顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

歴史を語る銅像たち②…水戸の街角を歩く

2022年08月28日 | 水戸の観光
暑さも峠を越し、秋の気配を感じることが多くなりました。「歴史を語る銅像たち①…水戸の街角を歩く 2022.8.13」の2回目です。

いちばん多いのはやはり、水戸黄門(水戸藩2代藩主徳川光圀)の像です。歴代藩主の中での知名度は全国区で、水戸駅前から大工町に至る目抜き通りにも3基あるのを今回初めて知りました。➊は、前回①で紹介しました。



➋の徳川光圀像は、水戸黄門誕生の地の入り口を示す大きな石塔の隣に建っています。この30m奥の生誕の地には黄門神社があります。
彫刻は小鹿尚久作、水戸駅東側三の丸2丁目にあります。


大工町にある➌の徳川光圀像です、水戸駅からこの大工町までの約2,000mは「黄門さん通り」といわれ、駅の東、中間点の南町3丁目、大工町と…黄門像が三体並んでいます。
制作は能島征二、大工町交番の水戸駅寄りにあります。


①でもご紹介の水戸藩9代藩主徳川斉昭の像は、水戸城のほかに南町の大通り沿いにもあります。藩政改革、産業振興を図り、また海防参与として幕政にも関わり、人材育成のための藩校「弘道館」や、「一張一弛」を掲げその付属施設として「偕楽園」を創設しました。
彫刻は後藤末吉、常陽銀行本店の道路を挟んだ真向かいにあります。


藤田東湖像です。藩主斉昭の腹心として藩政改革に勤め、また水戸学の学者としての著作も多く、幕末の尊攘運動に大きな影響を与えました。
東湖の生まれた梅香町にあります。この場所が千波湖を東に臨む高台にあることから「東湖」という号を付けたといわれています。左奥に「東湖産湯の井戸跡」が見えます。彫刻制作は能島征二です。


豊田芙雄は、藤田東湖の姪で日本女子教育の先駆者。明治9年に東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)付属幼稚園で日本最初の保母を務め、日本の保母第1号といわれます。東京女学校、水戸高等女学校の教諭などを歴任しました。
制作は篠原洋 大町の水戸二高(元水戸高等女学校)校門に建っています。


朱舜水は、明 (中国)の儒者、明朝再興を果たせず日本に亡命、その後光圀に招かれ、水戸学に大きな思想的影響を与え、また実用的な漢籍文化も伝えました。墓所は水戸藩主累代の墓地である瑞龍山に明朝様式で建てられています。
制作は中村義孝、藩政時代に舜水祠堂があった旧田見小路(気象台交差点東のNTT前)にあります。


栗田寛は、藤田東湖、豊田天功などに学び、「大日本史」の編修に携わり、明治以後は水戸徳川家の事業として再開された編纂の中心となり、249年の歳月をかけたその完成に大きく寄与しました。
彫刻制作は六崎敏光、本町の茨城県信用組合下市支店前にあります。


伊那備前守忠次は、江戸時代初期に関東各地で検地、新田開発、河川改修などのインフラ整備に功績のあった代官で、水戸でも灌漑用水と千波湖周辺の洪水防止のために築かれた水路は、「備前堀」という名で現在も活躍しています。
制作は山崎猛、紺屋町の備前堀道明橋にあります。


《番外編》市街地から離れた場所にある大きな銅像3体をご紹介いたします。


水戸光圀像は偕楽園公園の中心、千波湖畔に水戸城方面の東を向いて建っています。小森邦夫制作 


同じ千波湖畔の近くにある2代藩主斉昭と7男の七郎麿(最後の将軍慶喜)像です。(この彫刻の縮小作品が藩校弘道館の玄関式台にも置かれています)
能島征二制作


光圀ゆかりの谷中桂岸寺にある黄門一行像は、昭和50年に郡山在住の信者の方の寄贈とされますが、作者など詳細は不明です。隣地の常盤共有墓地に格さんのモデルといわれる安積澹泊(通称/覚兵衛)の墓があります。

地元に住んでいながらついつい見過ごしていますので、2回ですべて網羅できてないかもしれませんが、情報が手に入れば追加していきたいとは思っています。

飯沼城と福性寺(茨城町)…由緒不明の中世城址

2022年08月23日 | 歴史散歩

飯沼城は、南北朝時代に桜井尊房が築城したと一般的にいわれてきましたが、これは伝説上の人物とされ詳細は不明の城址です。一つの説として鎌倉の13人八田知家の4男宍戸氏の一族として応永2年(1395)の米良文書に登場する飯沼山城守が、宍戸氏の支配地であったこの地に存在した可能性が「茨城町史」に記述されています。

