顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

水戸城二の丸隅櫓…27日より一般公開

2021年06月28日 | 水戸の観光

歴史まちづくり事業として水戸城二の丸の整備を進めてきた水戸市では、このほど隅櫓と土塀の復元工事が完成しました。ここは文教地区のため二の丸の南西角に建てた隅櫓への通路が問題でしたが、その敷設も終わり6月27日より一般に公開されました。

いつも利用させていただいているGoogle mapの3D表示最新版には工事中の隅櫓が写っています。二の丸の真ん中辺りに入り口のある点線が完成した通路です。

二の丸入り口の大手門は一昨年9月に復元されました。手前の大手橋左手には、大河ドラマ「青天を衝け」前編で活躍した9代藩主斉昭公の銅像がお待ちしています。

大手門から隅櫓までの堀の上に、総延長450m、棟高1.8m、大壁漆喰仕上げの土塀も復元されました。

石垣のない水戸城ですが、幅約40m、深さ約12mの巨大な堀はそのまま残っており、昭和45年までは国道6号線として使用されていました。



二の丸の真ん中付近に隅櫓通路の入り口があり、案内板が建っています。

通路は、茨城大学付属小学校と水戸三高の間で、建仁寺風の垣に囲まれ約350mもの長さがあります。

普段は近づけない土塀の裏側も見られます。

隅櫓は古写真や絵図を参考に復元位置や規模、入母屋破風の向きを決め、在来工法により施工されました。入母屋造り木造2階建て、建築面積128.01㎡、高さ9.652mで白漆喰仕上げです。

出土した隅櫓の礎石です。遺構保護のため、盛土後、礎石の据付を行いました。発掘された一部の礎石も使用しています。

礎石のでこぼこした形状に木材をピッタリ合わせる「光付け(ひかりつけ)」とよばれる加工を行っています。

内部は3部屋に分かれていて、水戸城の歴史や大手門などの復元の資料が展示されています。

水戸駅のペデストリアンデッキに上ると、ビルの間から隅櫓が見えます。

駅前の黄門さん一行の像は、芸術院会員だった地元の彫刻家、小森邦夫氏の作品です。助さんの右手の先にも隅櫓が見えるのが分かるでしょうか。

徳川御三家ながら、石垣、天守を持たず、その規模の大きさも存在そのものもあまり知られていない水戸城が、復元構造物にせよ視覚的な効果で観光客の増加や市民の郷土愛につながればいいと思います。

アジサイの品種は数えきれない?

2021年06月26日 | 季節の花
アジサイは日本原産で万葉集にも2首詠まれています。18世紀に欧米に渡って改良種が逆輸入されたりして、その品種は2,000とも3,000ともいわれていますが、正確な数字は分からないというのが現状のようです。因みに栽培の歴史の古いバラは、40,000種以上の品種が登録されているそうです。

農林水産省のホームページをみるとアジサイの品種登録はわずか388種です。挿し木で簡単に増やせるアジサイですが、登録品種のものは増やして販売することは違法になります。しかし、品種登録するには出願料 1品種47,200円、それに年間登録料は6,000円~(10年超えると年36,000円)、しかも25年で育成者権は喪失してしまいます。こういう事情から正式に登録されていない品種が多いようです。

今年も数か所まわったアジサイ園も60種5,000本とか、100種10,000本とか品種数を強調していますが、名札はあまり付いていません。名前なんかどうでもいいのかも知れませんが、名札の付いた名花?の一部を撮ってみました。ぴったりのネーミングには思わず笑ってしまいましたが…。


これはすぐにそうだよな!と頷いてしまいました。天使のほっぺ


ダンスパーティー」 星型の八重の薄い花びらがまるで踊っているようです。命名品種120種をもつ加茂花菖蒲園の作出で来園者が命名したそうです。


セルリアンブルー」 2006年に桐生市のさかもと園芸で品種登録されました。


雪あそび」 白さとリズミカルな花の配列に命名者の感性が光ります。


金平糖」  白い縁取りのある青とピンクのガクが砂糖菓子のイメージ。育てる土壌のph値によりガクの色は変わります。これも加茂花菖蒲園の作出で来園者が命名したそうです。品種登録済の品種なので許可なしに増殖、販売はできません。


西安」  西安(シーアン)は、秋色アジサイとしても人気の西洋アジサイで、初夏に咲いた花が秋にはアンティークカラーの色あいに変化します。


おはよう」  加茂花菖蒲園が作出した品種登録済のガクアジサイ、中央の両性花と周りの装飾花がピンク、薄紫、青色に変化します。


カシワバアジサイ」  カシワの葉のような形の大きな葉とコーン状に咲く花が特徴です。仙人の住んでいる市では、70歳の記念樹として配っているので、玄関前などに植えてあるとすぐに年が分かってしまいます。


