顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

龍谷院(茨城県城里町)…花の寺の一番寺

2023年04月27日 | 歴史散歩
城里町の阿野沢にある瑞雲山龍谷院は、長禄3年(1459)に佐竹氏の庶流で大山城主の佐竹義成の開基、秀峰宗岱大和尚開山の曹洞宗の古刹です。
新緑の山裾に甍が見える遠景は、深遠な雰囲気を漂わせていました。

本山は、福井県永平寺と横浜市の総持寺です。この龍谷院の末寺もかつて36ヶ寺に及びましたが、現在でも茨城県と秋田県の7つの寺が法燈を守り続けています。
龍昌院(茨城県那珂市)・円通寺(茨城県笠間市大田町)・泰寧寺(茨城県石岡市)・龍勝寺(茨城県つくば市)・照岩寺(茨城県石岡市)・金仙寺(茨城県筑西市)・龍昌院(秋田県横手市)


参道はまず樹木に覆われた石段から始まります。


文化8年(1811)建立の山門、扁額は日本篆刻の祖といわれる東皐心越(とうこうしんえつ)禅師の書です。


禅師は16世紀半ば明が滅亡した中国から日本に亡命してきた高僧で、水戸藩2代藩主徳川光圀公に請われ水戸で祇園寺を開山し、曹洞宗寿昌派の祖となり、篆刻、絵画、書、詩文、琴(七弦琴)など一流の中国文化を伝えたといわれます。特に篆刻については、「日本篆刻の祖」といわれ、その作品が各地に残っています。


中門に花の寺の案内がありました。

茨城県の北西部、城里町、常陸大宮市、那珂市、笠間市の寺院八ヶ寺が宗旨を超えて、十二支の守り本尊と花めぐりのコース「開運 花の寺めぐり」を平成17年春に設けたと記されています。
この龍谷院はその一番寺ですので、子(ね)年生まれの守り本尊の千手観音菩薩が祀られています。


昭和54年(1979)に建て替えられた本堂は鉄筋コンクリート製ですが、それほど違和感はありません。本尊の釈迦牟尼仏は、明応8年(1499)鎌倉の仏師、法眼秀林の作とされています。
天水桶にある佐竹の紋「5本骨扇に月丸」が輝いていました。


観音堂には大山城主佐竹義成公の守り仏千手観音菩薩が安置され、子の歳の守り本尊として、安産、虫きりにご利益があると信奉されています。
観音堂の格子は左甚五郎の作といわれ、特殊な組み方をしているという情報もありますが詳細は不明です。


西南に迫っている白山(213m)や赤沢富士(275m)の山塊に抱かれた境内は、四季折々の自然とまるで一体になっているようでした。


すでに春の花は芍薬と山ツツジになっていました。


境内の隅にシャガ(射干)が咲いていました。アヤメ科の多年草、山陰の生育環境がお気に召したようで大きな群生になっています。


見事な石垣は、1m以上の大きな石をきれいに加工して積んだ「切り込み接ぎ」です。城郭の石垣の歴史では完成された最後の様式で、戦国時代の末期に登場し、江戸城の石垣などに見られます。もちろん当時のこの地方にはその技術はなかったので後世のものでしょうが、整然と積まれた石垣は素晴らしいの一言に尽きます。


シャガの写真を伸ばしたら、上部にハナグモ(花蜘蛛)が写っていました。花の中に棲み蜜を求めて来る昆虫を捕食する羨ましい住環境の蜘蛛です。

暇に任せて近隣の神社仏閣や城址の歴史を訪ね歩いていますが、行動範囲が年々狭まる中でもまだまだ知らないところが多く、新しい発見に感動しきりです。

今年は早い偕楽園のツツジ…サツキとの違いは?