城址に立つ剥げかかった案内板には、「福性寺記録によると南北朝時代には南朝に属し、また戦国時代には桜園氏の名が記されている、文明年間(1500年頃)には江戸氏の影響下に入り天正18年(1590)佐竹氏に滅ぼされた」と書かれています。
この地は八田氏(小田氏)、大掾氏、江戸氏、佐竹氏などの勢力が拮抗していた地なので、小豪族では存在できず、どの勢力に属していたかによって戦国時代末期の運命は大きく変わりました。

本来は涸沼川の造り出した河岸段丘の南北に3つの郭を配した城郭でしたが、2郭は小学校(廃校)の敷地造成、3郭は墓地などで遺構はほとんど消滅し、一段高い主郭が土塁に囲まれて残っているだけです。

1郭は土塁に囲まれて四方60mくらいの平坦な地で、地元の方のゲートボール場がありました。


1郭東側の土塁は比高7mくらいはあるでしょうか。


北側の土塁の一部は櫓台のように高くなっています。


Ⅰ郭の中央に地元で大日様とよばれていた大日如来の石塔が建っています。説明板によると3郭に建っていたものを小学校建設時に伴い移設したと記されています。


城址の虎口西側に隣接する福性寺は、三池山普門院という山号の天台宗のお寺です。元弘年間(1331~1333)この地方を治めていた飯沼城主、桜井氏が菩提寺として創建といわれますがこれも飯沼城と同様、詳細は不詳です。

ただ平重盛の墓のある城里町の小松寺に残る系図に、15世紀半ばに佐久山浄瑠璃光寺(石岡市八郷)に入った宥実の弟子宥円の付記に福性寺と出ているので、当時は真言宗の寺院だったかもしれないという説もあります。(茨城町史)


いずれにしても、この寺域の北東側にも土塁の一部が残っており、飯沼城とは密接な関係にあったのは確かなようです。


山門と観音堂、喧騒から離れた落ち着いた境内は、近在では稀にみる穴場的存在です。ここは「もみじ寺」といわれているそうで、境内にはもみじの緑が溢れていました。


福性寺の本堂、樹齢400年の榧や高野槇などの老大木に囲まれています。本堂の一木造りの如来像は平安時代の作とされています。

桜井尊房の子孫、朝房のものとされる大きな五輪塔3基は、不動堂下の水田から出土したといわれています。



境内には、五輪塔や石仏の欠片があちこちに置かれていますがその歴史を語ってはくれません。


城址で見つけた空蝉、今年は特に多く目に付きました。コロナ大感染の夏も、間もなく終わろうとしています。

真夏の偕楽園寸描…緑がいっぱい

2022年08月18日 | 水戸の観光
梅の花で有名な偕楽園は,水戸藩9代藩主徳川斉昭公が開設して今年で180年になります。
今の時期は、来園者も少なく緑に覆われた園内は普段と違った顔を見せてくれます。涼しそうな写真を選んでみました。

好文亭3階の楽寿楼から東方向を見ると、芝生の見晴らし広場と千波湖、遠方に水戸市街が広がります。丸い緑の塊りは、手前がツツジ、奥の薄い緑色は萩の群生です。

南西方面に視線を移すと、偕楽園公園に流れ込む桜川と沢渡川、水戸の名に因
むこの沖積層と、偕楽園のある洪積層台地は標高で約20mの差があります。


偕楽園の開園当初からの入り口「表門」から入ると、鬱蒼とした竹林、大杉森を通って好文亭に至る、斉昭公が演出した「陰と陽の世界」を体感できます。


杉林の中の道は陽射しが遮られた涼しい一画です。


大杉森の下を覆う一面のクマザサ、街中と思えない自然がそのまま残っています。林の中の杉の木は約900本、その3分の1が幹回り1m以上の大木です。


林の中に咲くヤブミョウガ(藪茗荷)の花です。


園内の萩は、花が終わると根元から刈り取られ、この芝垣(萩垣)に使われます。高級な垣根の材料がここでは現地調達で手に入ります。
左には開園当初に京都の嵯峨、八幡(男山)から取り寄せたと記録に残る孟宗竹の竹林が広がります。


杉林の地下の湧水を集め落差を利用して寒水石の井筒から湧き出る「吐玉泉」は、開園から180年間、玉のような水を吐き続けています。後ろの杉は、樹齢800年の「太郎杉」です。


