えた花…やっと秋の気配が

2024年08月29日 | 季節の花
あまりにも暑い日が続いて花に目を向ける余裕もない日々でした。やっと秋の気配を探して山の中の道をドライブしてみましたが、目に付いたのはタマアジサイ(玉紫陽花)だけでした。


退避所が続く狭い道路わきに群生がありました。


蕾は大きな丸い玉状で、パラリとはじけるように開くと両性花と装飾花からなる花が現れます。


つぼみから花への大きな変化が楽しめる紫陽花です。

エアコンの車内を出て山中に入る気にもなれず仕方がないので、我が狭庭で暑さに耐えて健気に咲いている花を探しました。


ユーパトリウムはキク科ヒヨドリバナ属で秋の七草フジバカマの仲間、青色フジバカマという和名もあります。南米原産でも耐寒性があり我が家では増えすぎて困っています。


まだ数本残って咲いていたミソハギ(禊萩)、最近まで味噌萩だと思っていました。萩に似ていて禊に使ったのが名の由来ですが、萩ではなくサルスベリの仲間です。


垂れ下がった枝を近くで撮れました。サルスベリ(百日紅)は、ミソハギ科サルスベリ属の落葉小高木です。百日紅といわれるだけあって、花期が長く次々と花を咲かせるので実と花が同居しています。


紫色の葉を愛でる観葉植物、ムラサキゴテン(紫御殿)はムラサキツユクサの仲間でセトクレアセアの名でも知られています。


フウセントウワタ(風船唐綿)は、やがて大きく奇怪な実がなり、それが弾けると綿のような実が飛び立っていきます。甘い香りに誘われて蟻やアブラムシがいつも付いています。
この植物の一生は、拙ブログ「フウセントウワタ(風船唐綿)…風船の中に綿毛」で紹介したことがあります。


ベゴニアにはいろんな種類があります。間もなく咲き始めるシュウカイドウの仲間というのが良く分かります。これは木立ベゴニア・リッチモンデンシスでしょうか、googleレンズで調べました。


ペチュニア類も種類が多く覚えきれませんが、それをサントリーが品種改良したのがサフィニアで、この花はgoogleレンズで検索すると「暑さに強いサフィニアサマー」と出てきました。


こちらはペチュニアの仲間カリブラコラ属のスーパーベル・ハニーヨーグルトとgoogleレンズが教えてくれました。最近このアプリが大体正解率80%くらいで教えてくれるのでとても重宝しています。


ショウジョウソウ(猩々草)は最上部の葉が赤いのを伝説の動物にたとえました。猩々はマントヒヒに似て赤い顔をした動物で酒が大好き、よく仲間同士で「あいつは猩々だ」とか言いましたが、最近では通じなくなりました。
偕楽園公園では、光圀公が園内の丸山に陶淵明を偲んだ堂を建て壁に猩々の絵を掲げたことから、近くに猩々梅林、猩々橋などの名前が付いています。


花期過ぎてヨレヨレのタマスダレ(玉簾)、玉のような白い花と簾のような細い葉が名前の由来ですが、なんともしっくりきません。


セイヨウニンジンボク(西洋人参木)の実がびっしり付いていました。葉の形が朝鮮人参に似ているのが命名由来とか、そのせいか実はローマ時代から薬用として、また料理の香料などに利用されているそうです。

年々夏の暑さの新記録が出ています。7月から8月20日までの累積猛暑日地点数は、今年度は7572地点に達し最も暑かった去年の5378地点を大きく上回る結果となりました。
我が子孫たちはやがて気温40度や45度に対応できるように進化するのでしょうか、南極や氷河の氷が解けて縄文海進がまた現れるのでしょうか。
我ら生産性のない年金老人は、個人で出来る地球温暖化対策のほんの小さな取り組みを守ることしかできませんが…。

東国三社…二等辺三角形の位置に

2024年08月22日 | 歴史散歩
「東国三社」と呼ばれる三つの神社は、茨城県南部と千葉県にまたがる地域にあり、江戸時代には関東以北の人が伊勢神宮の参拝を終え帰る途中に「お伊勢まいりの禊の三社参り」として参拝するという風習があったそうです。



