顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

似ている春の野草…懲りずにもう一度

2021年04月29日 | 季節の花
散歩道などで、似ている春の野草をもう少し探してみました。
「世の中に雑草という植物はない」は牧野富太郎博士の有名な言葉ですが、数ミリの小さな花を見つけると、確かに一生懸命咲いているその姿に共感を覚えました。

「はこべら」として春の七草に登場のハコベ(繁縷)はナデシコ科ハコベ属、いたるところで眼にします。昔から食用植物として知られ、仙人の娘たちが小さい頃飼っていた手乗り文鳥の大好物でした。

ハコベの写真として拡大してみたら違いに気づきました。オランダミミナグサ(阿蘭陀耳菜草)はナデシコ科ミミナグサ属、帰化植物でハコベより多く見かける地方もあるそうです。葉がネズミの耳に似ているので命名されたといわれます。

ハナニラ(花韮)はネギ亜科ハナニラ属に属する多年草、葉にニラのような匂いがありますが、有毒なので食用にはなりません。

似ているオオアマナ(大甘菜)もキジカクシ科オオアマナ属の有毒な多年草、明治末期に観賞用として渡来し野生化しています。

庭に咲いてるチョウジソウ(丁字草)も似ているのに気づきました。キョウチクトウ科の完全な別種ですが、アルカロイドを含む有毒植物というのが同じ、横から見ると丁の字に見えることからの命名です。

土手で見つけた面白い穂状の花を調べたら、ヘラオオバコ(箆大葉子)と出ていました。オオバコの仲間で帰化植物、繁殖力が強く要注意外来生物に指定されています。ヘラ(箆)のような細長い葉が命名の由来です。  

花穂をリング状に囲んでいる白い雄蕊は下から咲き上がっていき、花穂の中から白い雌蕊が顔を出します。

北米原産の帰化植物で最近目に付くのがツボミオオバコ(蕾大葉子)、薄い毛におおわれた花茎が一斉に立ち上がる様は、さわやかな印象を与えます。花がいつまでも蕾のままのように見えるので命名されました。

本家のオオバコ(大葉子)にも地味な花穂が出ています。カエルッパと言って花穂を抜いて茎を絡ませひっぱりっこした懐かしい草ですが、いまはダイエット食品として知られているようです。 

50種以上もあるという野草のスミレの区別は難しいですが、一番多く見かけるタチツボスミレ(立坪菫)、ハート形の葉と直立する花茎でこれだけは見分けられました。

いわゆるスミレ(菫)、なにも名が付かない純粋の菫ですが、街中でも目にします。公園で見つけた群生は数日後自走式の芝刈機で刈られてしまいました。

この白いスミレ、多分アリアケスミレ(有明菫)だと思います。花弁の青い筋の入り方、細長い葉の特徴が似ています。

丸い葉の白いスミレ、ニョイスミレ(如意菫)でしょうか?葉の形が仏具の如意に似ていると牧野富太郎博士の命名、別名のツボスミレ(坪菫)としても図鑑に載っています。


この2種は分かりません。図鑑で探すと上の写真はアカネスミレ(茜菫)に似ている?と思いますが。

山路来て何やらゆかしすみれ草  松尾芭蕉
菫程な小さき人に生れたし  夏目漱石
かたまつて薄き光の菫かな   渡辺水巴

春の黄色い野草…見分けが難しい!

2021年04月25日 | 季節の花
普段見過ごしている野草、じっくりと観察する習慣ができたのはまさしくコロナのせい(おかげ)です。散歩中に写真を撮って調べると初めて分かることばかり…同じものと見ていたものが別種だったり、新しい発見もあったり…あり余る時間を有意義に消費することができました。

ミツバツチグリ(三葉土栗)は地下に太い根茎があり、それが食べられるツチグリという多年草に似ているので命名されました。(この種は食べられないそうですが。)

似ているけど、こちらはヘビイチゴ(蛇苺)、右側に赤い実が生り始めています。毒ではありませんが名前のせいか食したことはありません。

カタバミ科のカタバミ(片喰)、クローバーに似た葉が夜になると半分閉じられ喰われたようだというのが命名の由来です。繁殖力が強いためハート形の葉が武家の家紋に多く使われています。

ウマノアシガタ(馬の足形)はキンポウゲ科です。根元から出る根生葉の形が馬の蹄に似ているというのが命名由来ですが、あまり似てないので、花の形という説もあります。金平糖のような球状の集合果が生っています。

春の七草のホトケノザ(仏の座)はキク科、ロゼット葉を地面に広げた様子が命名の由来で、正式名をコオニタビラコ(小鬼田平子)といいます。
なお、ホトケノザ(仏の座)という名前は、シソ科で紫色の唇形状の花をつける雑草の標準和名になっていますが、こちらは食用にはなりません。

