顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

海辺の初夏…砂浜の植物たち

2021年05月27日 | 季節の花

太平洋に面した茨城県の海岸線は、延長約190Km、ほぼ中央に位置する大洗を境に南北の様相が大きく変わるとされます。北部は岩礁とその間に点在する砂浜海岸からなる約90Kmで、五浦や高戸小浜などの景観をつくっています。一方南部は、流入する那珂川、利根川の間に単調な長い砂浜が約100キロ続く鹿島灘とよばれる海岸線で、広大な海水浴場もいくつかあります。

砂浜と松林が続く、その南部の海岸線で見つけた初夏の花です。

ハマが付く名前の植物の最初は、ハマエンドウ(浜豌豆)です。マメ科にしては大きく豪華な花で、名前の通り日本各地の海岸に分布する海浜植物です。

ハマヒルガオ(浜昼顔)は朝顔の仲間ですが、昼になっても花を開いているので名が付きました。艶のある分厚い葉は、水分の蒸発を防ぎ、塩分から身を守る働きがあるといわれます。

ハマボウフウ(浜防風)は中国産の防風という薬草と同じ薬効を持つことからの命名、刺身のツマや山草としても有名です。てんぷらや酢のものにセリ科独特の香りが美味で、近辺では採りつくされてしまったと思っていましたが、久しぶりに見つけて嬉しくなりました。

ハマナス(浜茄子)はこの辺が南限、すでに花期は終わり名前の由来の大きな実が生っています。

コマツヨイグサ(小待宵草)は、月見草といわれる大待宵草の小型の花です。本州から琉球にかけて分布しますが、砂地ばかりか内陸部にも拡がっています。

トベラ(扉)は東北以南の海岸に自生する常緑低木、公園や道路の植え込みなどにも使われています。節分に臭気のあるトベラの枝を戸口に挿して鬼払いをした風習からの命名とされています。

アキグミ(秋茱萸)の花が咲いていました。ナツグミ(夏茱萸)に比べるとずっと小さな実を秋に付け、少年時代のオヤツでした。

テリハノイバラ(照葉野茨)も海岸や河川に見られる野生のバラです。葉の光沢がノイバラ(野茨)との大きな違いです。

これは多分スカシユリ(透百合)の蕾でしょうか。海岸の砂地や崖にオレンジ色の花を咲かせます。花弁の根元が細いため透かして見えるので命名されました。
コウボウシバ(弘法芝)は、海辺のイネ科植物の代表、コウボウムギ(弘法麦)より小さいので命名されました。弘法の名は、根茎の繊維を筆にしたことから筆といえば弘法大師ということで付けられたという説が有力のようです。

砂浜にムラサキツメクサ(紫詰草)の群生です。牧草や緑肥に有用な外来種とされていますが、この場所では単なる雑草です。

ところで外来種ですが、海辺の植物の間にもどんどん顔を出しています。強い繁殖力で在来種を駆逐し、数年で景観が変わるほどなので心配になります。黄色い花はブタクサ(豚草)、この他にセイタカアワダチソウ、オナモミ、ヘラオオバコなどの迷惑植物がどんどん増えています。

風紋に旅の足跡浜豌豆  沼尻ふく
浜昼顔咲くあちら向きこちら向き  清崎敏郎
防風摘む波のささやき聞きながら   高浜虚子
はまなすの花と実半々五能線  高澤良一

助川海防城…わずか28年で炎上

2021年05月23日 | 歴史散歩

助川海防城は天保7年(1836)水戸藩9代藩主、徳川斉昭が海防を目的として築城しました。

19世紀になると鎖国政策の日本沿岸にも異国船が現われるようになり、斉昭公は海防のための城を助川(日立市助川)の標高110mの古城跡に計画しますが、当時は一国一城令が敷かれていたため、古い蓼沼館を修築という名目で許可を得たといわれています。
規模は約68万㎡(約20万坪)もあり、物見櫓、教練場、馬場、米蔵、武器庫、武器製造所、弾薬庫、教育のための養正舘も備えており、完全な城構えでした。

天保7年の12月3日、海防惣司に任命された家老の山野辺義観は侍28騎、足軽若党87人、手廻雑人132人の総勢247名を従え入城しました。これは1万石としては相当多い陣容でした。
山野辺家は出羽国の57万石の大名最上義光の4男義忠が祖です。最上家の内紛で改易となりますが、寛永10年(1633)徳川家光の命により水戸藩初代徳川頼房に預けられ、1万石で水戸藩家老となりました。水戸徳川家と婚姻関係を結ぶなどして関係を深め、代々家老職を務め義観は9代目になります。

