大日本史は水戸藩2代藩主徳川光圀公が明暦3年(1657)に編纂を開始した歴史書で明治39年(1906)完成、本紀,列伝,志,表4部,計397巻226冊からなり,神武天皇から後小松天皇までを紀伝体で記載しました。その編纂をする「彰考館」の名は「春秋左氏伝」の「彰往考来」(往事を彰らかにし、来時を考察する)から光圀公が付けました。
公の招きで全国から集まった多くの学者は、60名を超えたこともあり藩の財政に大きな影響を与えともいわれます。光圀公が常陸太田市の西山荘に隠居して編纂を続けた元禄11年(1698)には、館の主体は江戸の藩邸から水戸城内に移され、以後、江戸小石川藩邸の「江館」と水戸城内の「水館」に分かれて編纂が進められました。
3代綱條公以後は館員も減少し修史事業も衰退しましたが、6代治保公の治世には復興し、9代斉昭公は江館を閉ざし水館だけにしました。明治になって閉館同然となった彰考館は、明治12年(1879)徳川家が栗田寛らに委嘱して再開、249年の歳月を経て明治39年(1906)397巻が完成し、修史局としての彰考館の役目は終わりました。
彰考館の最高位である総裁は天保3年(1683)から置かれ、館員の増加時には数人置かれたときや、館の縮小に伴い置かれないときもあったようです。石高は200石~300石の大番役や小納戸役相当の中士職で、初期の頃は他所からの招聘者が多く、後期には実力で士分に取り立てられて総裁まで昇進した藤田幽谷、豊田天功などもおりました。
その総裁たちの静かに眠る墓所のいくつかを訪ねてみました。
佐々宗淳(1640-1698)
総裁期間 元禄1年(1688)~元禄9年(1696)
15歳で京都妙心寺の僧になるが還俗し、延宝2年(1674)より史の編纂に参加、史料の調査収集のために全国を回ったため、後に「水戸黄門漫遊記」の助さんのモデルとされました。晩年は西山荘に隠居した光圀公の側近くに仕えました。 通称/介三郎 号/十竹 墓所/正宗寺(常陸太田市)
安積澹泊(1656-1738)
総裁期間 元禄6年(1693)~正徳4年(1714)
水戸藩士で朱舜水に学び、博識で史学にすぐれ編纂に指導的役割を果たし、総裁を辞した後も修史事業に尽力しました。澹泊の死によって修史事業はしばらく休止状態になったともいわれます。「水戸黄門漫遊記」の格さんのモデルとされています。名/覚 通称/覚兵衛 号/老圃、常山など 墓所/常磐共有墓地(水戸市)
酒泉竹軒(1654-1718)
総裁期間 元禄12年(1699)~享保3年(1718)
筑前国出身。長崎に遊学し書道、篆刻、中国語に優れ、佐々宗淳の推薦で編纂に参加、元禄11年(1698)水戸に彰考館設置に伴い来水し、翌年総裁となりました。名/弘 通称/彦太夫 字/道甫、恵迪 墓所/常磐共有墓地(水戸市)
大井松隣(1676-1733)
総裁期間 宝永4年(1707)~享保14年(1729)
京都出身。伊藤仁斎に学び、大串雪瀾の推薦により水戸藩に出仕。大日本史という書名を裁定した3代藩主綱条の命で、その序文「大日本史叙」を起稿しました。 名/貞広 字/彦輔 通称/介衛門 号/南塘 墓所/常磐共有墓地(水戸市)
神代鶴洞(1664-1728)
総裁期間 正徳4年(1714)~享保13年(1728)
天和3年(1683)水戸藩に出仕し彰考館員となり、光圀、2次代藩主綱條に仕え編修校訂に尽力しました。 通称/杢太夫 号/求心斎 墓所/神崎寺(水戸市)
小池桃洞(1683-1754)
総裁期間 享保4年(1719)~享保10年(1725)
母は儒学(朱子学)者の室鳩巣の妹。建部賢弘に関流の和算を,渋川春海に暦学を学び、弟子に大場景明らがいます。 名/友賢 通称/七左衛門 字/伯純 墓所/妙雲寺(水戸市)
名越南渓(1699-1777)
総裁期間 延享2年(1745)~安永4年(1775)
江戸昌平黌で学び林鳳岡の推薦で水戸藩に出仕し編修に従事しました。酒を好み衣服に構わず「ぼろ十蔵」とよばれたと伝わっています。 名/時中、克敏 通称/十蔵 字/子聡 号/居簡斎 墓所/常磐共有墓地(水戸市)
立原翠軒(1744-1823)
