顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

五千石なのに十万石の大大名…木連川藩

2018年10月31日 | 歴史散歩
木連川城(別名大蔵ヶ崎城)は、この地方を支配した宇都宮一族の塩谷惟広が平安時代末期にこの地を治めたのが始めとされます。その後400年余、宇都宮氏と、敵対する那須氏の間で離反と帰参を繰り返しながらも生き延びましたが、秀吉の小田原攻めに遅参したため、最後の城主塩谷惟久は自ら城を捨てて逃げ去ったそうです。

さて秀吉は、武士の象徴である源氏の血を引く足利氏の存続をもくろみ、古河公方足利義氏の娘、氏女(うじひめ)を小弓公方足利頼純の子、国朝に娶わせここに木連川公方が誕生しました。
これには、美貌で知られる塩谷惟久の妻嶋子が、すぐに美女に目がない秀吉の側室に召し出されましたが、実は足利頼純の娘だったことに起因しているともいわれています。

その後、源氏の末裔を意識する家康も、木連川氏を名乗った一族を特例で優遇し、わずか5000石の旗本並みの所領ながら国主大名並みの10万石の格式を与えました。参勤交代やいろんな賦役は免除され、日光法要では国主並みの待遇、正室には御三家並みの朱傘の使用が認められるなどの特例を受け、御所と呼ぶことも許されました。

ただ、城郭を利用するのは遠慮したのか、それとも維持するのが困難だったのか、麓の現在さくら市木連川支所のある所に陣屋を構えここを藩庁としました。陣屋跡には、大手門の復元とされる立派過ぎるような門が建っており、丸に二つ引きの足利氏の家紋がついています。

なお、11代で明治維新を迎えた木連川縄氏(つなうじ)は、水戸藩9代藩主徳川斉昭の11男、幼名を余一麿、父より偏諱を受け昭縄(あきつな)、藩主の喜連川宜氏が早世したため、末期養子として家督を継ぎました。母が谷文晁門下の水戸藩士で南画家の立原杏所の娘、利子なので書画に優れ、雅号艮山としてその作品がさくら市指定文化財として保存されているそうです。
この木連川氏ですが、明治2年(1869)には、木連川から足利に姓を変えています。

さて、塩谷氏時代の城は、那珂川の支流、荒川と内川の合流地点に向って東に伸びる標高約170m,比高約50mの尾根の先端に築かれた堅固な構えです。南方の宇都宮勢力と北方の那須勢力のちょうど接点のため、幾たびか激しい戦いの舞台になったようです。

廃城後の城跡はお丸山公園として整備され、観光拠点となっていましたが、東日本大震災とその後の台風による亀裂や土砂崩れなどの被害により、まだ完全に復興の見通しはたってない現状です。

尾根の両側は急峻な斜面で、深く幅の広い堀切により4つの郭に分割された連郭式山城ですが、本丸の位置は、Ⅰの郭とⅡの郭などの諸説があります。

Ⅰの郭には階段状の土塁が見えます。

Ⅱの郭の最高地点から見た東南方向、那珂川の支流荒川が堀の役目をして、急峻な台地上にある難攻不落の城郭が実感できます。

かっては日光から那須連山まで眺めの良かったスカイタワーなどの観光施設の一画は未だに立入禁止になっていました。情報によると、このタワーやシャトルエレベータは採算性の低い施設であったため復旧を断念、ただしタワーには防災無線や電波施設が設置されているので塔そのものは存続させるようです。


波力発電実証装置 in 大洗港

2018年10月27日 | 日記
海を見にいつもの散歩…、大洗港第4埠頭に黄色い灯台のようなものが置いてありました。懸垂幕には、大洗港波力発電実証機 環境省CO2排出規制対策強化誘導型技術開発・実証事業と書かれています。

調べてみると、三井造船関係のプロジェクトで、波の力を利用した波力発電装置を開発、陸上に近い沿岸域において、海上に設置した杭をガイドとして、発電機や機器を格納したフロートの上下運動を発電エネルギーへ変換するシステムの実証機だそうです。

防波堤より90メートル程度の位置に波力発電装置を設置。防波堤までは海底ケーブルにより送電し、既設のポンプ小屋に波力発電により生じた電力を導き、海水の汲み上げに利用すると出ていました。(写真はプロジェクトのホームページから)

