顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

中世の城館…吉田城 (水戸市)

2018年08月29日 | 歴史散歩

三方を当時の千波湖と低地に囲まれ、南北に伸びた比高15m前後の半島状台地先端に築かれた連郭式平山城で、平安時代後期に平国香の子孫吉田盛幹が初め館を建てこの地を統治したとされます。この盛幹の子、石川家幹の次男が水戸城を最初に築いた馬場資幹で、建久4年(1193)源頼朝から常陸大掾職と大掾氏の惣領を与えられて宗家を継ぎ、この頃に吉田城は水戸城の支城となったと思われます。

応永33年(1426)になるとこの地は江戸氏の支配下になり、吉田城は江戸氏によって土塁や濠を強化されます。しかし天正18年(1590)江戸氏が佐竹義宣に攻められ水戸は佐竹領となり、佐竹氏は水戸城の増築と城下町の整備に力を入れ、吉田城は水戸城の支城として重臣である猛将、車丹波守斯忠に与えられました。
やがて佐竹氏の秋田移封に憤慨した車丹波は水戸城奪還を企て、捕らえられて磔刑に処せられ城は廃城となり、跡地に水戸藩第2代徳川光圀公開基の臨済宗常照寺が建てられました。

山門にある「佛日山」の扁額には「源光圀」の銘が残されています。
※知人で地元のTさんから情報をいただきました。この扁額の本物は、お寺の蔵にしっかり仕舞われているそうです。また、Ⅴの郭は常照寺の茅場、農地開放で他人のものに、腰曲輪には防空壕があり子どもたちの肝試しの場所、焼夷弾の欠片を拾ったことがあるそうです。

本堂など各所に水戸徳川家の庇護を示す三ツ葉葵紋が見られます。



山門から本堂へ続く長い参道…街なかとは思えない静寂な空間をもつ手入れの行き届いた古刹です。好文亭の襖絵や弘道館に絵を書き残した水戸藩絵師の萩谷遷喬、家老戸田忠則らが墓地に眠っています。

Ⅰ郭の東南西3方には深い空堀が残っています。(写真はⅠ郭とⅡ郭の間の空堀です)

急な崖の中腹には、腰曲輪が城を取り巻くように残っています。(写真はⅠ郭の南側)腰曲輪は斜面の削平地に敵を誘い込み高所から射撃する目的で築かれました。

かっての堀の役目をした2つの池のひとつ、常照寺池から望む比高約15mの城址は、深い湿地に囲まれた堅固な要塞だったことがわかります。
城域は南北約200m、東西約500m、縄張りについてはいろんな解釈があり、地元の広報誌では、Ⅰ郭が本丸、Ⅱ、Ⅲ、Ⅴ郭が二の丸、Ⅳ郭が三の丸で大手門が本丸南東側となっていますが、「図説茨城の城郭」ではⅡ、Ⅲ郭間が大手とし、Ⅴの郭には土塁などはなく蔵や家臣などの屋敷があったのではないかとされています。

近くの住宅地の一画に車丹波の首を埋葬したと言われる車塚があります。小さな祠が見えますが、ここで咳をしたため見つかって捕らえられたと伝わり、車塚には咳の神様が祀られているとあるので、その祠でしょうか。
なお、家康もその死を惜しんだといわれる車丹波ですが、子の善七郎は浅草の頭、車善七の初代であるという説もあります。

吉田松陰が東北遊学の際、嘉永4年(1851)12月19日から翌年1月20日まで1か月水戸滞在の折り、ここに参拝したと東北遊日記に書かれています。「有平原蓋操塲也拜車丹波祠車佐竹氏之臣也佐竹氏徙封時嬰壁戦死云」 (平原あり、蓋(けだ)し操場(磔の地)なり。車丹波の祠を拝す。車は佐竹氏の臣なり。佐竹氏の徒封(しほう)の時、壁(とりで)を要(まも)り戦死すと云う)。
忠義の士が好きな松蔭と、東北に同行した南部藩士江幡五郎が那珂氏の出で母は車丹波の末裔といわれる理由もあったようです。

