顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

木崎城(行方市)…常陸武田氏の本拠

2023年09月26日 | 歴史散歩

武田氏といえば甲斐の国ですが、その祖先は常陸武田氏というのが現在の通説のようです。源頼義の長子八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は,後三年の役 (1083~1087)の後、常陸介に任ぜられて常陸へ赴任、長子義業を久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着させ常陸進出の拠点とし、これが後世の大大名佐竹氏の祖になりました。
一方、吉田郡武田郷(ひたちなか市武田)に配された三男の義清は武田郷の地名をとって武田氏を名乗りますが、勢力拡張を目論む義清とその子清光の行き過ぎた行為が、常陸大掾の吉田清幹ら在地勢力に告発され甲斐国市河荘に配流となり、これが甲斐武田氏の祖となりました。

それから約200年後の応永24年(1417)、甲斐に土着して勢力を拡げた武田氏の13代武田信満が上杉禅秀に味方し敗れて自害、弟の信久が千葉兼胤のもとに逃れ、翌年この地に住み着いて神明城を築き、8代目の武田通信が天文2年(1533)にこの木崎城を築き本拠を移しました。
※甲斐武田氏は、その後信満の子信重が甲斐守護として相続し、その5代あとが武田信玄となります。

しかしこの城の歴史も約60年、天正19年(1591)には常陸国の所領を秀吉に安堵された佐竹義宣が、この地方の城主たちを太田城呼びよせて謀殺してしまう、いわゆる「南方三十三館仕置き」が行われ通信の子、武田淡路守信房も殺されてしまいます。城主不在の城もすぐに押し寄せた佐竹氏の軍勢に攻められ落城してしまい、常陸武田氏は約400年前には同じ源氏の兄弟だった佐竹氏によって皮肉にも滅ぼされてしまいます。

城は北浦を望む武田川のつくる低湿地に北側に向かって張り出した比高約20mの舌状台地です。

※茨城城郭研究会編「茨城の城郭」記載の縄張り図をGoogle航空写真に落とし込んでみました。


Ⅰ郭に今も残る香取神社は、築城の際に守護神として城内に建立されたと伝わります。城内の案内板には、文明10年(1478)大掾平国香内宿城の守護神として鎮斎、天文3年(1534)武田通信再建と書かれています。(常陸平氏の祖、平国香は平安時代中期の人物ですが…)

祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)です。なお、この地の東方約35キロの千葉県香取市には、全国約400社の香取神社の総本社、香取神宮が鎮座しています。


Ⅰ郭とⅡ郭の間の堀跡は、400年の年月で浅くなってはいますが、北側の深い堀に落ち込んでいます。


Ⅰ郭西側の腰曲輪と堀です。


Ⅰ郭の北側は深い堀が谷へと落ち込んでいます。


Ⅳ郭とⅢ郭の間の深い堀には土橋(奥の階段付近)が架かっています。


Ⅲ郭は農地が広がり、東側には工場も建っています。


Ⅲ郭にある廃屋の生け垣に絡まっていた烏瓜の実、まさにウリボウ(猪の子供)です。

なお、この城の支城「野友城」を、野友城(鉾田市)…常陸武田氏の支城 2021.6.22 で紹介いたしました。

小瀬城址と江畔寺…花の寺第4番札所

2023年09月20日 | 歴史散歩

茨城県の北西部の寺院八ヶ寺が宗旨を超えて設けた、十二支の守り本尊と花めぐりの「花の寺」の第4番寺は、常陸大宮市小瀬にある南内山江畔寺…臨済宗円覚寺派の寺院です。

境内は四季の花で彩られますが、春には客殿前のモクレンも見事でした。

建武3年(1336)北朝方で戦った佐竹氏が南朝方楠木勢を撃破し、9代貞義の3男義春が与えられた緒川流域一帯の領地の中心である小瀬に居城を築き、小瀬氏を称したのが始まりとされます。

康永3年(1344)剃髪入道した義春は、城域の大手門に小庵を営み、これが小瀬一族の菩提寺の基礎となり、義春の3男孝繁(悟真妙頓)が夢窓疎石に学び、疎石を勧請開山として孝槃寺を創建したと伝わります。