2023年04月22日 | 水戸の観光

水戸市の偕楽園では、この時期には園内の380株のつつじが咲き誇りますが、今年は2週間ほど開花が早く、例年ゴールデンウイークが満開なのに、19日現在でほぼ八分咲きくらいになっていました。


メインは見晴らし広場の好文亭寄りに植えられた真っ赤なキリシマツツジの群生です。


樹齢300年以上の古木もあり、天保13年(1842)の開園時に薩摩藩からおくられたともいわれています。


しかし、この群生は寄る年波には勝てず、年々株が弱ってきています。19年前の2004年に撮った写真(上記)と見比べてみると良く分かります。


園内にはこの他にオオムラサキツツジ、ヒラトツツジ、ドウダンツツジなどのツツジがあり…、その中にはサツキも150株あるとされますが、その区別が良く分からないツツジとサツキの違いを調べてみました。


その違いをまとめると上図のようになります。しかし、咲く時期も今年はずい分変わってしまい、また花や葉の形、雄しべの数も例外があったりして、区別がとても難しいと感じました。
どちらもツツジ属ツツジ科、無理に区別は必要ないかなと、あきらめが早いのは幼いころからの仙人の習性です。


こちらは雄しべの数6本以上なので、「ツツジ」でしょうか。


こちらは雄しべが5本なので「サツキ」?ツツジより花期が1か月くらい遅いはずですが…



ところで好文亭奥御殿の「躑躅の間」の襖絵には、真っ赤な多分?キリシマツツジと白いツツジが描かれています。10畳のこの部屋は、来園された藩主夫人のお付の御女中の部屋として使われました。

ツツジやサツキは、日本古来の植物で万葉集にも8首詠まれており、そのうちの「岩ツツジ」と詠まれているのは、サツキのことだといわれています。



さて、花の時期は賑やかだった梅林の梅は、いま小さな梅の実が付いていますが人影は疎らです。


樹の下には、セイヨウタンンポポの群落です。偕楽園を創設した斉昭公は、外国勢力に備える国防の重要性を主張しましたが、すっかり外来種に占拠されています。


新緑に覆われて園内では、いつもと違った魅力の一端を見ることができます。


外来種のマツバウンラン(松葉海蘭)は、繁殖力が強く厄介な雑草ですが、咲く姿は可憐です。もう園内にも侵略の手を伸ばし始めていました。

小菅郷校跡…水戸藩15郷校のひとつ

2023年04月17日 | 歴史散歩
幕末の教育史上特異な存在といわれる水戸藩の郷校は、文化元年(1804)茨城郡小川村に創建された稽医館が最初で、その後合わせて15校が領内各地に設立されました。
藩士子弟の通う藩校弘道館に対し、地方の庶民教育のために設置され、当初は医者の養成を目的としたり、儒学などの学びの場でしたが、対外の危機が迫る安政時代になると武術の訓練を主とするようになり、幕末の藩内抗争時にはほとんどが尊王攘夷派の拠点となりました。

今回訪問した小菅郷校は茨城県北部の山間部にありますが、藩政改革の一環として疲弊した農村の振興、農民教化のための郷校を「郡邑便宜の地を択み学を建つ」とされた地域に当時は該当していたのでしょうか。

散りかけた山桜の奥の杉林の中に小菅郷校があります。

里川を渡った先の突き当りの崖上に郷校の案内版がありました。


さて、明治維新の10年前の安政4年(1857)3月25日に開館した小菅郷校は、1566坪の敷地に本館を建て、館外には884坪の練兵場と幅3間、長さ100間の射撃場、幅6間、長さ30間の矢場を設けました。本館の中は、上段の間(8帖)、二の間(8帖)、三の間(6帖)、玄関(4帖)、勝手(11帖)、式場(広さ不明)に別れていました。
当時この地方の人々は、御館(おかん)とか文武館と呼んでいたそうです。

瀬谷義彦先生の「水戸藩の郷校」研究論文には、代々庄屋など村役人を勤め山横目から郷士に取り立てられ尊攘運動に奔走した椎名次郎部佐衛門が郷校掛りになり、隣村の郷士斎藤善衛門、中野次郎佐衛門も同じく郷校掛り、近在の郷士中野林平、佐川八郎ほか2名が世話掛かりになったと書かれています。彼らが郷校建設資金や維持費の献納をしたという資料も残っており、藩が近在の有志に割り当てていた資金の調達能力も郷校建設地の選定に寄与したのかもしれません。