まだ20Kw~50Kwの発電量ということで、東海原発の代替になるのは到底無理な数字ですが、安全なエネルギー源の開発には大きな期待をかけたいと思います。

ところで、大洗シーサイドステーションの北側約4分の1の部分は、凄いことになっていました。まるで爆撃の後のようです。
看板によると、来春にスーパーとドラッグストアがオープンするようです。

大洗アウトレットから事業主体が変わりましたが、まだ空き店舗が多い現状なので苦肉の策かもしれません。しかし片側が海の立地は完全に観光型なのに、生活密着型の業態で大丈夫なのでしょうか。何か小手先だけの対応と感じてしまいます。
いずれにしても何とか賑わいを取り戻していただきたく、ひたすら成功を祈るしかありません。

謹慎中の慶喜公、水戸弘道館から駿府への供揃え

2018年10月23日 | 歴史散歩
鉾田市のホテルさわやのロビーで、「田山家、大塲家の文書で見る慶喜公」という企画展が開催されました。
今は門だけ残る田山家は、藤原氏の出で先祖は鉾田館主の家柄、当時旗本領だった鉾田の旗本北條新蔵の触元名主を務めており、慶応4年(1868)7月、弘道館で謹慎していた慶喜公が朝廷の命により駿府へ退隠する道中での本陣となりました。その供などの陣容が明らかになる御宿割の古文書が展示されました。
田山家跡から撮った企画展会場のホテルさわや、慶喜公の泊まったところと看板に出ています。

なお大塲家は水戸藩の大山守を務め、二十数か村の藩有林を管理するとともに広域にわたる藩行政に携わってきました。天保5年(1834)には大塲安政が田山家に養子に入り、通り字の保政と名を変えています。
展示の中で目を引いたのは、道中の陣容が分かる「御宿割」の古文書でした。
下に読み下しの資料が添えられているので分かりやすく、精鋭隊は武術に優れた旗本、幕臣などを揃えた慶喜公を警衛する山岡鉄舟などが頭の隊、遊撃隊は高橋泥舟らが頭の腕自慢の幕臣たち…、その中で「新門 拾五人」と書いてあるのは江戸の火消しで子分3000人といわれる侠客の新門辰五郎と手の者です。辰五郎の娘、お芳は慶喜公が京都御守衛総督のときにお妾(側室とも)として仕え、辰五郎は子分200人を引き連れ二条城の警備などに就いたといわれています。
京都滞在時以後も新門辰五郎の警衛は続き、慶喜公が大阪から夜陰に江戸へ引き上げた際に家康公伝来の金扇の大馬印を忘れてしまったので、それを辰五郎が陸路で江戸まで届けた話や、慶喜公が謹慎のために弘道館に来水するときに、当座の御用金として勘定方からの2万両を辰五郎が運んだ話などが残っていますので、この時もその残金を駿府まで運んでいたのかもしれません。
慶喜一行は7月20日の九ツ半(午前1時)に弘道館を出て徒歩で杉山まで出て、そこから船で那珂川を下り、磯浜で下船、同所で朝食をとり、大貫、夏海、子生、樅山と陸路を進んで鉾田に到着の旅程と宿割が記されていますが、この後予定が急に早まり「上様十九日夕七ツ時(午後4時)発途の達」が出されました。
「廿日後発途之旨兼而触置候処、十九日夕七ツ時御発途ニ相成候間、万端右之心持ニ而諸事引上ケ差支無之様取計場所村役人相談可申事」と、役人や宿の対応に不備のないようお達しが出ています。

21日には鉾田から船に乗り北浦から波崎に出て待っていた幕府軍艦蟠龍丸に乗船。23日,駿河清水港に上陸,精鋭隊の松岡万が隊士50人余を率いて迎え、謹慎先の宝台院まで警衛、夕刻に到着しました。
なお、蟠龍丸は英国から幕府に贈られた豪華な王室ヨットを砲艦に改造したもので、新政府軍に引き渡すところ、榎本武揚は拒否し8月19日他の7艦とともに品川沖を脱出し、箱館戦争で大活躍、明治30年に解体されるまで各地で勇名を馳せました。