ブルースカイ」 スイスで品種改良されたガクアジサイ、青花品種なので澄んだ青色は土壌がアルカリ性になっても変化しないそうです。


アナベル」 すっかりおなじみの手毬形の品種。北米東部で発見された野生のアメリカノリノキの変種が、オランダで改良されました。


ウズアジサイ(渦紫陽花)」  病変で萼片が内側にまるまって渦を巻くように咲いたのを改良した品種だそうです。オタフクアジサイ(お多福紫陽花)ともよばれます。


隅田の花火」  これもガクアジサイの有名種、横浜の花光園の先代園主が見つけ最初は「花火アジサイ」と呼んでいました。伊豆諸島の自生種が原種といわれています。


言問はぬ木すらあぢさゐ諸弟(もろと)らが練りの
むらとにあざむかれけり 大伴家持 (巻4773)
もの言わぬ木でさえ、紫陽花の色が変わるように、(言葉巧みな)諸弟(もろと)の(あなたが愛しているという)言葉にすっかりだまされてしまいました。(解釈の一例)
紫陽花や帷子時の薄浅黄  松尾芭蕉
紫陽花や昨日の誠今日の嘘  正岡子規

野友城(鉾田市)…常陸武田氏の支城 

2021年06月22日 | 歴史散歩
野友(のども)城は、常陸国の南東部に存在した、常陸武田氏の城です。常陸武田氏は甲斐武田氏の一族が、上杉禅秀の乱(1416)で禅秀方に付いて敗北し甲斐から逃れて常陸南部に移り住んだことに始まります。応永24年(1417)には神明城を築き、西砦、小貫城と勢力を拡げ天文2年(1533)には本拠の木崎城を築きます。野友城は、北浦の水運の要衝の地を抑える木崎城の支城として、永禄9年(1566)武田信房が築城し、北浦北部を支配する鹿島氏に対抗する拠点としました。
しかし天正19年(1591)の佐竹氏による三十三館仕置きで、鹿島氏や武田氏の当主は謀殺され、この野友城も廃城になってしまいました。

巴川右岸にせり出した標高約28m比高約25mの台地先端に、長辺約100mの二つの郭で構成されている平山城です。

巴川から見た野友城址です。水運に利用されていた巴川は、当時はもっと川幅も広く北浦の一部となって城の北側に接していたと思われます。

標塔の右手は城の北部を守る切り立った崖になって、その上には横堀が周っています。

東側にある源照院というお堂の脇が虎口への入り口になっています。

北側からの大手道の両脇には三重の堀があり、北からの攻撃を強く意識した造りになっています。

三重堀の一部分しか画面には入りませんが。

Ⅰ郭北側の横堀、深さ8mくらいあります。

東南部は掘削されていますが、高い切岸や堀で守られていたという見方もあります。当時の堅固な状況が、ここの字名「要害」にも窺えます。

2郭は足の踏み場もない竹藪の中、Ⅰ郭への登城ルートにたどり着くことは諦めました。

1郭の西側にある深さ10m以上もある谷津は天然の堀の役目をしたと思われます。

キイチゴ(木苺)がなっていました。黄色い実のモミジイチゴはよく見かけますが、紅い実のキイチゴは初めてです。口に含むとうす甘く、短命なこの城のような味?がしました。

甲斐武田氏の発祥地は、ここから27キロほど北のひたちなか市武田といわれています。拙ブログ「甲斐武田氏発祥の地…武田氏館」で紹介させていただきました。
常陸国に戻ってきたその一族が、460年前には新羅三郎義光の子で義業(佐竹氏)、義清(武田氏)の兄弟だった佐竹氏に滅ぼされてしまうのは、歴史の為せる悪戯なのでしょうか。


城郭と畑の境に変わったカタバミが咲いていました。調べると、カタバミ科の園芸種オキザリス・トリアングラリスです。多分ゴミに混じって捨てられた?…丈夫な多年草のようなので生育環境が合えばやがて一帯に勢力を拡げていくかもしれません。葉の形も「武田菱」に似ているような気がしてきました。

アジサイの二本松寺(潮来市)…中世嶋崎城の出城でした

2021年06月18日 | 歴史散歩

天台宗羽黒山覚城院二本松寺は、平安時代の初め天長年間(824)、慈覚大師円仁によって現在の潮来市茂木に創建されたと伝えられています。鎌倉時代建久2年(1191)、嶋崎氏初代左衛門尉高幹公が嶋崎城築城の際、京都・比叡山を模して鬼門除けとするため、1ヘクタールの敷地を寄進して城の北西1.5キロの現在の地に移転開山、境内を城郭として嶋崎城の出城の役割を持たせました。