しかし元治元年(1864)の天狗党の挙兵による藩内の抗争が激化すると、小菅郷校もその機能を失い、この地の天狗派の事実上の軍事拠点となったため、実権を握った諸生派により焼き討ちにあい焼失してしました。明治4年(1871)に再建されましたが、翌年の学制発布と同時に閉校となりました。

閉校になった郷校はほとんど学校敷地に利用されるなどして、ほぼ完全な形で残っているのはここだけで、唯一茨城県指定史跡に指定されています。しかし、遺構は土塁と堀だけで、山麓の段丘を利用した城郭のような立地に築かれた郷校跡は杉林の中に埋没していました。
「小杉郷校跡です」という案内看板も手作り感にあふれていて、つい微笑んでしまいます。


近所の人に道を尋ねたら「何にもねえよ」と笑って教えてくれましたが全くその通りでした。薄暗いスギ林の中に土塁で囲まれた40~50mくらいの方形の窪地は本館跡で、その南西側が練兵場のようです。


土塁と土塁に挟まれた幅7mくらいで長さ数10mの平坦地は、矢場か射撃の練習場と思われます。


崖下に咲いていたヤマブキ(山吹)の花、右側の白い花は葉がモミジに似ているので命名されたモミジイチゴ(紅葉苺)で、6月になると黄色のみずみずしい木苺が生ります。


山里の風景がいちばん輝く新緑の季節…、新しい時代の息吹を感じながら文武を学ぶもその奔流に流された、この地の先人たちを思い浮かべたひとときでした。

小里(おざと)城…常陸国と磐城国との国境

2023年04月12日 | 歴史散歩

淡い新緑に山桜の白が点在するこの時期の山里の風景に誘われて、茨城県境の山間部にある小さな中世城址を訪ねました。


水戸から奥州棚倉を結ぶ古代の官道、棚倉街道は、戦国時代には佐竹氏が南奥羽進出の軍事道として、江戸時代には棚倉藩の参勤交代で利用された常陸国の主要街道の一つです。その路線を継承した国道349号線沿いの常陸太田市小中にある小里城は、里川と薄葉川が合流する標高250mの微高地にある平城です。


この城の歴史についての詳細な情報は残っていないようですが、古来より磐城国との国境に位置したため、領土をめぐるいろんな勢力の攻防の歴史があったと思われます。
南北朝時代には、南朝側の北畠顕家が北朝側の佐竹氏とこの地で合戦したという小里合戦が伝わっています。その後、佐竹一族の小田野氏が領していましたが、佐竹一族の内乱時には白河の結城氏に一時支配されたともいわれます。戦国期には磐城の岩城氏が支配し、家臣の白土右馬之介が居館としたと伝わりますが、永禄年間(1558~1570)には南郷(福島県南部)への進出を図った佐竹氏がこの地を支配したようです。


この城の特徴として県内でも珍しい石積みが数か所で見られることです。特に主郭西側にある石垣は長さ40mほどありますが、積まれた石も河原の石のような小さいもので、土留め用に積まれたという説が多いようです。


正面の土塁で囲まれた四方60mくらいの方形の一画が主郭とされます。その周囲にも郭は配置されていたと思われますが、農地化による改変で現在ある段差が当時のものかどうかは不明です。

城域と思われる約120m四方の東側以外は、里川と薄葉川による浸食谷が天然の堀の役目を果たしています。

西側の切岸は里川に張り出した高さ6mくらいの急斜面、蕗の葉で覆われていました。


南側の切岸、里川の支流薄葉川が造り出した河岸段丘上にあります。


北側も堀跡らしい窪みが急斜面に落ち込んでいます。


陸続きの東側の防御とまたは詰城の役目でしょうか、突き出た尾根の先端に「盾の台館」、そのやや南方に「羽黒山館」があり(上記航空写真参照)、遺構が残っているそうですが、羽黒山館跡にある羽黒神社の急石段に慄き、あえなく撤退してしまいました。  ※詰城:戦の時に最後の拠点となる山城