吐玉泉ばかりでなく、偕楽園のある台地の中腹からは湧水が多く湧き出し、水のある庭園を造りあげています。


中門をくぐると好文亭の入り口と広い梅林が見えてきます。


好文亭の茶室へ向かう静寂な空間です。


好文亭の奥御殿は藩主夫人とお付きのご女中衆のお休みどころで、花の名のついた部屋が10室あります。今回は開け放たれた「桜の間」をご紹介、この部屋はご女中衆の詰め所で、戦後再建時に芸大の田中青坪教授によって襖絵が描かれました。


偕楽園の崖下を走る常磐線の特急「ひたち」、水戸-東京間を約75分で結んでいます。

暑さも峠を越してきました。秋の気配が濃厚になる来月には、園内の見晴らし広場の萩の花も咲き始め、「萩まつり」が9月3日(土)から25日(日)まで開催されます。(昨年の写真です)


歴史を語る銅像たち①…水戸の街角を歩く

2022年08月13日 | 水戸の観光

残暑お見舞い申し上げます。
酷暑続きですねぇ…、さすがの仙人も外出をためらってしまいます。撮ってあった水戸市内に建つ歴史上の人物の銅像を集めてみました。


水戸藩初代藩主徳川頼房です。家康60歳の時の末っ子11男として慶長8年(1603)伏見城に生まれた頼房は、3歳にして常陸下妻城10万石を、次いで常陸水戸城25万石を領しました。17歳の時に初めての水戸就藩、その後ほぼ毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下の整備を行い水戸藩の基礎を築きました。
彫刻制作は篠原洋、水戸城二の丸の柵町坂下門(水戸三高前)に建っています。


2代藩主徳川光圀は、「水戸黄門」の名で知られています。儒学を奨励し、水戸学の基礎というべき大日本史を編纂し、その資料収集のために各地に家臣を派遣したことや、晩年隠居して盛んに領内を巡り民情視察を行ったことから、水戸黄門漫遊記のストーリーが創作されたといわれています。
能島征二作、南町3丁目交差点南にあり、水戸駅前から大工町までの「黄門さん通り」の中間になります。


9代藩主徳川斉昭は、幕末の文政12年(1829)に水戸藩主となり藩政改革、産業振興を図り また海防参与として幕政にも関わりましたが開国論などで大老井伊直弼と対立、水戸での永蟄居中の万延元年(1860)急逝しました。人材育成のための藩校「弘道館」や、「一張一弛」を掲げその付属施設として「偕楽園」を創設しました。
小森邦夫作、水戸城三の丸の大手橋西側にあります。


斉昭の7男で最後の将軍になった徳川慶喜です。5歳の時から弘道館で学問を修め、11歳で一橋家に入り、尊王攘夷の機運が高まる中第15代将軍となりますが、やがて大政奉還を行って新しい日本へと舵を切りました。
能島征二作、南町3丁目のみずほ銀行前です。


安積澹泊は、彰考館総裁を務め大日本史編纂に指導的役割を果たしました。通称が覚兵衛で、水戸黄門漫遊記の格さんのモデルになったといわれます。
一色邦彦作、大日本編纂の地碑が建つ、水戸城二の丸(水戸二中前)にあります。


会沢正志斎は、水戸学の理論的指導者で著書「新論」は幕末の尊攘運動に大きな影響を与えました。彰考館総裁、弘道館教授頭取を歴任し、斉昭の藩政改革に尽力しました。
小鹿尚久作、正志斎の屋敷跡と伝わる南町三丁目の大通りにあります。


本間玄調は水戸藩の藩医、華岡青洲や蘭医シーボルトなど西洋医学の先駆者たちに学び、藩校弘道館医学館の教授を務め、講義、治療、著述に活躍し、多くの人命を救ったことから斉昭より救という名を賜わりました。藩主斉昭の子や自分の子にまず種痘を施し、藩内に種痘を普及させたことでも知られています。
後藤末吉作、弘道館医学館跡に建つ三の丸市民センター前にあります。


こちらは水戸駅前の水戸黄門一行の銅像です。助さん格さんを従えて「この紋所が目に入らぬか!」の名セリフが出てくるような場面です。
小森邦夫作、助さんの右手の先に水戸城二の丸隅櫓が見えるのが分かるでしょうか。

