偕楽園公園の南西端、台地が桜川低地に張り出した比高約20m(標高約30m)の地に見川城址があります。東側の桜川低地と南側の侵食谷が天然の堀となっている連郭式平山城で、付近は宅地化が進んでいますが、この一帯だけはまだ未整備で城郭遺構が残っています。
鎌倉時代初期、水戸城を築いた馬場資朝の四男長幹が築城し箕川(見川)氏を名乗り、その後水戸城を奪取した江戸氏の家臣となった河和田城城主春秋氏の一族、春秋石見守幹光が居城し、水戸城の支城としての役目を果たしていたと伝わります。
天正18年(1560)水戸城を攻め取った佐竹氏も、出城として西の備えにした可能性もあるといわれますが、いずれにしても12年後の慶長7年(1602)の秋田移封で廃城になりました。
好文橋通りから入ったところに城址の石碑が建っています。約250m四方の城域は、陸続きの西側に高い土塁が見られますが、倒木や藪がすごく簡単には入り込めません。
Ⅰ曲輪西側の土塁と手前の空堀です。
Ⅰ郭東の急峻な斜面中段には帯曲輪らしき形が見られます。
城域の西側に荒人神社があります。手入れは行き届いていますが、詳細はわかりません。
城域の西側の市道は、堀底道ではという説もあるようです。
南側には急峻な侵食谷があり歩道も造られています。天然の堀の役目を果たしていたと思われます。
この台地は、いわゆる水戸層といわれる水を通さない凝灰質泥岩の上に小石や砂の礫層が重なった地層で、斜面の中腹には小石混じりの層が露頭しています。
この層の特徴として、雨水などが礫層に蓄えられ、数十年後にきれいな水となって滲み出してくる湧水が多く見かけられます。
偕楽園公園側には、城址橋という新しい橋があり道は台地上の住宅地へつながっていますが、城址の説明板などは見当たりません。深い藪の中の遺構だから、手付かずに残っているのかもしれませんが…。