この三社、鹿島神宮と香取神宮は約2600年、息栖神社は約1600年の歴史があり、鎮座するこの一帯は、当時霞ケ浦、印旛沼、手賀沼を含んだ香取海(かとりのうみ)と呼ばれる内海が広がっており、水上交通の盛んな古代の要衝でした。


古代遺跡のレイライン(ley line)という説もあるようですので、水路に面したと思われるこの三社の位置をgoogle map上で結ぶと確かにほぼ二等辺三角形になりました。この三角形の中では不思議な現象が起こるという伝承もあるようですが検証はなされていないようです。


香取海の大雑把な想定図を入れてみました。古代には水上交通の要所に大和朝廷が蝦夷に対する武神を置き、また氏神として崇敬した藤原氏や、さらには中世の武家の世に移ってもその神威は続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬されてきました。
なお、この香取海は江戸時代に入ると利根川の東遷や海退、川の運ぶ土砂の堆積などにより淡水化して現在の霞ケ浦、印旛沼、手賀沼などの姿になりました。



鹿島神宮
常陸国一ノ宮の鹿島神宮…主祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)で古くから武神として東国の武士に信仰されてきました。全国に約600社ある鹿島神社の総本社でもあります。

まずは神宮の周辺にある東西南北4つの一之鳥居のひとつ、「西の一之鳥居」は海上鳥居としては日本最大級の高さ18.5m、幅22.5mで、神宮から南へ約2kmの北浦の出口、鰐川に建っています。


大鳥居は東日本大震災で従来の笠間の御影石製のものが倒壊、その跡に神宮の森から切り出した杉の巨木4本で再建されました。高さ10.2m、幅14.6mの圧倒的な大きさです。


境内の広さは約70ha、そのうち約60%は鹿島神宮樹叢として茨城県の天然記念物に指定されてます。鬱蒼とした大木に囲まれた約300mの奥参道は、5月の御田植祭の後に行われる流鏑馬の舞台になるため、砂が敷かれています。


楼門は、寛永11年(1634)水戸藩初代藩主徳川頼房公が奉納し「日本三大楼門」の一つといわれます(国指定重要文化財)。「鹿島神宮」の扁額は東郷平八郎元師の直筆です。


社殿(本殿・拝殿・幣殿・石の間)は元和5年(1619)、徳川秀忠公の奉納で、すべて国の重要文化財に指定されています。白木のままで彩色無しの拝殿は、かえって清く厳かな感じが漂います。
江戸時代初期の建物のため、常に大修理が各所で行われていますので、今回の写真は以前撮影のものです。拝殿幕には神紋の左三つ巴と五三の桐が付いています。


本殿は、漆塗りで柱頭や組物などには華麗な極彩色が施されています。社殿の背後にある杉の巨木は根廻り12m、樹齢1,200年と推定されるご神木です。
社殿は征討する蝦夷地の方向、北を向いていますが、本殿内の神坐の位置は東向きで参拝者は祭神と正対できない造りになっているそうです。


奥宮は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきました。(国指定重要文化財)



香取神宮

香取神宮は下総国の一宮、日本全国に約400社ある香取神社の総本社です。御祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で、「国譲り神話」において、鹿島神宮に祀られる武甕槌大神とともに日本に遣わされた神様です。


長い表参道は大きな石灯篭の並ぶ坂道で、暑い日の参拝だったのでこたえました。


やっとの思いで着いたと思ったら、石段の先はまだ総門でした。


権現造りの拝殿は、重要文化財の本殿に釣り合った意匠で昭和11年(1636)内務省神社局の直轄による大修築の際造営されました。檜皮葺きの拝殿正面には、千鳥破風と軒唐破風を付け、足元から頭貫下端までの軸部は黒漆塗り、組物と蟇股は極彩色が施されています。


本殿は元禄13年(1700)徳川幕府によって桃山様式を受け継いで造営されたものです。正面柱間三間の流造に後庇を加えた両流造り、現在屋根は檜皮葺きですが、もとは柿葺でした。国指定重要文化財です。


