水戸護国神社の左側の階段でない参道の中腹に、ペリリュー島守備隊鎮魂碑が建っています。今年5月に天皇陛下が慰霊訪問されたペリリュー島は、太平洋戦争の激戦地、水戸歩兵第二連隊を主力とした10,931名の守備隊が玉砕しました。圧倒的多数の米軍48,000名の戦死者 1,794名、戦傷者 8,010名、この他に精神に異常をきたした者が数千名いたといわれる凄まじい戦いでした。なお、日本軍の負傷捕虜202名、ほかに戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びており、終戦後の1947年4月22日に米軍へ投降しました。
地元出身者も多かったであろう、この第二連隊の勇猛さは後々語られて、終戦直前8月2日の水戸大空襲は、他の被災都市に比べ規模が格段に大きく、この部隊の本拠地と軍国主義の思想的背景にある水戸学の発祥地を叩く意図があったとの推測がありましたが、戦後の米軍資料で否定されました。
この護国神社一帯は 古来白雲岡と呼ばれていた景勝の地で、斉昭が偕楽園を造るときの候補地でしたが、地形的に少し狭いので桜の木を数百本植え、好文亭と対の一遊亭を建てたところです。
境内には椎の実などの木の実がたくさん落ちていました。
玉砕の慰霊碑被い木の実降る 顎鬚仙人
碑文に刻まれた言葉の一部です。
明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して、赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二聯隊は、大東亜戦争酣(たけなわ)の昭和十九年三月、北満の守りから、中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され、聯隊長中川州男(くにお)大佐は、一万有余名の陸海軍部隊を併せ指揮して同島に布陣し、敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。
九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸用舟艇群を邀撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返しつ、持久の任務を遂行したが、十一月ニ十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し決別電報「サクラ・サクラ」を打電して、自決、残る将兵は遊撃戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。(ルビ追加)