ジシバリ(地縛り)は地面を縛りつけるように生い茂る様子からの名前が付けられました、イワニガナ(岩苦菜)ともいいます。舗装道路の隙間からも出ていました。

コウゾリナ(顔剃菜、剃刀菜)は、葉など全体にかたい毛があるため顔剃菜(かおぞりな)、剃刀菜(かみそりな)が転じてコウゾリナになったといわれます。

最近増えているヨーロッパ原産の帰化植物、ブタナ(豚菜)はフランスでの属名「豚のサラダ」からの命名、豚が好んで食べるそうです。

黄色い花を付けるキク科の仲間は、白い汁が茎や葉から出ますが、それが苦いのでニガナ(苦菜)、薬用効能があり食用も可能だそうですが。

交雑種や個体変異もあり、正確に確定するのは難しいと思います。ましてや臆面もない素人の判断です、違っていましたらご容赦ください。

丘一面が青く染まる…ひたち海浜公園のネモフィラ

2021年04月21日 | 季節の花

国営ひたち海浜公園は、車で15分くらいの近さですが、混雑が苦手な仙人の訪れるのは数年に一度くらい、それもオンシーズンを避けて…、しかし今年はネモフィラの最盛期に入園してしまいました。

この広大な公園は、もと陸軍水戸飛行場(前渡飛行場)として建設されましたが、戦後はアメリカ軍水戸射爆撃場となり、昭和48年(1973)に返還されました。平成3年(1991)に国営公園として開業し、総面積は350ha、この面積は東京ディズニーランドの5倍、ニューヨークのセントラルパークと同じくらいの面積ですが、実際に公園として利用されているのは南側の191.9ha(開業中の面積)で、全体のまだ約55%だそうです。

海に面したみはらしの丘一面がネモフィラの花で青く染まり、空と海の青と溶け合う絶景が近年人気の全国区スポットとして知られるようになってきました。

ただ19年度まで5年連続で200万人超えを続けていた入園者数は、昨年度はネモフィラの咲く時期がコロナの感染拡大で臨時休園になったこともあり、約84万人に減少してしまいました。

今年は今のところ平日でもご覧のとおりで、みはらしの丘へ上がる道は一方通行、最高部から眺められる海の青は諦めざるを得ませんでした。

菜の花の黄とネモフィラの青、カメラを向ける人が並ぶ一角です。

秋に種をまき春に花を咲かせるネモフィラは、ムラサキ科(旧ハゼリソウ科)ネモフィラ属の一年草です。和名を「瑠璃唐草(るりからくさ)」、英名は「baby blue eyesベイビーブルーアイズ」といい、近くで見ると優しいブルーの可憐な花です。


このみはらしの丘は、秋にはコキアという箒草の紅葉で一面埋め尽くされ、同じように多くの入場者で賑わいます。(写真はひたち海浜公園のホームページから借用しました)

それにしても、ネモフィラやコキアなどあまりメジャーでない植物を、集客の目玉に採用した国営公園の発想には感心してしまいます。

ネモフィラの他にも、季節ごとの花がそれも大きなスケールで植えられているのがこの公園の特徴です。

もともとの松林の中に水仙を植えこんだ水仙ガーデンは、花期を過ぎ人影もまばらでした。

一方、たまごの森フラワーガーデンでは、チューリップが満開でした。

チューップ畑は見慣れていますが、自然の松林と鮮やかな色が、おとぎ話の世界に誘ってくれるようです。

もとからあった自然を残すところは残し、そこに季節の花を取り入れた公園はとにかく広く、ほんの一部を歩いただけで1万歩を超えてしまいました。

久昌寺…徳川光圀公生母の菩提寺

2021年04月18日 | 歴史散歩
常陸太田市にある久昌寺は、延宝5年(1677)水戸藩2代藩主徳川光圀公が生母の菩提供養のために建立しました。光圀の父は家康の11男で水戸藩初代藩主の頼房ですが、側室谷久子(久昌院)が光圀を懐妊した際に家臣の三木之次に久子の堕胎を命じます。しかし命令に従わなかった三木夫妻によってひそかに育てられ、5歳の時に水戸家の世子となった有名な逸話が残っています。

元禄3年(1690)に光圀公は藩主を退き、この久昌寺の北約700mの地に西山莊という隠居所を建て、元禄13年(1700)年に没するまでの晩年を過ごしました。

当時の久昌寺は七堂伽藍といわれた大規模な寺院で、日蓮宗の古刹、身延山久遠寺、池上本門寺などの本山と同等の地位を持っており、その寺院の高僧たちが訪れていたため、住職のいない特殊な寺院でした。また、隣接地に天和3年(1683)僧侶の学校である三昧堂檀林が設けられ盛時には3千人もの僧が学んでいたと案内板に書かれています。
しかし幕末には荒廃してしまったので、明治3年(1870)に約700m東の地にあった末寺、蓮華寺と併合して再建されました。