以後佐竹氏一族小瀬氏の菩提寺として隆盛しますが、慶長7年(1602)関ヶ原の戦いの後、秋田へ移封となった宗家佐竹氏に従い小瀬一族も秋田に移住し、ここは水戸藩の領地となって検地の際に孝槃寺を江畔寺と改称しました。

江戸時代の慶安元年(1648)には3代将軍家光公より、ご朱印15石5斗1合、寺内6石7斗3升4合を賜り、上小瀬、氷之沢、野沢村民3百戸の檀家寺となり、水戸藩2代藩主光圀公も元禄5年(1693)に2泊3日で参詣した記録が残っています。

しかし、9代藩主斉昭公の廃仏希釈により無住職状態になり、伽藍は荒廃し、本尊釈迦牟尼仏をはじめ多くの寺宝は消滅し、続いて明治新政府による神仏分離令により、寺領を接収される苦難の時代もありました。

初代小瀬義春の死後、西側の山の上に勝軍地蔵菩薩を祭祀し、義春の化身仏として尊崇されてきたと伝わっています。

現在の寺の位置にあった館が、城域拡張に伴い後部の山を取り込み連郭式の城郭になっていったとされています。山の尾根を利用した単純な構造ですが、堀切や切岸、土塁、竪堀などを随所に配置した高い防御性を備えています。
※茨城城郭研究会編「茨城の城郭」記載の縄張り図をGoogle航空写真に落とし込んでみました。

江畔寺も城郭の一部で、緒川と小舟川に挟まれた南側の大手に位置する出城的な役割をしたのではないでしょうか。

そば畑の向こうが小瀬城址、標柱の建っている辺りは緒川に面した高台にあるため、根小屋(山城の麓の居住地区)だったとのではともいわれます。

城跡を目指して7郭付近に建つ電波塔の取り付け道路を車で登ったのは一昨年、雨上がりの急坂のため、タイヤが空滑りして登れずバックで戻ってきたという苦い経験をしました。

その時に撮りました、寺院の裏手にオミナエシ(女郎花)の見事な群生がありました。

やっと秋の気配が…偕楽園公園

2023年09月14日 | 水戸の観光
9月に入ってからも真夏日が続いていますが、10日を過ぎる頃から風もさすがに秋の気配…、偕楽園の周りに広がる偕楽園公園の草花も秋の色を見せ始めています。

2代藩主光圀公が中国の詩人陶淵明を慕い「淵明堂」を建てたという「丸山」の裾は、ススキ(薄)に覆われていました。


草かんむりに秋…ハギ(萩)の花も咲いています。本園の偕楽園内では、9月9日から10月1日まで第56回水戸の萩まつりが行われています。


いつも見かける辺りのワレモコウ(吾亦紅)は、年々株が小さくなって見つけるのに苦労しました。


名前に親しみを感じるセンニンソウ(仙人草)、毒草ということを感じさせない清潔な美しさですが…。


蔓延ってしまう厄介者のクズ(葛)も、この時期には豪華なマメ科の花を咲かせます。


アキノタムラソウ(秋の田村草)…タムラソウという名は「多紫草(たむらさきそう)」から、また花がまとまって咲く様子の「屯(タムラ)」からとかいろんな説があります。


朝ドラ「らんまん」5月3日で放送されたキツネノカミソリ(狐の剃刀)…土の中から突然顔を出していました。まるで狐火のようで、花が枯れた後に出る葉が剃刀に似ているのが命名由来です。


ツリガネニンジン(釣鐘人参)は花と根の形から命名されました。この植物の高山型が、夏山で見かけるハクサンシャジン(白山沙参)です。


ツルボ(蔓穂)の名の由来はいろいろあるようですが、別名のサンダイガサ(参内傘)が、宮中に参内する公家が使った柄の長い傘を畳んだ形というのは納得できます。


ツルボと同じキジカクシ科のヤブラン(藪蘭)は、護国神社境内の日陰がすっかり気に入ったようです。

親鸞と常陸の国…その伝承の残る地 ②

2023年09月08日 | 歴史散歩

浄土真宗の開祖、親鸞聖人は越後での流罪が許され、建保4年(1216)から約20年常陸の国に居住して布教活動を続け、「教行信証」も何度も筆を加えながら、この地でほぼ完成させたと伝わります。
親鸞の行動の詳細は残っていませんが、拙ブログに載せたことのある伝説の残る寺を再掲してみました。