国指定重要文化財の楼門は、本殿同様元禄13年の幕府造営のものです。三間一戸で、様式的には純和様で構築され丹塗り(朱塗り)が施されています。屋根は入母屋造銅板葺ですが、当初はとち葺でした。8月初めに訪れた時には工事中でシートに覆われていましたので、写真は神社ホームページから借用いたしました。扁額は鹿島神宮と同様に東郷平八郎元師の直筆です



息栖神社

一の鳥居は常陸利根川に面して建っていて、鳥居の右側に「男瓶」左側に「女瓶」あり、忍潮井(おしおい)という泉が湧き出しています。


忍潮井は1000年以上もの間、汽水の中の両瓶から清水を湧き出し続け、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水に数えられています。「女瓶」の鳥居は「男瓶」より小さくなっていました。


享保7年(1722年)に造営された社殿は昭和35年(1960)に焼失し、3年後に再建されています。鉄筋コンクリート造りで本殿、幣殿、拝殿からなります。


神門は弘化4年(1847)に造営時のもので、焼失を免れています。


息栖神社の主祭神の久那戸神(くなどのかみ)は水上交通の神とされ、国譲り神話「葦原中国の平定」で鹿島神宮と香取神宮の神の東国への先導にあたったとされています。


かつて香取海に面していた鹿島地方の丘陵地南端のこの地は、沖洲が陸続きとなり幾つかの集落ができ、このような中州に鎮座された祠を、大同2年(807)に平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂により現在地の息栖に遷座したと伝承されています。


いま東国三社巡りで検索すると、いろんな旅行サイトのツアー情報が出ています。都内から日帰りで話題のパワースポット三社を巡り、一万円未満の料金とあって結構人気があるようです。

湧き出る泉がご神体?…泉神社(日立市)

2024年08月15日 | 歴史散歩
暑い夏は、日陰と水辺を探して…ということでパワースポットとして最近テレビでも取り上げられたという日立市水木町の泉神社に出かけました、近くに居ながら初めての訪問です。


紀元前42年に祀られたとされ祭神は「天速玉姫命(あまのはやたまひめのみこと)」、あまり知られていない神様で天棚機姫命という機織りの神様の娘と伝わります。社記に「上古霊玉此地に天降り霊水湧騰して泉をなす号けて泉川云ひ霊玉を以て神体とする」とあり、祭神名の「速玉」とは清く澄んだ泉を意味することから、「密筑(ミズキ)の大井」が神格化されたものであるとされています。

1300年前の奈良時代に編纂された常陸国風土記にも「密筑の大井」として夏は冷たく冬は暖かい泉に人々が集まり、特に暑い日には近隣の村々から男女が酒や肴を持ち寄ってこの泉に集うという、ここより約68キロ南西にある筑波山の嬥歌(かがい)のような男女出会いの場の記述があるそうです。そのためか特に「縁結びのパワースポット」として人気が高く、平日なのに他県ナンバーの車が多く見かけました。


幟が並んだ参道は結界の雰囲気が充分に感じられます。神社というと大きな杉の林をイメージしますが、海まで700mというこの社は、海浜の樹叢類が多いような気がします。


参道奥の拝殿、神幕には水戸徳川家の葵紋が付いています。
この地を領した佐竹義篤が享禄3年(1530)社殿を修造したという棟札があり、また水戸徳川家からも厚い庇護を受けました。


水に因んだ龍の彫刻は、祭神が女神のためか親子の龍でした。そういえば辰年の今年の元朝参りはすごい混雑だったという話を聞きました。


本殿は、千木が女神の内削ぎ、鰹木は男神の奇数(三本)でした。


さてご神体の泉は本堂北側を下った池の中に湧き出していました。

池の真ん中には、境内社の厳島神社弁天堂があります。一時は参拝者が行列したようですが、それでも途切れることなく若い人が手を合わせていました。



右手の深さ1.5mくらいの池の中からエメラルドグリーンの清水が湧いています。

写真ではわかりにくいかもしれませんが、水底から青白い砂を舞い上げながら噴き出しているこの画面を携帯の待ち受けにすると素敵な出会いがあるといわれています。


湧水の水温は年間通して約15℃、湧水量は1分間に1500リットルで2008年に環境省が選定した「平成の名水百選」にも選ばれています。


硬貨を投げ入れないでくださいという大きな看板が掲示されていました。トレビの泉の硬貨投入額は年間1億6000万!…信仰風習も歴史も違うのでぜひ守っていただきたいと思います。


本堂横に眼洗いの泉があります。この泉で目を洗うと眼病が直ったと伝わっていますが…? 