西山莊の南側の谷の平坦な一画が、最初の久昌寺の跡です。ここに仏殿、法堂、位牌堂、多宝塔、鐘楼、山門などを備えた寺領500石の大伽藍が建っていました。



久昌寺遺蹟の碑と案内板が建っています。

遺蹟碑の東側突き当りの山にトンネル状になった洞窟があります(上記航空写真参照)。幅3m高さ1.5m、長さ15mくらいで西山莊への山道に出られるので、光圀公が久昌寺にお参りするために掘られた近道か?という説もネットに出ていましたが、真偽のほどは不明です。

近くに「山寺水道」の案内板がありました。案内文によると、光圀公が久昌寺を建立した当時、この周辺は水の便が大変悪かったため、水戸城下の笠原水道を手掛けた永田勘右衛門(圓水)に命じて上水道を開設、全長約2キロの岩を掘ったトンネル状の水路は当時の技術水準の高さをうかがえると書かれています。

水戸藩の利水、治水に大きな功績のあった、この永田勘右衛門は、光圀公より圓水の名を賜り、久昌寺の檀家に命じられ、久昌寺跡のすぐ脇にある墓地に葬られています。

350年以上前には堂宇の林立した久昌寺一帯は、春の陽を浴びた静かな山里風景が拡がっていました。

さて、明治3年(1870)再建された現在の久昌寺です。

本堂,庫裏,聚石堂,三昧堂,大宝塔などを備え、年代ごとの光圀公の顔を掘った「木彫義公面」や公の暮らしぶりが細かく記された「日乗上人日記」、文永元年(1264)に書かれた日蓮聖人の消息文などの多くの寺宝が残されています。

久昌寺裏の高台には、光圀公の遺徳を忍んで昭和16年(1941)に建立された義公廟があります。光圀公が生母の菩提を弔うために、法華教1部10巻83,900字あまりを書き写した檜板30枚を納める宝塔、光圀公が集めた明版一切経が収蔵されています。

光圀公の生母「久昌院」と、父の水戸藩初代藩主頼房公の生母「養珠院」の墓処です。

養珠院は徳川家康の側室でお萬の方とよばれ、紀州徳川家の祖徳川頼宣の母でもあり、敬虔な日蓮宗の信者として知られています。

かつては常時数百名の僧が学んでいたという三昧堂檀林の跡は、小中学生を対象とした自然体験や合宿などを行う西山研修所が建っています。


また敷地内には、水戸藩9代藩主斉昭公が選定した水戸八景「山寺晩鐘」の碑があります。
当時学僧が修行していた三昧堂檀林の、暮れ六つ(午後6時)に響き渡る梵鐘の音や勤行の声が聞こえるような気がする一画です。

千波湖畔の八重桜…変わり種は好きですか?

2021年04月14日 | 水戸の観光


偕楽園公園の千波湖周辺には約30種の桜が約700本植えられております。一番多いソメイヨシノ(染井吉野)系の桜はもうすでに咲き終わり、季語の「桜蕊降る」の状態ですが、遅咲きの八重桜がいま満開になっています。

その中で変わった花の色の桜をふたつ…

花の色が緑色系のギョイコウ(御衣黄)は、突然変異により花弁に黄色のカロテノイドと緑色のクロロフィルを含む葉緑体をもつ性質になりました。この種はクロロフィルの方が多量のためより濃い緑色に見える花を咲かせます。

貴族の衣装の萌黄色に見立てた命名で、江戸時代に京都の仁和寺で生み出されたというオオシマザクラ系の園芸品種です。


同じ系統の葉緑体をもつウコン(鬱金)は、緑色のクロロフィルが少量のため淡黄色に見える花です。
名前はショウガ科のウコンを原料とした、カレー粉や沢庵などの着色料「ウコン」に因んで付けられました。江戸中期以前に作出されたオオシマザクラ系の園芸品種です。

清酒「黄桜」は、「黄桜酒造」の創業者がこの鬱金桜をとても気に入っていたので名付けられたそうです。外国でも人気の品種と載っていました。

変わった雌蕊の形から名前が付きました。


フゲンゾウ(普賢象)も、オオシマザクラを母体に作出されたサトザクラ群の栽培品種で、雌蕊の先端が曲がっており、普賢菩薩の乗る白象の鼻に似ていると命名されました。




これは花の中心部の雌蕊が葉化して、細い葉が出ているように見えるショウゲツ(松月)です。
この系統の桜は、雌蕊が変形し受粉能力がないため、接ぎ木や挿し木でしか増殖はできません。

コレクションとしては、珍しい品種も話題になるので公園には必要かもしれませんが、観賞用として庭に植えるならやはり普通の桜、それも一重がいいかなと…個人的な感想ですが。

湖漁夫にさくら蘂降る渚あり   大野林火
雨に色交へて桜蘂降れり  宮津昭彦
曲り屋の屋根の曲り目桜蘂   能村登四郎