顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

山菜コシアブラ採り

2016年04月29日 | 山歩き

常陸太田市の里美地区に恒例のコシアブラ採り、物産店では福島原発事故の放射能汚染で販売規制や自粛が続いていますが、山一つ隔てた高萩市や大子町は何故か安全とされているのは不思議です。年一回の摂取だから気にしないことにしていますが…

途中の道の駅から鍋足山(530m)がよく見えました。3つのピークが昔の鍋の足のようだということで付いた名前、頂上付近は岩峰でスリルもあり、この近辺では人気の山の一つです。

ここは、里美冨士(638m)などの急勾配の山の中から、里川の支流の生田川と薄葉沢が流れだしており、支流自体が全長5、6キロくらいなのに標高差約250mを駆け下りるために無数の滝が出現します。どこから降ってきたのか、山桜の花びらが岩を飾っています。

その中で一番大きな「生田の大滝」、インターネット上のサイトでは落差25mとありました。
一帯は杉の植樹林と雑木の山ですが、保水性があるというのか山全体から水が湧き出して水量もびっくりするほど多くしかも清流、つくづく日本という国は島国ながらきれいな水に恵まれた国だと実感します。

浄光寺の山門(ひたちなか市)

2016年04月26日 | 歴史散歩
ひたちなか市館山の小高い丘の上には、真宗の七カ寺が密集し、「館山七カ寺」と呼ばれるところがあります。その入口にある立派な浄光寺の山門は、佐竹氏統治時代の水戸城にあった門を拝領したものとの記事を新聞で読んで行って来ました。


浄光寺は、那珂郡枝川村に居住した藤原隼人佑頼貞が、建保二年(1214年)、親鸞聖人が稲田の居住していた時にその教化を受け、貞応元年(1222年)剃髪して、法名唯仏房浄光と賜わり自らの館を衆宝山無量光院常光寺と名づけ、開基したのが始まりとされています。


その後水戸城主江戸氏は水戸城内の東北(鬼門)に浄光寺を移築し、さらに佐竹氏に代わってからも保護を受けましたが、城郭拡張のため常葉村に移され、徳川時代になって元禄9年 (1696年)光圀公より、湊村古館の地(現在の館山)に11,605坪及び人夫2万人等の寄付を賜り、堂宇を移し名も浄光寺と改め、他の6つの寺も一箇所に集められ現在の七カ寺になりました。浄光寺十九代住職唯弘のもとへは、光圀公養女、たにん姫が輿入れをしたとあります。本堂、山門、袖塀などにある葵紋の謂われはそのあたりにあるのでしょうか。
元治元年(1864年)の藩内抗争では、武田耕雲斎率いる天狗党が布陣して激戦場となり、この一帯はすべて戦火に焼かれてしまいました。ということは、水戸城からの山門移築は、明治になってからということでしょうか。


 今、浄光寺の墓地には、当時の戦いで戦死した幕府追討軍・福島藩兵の墓があります。多分市川三左衛門の要請を受けた幕府の命で仕方なく出兵してきたのでしょう。
なお浄光寺の住職が、この市川三左衛門の縁戚になっていたため、明治維新後しばらくの間当地から追放となり、寺も廃寺となっていましたが、檀家の熱心な運動により、明治11年に再興されということです。

水戸城の古地図を見ると、東から下之丸、本丸、二之丸、三之丸と続く連郭式平山城で、下之丸は東二之丸とも浄光寺曲輪ともいい、現在は水戸第一高校の運動場になっているところ。曲輪の東端に浄光寺門があったとありますが、これで浄光寺の名が水戸城址に残っていることが分かりました。


浄光寺山門の左、葵紋軒丸瓦の下に館山の晩鐘という石碑が見えますが、これは、湊八景のことです。撰者など詳細は不明ですが古文書によると宝暦13年(西暦1763年)の記述があることから、斉昭による水戸八景選定よりも古いことが分かっています。ただその選定地も文献により異なるため、幾種類かの八景があったようです。


いつもの道の春の花

2016年04月23日 | 散歩

里山によく見かけるウワミズサクラ、バラ科ウワミズザクラ属、葉とか枝は桜に似ていますが、総状の花は桜のイメージに程遠いものです。古代に材の表面に溝を掘って亀甲占いを行ったことから「上溝桜」と名づけられ、読みはそれが転訛したものです