稲田の草庵に起居していた親鸞は、教行信証執筆のためにたびたび鹿島神宮を訪れ、神宮寺の仏典を閲覧していました。その道筋の板敷峠にある板敷山大覚寺(石岡市大増)は「親鸞聖人法難の遺跡」として知られています。

山門を潜ると「親鸞聖人法難の遺跡」という大きな看板が立っています。これが謡曲「板敷山」でも知られる、いわゆる山伏弁円と親鸞の言い伝えです。
「板敷山麓に住む山伏弁円は近在にその名を知られていましたが、親鸞の出現で自分の信者たちが浄土真宗に入信し、修験道場が寂れてしまったので親鸞を殺そうとしてここで待ち構えていました。結局、親鸞の尊さに敬服し、自分の弟子30人を連れて、親鸞に帰依したといわれています。」

大覚寺境内には、親鸞が弁円の弟子たちに法を説いた「説法石」があります。
弁円は明法と名を改め、親鸞の供をして布教活動で各地を歩き、やがて法専寺、上宮寺を創建しました。



そのひとつ、楢原山正法院上宮寺は、那珂市本米崎にある親鸞聖人関東二十四輩第十九番の寺院です。聖人から直接に教えを受けた弟子の明法房によって承久3年(1221)に創建されたと伝わっています。

京に戻った親鸞からの手紙が40数通現存していますが、その中に明法房(山伏弁円)の死に際し、極楽往生したに違いないという喜ぶ内容のものも2通あるそうです。



また鹿島詣での道筋にある 鉾田市鳥栖の光明山無碍光院無量寿寺にも親鸞の話が残っています。
「承久3年(1221)、この地方を治めていた地頭の妻が難産の末に亡くなり、この寺に葬られた。しかしその妻が幽霊となって土地の人を恐れさせていたため、親鸞聖人が笠間の稲田草庵(西念寺)より鹿島神宮へ参詣するため近辺を通ることを知り、幽霊をとりしずめてもらうよう願ったところ、聖人は村人が集めた小石にお経を1文字ずつ書いて、妻の塚に埋めたところ幽霊はあらわれなくなったという。」

感激した村人の頼みで親鸞はここの住職となり3年逗留し布教につとめ、阿弥陀仏の別名である無量寿仏に因んで無量寿寺と改め、その後を弟子の順信に託して去ったと伝わります。順信房は、京都より鹿島に来た大中臣宮司家系の鹿島神宮神官出身の僧侶でした。

無量寿寺のこの本堂は、残念なことに2021年1月21日に本堂屋根裏から出火、消失してしまいました。

なお、同じ道筋にある2.7キロ離れた鉾田市富田に、山号、院号とも同じ名前で、同じく親鸞聖人関東二十四輩第三番寺院の無量寿寺があります。

親鸞は、鹿島神宮参拝の行き帰りに巴川の畔の小高い丘、塔の峰に草庵を建て休憩所されました。

鳥栖の無量寿寺に住んでいた親鸞の弟子、順信坊が晩年70歳ころになって塔ノ峰のこの草庵に移り、草庵を無量寿寺とし、やがて寛永10年(1633)この地に移りました。 鳥栖の無量寿寺と同じく親鸞聖人の幽霊済度の伝説がここにも残っているそうです。