遠見番所跡です。工都日立市の工場や市街地の建物でよく見えませんが、当時は約2キロ離れた太平洋が一望のもとに眺められました。

本丸の東側に残る表門跡の大きな礎石は数少ない遺蹟の一つです。

最高部にある本丸跡には山形県山辺町との友好都市記念植樹がありました。
山辺町は、山野辺氏初代義忠が1万9千石で入封した山野辺城の城下町です。城は最上氏改易とともに廃城になりました。

本丸の石垣は、後世のものですが何となく雰囲気は出している気がします。

最高部の本丸を守るために、階段状の防御が施され、随所に腰郭が配されています。

海防城とともに開設された学問所「養正館」は、中国の易経に由来する正道を修め養うという意味で命名され、水戸の藩校弘道館より4年も前にできた家臣の子弟教育の施設です。

ところで、外国の脅威から国を守るという斉昭公の気概のこもったこの城は、当時の軍事力から海防の役目を果たせたどうかは別として、公の没後4年目に抑えることの出来なくなった藩内の争いを発端に灰燼に帰してしまい、山野辺氏の出羽時代からの譜代の家臣の多くが戦死、牢死、自刃などする悲劇の舞台になってしまいました。

元治元年(1864)4月、藩内抗争から端を発したいわゆる天狗党の乱で、制圧に向かった水戸藩の支藩である宍戸藩主松平頼徳は、心ならずも反天狗派の諸生党と幕府討伐軍と戦うことになってしまいます。仲介を依頼された11代山野辺義芸は、水戸城に向かいますが入城を許されず、逆に天狗側とみなされ諸生派との戦闘になり帰城、包囲の幕府軍に弁明するも聞いてもらえず、やむなく降伏し捕らえられてしまいます。最後まで城を守った28名の残党も多勢に無勢で敗れ、城は幕府軍の手に落ちます。その後間隙を縫って城を占拠した天狗党の別働派、田中愿蔵隊も、再び幕府軍に攻められて退散…、この一連の戦いで城館はすべて焼失、元治元年(1864)9月9日のことでした。

本丸から約800m南東に、助川海防城とともに開設された山野辺氏の家臣団の墓地(東松山薬師面墓地)がひっそりと残っています。大きな桜の下には「助川海防城殉難烈士の墓」という消えかかった標板が見えます。

寒河江氏は出羽寒河江城主の一族、山野辺氏に仕えていた忠左衛門勝永は、最後まで城を守った28人の一人で斬死、享年58歳。水戸回天神社に殉難志士として合祀されています。

この神永一族の信兵衛信明は、落城6日前に12代山野辺義禮を城から脱出させ、水戸城下の屋敷に匿うも諸生派に捕らえられ、付け家老中山邸に禁固されました。
興野家の昇左衛門は、大石田六兵衛とともに弁明のために幕府軍の二本松藩の陣に赴きますが、敵将日野源左衛門はこれを聞かず、万策尽きた主君の義芸は一部の家臣とともに投降したため、二人は自刃しました。

水戸藩の藩内抗争などの殉難者は、天狗党関係で回天神社に合祀されているのが1865名、反対派で諸生党の死者は恩光無辺の碑に525名が載っています。約5000名といわれる藩士の半数近い数字には、支藩や重職の陪臣の殉難もあったことがあらためて分かりました。

西の谷緑地…水戸城の五番目の堀跡

2021年05月19日 | 水戸の観光

連郭式平山城の水戸城の総構えで一番外側の防御は、浸食谷を利用した深くて広い堀でした。
この五番目の堀は、市街化で中央部分は痕跡もありませんが、西の谷とよばれる南側のこの一画と北側の八幡宮の外側に深い谷が一部残っています。


現在の地図に幕末の地図を重ね合わせた城下町図(水戸市観光協会発行)です。水戸城の水堀の役目をする千波湖の今より4倍近い大きさと、五番目の堀、西の谷の大きさがよくわかります。


この西の谷の周辺は、県内唯一のデパートもある繁華街ですが、この一画だけは自然がそのまま残っており、偕楽園公園の中の西の谷緑地として少しずつ整備されてきました。
トイレも駐車場側の他に公園中央にも設置されました。


両側を急峻な崖で囲まれた幅約50mの谷が600mくらい続く中に、周遊できる散歩コースも整備されています。


いわゆる上市とよばれる比高約20mの台地への階段です。ここを上がると別世界のような市街地になります。


日没から22時まではライトアップされ、「光の階段」となります。(写真は水戸市HPより)