そば処  「越路」

2018年08月26日 | 食べログ
常陸太田市の街から外れた田園の中にあるので、ちょっと分かりにくい場所ですが、知る人ぞ知るの蕎麦名店ということなので訪ねてみました。お昼の時間を外しても駐車場はいっぱいです。

ここのおすすめは、限定せいろ(一日20食)、金砂郷在来のそばを天日干し、それを石臼で挽いた自家製そば粉使用とネットの情報です。厳選素材で仕上げたというつゆの他にそば猪口に入った水、これはアルカリイオン水で、つゆで啜る前に、この水で蕎麦の香り、旨味をストレートに味わってくださいとの説明があります。蕎麦の端に載っている四角いものは、蕎麦の刺し身だそうで、添付の塩で食べるようです。

確かに水猪口では蕎麦の味が素直にわかりました。本番のつゆは、クセもなく美味しいと思いましたが、カツオや昆布のダシが…とかいう食べログにある味覚の持ち合わせもなく、気の利いた食レポはお届けできません。
そばは全体が短めで、長さや太さにバラツキがあり、これが外一(そば粉10+割粉1の割合だそうです)の特徴なのでしょうか、ちょっと好みではない気がしましたが、ロケーションの素晴らしさが充分に補ってくれました。

ふたたび結城寅寿…仕掛けられた罠

2018年08月21日 | 歴史散歩
茨城県立歴史館でのギャラリー展「結城寅寿―仕掛けられた罠」が終わりました。2017年に「長倉城と結城寅寿の墓」という拙ブログを載せたことがありましたが、今回驚くべき史料が展示され、新たな歴史の一部が明らかになりました。
第9代水戸藩主になった斉昭は、天保11年(1840)郡奉行などの実務には改革派を多用し藤田東湖を側用人上座に登用したのに対し、門閥派の名門結城寅寿を若年寄(参政)として藩の重臣に据え、両派のバランスを取りながら藩政改革を進めました。
ところが弘化元年(1844)、斉昭は幕府から藩政の問題7か条を詰問されて謹慎、やがて隠居を命じられ、改革派の東湖らも失脚します。一方で門閥派の首領となった寅寿は表面上の処分を受けながらも事件後の藩政の実権を握りました。

裏切られたとの復讐心に燃えた斉昭は自らを架空の江戸商人「紙屋長兵衛」になりすまし、寅寿の反逆の証拠を集めようとした一部始終が宇和島藩伊達家の「水戸一件結城寅寿」史料として現存しているそうです。
同文書によると、紙屋長兵衛の番頭貞之助を名乗る男が、寅寿の家臣庄兵衛に近づき寅寿を裏切る密談した記録と、庄兵衛が寅寿の悪事を密告した肉筆証言の写しを手に入れますが、気付いた寅寿は追手を派遣したため、斉昭は親しかった宇和島藩主伊達宗城に庄兵衛を預け、護衛として神道無念流の達人菊池為三郎を付け、この潜伏は10年近くに及びました。
菊池家の子孫が歴史館に寄託した史料から、斉昭から菊池に宛てた生々しい命令書などが今回発見されました。末尾には焼却せよと書いてあるのもありますが、木箱に一連の史料とともに残っており、新たな史実を語ってくれています。

その後嘉永6年(1853)のペリー来航を機に幕府の海防参与となった斉昭は復権を果たし、水戸藩の改革派も再び召し出され、一方の寅寿は不義不忠の罪により長倉陣屋に幽閉されます。

さらに安政2年(1855)の大地震にて改革派の東湖が圧死してしまい、寅寿が「東湖は大量の人物なれば我を殺さず永の預けとしたが、東湖斃れし上は天狗等が我を憎み死地に陥れるだろう」と言った通り、その7か月後に幽閉先の長倉陣屋で処刑されました。享年39。