地元に居ながら素通りしてしまいがちですが、これを機会にしっかり目をとめて彫刻家の皆様の力作を鑑賞しようと思いました。

よろしかったら「歴史を語る銅像たち②…水戸の街角を歩く」もご覧ください。

好文亭西塗縁広間…藤田東湖と「甕(みか)の月」

2022年08月06日 | 水戸の観光

天保13年(1842)に水戸藩9代藩主徳川斉昭公が開設した偕楽園の一角にある好文亭は、二層三階の好文亭本体と、平屋建の奥御殿から成り、斉昭公はここに文人墨客や家臣、領民を招き、養老や詩歌の宴を催しました。

「好文」とは梅の異名で、晋の武帝の「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば咲かなかった」という故事にもとづいて斉昭公が名づけました。しかし昭和20年(1945)8月2日未明の水戸空襲で全焼し、昭和30年(1955)から3年をかけて寺社建築の老舗金剛組の工事で復元されました。当時の建設費用42,968,600円でした。


1階にある「御座の間」は、斉昭公が来亭した際の居室で、質素な6畳敷き、格天井でも床の間はなく竹の柱だけです。


左右の網代戸は竹篭目紗張りで、両隣の東塗縁広間と西塗縁広間の様子が透けて見え、直接家臣や客人と接することができるようになっています。




東側の「東塗縁広間」では、斉昭公が領内の80歳以上の家臣や、90歳以上の領民を招いて、養老の会を開きました。総板張りで漆塗りが施されている18畳間の天井は、檜皮の網代張りです。


今日の話題はそのうちの詩歌の会が開かれた「西塗縁広間」、36畳の大広間で、床は漆塗りの総板張り、天井は網代張りになっています。

4枚の杉戸には、約8000字の四声別韻字が書かれており、作詩の際に辞書代わりとして用いられました。

ところが!現在はこの場所はカフェになっています。

概ね年配の方には往時の静かなたたずまいを壊すという意見(仙人も)がありますが、一方若い方には素晴らしい雰囲気と好評の意見も聞かれます。そりゃそうですよ、180年前に文人墨客の集った場所ですから…。

さて斉昭公の片腕となって改革を進めた藤田東湖は、開園後の天保13年から14年にかけてこの「西塗縁広間」の詩酒の会に幾度か公に従って陪席し、快く酔って漢詩「陪 宴於偕楽園」を詠んだ話が網代茂著「水府綺談」に出ています。

名區幾歳委空壇 山水始供仁智看 風日美時堪對酒 烟波穏處好投竿 
一遊元是諸侯度 偕楽須知百姓歓 不恨筑峯催暮色 回頭城上月圑々

(しばらく空壇のままだった名高い七面山に山水美を兼ね備えた好文亭ができた、酒杯を重ねいつまでも見飽きない、穏やかな湖面に糸を垂れるもよし、様々な清遊は諸侯にとっても趣があり、庶民も偕に楽しむことができる、筑波の峰が暮色に染まり、水戸城の上に満月がかっている。)
※七面山には、2代藩主光圀公の妹菊姫が、亡夫松平康兼の霊を慰めるために身延山から勧請して建てた七面堂がありました。


弘化元年(1844)に斉昭公が隠居謹慎の処分を受けると、東湖も藩邸に幽閉され、3年後には水戸城下の竹隈町の蟄居屋敷に移されますが、嘉永5年(1852)斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府の海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになります。
(斉昭公の肖像画は、藩の絵師萩谷遷喬の筆、撮影可の弘道館展示品です)


東湖は蟄居中でも、一合の酒は欠かさなかったらしく、近くの酒店粟野屋には藤田家の通い帳(掛け買の通帳)が残っていましたが戦災で焼けてしまったそうです。
大洗町の幕末と明治の博物館にある藤田東湖像です。大洗出身の桜井萬次郎が、師事していた長谷川栄作の指導のもと制作したと伝わっています。

その粟野屋の東湖愛飲の酒が「甕(みか)の月」です。のちに吉久保酒造と名を変え、今も「一品」という水戸を代表する銘酒を醸造しています。
(※現在「甕の月」は醸造銘柄には入っていないようです)

「酒甕(さけかめ)に月を映して世を語る」とラベルに書かれた「甕の月」は、筑波山麓の上質米と笠原の名水で仕込んだ美酒で、20年ほど前に弘道館公園の花見の宴で酩酊し、翌日仕事を休んだ苦い思い出が残っています。

偕楽園隣の常盤神社境内にある東湖神社、参道の梅老木の先端に空蝉が3つ、しがみついているのを見つけました。


少年老い空蝉と目を合はせけり  山口正心
空蝉のいづれも力抜かずゐる  阿部みどり女
空蝉のふんばつて居て壊はれけり  前田普羅
負けるもんか空蝉三つ天辺へ  顎鬚仙人