水戸層という凝灰質泥岩の上にある水戸台地の構造が分かる地層が露出していました。水を通さない水戸層の上には礫層があり、降った水が数十年かけて湧水となり滲みだします。


江戸時代の笠原水道の暗渠にも使われたという凝灰質泥岩の上から、音を立てて湧水が浸みだしているところが何か所か見られます。
昔は水量も多く、青河とよばれ底の見えない碧い水が溜まっていて、この湧水を利用した大きな養魚場もありました。しかし市街地の開発に伴い水脈は減ってしまい、養魚に不可欠なこの湧水を使って大正13年から営業していた観賞魚の専門店も2019年12月で閉店してしまいました。


ここもご多分に漏れず外来種がいたる所でお花畑をつくっています。


在来種も残っており、オドリコソウ(踊子草)が名前の通り、編み笠を被った踊り子の姿を見せています。


この大きな葉はムサシアブミ(武蔵鐙)、やや湿った林下を好むサトイモ科の植物、多分この辺が北限かもしれません。


クサノオウ(草の王、草の黄、瘡の王)はケシ科、アルカイドを含み毒草ですが、民間療法では薬草としても使われてきました。


エゴノキの釣鐘状の白い花、少年時代は泡が出るのでセッケンボンボと呼んで遊んだ記憶があります。


キイチゴと呼んでこれも少年時代に夢中で食べたモミジイチゴ(紅葉苺)が鈴なりです。


水辺を好むラクウショウ(落羽松)やカツラ(桂)などの樹木や葦原が、湧水の多い公園の特色を出しています。

繁華街のすぐそばにこんな自然が残っている緑地があること自体、あまり知られていないのは残念です。おかげで静かな環境の中で、コロナ禍の気分転換ができましたが…。

初夏の偕楽園公園…雑草でお花畑!!

2021年05月15日 | 水戸の観光

「水戸」という地名は、那珂川、千波湖など構成される水辺に突き出した台地という意味、偕楽園や旧市街のあるその台地に対し、低地では水の豊かな景色が広がります。

この一帯が面積300haの偕楽園公園です。いま公園の草原や樹下、千波湖畔の土手などにはいろんな野草が咲いてまるでお花畑のようです。いずれ刈り取られるまでの短い間ですが、それぞれ子孫を残そうと懸命に咲いています。

ただ繁殖力の強い外来植物に圧倒されて、その様子は年々変わっているように思えてなりません。今まで見なかったような花が急に一面を覆っていて驚くことがあります。

ここ数年、ヘラオオバコ(箆大葉子)もいたる所に顔を出してきました。
黄色い花の名は確定できませんが、カキネガラシ(垣根芥子)のようです。どちらもヨーロッパ原産の帰化植物です。

弱々しいイメージですが、あちこちに群生が見られるマツバウンラン(松葉雲蘭)、松葉のような葉で雲蘭に似ている花という命名ですがラン科の植物ではありません。アメリカ原産、80年前に京都で存在が確認され全国に繁殖を拡げつつあります。

カタバミ(片喰)の群生です。最近は外来種のオッタチカタバミ(おっ立ち片喰)が急増しているらしいので、花茎が立っているこれも多分そうかもしれません。ヘラオオバコはこの中にも顔を出しています。

ここの辺ではスカンポという、タデ科のスイバ(酸葉)は嬉しいことに在来種で、子供の頃よく齧った酸っぱい思い出があります。同じタデ科のイタドリ(虎杖)をスカンポと呼ぶ地方もあるそうです。

アメリカフウロ(亜米利加風露)は北米原産のフウロソウ科の帰化植物、同じ科のゲンノショウコ(現の証拠)によく似ています。

今年は久しぶりに梅の収穫が多そうです。青梅の下はシロツメクサ(白詰草)の絨毯になっています。江戸時代にオランダからガラス器の緩衝材(詰め草)として乾燥したものが渡来し、牧草や緑化などに有用な外来植物になっています。

明治時代に北米から観賞用として渡来したユウゲショウ(夕化粧)は、いま全国で野生化していますが、小型で艶やかな花はそれほど嫌われていないようです。

ニワゼキショウ(庭石菖)も北米原産の帰化植物、アヤメ科の小さく可憐な花なので、庭先などにすっかり定着しています。

悪名高きワルナスビ(悪茄子)は北米原産の帰化植物、明治39年に成田市の御料牧場で牧野富太郎博士が発見命名し、今では駆除が困難で厄介な雑草として名が売れています。

初めて見たヤセウツボ(痩靭)というハマウツボ科の帰化植物です。80年くらい前に牧草に紛れ込んで渡来したといわれる地中海地方原産の寄生植物で、本州、四国へと広がっています。矢を入れる靭に似ているので命名されたハマウツボ(浜靭)より細い形から名付けられました。