まるで龍の頭そっくり…境内を見回っていた神職の方がこの倒木を発見、泉龍木(せんりゅうぼく)と名付け境内の名所の一つになっています。


ところでこの泉の周辺と神域の深遠な森の織り成す一帯は、泉が森とよばれて古くから親しまれてきました。

隣接するイトヨの里では、きれいな湧き水でしか生息できない「イトヨ(糸魚)」が生息し観察できると案内版には書かれています。


目を凝らしても見つけられませんでした。確かに「密筑の大井」から流れ出る小川は、手で掬って飲めそうな透きとおった水でしたが…

仁王像…睨み顔いろいろ ➀

2024年08月09日 | 歴史散歩
仁王像(金剛力士像)を主に撮ったわけではありませんが、歴史散歩で訪れた寺社仏閣で撮った写真の中から仁王像をまとめてみました。

寺院の前で睨みをきかせる仁王像は、平安時代末期の源平の戦いで多くの寺院が戦火に遭ったため、鎌倉時代に入ると寺を仏敵から守る守護神として多く造られたといわれています。


代表的な仁王門といえば、鎌倉時代初め建仁3年(1203)に作られ奈良東大寺南大門金剛力士像で、運慶、快慶という仏師たちによってわずか69日間で造られたと伝わる高さ8mを超える檜の寄木造りで国宝に指定されています。(出典:東大寺ウェブページ)

金剛杵(こんごうしょ)を手に持ち上半身は裸で筋骨隆々、腰に裳(も)という布をまとうだけで、右に口を開けた「阿形(あぎょう)」、左に閉じた「吽形(うんぎょう)」という配置が一般的ですが、左右逆や独鈷杵を持つもの、あるいは年月を経て欠落したものなどいろんな仁王像が残っています。



薬王院(水戸市)の仁王像は、室町時代前半の作と伝わり、約600年を経た木目の凹凸がくっきりと浮き出て、連子窓の間から撮ってもすごい迫力です。


仁王門は、芽葺きの八脚門で、桁行6.8m、梁間約6.4m、貞享年間(1684~1688)に建立されたものとされます。


平安初期に桓武天皇の勅願寺として建立されたと伝わる吉田山神宮寺薬王院は天台宗の寺院で、常陸三の宮の吉田神社の神宮寺として、この地方を治めた常陸大掾氏、江戸氏、佐竹氏、そして水戸徳川家の帰依と保護を受けてきました。本堂は享禄2年(1529)に江戸氏により再建されたもので、貞享3年(1686)に光圀公が大修理した芽葺型銅版葺入母屋造で室町時代の建築手法を現代に伝えており、国指定の重要文化財です。



桂岸寺(水戸市)の赤い漆で塗られた仁王像は、憤怒の表情ながら民衆の身近な存在として親しまれてきた一端を見るようです。仁王門は火災のあと大正11年(1922)の再建とされますので、その頃の作でしょうか。


大悲山保和院桂岸寺は通称谷中の二十三夜尊(三夜さん)で親しまれている真言宗豊山派の寺院で、当初は香華院という名でしたが、元禄7年(1694)徳川光圀公の命により、保和院と改めました。隣接して公が愛した保和苑があり、100種6000株のアジサイが咲く観光スポットになっています。




佛性寺(水戸市)の山門前に建つ仁王像は石造り、細部表現が難しいのでかえって素朴で滑稽な感じさえ漂っています。高さは約1.4mで、右の阿形像の背部には元禄7年(1694)の刻銘があります。日本全国にある石造仁王像は約673か所、1369体、そのうちの約8割は九州の国東半島にあるそうです。