城跡の真ん中、主郭入り口付近に建つ案内板です。これ以外の標識などは全く見当たらず、この城跡の存在は知られないままです。


茨城北部の中世の城館は、佐竹氏一族やその家臣の居城が多く、茨城城郭研究会発行の「佐竹氏関連城館」に記載されているだけでも119館もあります。そのほとんどが藪の中に埋もれた山城で、その歴史を明らかにする文献などもあまり残っていませんが、その分勝手に妄想の世界で遊ぶことができます。この城も、多分数十人程度の勢力での攻防ではなかったのか?などなど…


コロナもひと段落の春、久しぶりにも萌出る景色を堪能できました。

新緑の中黄に近き緑あり  山口誓子
新緑やうつくしかりしひとの老  日野草城  
新緑の山たたなはる国古く  山口青邨
                                       ※たたなはる(畳なはる)=寄り合って重なる

満開を独り占め…涸沼自然公園の桜(茨城町)

2023年04月04日 | 季節の花

東茨城台地の東端が涸沼に突き出た、まるで中世城郭のような立地にある涸沼自然公園は、面積34.5haの広大な自然そのままをいっぱい取り込んだ野趣あふれる公園です。

開設当時に徴収していた公園の入場料(多分200円?)も無料となりましたが、いつも閑散としていることが多く、おかげで今年の桜も独り占めのような気分で満喫できました。




自然のままの樹々の中に、河津サクラから始まり、ソメイヨシノを中心に、ヨウコウ(陽光)、ベニシダレ(紅枝垂)、ヤマザクラ(山桜)などが植えられています。




平日の昼頃の園内には、数組の花見客しか見当たらず、一生懸命に花を開かせている桜が可哀そうなような気もします。人混み苦手の仙人には嬉しいことですが…。


台地上のいたるところから涸沼を一望できます。


一番奥にある展望広場は仙人一押しのお花見スポット、糸枝垂れ桜と涸沼がよく似合っています。


涸沼は全国で29番目の大きさの面積935ha、満潮時に太平洋の海水が涸沼川と那珂川を経て流れ込む汽水湖で、スズキ、カレイ、コチなどの海の魚も釣ったことがありました。


わいわい広場の遊具も一新され4月8日オープンの張り紙がありました。子供たちの歓声が聞こえるようですが、仙人の孫たちは対象年齢をはるかに超えてしまいました。


管理棟のパステルカラーの屋根も、桜の中に溶け込んでいます。

この公園は特にアジサイで知られ、6月下旬~7月中旬には、30種約1万株が咲き誇ります。山の斜面一帯に植えられているので、遠くまで見渡せるアジサイ群には迫力があります。

さて、桜を見る眼を下に向けると、小さな春の花も精一杯の晴れ姿を披露していました。

たまたま並んでいたスミレ2種、タチツボスミレ(立坪菫)と白いのはアリアケスミレ(有明菫)でしょうか。写真で気が付いたのですが、奥に濃い紫色のスミレが写っていてスミレ3種でした。


多分これは、数多いスミレ科の中でただひとつスミレと名付けられ、ホンスミレ(本菫)ともいわれるもの、舗装の間からも顔を出す「ど根性スミレ」です。


黄色い花はヘビイチゴ(蛇苺)、やがて真っ赤な実が生りますが、さすがの仙人も食したことはありません、毒ではないようですが。


苔のように地面に這っているムラサキサギゴケ(紫鷺苔)、グラウンドカバーとして園芸サイトで販売されているのでびっくりしました。


ジゴクノカマノフタ(地獄の釜の蓋)という別名を持つキランソウ(金瘡小草)、地獄の釜に蓋をしてしまうほど効き目の強い薬草というのが命名由来です。

名を知りて踏まず地獄の釜の蓋  柳井梗恒子
すみれぐさも地獄の釜のふたも紫  加藤三七子
蹈んずけてゐるのは地獄の釜の蓋  高澤良一