寅寿の最期について拙ブログでは、山川菊栄の「覚書 幕末の水戸藩」の久木直次郎他らが無理やり首を斬ったとしましたが、「故老実歴水戸史談」による長倉松平家の介錯人太田勘太夫による斬首、その他に藩庁への報告書「探奸雑書」による寅寿の自決説が紹介されています。しかし「ただ一度のご吟味もなく」と寅寿が要求し続けたことはいずれにも載っており、確かだったようです。
歴史館の展示解説資料に、国会図書館デジタルコレクションの「故老実歴水戸史談・久木直二郎翁物語」にも掲出の寅寿の座敷牢らしき住居図と、当日の生々しい執行人の配置図が載っていますが、本当の真実は歴史の闇の中に埋もれています。
隣地の蒼泉寺の住職が、藩命によって「打ち捨て」とされたのを憐れんでひそかに寺内に葬り、その後結城家の縁者によって墓石が建てられたと言われています。ただ今回の文書では近くの寺で始末せよ云々の文字もありました。

ところで元禄7年(1695)2代藩主光圀公が、家老藤井紋太夫を有無を言わさず自ら手打ちにした一件は、光圀失脚を画策する柳沢吉保に内通したためといわれていますが、この真相も不明です。いずれにしても絶対君主の江戸初期から160年、藩主といえども証拠、証言を集めての糾弾が必要とされたのでしょうか。
やがて藤田東湖の死(1855)と結城寅寿の処刑(1856)、そして当事者の斉昭の死(1860)によって水戸藩は、まとめるリーダーを失って混迷を極め、約8年にわたる凄まじい藩内抗争に突入していくことになります。
なお長倉陣屋は、初代頼房公の八男賴泰が家老格の支族松平家として3000石で独立、9代賴位の時に斉昭の命により佐竹時代の名城、長倉城址に陣屋を築いたものです。
この賴位は後に支藩宍戸藩の8代藩主となりますが、その子9代目賴徳が天狗党の乱鎮圧の際に策略により切腹させられ、藩は改易となってしまいます。明治になって朝廷により賴位の10代藩主としての再襲が認められ復活しますが…。
三島由紀夫の高祖父としても知られています。

荒れ果てた寺…善光寺楼門  (石岡市)

2018年08月17日 | 歴史散歩

文亀元年(1501)当時、小田城主であった13代小田成治(文安6年(1449)- 永正11年(1514))は、小田家菩提寺の山之荘村小野の「新善光寺」を深く信仰していた母堂が出家の身となった時、その願いでこの地に「月光山無量寿院善光寺」を建立しました。

戦乱に明け暮れ、何度も城を追われた歴史でも知られている小田氏ですので、ここでも当時を偲ぶものはこの楼門だけになってしまいました。

桁行(正面の長辺)3間,梁間(側面の長辺)2間で四脚門の茅葺寄棟造り、古風な楼門(仁王門)は、室町時代の建築様式の特色を示す貴重な建造物として,昭和58年に国の重要文化財に指定されています。

楼門とは2階づくりの門のことですが、この門は何らかの理由により2階部分の建築を断念した跡がわかる「三間一戸」形態(間口が3間で中央に戸口のある門)の楼門として重要文化財の指定を受けました。ちょうどこの頃、成治は関東管領上杉家の内紛で扇谷方として戦っている最中だったので、楼門どころではなかったのかもしれません。



古い墓石や石碑があちこちに建っています。刻まれた年代も古いものが多く見られますが、由来などはまったくわかりません。

本堂は凄まじい状態になっていました。ネットで見ると、ずいぶん前に住職の居ない無住寺になり、この状態になってからはロケの名所になって仮面ライダーなどいろんな撮影が行われているようでした。町おこしに役立っている?…なんとも複雑な心境になりました。
現役の墓地もありますが、地域の過疎化や高齢化などのため、檀家レベルでの再建は相当困難だと思います。