佛性寺は涌石山大日院と号する、水戸藩2代藩主光圀公所縁の天台宗の寺院で、山門の屋根などに水戸徳川家の葵紋が付いています。


国の重要文化財に指定されている本堂は、県内には類例のない八角堂で、堂内の墨書から天正13年(1585)の建築年代などが確認されています。




天徳寺(水戸市)の仁王像は、金網越しのせいかより迫力ある顔に撮れました。


岱宗山天徳寺は曹洞宗の寺院で、重厚な楼門様式の仁王門の前には、「不許葷酒入山門」の石柱が建っています。
佐竹氏建立の曹洞宗の寺院で、歴史に翻弄され数度の移転の歴史を持ちますが、五本骨扇と月丸の佐竹紋がいたるところに付いていました。



西光院(大洗町)の仁王像は寄木造りで、独鈷杵を持って口を開いた阿形像、口を閉じ金剛杵を持った吽形像と、形式通りの両仏が迫力いっぱいの睨みを利かしています。


楼門形式の立派な仁王門です。
応永5年(1398)宥祖上人の開山で寺号を大内山西光院と称する高野山真言宗の寺院で、京都醍醐寺無量寿院末と伝わっています。建築年代は不明ですが、仁王像ともども近代の製作と思われます。



村松山虚空蔵尊(東海村)の朱塗りの仁王像、「正和4年(1315)謹刻、文禄3年(1594)塗りかへ」などの墨書があるそうです。平安初期の大同2年(807)に平城天皇の勅額により、弘法大師の創建と伝わる真言宗の寺院で、神仏混交の時代には隣接する大神宮の神宮寺でした。


仁王門は昭和45年(1970)の再建です。平安末期よりこの地を400有余年治めた佐竹氏の保護を受け、江戸時代には徳川家康公より朱印五十石を寄進され、また水戸徳川家の光圀公の庇護のもと栄えてきました。現在は伊勢の朝熊虚空蔵尊、会津の柳津虚空蔵尊とともに「日本三大虚空蔵」といわれています。

仁王像は解放的な場所に安置されているので風雨の影響を受けやすく、埃の積もった堂内も多く見受けられました。格子や細かい網などで覆われているのもあり、その間からカメラを向けると、いずれも長い間地元の信仰を集めてきた独特の表情をしていて親しみを感じました。

昭和のほのぼの家族…安部朱美創作人形展

2024年08月02日 | 日記
茨城県立歴史館ではいま「安部朱美創作人形展 昭和の家族 -伝えるこころ-」が開催されています。(9月16日まで)

猛暑の午後、懐かしい昭和の時代を思い出させてくれる人形たちに会ってきました。



作家の安部朱美さんは1950年鳥取県の生まれ、30歳を過ぎて3人の子どもに読み聞かせる本を探しに図書館通いをしていた頃、ふと手にとった「紙粘土人形の本」がきっかけだったそうです。
技法や材料も分からない手探り状態から始めましたが、模索を重ね独自の創作粘土人形の技法を編み出してきました。

石粉粘土人形で表現された昭和30年代の家族の姿はほのぼのとした温かさがあり、子供の歓声や当時の匂いまでするような気がしました。今ほど文明が進んでなく家庭に車やエアコンが無くても、ずっと豊かな気分だった……暫し昭和のノスタルジーに浸りました。


最初の作品「かあちゃん読んで」は、人形の寺として知られる京都の宝鏡寺門跡主催の創作人形公募展で大賞を受賞し、国民読書年ポスターにも起用されたため世に知られるようになったそうです。


おうまさん


床屋はかあさん


夕焼け小焼けで日が暮れて


いろり端


背伸びたかな


こたつでカルタ


アイスキャンデー


紙芝居


カミナリおやじ


たき火


おいしいうどん


しょうぎ


ベーゴマ


駄菓子屋


魚屋さん


肩たたき


唄声は浜辺に」   『二十四の瞳』より


この子らに報復の銃は持たせたくない


祈り」「萌し」   
おばあちゃんのいつもの祈りとそれを真似て手を合わせる孫…明るい萌しに向かって進んでいこうというコメントで展示が締められていました。

顔の表情やしぐさがいかにも自然で、さらに衣装や小道具などのきめ細かい仕上がりが素晴らしく、昭和30年代の世界につい引き込まれてしまいました。撮影、SNS可でしたので、暑気払いに71点の展示から20点を紹介させていただきました。