総裁期間 天明6年(1786)~享和3年(1803)
水戸藩士。徂徠学を学び彰考館に入り、「大日本史」校訂について門人の藤田幽谷と対立して享和3年総裁を辞任、これが藩内抗争の原因のひとつともいわれています。嫡男は南画家の水戸藩士立原杏所、子孫には詩人、立原道造がいます。 名/万 通称/甚五郎 字/伯時 号/東里、此君堂 墓所/六地蔵寺(水戸市)
高橋坦室(1771-1823)
総裁期間 文化4年(1807)~文政3年(1820)
水戸藩士。長久保赤水に学び、「大日本史」編修に従事しますが、藤田幽谷とともに立原翠軒とその一門と対立しました。 名/広備 通称/又一郎 字/子大 墓所/常磐共有墓地(水戸市)
藤田幽谷(1774-1826)
総裁期間 文化4年(1807)~文政9年(1826)
藤田東湖の父。古着屋の子に生まれ,立原翠軒に学び彰考館員となり水戸藩士にも取り立てられ、彰考館総裁、郡奉行も務めました。水戸学の基礎を築いたといわれ、会沢正志斎らの門人を育てました。 名/一正 通称/次郎左衛門 字/子定 墓所/常磐共有墓地(水戸市)
川口緑野(1773-1835)
総裁期間 文化12年(1815)~文政5年(1822)、文政10年(1827)~天保1年(1830)
水戸藩士。立原翠軒の推薦で彰考館員になり6代藩主治保公の侍講も務めました。 名/長孺 通称は三省、助九郎 字/嬰卿 墓所/常磐共有墓地(水戸市)
青山延于(1776-1843)
総裁期間 文政6年(1823)~天保1年(1830)
水戸藩士。立原翠軒に学び、江戸彰考館総裁となり,藩史「東藩文献志」をまとめ,藩校弘道館初代教授頭取も務めました。 通称は量介 字/子世 号/拙斎、雲竜 墓所/常磐共有墓地(水戸市)
会沢正志斎(1782-1863)
総裁期間 天保2年(1831)~天保10年(1839)
水戸藩士。藤田幽谷に学び、9代藩主斉昭公を擁立して藩政改革につとめ,藩校弘道館初代教授頭取となりました。著作「新論」は全国の尊攘運動に多大な影響を与えたといわれます。 名/安 通称/恒蔵 字/伯民 号/欣賞斎、憩斎 墓所/本法寺(水戸市)
豊田天功(1805-1864)
総裁期間 安政3年(1856)~元治1年(1864)
久慈郡の庄屋の次男で幼少時よりその才を知られ藤田幽谷等に学び、15歳で彰考館見習いとなり、総裁に就任後は志、表の編纂を主宰するとともに、「防海新策」などを著して、斉昭公の攘夷海防論に学者としての知的裏付けをしたといわれます。長男の小太郎の妻は、藤田東湖の姪で日本の保母第1号といわれる教育者、豊田芙雄です。 名/亮 通称/彦次郎 号/松岡、晩翠 墓所/常磐共有墓地(水戸市)
青山延光(1807-1871)
総裁期間 元治1年(1864)~慶応1年(1865)
水戸藩士。青山延于の長男。藩校弘道館の教授頭取にもなり、彰考館総裁として「大日本史」の校訂に尽くしますが時代は幕末の動乱期で、総裁期間には藩内を二分する天狗党の乱がありました。 通称/量太郎 字/伯卿 号/佩弦斎、晩翠、春夢 墓所/常磐共有墓地(水戸市)
番外編
栗田寛(1835-1899)
水戸の城下町で代々油屋を営む家に生まれ、会沢正志斎、藤田東湖らに学び、24歳の時、町人出身ながら彰考館への出仕を命じられ、豊田天功の指導を受けながら史書編纂事業にあたりました。藩内抗争の激しい時代の中で政争には関与せずに彰考館の維持に尽力しますが理解を得られずに一時下野、明治になって彰考館は水戸徳川家所属となり、藩の政治の動向に拘束されることは無くなったため、寛たちの編纂事業は大いに進みました。
寛の没後は、養子の栗田勤が「表」、「志」の編纂、校訂を引き継いで明治39年(1906)に全397巻226冊(目録5巻)がついに完成、光圀が史局を開設した明暦3年(1657)から数えて249年の歳月を要しました。 墓所/六地蔵寺(水戸市)
いまコロナ禍にめげず満開の梅が匂う偕楽園…その南斜面の中腹に建つ「大日本史完成の地」の石碑です。
水戸光圀公によって江戸藩邸で始まった大日本史の編纂は、明治維新後は水戸徳川家の事業として続けられ、最終的にはこの地で完成をみたのでした。