顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

一の木戸と好文亭の屋根   (偕楽園)

2017年11月29日 | 水戸の観光

偕楽園の表門を入ってすぐの門、「一の木戸」は、竹林と杉林の幽玄な一画への入り口です。公園全体を陰と陽に分けた、徳川斉昭公の陰の世界がここから始まります。この門は、補強、補修がなされていますが、開園当初のもので、当時は門扉がついている構造だったようです。

この門の屋根は、いわゆる板葺きの一種、杮(こけら)葺きです。厳密に言うと杮葺きの板厚は2~3ミリ、これは約6ミリあるので、木賊(とくさ)葺き(4~7ミリ)とか、栩(とち)葺き(10~30ミリ)になるのでしょうが、昨年暮に葺替えしていた職人さんは、杮葺きと言っていましたので、細かい分類はしないのかもしれません。

この杮葺きは好文亭の屋根にも使われています。亭内に置かれた屋根見本で測ると、厚みは2ミリ、この薄さがあるからこそ、室生寺や金閣寺などの文化財の屋根の微妙な曲線も表現でき、使用されています。一方、一の木戸は直線的な切妻屋根なので、板の厚い葺き方が合っているのでしょう。

杮葺きは、約40年位の耐久性とされていましたが、大気汚染の現在では10から20年くらいの間隔で葺き替えるようです。寺社建築などに用いられ、国の重要文化財に指定されている建物4,676棟のうち、353棟が杮葺きです。しかし、杮葺の文化財の少ない地方なので、去年暮れの一ノ木戸の葺き替えには、職人さんを遠方から呼び寄せたと聞きました。

写真は葺き替え後10年目になる好文亭の屋根ですが、すでに古色蒼然となっています。
なお防火上の問題から板葺きの屋根は、離れて建てる東屋など以外の一般住宅には使用できないそうです。

さて、その好文亭奥御殿の庭も最後の紅葉を迎えていました。斉昭公の正室、貞芳院が明治2年から6年まで、水戸城下柵町の中御殿を移築して住んでいたのもこの空間…、晩秋の侘しさがさらに強く感じられました。

障子しめて四方の紅葉を感じをり  星野立子
奥御殿ふすま紅葉は散りもせず  顎髭仙人

偕楽園の晩秋…桜2題   2017

2017年11月26日 | 水戸の観光

見晴らし広場の二季桜、今年は少し多めに花を付けました。秋と春に2回、花をつける品種ですが、やはり全精力を2回に分けるので、いずれの季節の開花も爛漫というほどでなく、淋しい咲き方です。

桜の会というホームページによると、一年に2度咲く桜として、①冬桜(豆桜と大島桜の雑種・白色一重)②四季桜(豆桜と江戸彼岸の雑種・淡紅白色一重)③十月桜(豆桜と江戸彼岸の雑種・淡紅白色八重)④不断桜(山桜系の雑種・白色八重)⑤子福桜(唐実桜と彼岸桜の雑種・淡紅色八重)をあげていますが、その中で四季桜を水戸の偕楽園では二季桜というと記されています。
なお、彦根城址には水戸市(友好都市)より昭和47年に寄贈された二季桜が11月と4月に花を咲かせているそうです。

表門にある十月桜は、10月から咲き始めて冬の間もひっそりと咲き続け、4月には大きめの花が咲くと案内板に書いてありますが、やはり桜は一気にパッと咲いてパッと散るのがいいというお客さんもいました。とはいえ寒風の中の弱々しい薄紅色の花は、何故か気を引きます。

同じく桜の会のホームページには、十月桜として別名御会式桜(オエシキザクラ)、豆桜と江戸彼岸桜との雑種で濃紅白色~白色の小輪八重、蕾が3~4個まとまって咲き花弁数は10~16個、11月に咲き、3月にも咲くと書いてありますが、咲き続けるとは書いてありません。
※御会式桜とは、日蓮上人の命日である10月13日頃から咲き始めることから。
なお、秋から冬に咲くものを、まとめて冬桜とも言っているようです。
十月桜返り花より淋しけれ  松尾隆信
冬ざくら満開といふこともなく  岸田稚魚


ニュータウンの公園の秋    (水戸市)

2017年11月23日 | 散歩

平成4年に茨城県住宅供給公社(その後経営破綻)が高級住宅地として分譲を開始した百合ケ丘ニュータウンは、53.2ha、912戸の大規模団地で、ブロックなどの塀を廃して生け垣などを推奨した画期的な街づくりが当時話題になりました。

その北西にある六反田池を含む北街区公園一帯は、豊かな自然を残した緑地帯です。いま訪れる人もまばらな中で、街中とは思えないほどの見事な紅葉を惜しげもなく見せています。

いたるところに驚くほどしっかりした敷石や石の階段、木製のデッキが贅沢に設置されており、確かに高級住宅地のコンセプトにはしっかと合ってはいます。

この巨大な橋の片側は行き止まりで道路がありません。現代建築の粋を集めたような立派な構造物が、どのような経緯で出来上がりしかも何年もの間不思議がられずに存在していることに驚いてしまいます。