親鸞聖人関東二十四輩第十五番の寺院、大門山伝灯院枕石寺は、本堂の前に「親鸞聖人雪中枕石之聖蹟」という大きな石碑が建っていて、ここにも有名な話が残っています。

境内の案内板によると…、
「日野左衛門尉頼秋は承元元年(1206)に京より流されてこの里に隠棲していた。建暦2年(1212)11月27日に夕暮れ、親鸞聖人は降りしきる雪に困り果て頼秋の門前で一夜の宿を求めた。頼秋は「釈迦の弟子として修業の身であるなら、野に伏し石を枕とし給え」と門前払いをした。
その夜、頼秋の夢枕に守り本尊のお告げがあり、驚いた頼秋は親鸞聖人を屋敷に迎え入れて改心し聖人の弟子になり入西房道円の法名を与えられた。この寺はこの石を大切にし、寺名を枕石寺とした。」

この話をもとに倉田百三が「出家とその弟子」という名で戯曲化し、「歎異鈔」に代表される親鸞の思想を下敷きとした内容が大正時代のベストセラーになりました。
本尊は、延宝元(1673)年に徳川光圀公が寄贈した阿弥陀如来で、寺宝として親鸞の筆とされる六字名号、大心海の文字が刻まれ、親鸞が伏したという枕石が所蔵されています。


毘沙幢山無為院照願寺は、常陸大宮市鷲子にある親鸞二十四輩第十七番の寺院です。
開基の念信はこの地の高沢城主高沢伊賀守氏信でしたが、本尊観世音菩薩の御告げと父の臨終の遺言により稲田に親鸞聖人を訪ね、31歳で出家し念信という法名を賜り、貞応元年(1222)小舟地区毘沙幢に草庵を結んで布教に努めたと伝わります。

この草庵に親鸞は6度も訪れ、安貞2年(1228)、一泊した朝に草庵前の桜の木が一夜のうちに満開となり、親鸞は草庵を発つ時、振り返り振り返り、名号念仏しながら去っていったので、その桜の樹を「見返りの桜」というようになったといわれています。

寺伝によるとその後、明徳元年(1390)現在のこの地に移りますが、江戸時代に藩主光圀公の命により見返りの桜もこの地に移されたと伝わります。



水戸市河和田にある法喜山泉渓院報仏寺は、親鸞の教えを分かりやすく記した「歎異抄」の作者といわれる唯円が建保6年(1218)開基と伝わる寺院です。

本堂前に建つ「報仏寺の十字名号」によると…
「河和田に平次郎という信仰心の薄い男がいた。女房は親鸞聖人の教えを受け十字の名号を紙に書いてもらって拝んでいた。平次郎はそれを恋文と誤解し、女房を刀で斬って埋めてしまった。ところが不思議なことに帰宅すると女房は何ごともなく、埋めたところには十字名号が斜めに切られていた。このため平次郎は改心して名を唯円と改め報仏寺を開いたと伝わる」と書かれています。

本尊の阿弥陀仏には文明13年(1481)に造立されたという墨書銘、台座銘に「当寺開基唯円大徳」とあるそうです。
なお、浄土真宗で唱えられる六字名号は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」ですが、十字名号は「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」、意味は「南無阿弥陀仏」と同じでサンスクリット語の漢訳だそうです。

この親鸞から約300年後の室町末期から戦国時代には浄土真宗の本願寺派の信者たちが支配権力に立ち向かう「一向一揆」が、近畿をはじめ北陸、三河などの各所で起こりました。
親鸞の教えがいち早く浸透していた常陸国ではこのような一揆は起こらなかったものの、当時の領主には警戒感もあったでしょうし、水戸藩2代藩主光圀公も懐柔と弾圧に始終したとも伝わります。
全国の宗派別信者、寺院数では圧倒的に多い浄土真宗も、現代の常陸国に限ってはそれほどでもないというのが現状のようです。

親鸞と常陸国…その伝承の残る地

2023年09月02日 | 歴史散歩
常陸国と関係が深かった親鸞の浄土真宗開宗宣言の地といわれる大山草庵跡、城里町の国道123号線沿いの阿波山上神社鳥居わきにありますが、よく通る道なのに初めての訪問です。

建保2年(1214)越後での流罪を許された親鸞は、常陸に入り下妻(小島の草庵)に逗留した後、建保4年(1216)には、師法然の弟子の行観上人が開山した浄土宗の阿弥陀寺境内に草庵を結び、この年11月に行った法然の3回忌の法要を真宗興行の法要といい、大山草庵は開宗宣言の地といわれるようになりました。