本堂裏手の中腹に小田一族の墓といわれる11基の五輪塔がひっそりと佇んでいます。
鎌倉時代より小田城を本拠に常陸南部に大きな勢力をもった小田一族も、第16代氏治で滅亡するまで約400年、幾多の戦いを経てきた家柄だけに空想がふくらみますが、語ってはくれません。

境内には一面のワラビが雑草と共に押し寄せていたので、葉が開いていないものを少し摘んでみました。ワラビは5月初旬くらいまでの採取と決めていますが、試しにアク抜きしたところまさしくワラビの味、美味しく食べられるのがわかりました。

旅びとに古塔かたぶく夏わらび   稲垣きくの
欠け欠けて遊女の墓や夏蕨  柏 禎
寺朽ちて賑やかなりし夏蕨  顎髭仙人

鎌倉初期築城の志筑城址 (かすみがうら市)

2018年08月13日 | 歴史散歩

志筑城阯は、三方が深田に囲まれ、南側に自然の掘割を擁した天然の要害です。
鎌倉時代茨城南部の地頭職であった下河辺政義の築城によるもので、子孫代々城主をつとめましたが、南北朝争乱では六代城主国行は小田城主治久と共に南朝方に属し府中城の大掾高幹と戦いをくり返し、ついに興国2年(1341)に小田城とともに敵の軍門に下り、廃城となりました。

現地の解説板によると、
「鎌倉時代源頼朝の家臣下河辺政義(後に益戸氏)が、養和元年(1181)頼朝に叛いた浮島の信太義広を討ち、その功により茨城南部の地頭となり、この地に城を築いたのに始まる」と書かれています。

その後、慶長7年(1602)佐竹氏の国替えに伴い、出羽国(秋田県千畑町)より8500石で本堂茂親が入封してここに陣屋を構え、廃藩置県まで本堂氏十二代の居城となりました。10代親久は明治維新で新政府にいち早く忠誠を誓ったため、10110石に加増され立藩し、短い期間ですが大名に昇格しました。
御殿跡の大きな楠木の下に、城址の石碑が建っています。

陣屋が廃された後、門などの建築物の払い下げられたものが、近くの県道沿いの街並みにも見られ、志筑陣屋の城下町の雰囲気を残しています。

なお、志筑藩士では幕末に活躍した新撰組隊士でのちの御陵衛士伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎の兄弟が知られていますが、写真の屋敷門の家は兄弟の母の実家という情報もあります。
もと志筑小学校敷地跡の東西約160m、南北最大約80mが城址ですが、遺構はほとんど失われています。西北側には高さ1mほどの土塁が残り、見下ろすと急峻な台地の上にあるのが実感できます。

城跡に栃の実がたくさん落ちていました。昔から食用とされていましたが、強いアクを抜く作業が大変なので今はとち餅などにしか使われないようです。近縁種でヨーロッパ産のセイヨウトチノキが、フランス語名「マロニエ」としてよく知られています。

2郭の南側にあり堀の役目をしたと思われる八幡池です。この他に南東の県道沿いにも堀跡と思われる池が残っています。

八幡池の南隣にある藩主本堂家の菩提寺、鳳林山瑞雲院長興寺。当地へ移封となった際、出羽国新庄より移したと伝わっている曹洞宗の古刹で、山門と本堂は市指定文化財になっています。

歴代の本堂氏の墓所です。藩主の本堂氏はほとんど江戸で過ごし、陣屋では家老などが政務を執っていたそうです。

五百羅漢の寺としても有名で、石岡市在住の彫刻家、鶴見修作氏が1986年より製作を始め、今は「羅漢を彫る会」が製作を続けおり、境内で500は越えると思われるユニークな表情の羅漢と出会えます。
山門近くの羅漢像2体には、耳と鼻に蝉の抜け殻が付いていて、くすぐったいような表情が印象に残りました。

森閑とこの空蝉の蝉いづこ  福永耕二
空蝉にかき附かれたる寂しさよ  永田耕衣
石仏の鼻に空蝉すがりけり  顎髭仙人