葉が退化して葉緑素がないので、養分は他の植物の根から吸収して成長します。特にマメ科の植物によく寄生し、この写真ではツメクサ(クローバー)の間から図々しい顔を出していました。
寄生した植物の成長を阻害することなどから、要注意外来生物に指定されている有り難くないこの雑草が、ここ数年あちこちで姿を見るようになりました。

大山城と孫根城…佐竹氏内乱の戦場

2021年05月11日 | 歴史散歩
大山城は長承元年(1132)大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の築城が最初といわれています。
康安2年(1362)佐竹氏9代佐竹義篤の子義孝が修築し大山氏を名乗り、約230年の間居城としました。文禄4年(1595)9代義則の時に行方郡小高城に移り、慶長7年(1602)には佐竹氏の秋田転封に大山氏も従ったため、城はすべて廃城になりました。

孫根城は、大山城の約1.5キロ西の台地に支城として築かれ、義孝の子義道の長男義兼が孫根氏を名乗り居城としました。
ここが有名なのは、延徳2年(1490)山入の乱という一族間の争いで、本拠の太田城を追われた佐竹氏16代義舜が母方の大山氏を頼り、この孫根城に約10年間匿われたという苦難の歴史の舞台になった城だからです。結局、明応9年(1500) 攻め寄せた山入氏に追われた義舜は、金砂山城に逃れて応戦し、2年後にはこの戦いに勝利して常陸太田城を奪還、この内戦に終止符を打ったターニングポイントの城でした。

大山城は、標高45m、比高20mの台地の上に築かれました。現在はホテル大山城の城郭風の建物がそれらしい雰囲気は出しています。左手の杉林の辺りが本丸跡です。
35年くらい前に学生時代の仲間5,6人で宿泊したことがありますが、当時は城に興味がなく酒飲みの記憶しか残っていません。

城址の標示塔と案内板が建っています。ここから狭い山道で城跡の本丸方面へ登れます。

一段高い森の中にある愛宕神社、この辺が主郭ですが、足の踏み場もないほど草が茂っています。城址の台地は東西200m南北50mほど、あまり広くないので支城の孫根城の規模を拡大していったといわれています。

孫根城は標高50m、比高20mくらいの台地が北の岩船川にせりだした一画に築かれています。
山入氏の攻撃に備えるために、本城の大山城よりも大規模な城を、さらに改修を重ねながら守りを堅固にしていったと思われます。

北側から見た本丸の台地、下を流れる岩船川一帯は、当時はもっと幅が広かったと思われます。

Ⅰ郭とⅡ郭のある御城址には民家が建っており、周辺も畑などで遺構は消失していますが、御城とⅢ郭周りに驚くほど高い土塁と堀跡が一部残っています。

Ⅰ郭南側の土塁①は高さ5m以上、手前の堀は水堀であったといわれています。

同じくⅠ郭南の土塁②が小山のように見えます。堀跡は農地や果樹畑になっています。

御城東側の切岸③の高さに驚きます。この斜面はさらに天然の浸食谷らしき深い堀に落ち込みます。

この深い浸食谷④が天然の堀の役目をしたと思われます。

Ⅲ郭の東側の浸食谷⑤も天然の堀の役目をしていたと思われます。

Ⅳ郭西側にも土塁跡⑥が残っています。
南側一帯に戸ノ内という地名が残っており、そこまで外郭が伸びていたと推察できると茨城城郭研究会「茨城の城郭」には載っています。

Ⅲ郭南に残る高い土塁⑦と堀の跡です。

土塁⑦⑧に囲まれたⅢ郭です。

Ⅲ郭西にも土塁⑧が廻され、その西側にある天然の堀は浸食谷④が伸びていると思われます。

とにかく土塁の高さに驚きました。佐竹一族の庶流大山氏は、山入の乱の後も天正年間(1575頃)、同じ佐竹氏庶流の小場城主小場氏、石塚城主石塚氏との間でも戦さがあり、近隣の同族間の争いが絶えず、城をより堅固にする必要があったのでしょう。
攻防戦のあった高い土塁の斜面に咲いているアザミに似た花は、多分キツネアザミ(狐薊)でしょうか。