最後の将軍慶喜公の評価はいまだに分かれるところですが、この年の4月に上野寛永寺から水戸へは同じような陣容で約300人といわれており、さらに半分に減った供揃えで人目を忍んだ道中…本人の心境はいかばかりだったのでしょうか。
なお、地方の名家に残る貴重な歴史の1ページを明らかにして、一般に公開された関係者の方々に敬意を表したいと思います。

偕楽園公園  2018秋

2018年10月20日 | 水戸の観光

いかにも秋のひとコマ、コスモス(秋桜)畑と遠くに偕楽園の好文亭です。これで秋晴れの空なら言うことないのですが…。

窈窕梅林の一画にアメジストセージ、この場所には「水戸の六名木」の梅がまとまって植えられています。

月池を飾るキバナコスモス(黄花秋桜)、鳥のように動く白いものは、彫刻家新宮晋の「風の鼓動」という作品です。

ハナミズキ(花水木)の真っ赤な実は有毒だそうです。大正4年(1915)にソメイヨシノを贈ったお礼にアメリカから贈られた樹木が全国に広がりました。

シャリンバイ(車輪梅)も巨峰のような実をつけています。毒ではなくかすかな甘味だそうですが、可食部分はほとんどないそうです。

千波湖の南斜面の湧水帯にも、ウメモドキ(梅擬)の実が…。この一帯は驚くほどの湧水量で千波湖に流れていきます。

湧水が千波湖に流入する小川にはミゾソバ(溝蕎麦)がびっしり、蕎麦の花に似ているので命名、拡大して見るとタデ科の可愛い花です。

暑かった夏を忘れたように木々も色付いて来ました。今年の紅葉は、時期、色合いともに平年並みとの情報が出ていました。

一周3キロの千波湖畔のランニングコースは、周辺の約750本の桜の紅葉がはじまり気持ちよく走れる季節になりました。

プラタナス(鈴懸)の実を見つめる水戸黄門像、彫刻は小森邦夫で撰文は瀬谷義彦、書は関南沖、いずれも故人ですがそうそうたるメンバーです。

日本3名園といわれる偕楽園は12.7haですが、それを取り巻く周辺の緑地帯を合わせて偕楽園公園といい面積は300ha、都市公園としてはニューヨークのセントラルパーク(340ha)に次いで世界第2位の広さです。

今年は生り年?

2018年10月16日 | 季節の花
いつも数個しか生らないサンシュユ(山茱萸)の実がびっしり、植えて20年位になるけど初めてのことです。近所でも柿や柚子がいっぱい生っている話を聞いています。

ほとんど実をつけないザクロ(柘榴)も大きな実をつけました。脚立を出さないと撮れない高さ、少年の頃の高級品、薄甘い果実は爆ぜるにまかせてしまいます。

柿の木もどこもびっしりと生っています。普段は気付かなかった場所で、今年は実がなっているのを発見しました。

気のせいかカラスウリ(烏瓜)もあちこちで鈴生りが見られます。こんなに目立つ色なのに烏も食わずにいつまでもぶら下がっているのは、よほど不味いのかもしれません。

高速道のネットに絡みついたアケビ(木通)、この場所では初めて見ましたが、何かにかじられていました。

ムラサキシキブ(紫式部)は、読者登録させていただいているヒゲ爺さんのブログで、厳密にはコムラサキシキブということを教えてもらいました。

ついでに、いかにも秋の花を3点ご紹介…
シュウメイギク(秋明菊)は菊という名前でもキンポウゲ科で、古い時代に中国からの帰化植物、楚々とした風情で茶花にもよく用いられます。

ホトトギス(杜鵑草)は全19種類のうち日本では13種類が自生しています。山歩きではよくクリーム色のタマガワホトトギスを見かけました。

ノコンギク(野紺菊)も、野菊の代表選手でいたるところで見られますが、紺色の濃淡の差が大きく、白に近いものまであります。


山茱萸の風にゆれあふ実を択りぬ  飯田蛇笏
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼
柿落ちてうたゝ短き日となりぬ  夏目漱石
烏瓜引けばこぞりて山の音  名倉光子
一夜さに柵で口あく木通かな  一茶
小式部の紫忘るすべもなし  後藤比奈夫 
水の色は水色だから秋明菊  鳴戸奈菜
杜鵑草黙し立てずに五十路過ぐ  安井信朗
ふるさとの野菊の紺に溺れをり  秋山素子