その嶋崎氏は平国香の子孫、常陸平氏大掾一族の庶流で、鎌倉初期にこの地に進出し戦国末期には4万5千石を領して鹿島、行方両郡に割拠する国人領主(南方三十三館)で筆頭の勢力を持ちました。小田原の役(1590)では佐竹氏に従い参戦し、秀吉にも拝謁した嶋崎氏ですが、秀吉から常陸一国の所領を安堵された佐竹氏が、翌1591年に鹿島・玉造・行方・手賀・烟田・武田氏等とともに常陸太田城に招いて酒宴中に謀殺してしまいます。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃し、城主不在となった城をすべて攻め落としたという、いわゆる「南方三十三館の仕置」が行われました。
佐竹氏にとっても豊かなこの地は魅力的で、すぐに領地支配の堀之内大台城を築きますが、12年後には家康の命で出羽国に移封されて廃城となり、この一帯は水戸藩領となりました。
嶋崎城は2019年12月25日の拙ブログにて紹介させていただきました。

さて、その二本松寺ですが、いまアジサイの寺として近隣に名が広まっています。
もともと亡くなった方の供養のために植えられたというアジサイが次第に数を増やしていき、現在では100種類、10,000株のアジサイが40,000㎡の境内に植えられています。





アジサイを鑑賞する通路は一方通行なので効率よく歩け、密も避けることもできます。始めは田と向かい合わせの台地斜面に植えられた一面のアジサイで、瓦チップが敷き詰められている広い通路は歩きやすく田園風景も合わせて楽しむことができます。








城郭とした比高約20mの台地に上る斜面を利用した「あじさいの杜」は、高低差が数多いアジサイの魅力をさらに引き出しています。


いろんな種類のアジサイを鑑賞して、最後にお寺境内に入るコースになっています。
水戸徳川家の崇敬も厚く元禄4年(1691)には光圀公が本堂を改築寄進し、14石余の寺領と1万石の格式を与えたと伝わります。

境内の槇の木は、光圀公が本堂を寄進した時に、お手植えされたといわれている目通り周3.5m 樹高13mの大木で潮来市指定文化財に指定されています。

本堂は二本松寺移転開山800年の平成3年(1991)に改築落成されました。本尊は、ほぼ等身大の木造薬師如来坐像で、茨城県指定文化財に指定されています。

光圀公が詠んだ「ふたもとの 松のみとりの 色映えて 紅にほふ 軒のむめが香」の歌碑が二本(ふたもと)松の根元に建っています。もちろん当時の松でないことは確かです。

あじさいの期間中は入山参拝料が300円ですが、手入れの行き届いた数多いアジサイと、伝わる800年の歴史を充分に堪能できました。

偕楽園で「梅の実落とし」…今年は豊作なのに!

2021年06月14日 | 水戸の観光

偕楽園と弘道館の梅林では6月半ばに行われる恒例の「梅落とし」、今年は6月9日、10日の2日間でした。ここ数年、大不作の年が続いており、鈴なりの木も見受けられた今年は期待しましたが、コロナ感染対策のため例年行われる一般販売は去年に引き続き中止になってしまいました。

梅の木の数は、公表で偕楽園が3000本、弘道館梅林が800本になっていますが、老木が多いことに加えて100種類以上ある梅の中で約40%が花を鑑賞する「花梅」で、これは実がほとんど生らない品種もあります。
また、年々開花が早まり、受粉時期にまだ日本ミツバチなどの昆虫の活動が見られず不作になることもありました。

偕楽園の梅落としは、来年もきれいな花を咲かせるのが主眼なので、実が熟す前に収穫して栄養を木に残すように早めに行われています。
梅の木の下にシートを敷いて長さ4mくらいの竿で枝を揺らし大きさ3cmくらいの青梅を落としていました。作業していた方に尋ねたら、今年は去年の倍以上収穫できそうだとの答え、2日間で終わらなかったという話も後で聞きました。

偕楽園、弘道館併せて20トンも採れた年もあったそうですが、ここ数年は不作が続いていただけに、せっかくの豊作の今年こそ市民に販売したかったと思います。偕楽園の梅というプレミアがつくので、人気が高く毎年すぐに完売していました。
そういうことで今年は、加工業者や酒造会社などに販売されるそうですので、生菓子や梅干し、梅酒となってお目見えすることでしょう。

ところで、水戸市では花を愛でるばかりでなく梅の実の生産地としての知名度アップを目指し、いまジョイント仕立という栽培方法を奨励しています。主枝を隣の木の幹と結束バンドでつなぎ,何本もの木を直線状の集合木として栽培する方法で、5年で成木並みの収穫があり、施肥、管理、作業の効率化が図れるとされます。

この栽培で収穫された梅は、「福」を「結ぶ」という意味を込めて名付けられた「ふくゆい」というブランド名で今年の出荷が始まりました。今年は24軒の生産者が約3haの農地で約5トンの収穫予想と新聞に出ていました。

実のたわわになっている写真を撮ろうとしましたが、収穫が終わっていました。開花時期の写真でご容赦ください。

たたきたたきて青梅のむしろ増え  今瀬剛一
累々として今生の実梅たり   廣瀬直人
楸邨や兜太の頭や青実梅  和知喜八
熟し梅盗人のように拾いたり  顎鬚仙人