碑の説明文によると、真宗阿弥陀寺はその後明徳3年(1392)、7代信如の時に額田城主小野崎氏の懇請により額田城の守護寺としてその城域に移り、爾来血脈相承により現在に至っています、と書かれています。

これが現在の那珂市額田にある阿弥陀寺(上記写真)です。大山草庵で行われた法然の法要で安置した三尊六高祖荘厳真筆など親鸞聖人の寺宝が現存しているそうです。

また浄土宗阿弥陀寺の方は、水戸藩9代藩主徳川斉昭公の寺院整理により天保13年(1842)に廃寺となり、今は当時を偲ぶものとして古い墓石が散見されるだけですとも書かれています。

航空写真で見ると、墓地と地続きの桂中学校あたりが阿弥陀寺で、多分隣接する阿波山上神社の別当寺だったのでしょうか。


その入り口付近には延命地蔵尊のお堂が建っています。詳細は不明ですが、手書きの由来によると那珂川の延命淵の近くにあった太子堂境内の地蔵尊が、明治初めの廃仏希釈運動により那珂川に投げ落とされ、後に里人によって拾い上げられ祀られたという説も紹介されていました。

中を覗くと穏やかな顔のお地蔵様です。由来によると、引き上げらえた地蔵尊の顔と左手が欠けていたのを、新しく付け替えた(平成11年)と書かれていました。

さて阿波山上神社は、社伝では大宝元年(701)の創建と伝わり、平安時代延長5年(927)の延喜式神名帳(常陸国28社・全国2861社)に記載された古社です。

正式には阿波山上神社(あわやまのうえのじんじゃ)とよばれ、祭神は少彦名命(すくなひこなのかみ)で、童子姿の神が手に粟穂を持ち、大杉に降臨したという伝承から「降木明神(佐加利子明神)」の別名があります。


また、古来よりこの地は粟(あわ)の生産が盛んで粟山とよばれていたのが、和銅6年(713)の好字令により「阿波」とされ、正平10年(1355)、佐竹氏9代佐竹義篤が5男義孝をこの地に封じ、阿波山が転訛した大山氏を名乗ったといわれています。


延徳2年(1490)、佐竹氏の内乱の際、15代佐竹義舜が山入勢により大山氏の孫根城に追われた時に、戦勝祈願したといわれます。14年後に義舜は常陸太田城を奪回することに成功し内乱も収束、神徳を感じた義舜は、正月に門松を飾らないここの氏子の慣習に従ったという伝承が残っています。


大山氏の居城、大山城址です。

さて話を戻して、この機会に拙ブログで取り上げたことのある親鸞の伝承の残る寺を拾い出してみました。

常陸国での滞在が一番長く布教の拠点としたのは稲田の草庵です。この地方を治めた宇都宮頼綱の弟で稲田の領主稲田頼重の招きに応じて、妻子ともどもこの地に草庵を結んだとされています。
この稲田草庵跡に建つ浄土真宗別格本山、稲田禅房西念寺は、頼重が親鸞に帰依して頼重房慶善の法名を賜わり、その礎を築いたと伝えられています。

常陸国の滞在20年間の殆どを妻の恵信尼とともにここで過ごし布教活動を熱心に行い、浄土真宗の根本聖典である「教行信証」も主にここで著されたといわれています。 
「浄土真宗別格本山」の大きな石碑に、親鸞聖人教行信證御製作地と記されています。


親鸞は記録を残さなかったので、常陸国での行動の詳細は不明ですが、大山草庵から稲田草庵まで約20km、小島草庵から稲田まで約30kmあります。親鸞の弟子達の興した寺は稲田草庵よりほぼ30kmの範囲内に散らばっており、稲田が活動の中心とされていますが、大山と稲田のどちらの草庵を先に結んだかも、定かではありません。


京都で亡くなった親鸞は東山の延仁寺で火葬され大谷に納骨されますが、遺骨の一部はここ稲田の御頂骨堂に納められました。

上記地図に記載の親鸞伝承の地は、次の機会に紹介したいと思います。。