顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

見川城…中世水戸城の支城でした

2019年10月29日 | 歴史散歩

偕楽園公園の南西端、台地が桜川低地に張り出した比高約20m(標高約30m)の地に見川城址があります。東側の桜川低地と南側の侵食谷が天然の堀となっている連郭式平山城で、付近は宅地化が進んでいますが、この一帯だけはまだ未整備で城郭遺構が残っています。

鎌倉時代初期、水戸城を築いた馬場資朝の四男長幹が築城し箕川(見川)氏を名乗り、その後水戸城を奪取した江戸氏の家臣となった河和田城城主春秋氏の一族、春秋石見守幹光が居城し、水戸城の支城としての役目を果たしていたと伝わります。
天正18年(1560)水戸城を攻め取った佐竹氏も、出城として西の備えにした可能性もあるといわれますが、いずれにしても12年後の慶長7年(1602)の秋田移封で廃城になりました。

好文橋通りから入ったところに城址の石碑が建っています。約250m四方の城域は、陸続きの西側に高い土塁が見られますが、倒木や藪がすごく簡単には入り込めません。

Ⅰ曲輪西側の土塁と手前の空堀です。

Ⅰ郭東の急峻な斜面中段には帯曲輪らしき形が見られます。

城域の西側に荒人神社があります。手入れは行き届いていますが、詳細はわかりません。

城域の西側の市道は、堀底道ではという説もあるようです。

南側には急峻な侵食谷があり歩道も造られています。天然の堀の役目を果たしていたと思われます。

この台地は、いわゆる水戸層といわれる水を通さない凝灰質泥岩の上に小石や砂の礫層が重なった地層で、斜面の中腹には小石混じりの層が露頭しています。

この層の特徴として、雨水などが礫層に蓄えられ、数十年後にきれいな水となって滲み出してくる湧水が多く見かけられます。

偕楽園公園側には、城址橋という新しい橋があり道は台地上の住宅地へつながっていますが、城址の説明板などは見当たりません。深い藪の中の遺構だから、手付かずに残っているのかもしれませんが…。

偕楽園公園の3色

2019年10月25日 | 水戸の観光
都市公園としては世界第二位の面積300haの偕楽園公園では、いま3色の群落が見られます。
各地に大きな被害をもたらした台風15号と19号は、この地方の河川も氾濫させ、偕楽園の左近の桜の大木も倒して去りましたが、倒伏したコスモスもなんとか起き上がり、黄花コスモス、にぎやかなジニア(百日草)も咲き揃い、紅葉間近の公園を彩っています。






この広い公園は、野趣あふれる自然がそのまま残っているのも大きな魅力で、色んな発見が楽しめます。

護国神社奥の鬱蒼とした杉林で絡みつく黄色いヤマイモと緑のツタです。

まだ色付き前の紅葉谷では、ススキとウメモドキが紅白を競っています。

桜川沿いにはカラスウリがいっぱい垂れ下がっていました。

川岸で赤い実を見つけました。調べてみるとオトコヨウゾメに似ていますが…。ガマズミの仲間ですが名前の由来は不明だそうです。

紅葉谷の柿の木、葉も実もきれいな秋色になっていました。

梅の木の苗畑にミニトマトが出ているのを発見、何処から種が飛んできたのか?自然は時にとんでもないいたずらを見せてくれます。

そして駐車場脇のワルナスビ群落、可愛い花に似合わず鋭いトゲと強い繁殖力で年々増えてきているのがわかります。

芭蕉句碑と愛宕山神社

2019年10月20日 | 俳句

笠間市岩間の愛宕山(305m)山頂にある愛宕神社は、社伝によると大同元年(806)徳一大師の開山と伝わります。



中世の沿革は不詳ですが常陸大掾氏、江戸氏、佐竹氏などその時代の領主の崇敬を受けたともいわれ、江戸時代にはこの地の領主で土浦藩主土屋氏が特に崇敬したといわれています。

愛宕山には昔、天狗が住んでいたという伝説があり、天狗にちなんだ話や山全体が密教系修験道の霊場としても知られていました。

愛宕山頂上駐車場の二番目の鳥居をくぐると急な階段がありますが、正式の参道は中腹にあります。

愛宕山を開いたと伝わる徳一大師の宝塔です。平安時代前期の法相宗の僧、最澄や空海との法論で知られています。

300mからの眺望です

本堂裏手の飯綱神社脇に芭蕉句碑があります。
夏来ても只一ツ葉の一ツかな

貞享5年(1688)に岐阜県長良川の旅路で詠んだもので、寛政7年(1795)茨城町野曽の佐久間青郊によって芭蕉没後百回忌に建てられました。

ヒトツバ(一ツ葉)は関東以西から琉球列島に分布する単葉のシダ植物で、この地方にも自生が見られると茨城県自然博物館の資料に載っていました。
「夏になって木々が葉を茂らせているのに、一ツ葉だけは葉が一枚のままで淋しいのは我が身と同じだなぁ」というような意味でしょうか。
写真はWikipediaからお借りしました。

大きな勢力があった…霞ヶ浦周辺の前方後円墳

2019年10月16日 | 歴史散歩
日本の古墳の数は159、636基、近畿地方が有名ですが、茨城県にもなんと1862基あり全国20番目の多さだそうです。墳丘長60m以上の大型前方後円墳も38基あり、多く見られる霞ヶ浦周辺を訪ねてみました。


舟塚山古墳群は前方後円墳6基の他に方墳、円墳など41基が確認されており、現在は22基が残っています。
その中の舟塚山古墳は5世紀後半の築造とされ、全長186mは県内最大、関東地方でも2位の前方後円墳で、後円部径90m、高さ11m、前方部幅100m、高さ10mの3段築成で、発掘調査は行われていませんが大量の刀が出土したと地元には伝わっているそうです。

