木連川城(別名大蔵ヶ崎城)は、この地方を支配した宇都宮一族の塩谷惟広が平安時代末期にこの地を治めたのが始めとされます。その後400年余、宇都宮氏と、敵対する那須氏の間で離反と帰参を繰り返しながらも生き延びましたが、秀吉の小田原攻めに遅参したため、最後の城主塩谷惟久は自ら城を捨てて逃げ去ったそうです。
さて秀吉は、武士の象徴である源氏の血を引く足利氏の存続をもくろみ、古河公方足利義氏の娘、氏女(うじひめ)を小弓公方足利頼純の子、国朝に娶わせここに木連川公方が誕生しました。
これには、美貌で知られる塩谷惟久の妻嶋子が、すぐに美女に目がない秀吉の側室に召し出されましたが、実は足利頼純の娘だったことに起因しているともいわれています。
その後、源氏の末裔を意識する家康も、木連川氏を名乗った一族を特例で優遇し、わずか5000石の旗本並みの所領ながら国主大名並みの10万石の格式を与えました。参勤交代やいろんな賦役は免除され、日光法要では国主並みの待遇、正室には御三家並みの朱傘の使用が認められるなどの特例を受け、御所と呼ぶことも許されました。
ただ、城郭を利用するのは遠慮したのか、それとも維持するのが困難だったのか、麓の現在さくら市木連川支所のある所に陣屋を構えここを藩庁としました。陣屋跡には、大手門の復元とされる立派過ぎるような門が建っており、丸に二つ引きの足利氏の家紋がついています。
なお、11代で明治維新を迎えた木連川縄氏(つなうじ)は、水戸藩9代藩主徳川斉昭の11男、幼名を余一麿、父より偏諱を受け昭縄(あきつな)、藩主の喜連川宜氏が早世したため、末期養子として家督を継ぎました。母が谷文晁門下の水戸藩士で南画家の立原杏所の娘、利子なので書画に優れ、雅号艮山としてその作品がさくら市指定文化財として保存されているそうです。
この木連川氏ですが、明治2年(1869)には、木連川から足利に姓を変えています。
さて、塩谷氏時代の城は、那珂川の支流、荒川と内川の合流地点に向って東に伸びる標高約170m,比高約50mの尾根の先端に築かれた堅固な構えです。南方の宇都宮勢力と北方の那須勢力のちょうど接点のため、幾たびか激しい戦いの舞台になったようです。
廃城後の城跡はお丸山公園として整備され、観光拠点となっていましたが、東日本大震災とその後の台風による亀裂や土砂崩れなどの被害により、まだ完全に復興の見通しはたってない現状です。
尾根の両側は急峻な斜面で、深く幅の広い堀切により4つの郭に分割された連郭式山城ですが、本丸の位置は、Ⅰの郭とⅡの郭などの諸説があります。
Ⅰの郭には階段状の土塁が見えます。
Ⅱの郭の最高地点から見た東南方向、那珂川の支流荒川が堀の役目をして、急峻な台地上にある難攻不落の城郭が実感できます。
かっては日光から那須連山まで眺めの良かったスカイタワーなどの観光施設の一画は未だに立入禁止になっていました。情報によると、このタワーやシャトルエレベータは採算性の低い施設であったため復旧を断念、ただしタワーには防災無線や電波施設が設置されているので塔そのものは存続させるようです。
さて秀吉は、武士の象徴である源氏の血を引く足利氏の存続をもくろみ、古河公方足利義氏の娘、氏女(うじひめ)を小弓公方足利頼純の子、国朝に娶わせここに木連川公方が誕生しました。
これには、美貌で知られる塩谷惟久の妻嶋子が、すぐに美女に目がない秀吉の側室に召し出されましたが、実は足利頼純の娘だったことに起因しているともいわれています。
その後、源氏の末裔を意識する家康も、木連川氏を名乗った一族を特例で優遇し、わずか5000石の旗本並みの所領ながら国主大名並みの10万石の格式を与えました。参勤交代やいろんな賦役は免除され、日光法要では国主並みの待遇、正室には御三家並みの朱傘の使用が認められるなどの特例を受け、御所と呼ぶことも許されました。
ただ、城郭を利用するのは遠慮したのか、それとも維持するのが困難だったのか、麓の現在さくら市木連川支所のある所に陣屋を構えここを藩庁としました。陣屋跡には、大手門の復元とされる立派過ぎるような門が建っており、丸に二つ引きの足利氏の家紋がついています。
なお、11代で明治維新を迎えた木連川縄氏(つなうじ)は、水戸藩9代藩主徳川斉昭の11男、幼名を余一麿、父より偏諱を受け昭縄(あきつな)、藩主の喜連川宜氏が早世したため、末期養子として家督を継ぎました。母が谷文晁門下の水戸藩士で南画家の立原杏所の娘、利子なので書画に優れ、雅号艮山としてその作品がさくら市指定文化財として保存されているそうです。
この木連川氏ですが、明治2年(1869)には、木連川から足利に姓を変えています。
さて、塩谷氏時代の城は、那珂川の支流、荒川と内川の合流地点に向って東に伸びる標高約170m,比高約50mの尾根の先端に築かれた堅固な構えです。南方の宇都宮勢力と北方の那須勢力のちょうど接点のため、幾たびか激しい戦いの舞台になったようです。
廃城後の城跡はお丸山公園として整備され、観光拠点となっていましたが、東日本大震災とその後の台風による亀裂や土砂崩れなどの被害により、まだ完全に復興の見通しはたってない現状です。
尾根の両側は急峻な斜面で、深く幅の広い堀切により4つの郭に分割された連郭式山城ですが、本丸の位置は、Ⅰの郭とⅡの郭などの諸説があります。
Ⅰの郭には階段状の土塁が見えます。
Ⅱの郭の最高地点から見た東南方向、那珂川の支流荒川が堀の役目をして、急峻な台地上にある難攻不落の城郭が実感できます。
かっては日光から那須連山まで眺めの良かったスカイタワーなどの観光施設の一画は未だに立入禁止になっていました。情報によると、このタワーやシャトルエレベータは採算性の低い施設であったため復旧を断念、ただしタワーには防災無線や電波施設が設置されているので塔そのものは存続させるようです。