しかし自然はそんなことお構いなしに、公園の中で秋の顔を見せてくれます。
アキグミ(秋茱萸)は少年時代のおやつ、今摘むとその酸っぱさに顔をしかめますが。

ガマズミ(莢蒾)も同じく少年時代のおやつ、ヨツズミと呼んで霜が降ると甘くなると言われていましたが、酸っぱさだけの記憶しかありません。

スズメウリ(雀瓜)、灰白色の実は雀の卵に似ているからの命名との説もあります。

ゴンズイは、ヒレに毒を持つ小魚のゴンズイから、何の役にも立たないという意味で名がついたそうですが、とんでもない!秋の山をしっかり彩っています。

ヘクソカズラ(屁糞葛)の実、なんとも哀れな名は葉や茎に異臭があるからで、黄熟した実は昔からしもやけ、あかぎれなどの外用薬として知られています・。

ウメモドキ(梅擬)は葉の形や枝の出方が梅に似ているから名が付きましたが、雌雄異株のモチノキの仲間です。晩秋いつまでも赤い実が残って小鳥の餌になり、排泄された種子からが発芽条件という自然の仕組みになっているそうです。

日が当り囀りさうな梅擬  高澤良一
梅もどき鳥ゐさせじとはし居かな  蕪村

特別展「志士のかたち」  (茨城県歴史館)

2017年11月19日 | 歴史散歩
今年は、水戸徳川家に生まれ15代将軍になった徳川慶喜が大政奉還をおこなってから150年、近世武家社会から近代社会へと向かう大きな転換点から節目の年にあたります。この大変革の原動力となった水戸藩を中心に,茨城ゆかりの志士の果たした歴史的役割や生涯を彩る名品の数々が茨城県歴史館で11月23日まで展示されています。

テーマごとに各章に分かれた展示構成が時代の流れに沿ってわかりやすく、また他の博物館蔵や個人蔵の貴重な品が水戸で見られ、中味の濃い企画でした。資料、写真は歴史館のホームページより借用させていただきました。

第1章「文と武の系譜」では、好学の気風を伝える水戸藩の藩校弘道館や私塾で形づくられた志士の資質について,文武両面から紹介しています。
写真は、刀 無銘(葵崩し紋)徳川斉昭作 弘道館鹿島神社所有(歴史館寄託)です。
弘道館の開設に伴い鹿島神社を分祀し、斉昭自ら鍛えた刀を奉納しました。

第2章「境界をこえて」では、藩や身分・格式といった近世社会における秩序や制約をこえて,吉田松陰や西郷隆盛ら各藩の志士と積極的に交流しながら,全国におよぶ交流網を築いてゆく水戸藩士を紹介しています。
写真は藤田東湖と橋本左内 島田墨仙筆(東京国立近代美術館所蔵)です。
福井藩士の橋本左内は安政の大獄で斬首されましたが、藤田東湖との厚い交流で知られています。

第3章「尊王と攘夷の空間」では、文久年間(1861~63)の尊王攘夷運動の各地の志士の思想と行動、水戸藩と関わりの深い東禅寺事件や坂下門外の変などの諸事件から新選組の誕生にいたる時代的背景を紹介しています。
写真は、加茂行幸図屏風(右隻,霊山歴史館所蔵)です。
孝明天皇が文久3年(1863)に攘夷祈願のため両加茂社に行幸された図で、お供の中に徳川慶喜と水戸藩主慶篤も描かれています。

第4章「決壊の元治元年」では、水戸・長州の両藩を中心に,激動の元治元年(1864)の禁門の変、天狗党の乱における水戸・長州の両藩を中心にした志士の動向を紹介しています。
写真は、水戸天狗党絵巻(部分,国立歴史民俗博物館所蔵)です。

そして第5章「大政奉還、残照の近代」では、徳川慶喜が行った大政奉還という歴史的決断から近代国家の確立に向かう歴史の奔流のなかで,いわゆる草莽の志士がどのようにして歴史的役割を終え,その後,今日にいたる「志士」像が確立していったのか,その過程の一端を明らかにします。
写真は、大政奉還 下図 邨田丹陵筆(明治神宮所蔵)です。
徳川慶喜が10万石以上の40諸藩重臣を二条城二の丸大広間に集め大政奉還の決意表明をした有名な絵です

幕末の志士たちの息遣いが聞こえる空間から外に出ると、まぶしい秋の日が旧水海道小学校本館(明治14年建築・県指定文化財)を浮かび上がらせていました。

弘道館の桜紅葉

2017年11月17日 | 水戸の観光
弘道館の前庭にある左近の桜などが紅葉を迎えています。

秋に桜の葉が紅葉するさまは、桜紅葉(さくらもみじ)と呼ばれ、秋の季語にもなっています。
なほ残る桜紅葉は血のいろに  原 裕
英霊の秋寂びて桜紅葉しぬ  渡邊水巴
  (寂びる=古くなって、色があせる、さびれる)
Mさんが広報パンフレットに載せた写真のアングルをまた拝借して撮りました。式台の欅の年輪が学び舎から藩内抗争、そして維新後の茨城県庁舎と…、ここの目まぐるしい歴史を物語っているようです。

この日は一日中、正庁の正席の間を中心にテレビ局のロケが行われていました。織田信長のドラマらしく、その雰囲気の役者が見えます。ということは、弘道館の持つ歴史上の建物を撮っているのではなく、ただ単に昔の建物をセットとして利用しているに過ぎません。驚いたことに藩主の座る正席の間には、弘道館記の拓本の前に小道具の脇息が置かれ床の間には壺や刀が置かれています。
いまフィルムコミッションとかで県内にロケハンを誘致することを積極的に進めていますが、重要文化財で水戸のシンボルのような遺産をその意味を考えずに使うことに違和感を覚えました。

大手橋手前のムクロジもすっかり黄葉しています。特徴のある形をした実は既に落ちてしまいましたが。