前方部から後円部望む…、奥の林は鹿島神社で社殿造営や前方部の墓地造営により若干の改変がみられます。

後円部より前方部…右手奥には筑波山、左手に墓地が作られています。

この地帯から見る筑波山は、何処から見ても鋭角な双耳峰が日本百名山の貫禄を示しています。墳丘に咲いていたツリガネニンジン(釣鐘人参)とのツーショットです。

府中愛宕山古墳は、舟塚山古墳の北東300mに位置する全長97mの前方後円墳で、舟塚山古墳より少し後の6世紀前半の築造とされます。後円部径57m、高さ8.5m、前方部幅57m、高さ7.5m、前方部、後円部共に3段築成で前方部は霞ヶ浦方向である南東に向けられている事から舟が出る姿に例えて「出舟」と呼ばれ、それに対して舟塚山古墳は「入船」と呼ばれていました。

かつて埴輪が出土したと伝わりますが詳細は不明です。前方部から望む後円部、墳丘付近には玄室を掘り返したような跡が見えます。

三昧塚(さんまいつか)古墳は、全長85m、後円部径47m、高さ8m,前方部幅36.5m、高さ6mの5世紀後半の前方後円古墳です。周囲は濠でめぐらされ、約2mの深さがあったとされます。

昭和30年に霞ヶ浦堤防工事で墳丘を掘削の際に発見され、箱式石棺内の伸展葬の遺骸のまわりにいろんな副葬品があり、その中の金銅製馬型飾付冠などは日本の古墳文化を考える貴重な発掘品として、国の重要文化財に指定されました。

その後3度に渡る発掘調査を経て平成17年に復元整備されました。前方部より見た後円部の墳頂と右手は霞ヶ浦です。

ここは三昧塚古墳公園として整備され、一画のコスモス畑よりも筑波山の双耳峰がきれいに見えています。

霞ヶ浦右岸に位置する富士見塚古墳は、6世紀初めの築造とされる前方後円墳で、全長78m、後円部径38.4m、高さ11.5m、前方部幅49.4m、高さ9m。後円部から木棺、前方部から石棺が見つかっているそうです。

標高35mの墳頂からは、冬の晴れた日にはその名の通り富士山をも望むことができるそうです。

墳丘の西端から望む霞ヶ浦と筑波山です

丘陵ふもとの展示館には、古墳から出土した埴輪や、発掘調査の説明パネル等が展示されています(入場無料)。

大型の前方後円墳が古墳時代後期の6世紀前後にこの地域に多く築造されたのは、その被葬者が地域に勢力を持っていた支配者ということばかりではなく,大和政権が経済、軍事的に重要なこの地方に数多く置いた名代(なしろ)子代(こしろ)、部(べ)や舎人(とねり)などの地方管理者としての役目を併せ持つものであったとされています。これは畿内地方の古墳との類似や畿内で作られたと見られる副葬品が多数出土していることからも裏付けられるそうです。

入り江に浮かぶ…真崎城と茨城県内最低山

2019年10月12日 | 歴史散歩
東海村の245号国道沿い、村松虚空蔵尊駐車場からみた、水田に立つ細い半島上の丘の上に真崎城址があります。

中世にはここは太平洋に繋がった入り江になっており、その真崎浦と細浦の間に突き出た先端部は、三方を海に囲まれた天然の要害であったと想像できます。

鎌倉末期の弘安年間(1278-1287)に、佐竹氏5代義重の三男義澄の子の義連が築城し真崎三郎義連を名乗り、その後佐竹氏の忠実な家臣として秋田移封までこの地を領し、久慈川河口域の海運、製塩の管理、水軍を統率していたといわれます。また、秀吉の朝鮮出兵時には、真崎氏が船奉行として佐竹軍の渡海の役目を果たした記録が残っているそうです。

比高10m程度の細長い半島台地は長さ約350m、幅は20mくらいの細長い連郭式平山城で、居住性には適さず、水運の管理と万一の場合の詰城という説もあります。

城郭は半島先端を1郭として3郭(4郭という説も)に区切られていたとされます。Ⅱ郭とⅢ郭間の堀切は比高約8m、細い台地を鋭く切断しています。

堀切で隔てられた両側の曲輪は平坦になっており、空堀側には土塁が築かれています。

車も通れる最西端の堀切は、地元では切り通しとも呼ばれ柔らかい凝灰質泥岩が露出しており、西側の切岸に明神山の案内板と斜面に登り口があります。

三角点が国土地理院地形図の17.4mのピークです。半島東側の城址中央には標高22mのピークがあり、この一帯が明神山と呼ばれているそうですが、この三角点が明神山頂とする地元有志の方の建てた案内板があります。国土地理院地形図に記載のある茨城県内の山で一番低い標高の山だそうです。

案内板の裏面には、茨城県内の2番目、3番目に低い山が書かれています。天妃山は北茨城市磯原の海辺に立つ山、山海館というホテルがありましたが、東日本大震災の津波で廃館になりました。梵天山は常陸太田市にある古墳群の山です。

ところで茨城県内最高峰としては、北茨城市の栄蔵室(882m)という山に茨城県内最高峰の看板が建っています。
通常最高峰とされる八溝山(1022m)は県境にまたがるためという地元の主張に賛成しましょう。確かに福島県の山としても八溝山が載っていますので…。ちなみに日本百名山の筑波山は877mです。
栄蔵室は何度も登った山なので、写真データを探しましたが見つかりませんでした。