いままで鑑賞用の園芸種が野生化したワスレナグサか、日本古来のエゾムラサキという似た品種かと思っていました。どちらも同じムラサキ科、さらに交雑も入り区別が難しいようですが、花が直径約3ミリとあまりにも小さいので調べてみるとノハラムラサキと出てきました。ルーペで見ると、萼に鈎状の毛が確かに密生していました。


昨年も同じ場所で撮ったマツバウンラン(松葉海蘭)、除草剤が撒かれていたのに生き残っている逞しさ、外観のかぼそいイメージとは大違いです。蘭という名前でもゴマノハグサ科で、北米原産の帰化植物です。


田んぼの畦に小さなすみれ、調べてみるとアリアケスミレ。道端、空き地などに生育する丈夫な品種で、花は根元から出て、白地に濃紫色の筋が入り、筋の多さによって、ほぼ白色から全体的には淡い紫色に見えるものまでがあります。


道端や草原で我が物顔のこの花、ハマエンドウ?赤っぽい色と葉の先がハート型になっているのは個体差?浜辺に生えてエンドウマメに似ていることからの名前ですが、どんどん内陸部にも繁殖しているのでしょうか、この辺は海から直線で5キロ位離れています。マメ科レンリソウ属です。


木苺の一種、クマイチゴの花です。黄色い実のモミジイチゴとの違いは、葉の形と、花が上向き、花弁が縮れて細いことからよくわかります。もっとも実が成れば、濃い赤色のもそもそした熊のイメージ?なのでもっとよくわかりますが、味はいまいちで空腹の少年もさすがに量は食べなかった気がします。

涸沼自然公園の春

2016年04月20日 | 季節の花

茨城町の涸沼自然公園は、自然の状態を随所に残した公園で、この季節は春を感じられる草花がいっぱい迎えてくれます。


いわゆる木苺の一種、モミジイチゴの花、葉がもみじに似ているのでこの名があります。
初夏に黄色い果実をつけ、水分の多いうす甘い味は少年の日のおやつ、アルミの空いた弁当箱に詰めて母親の土産としたことがありましたが、山で食べる美味しさは失われていたことを思い出します。


公園内なので採取は控えましたが、今年は山菜の生育も2週間位早い気がします。ワラビとゼンマイもすっかり大きくなっています。
左側の写真、緑色の穂の付いた茎はオス(オトコ)ゼンマイ、下方の綿毛に包まれた方が一般的に食用にするメス(オンナ)ゼンマイです。


タラの芽と、よく間違えられるウルシの芽です。間違ってウルシの芽を食べてしまった方の話を聞いたことがありますが、味はとても美味だったとか、やがて体中に湿疹ができて、髪の毛の中にも…、病院に行ったら周りの人が自分の姿を見て後ずさりしたと言ってました。


ムラサキケマン(紫華鬘)は ケシ科キケマン属の越年草、日陰に咲く姿は華麗で園芸種のように見えますが、有毒の植物です。人参に似た葉なので山人参などの山菜と間違うことがあるようですが、葉をちぎると悪臭がするので区別できるようです。

そゞろ出て蕨とるなり老夫婦    川端茅舎
楤の芽の仏に似たる瀬のひかり    角川源義

桜吹雪の弘道館

2016年04月19日 | 水戸の観光
17日の弘道館、おりからの強い南風で正庁前の桜がまさしく花吹雪、その一瞬をカメラは捉えられず、地に落ちた桜絨毯を撮りました。右側が三代目とされる左近の桜で、偕楽園にも同じ時に植えたものがありますが、自然環境の違いか、16mを超える大木になっています。

以下は説明文から抜粋…「弘道館を創設した水戸九代藩主徳川斉昭の夫人登美宮様は有栖川家から水戸家に御降嫁されるにあたり宮中にお暇乞いに参内せられた時、仁考天皇から下賜された鉢植の桜を弘道館が出来たときにここに植えられたもので、これは紫宸殿の左近の桜の苗(ひこばえ)であったが、長い年月を経たので枯朽してしまった。昭和38年5月弘道館修復工事完了したのを記念して縁りの桜の苗を宮内庁からいただき再びここに植えられたものである。」

水戸藩の藩内抗争は、明治元年10月1日、いわゆる弘道館戦争をもって集結しましたが、約200人近い藩士たちが殺し合いをしたその舞台に散る桜を見ると、主義思想はそれほど変わらないのに行き掛かり上突っ走っていった先人たちを偲ばざるを得ません。

散る桜 残る桜も 散る桜   良寛
桜花 何が不足で ちりいそぐ   小林一茶