浄土真宗の開祖、親鸞聖人は越後での流罪が許され、建保4年(1216)から約20年常陸の国に居住して布教活動を続け、「教行信証」も何度も筆を加えながら、この地でほぼ完成させたと伝わります。
親鸞の行動の詳細は残っていませんが、拙ブログに載せたことのある伝説の残る寺を再掲してみました。
稲田の草庵に起居していた親鸞は、教行信証執筆のためにたびたび鹿島神宮を訪れ、神宮寺の仏典を閲覧していました。その道筋の板敷峠にある板敷山大覚寺(石岡市大増)は「親鸞聖人法難の遺跡」として知られています。
山門を潜ると「親鸞聖人法難の遺跡」という大きな看板が立っています。これが謡曲「板敷山」でも知られる、いわゆる山伏弁円と親鸞の言い伝えです。
「板敷山麓に住む山伏弁円は近在にその名を知られていましたが、親鸞の出現で自分の信者たちが浄土真宗に入信し、修験道場が寂れてしまったので親鸞を殺そうとしてここで待ち構えていました。結局、親鸞の尊さに敬服し、自分の弟子30人を連れて、親鸞に帰依したといわれています。」
大覚寺境内には、親鸞が弁円の弟子たちに法を説いた「説法石」があります。
弁円は明法と名を改め、親鸞の供をして布教活動で各地を歩き、やがて法専寺、上宮寺を創建しました。
そのひとつ、楢原山正法院上宮寺は、那珂市本米崎にある親鸞聖人関東二十四輩第十九番の寺院です。聖人から直接に教えを受けた弟子の明法房によって承久3年(1221)に創建されたと伝わっています。
京に戻った親鸞からの手紙が40数通現存していますが、その中に明法房(山伏弁円)の死に際し、極楽往生したに違いないという喜ぶ内容のものも2通あるそうです。
また鹿島詣での道筋にある 鉾田市鳥栖の光明山無碍光院無量寿寺にも親鸞の話が残っています。
「承久3年(1221)、この地方を治めていた地頭の妻が難産の末に亡くなり、この寺に葬られた。しかしその妻が幽霊となって土地の人を恐れさせていたため、親鸞聖人が笠間の稲田草庵(西念寺)より鹿島神宮へ参詣するため近辺を通ることを知り、幽霊をとりしずめてもらうよう願ったところ、聖人は村人が集めた小石にお経を1文字ずつ書いて、妻の塚に埋めたところ幽霊はあらわれなくなったという。」
感激した村人の頼みで親鸞はここの住職となり3年逗留し布教につとめ、阿弥陀仏の別名である無量寿仏に因んで無量寿寺と改め、その後を弟子の順信に託して去ったと伝わります。順信房は、京都より鹿島に来た大中臣宮司家系の鹿島神宮神官出身の僧侶でした。
無量寿寺のこの本堂は、残念なことに2021年1月21日に本堂屋根裏から出火、消失してしまいました。
なお、同じ道筋にある2.7キロ離れた鉾田市富田に、山号、院号とも同じ名前で、同じく親鸞聖人関東二十四輩第三番寺院の無量寿寺があります。
親鸞は、鹿島神宮参拝の行き帰りに巴川の畔の小高い丘、塔の峰に草庵を建て休憩所されました。
鳥栖の無量寿寺に住んでいた親鸞の弟子、順信坊が晩年70歳ころになって塔ノ峰のこの草庵に移り、草庵を無量寿寺とし、やがて寛永10年(1633)この地に移りました。 鳥栖の無量寿寺と同じく親鸞聖人の幽霊済度の伝説がここにも残っているそうです。
親鸞聖人関東二十四輩第十五番の寺院、大門山伝灯院枕石寺は、本堂の前に「親鸞聖人雪中枕石之聖蹟」という大きな石碑が建っていて、ここにも有名な話が残っています。
境内の案内板によると…、
「日野左衛門尉頼秋は承元元年(1206)に京より流されてこの里に隠棲していた。建暦2年(1212)11月27日に夕暮れ、親鸞聖人は降りしきる雪に困り果て頼秋の門前で一夜の宿を求めた。頼秋は「釈迦の弟子として修業の身であるなら、野に伏し石を枕とし給え」と門前払いをした。
その夜、頼秋の夢枕に守り本尊のお告げがあり、驚いた頼秋は親鸞聖人を屋敷に迎え入れて改心し聖人の弟子になり入西房道円の法名を与えられた。この寺はこの石を大切にし、寺名を枕石寺とした。」
この話をもとに倉田百三が「出家とその弟子」という名で戯曲化し、「歎異鈔」に代表される親鸞の思想を下敷きとした内容が大正時代のベストセラーになりました。
本尊は、延宝元(1673)年に徳川光圀公が寄贈した阿弥陀如来で、寺宝として親鸞の筆とされる六字名号、大心海の文字が刻まれ、親鸞が伏したという枕石が所蔵されています。
毘沙幢山無為院照願寺は、常陸大宮市鷲子にある親鸞二十四輩第十七番の寺院です。
開基の念信はこの地の高沢城主高沢伊賀守氏信でしたが、本尊観世音菩薩の御告げと父の臨終の遺言により稲田に親鸞聖人を訪ね、31歳で出家し念信という法名を賜り、貞応元年(1222)小舟地区毘沙幢に草庵を結んで布教に努めたと伝わります。
この草庵に親鸞は6度も訪れ、安貞2年(1228)、一泊した朝に草庵前の桜の木が一夜のうちに満開となり、親鸞は草庵を発つ時、振り返り振り返り、名号念仏しながら去っていったので、その桜の樹を「見返りの桜」というようになったといわれています。
寺伝によるとその後、明徳元年(1390)現在のこの地に移りますが、江戸時代に藩主光圀公の命により見返りの桜もこの地に移されたと伝わります。
水戸市河和田にある法喜山泉渓院報仏寺は、親鸞の教えを分かりやすく記した「歎異抄」の作者といわれる唯円が建保6年(1218)開基と伝わる寺院です。
本堂前に建つ「報仏寺の十字名号」によると…
「河和田に平次郎という信仰心の薄い男がいた。女房は親鸞聖人の教えを受け十字の名号を紙に書いてもらって拝んでいた。平次郎はそれを恋文と誤解し、女房を刀で斬って埋めてしまった。ところが不思議なことに帰宅すると女房は何ごともなく、埋めたところには十字名号が斜めに切られていた。このため平次郎は改心して名を唯円と改め報仏寺を開いたと伝わる」と書かれています。
本尊の阿弥陀仏には文明13年(1481)に造立されたという墨書銘、台座銘に「当寺開基唯円大徳」とあるそうです。
なお、浄土真宗で唱えられる六字名号は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」ですが、十字名号は「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」、意味は「南無阿弥陀仏」と同じでサンスクリット語の漢訳だそうです。
この親鸞から約300年後の室町末期から戦国時代には浄土真宗の本願寺派の信者たちが支配権力に立ち向かう「一向一揆」が、近畿をはじめ北陸、三河などの各所で起こりました。
親鸞の教えがいち早く浸透していた常陸国ではこのような一揆は起こらなかったものの、当時の領主には警戒感もあったでしょうし、水戸藩2代藩主光圀公も懐柔と弾圧に始終したとも伝わります。
全国の宗派別信者、寺院数では圧倒的に多い浄土真宗も、現代の常陸国に限ってはそれほどでもないというのが現状のようです。