西金砂山(412m)の頂上に本殿を配した西金砂神社の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)と国常立命(くにのとこたちのかみ)と少彦名命(すくなひこなのみこと)、大同元年(806)に天台僧の宝珠上人が,社殿を造り祭壇を設けて,近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀したのが始まりと伝わります。
創建当初には、比叡山延暦寺の伽藍を模した七堂伽藍中堂を設けていたといわれ、中世には佐竹氏の厚い崇敬を受けますが、水戸徳川家二代藩主光圀公は神仏分離を図り、西金砂山から社寺や古仏像を廃し,僧侶を別の地に移します。明治初期には郷社とされますが、その後県社になりました。
この神社が東金砂神社とともに行う「金砂神社磯出大祭礼」は、73年に一度、日立の水木の浜まで、渡御行列を一週間かけて約75キロを往復する盛大なものです。前回の第17回は2003年に行われましたので、次回の2076年はどんな世になっているでしょうか。
陣ケ平という車を停められる平坦地から鳥居をくぐると、まず急な石段が約100段続きます。
約半分登ったところに拝殿がありますが、この先本殿まで行かずにここで済ます方も結構いるようです。
杉の根が露わな山道を登っていくとまた急な石段が続きます。地形図で見ると鳥居から山頂まで約200mの間に標高差約90m近くの急登になります。
最後のさざれ石状の岩を登ると本殿に着きます。
文化二年(1805)の建立といわれる本殿です。神紋は「左三つ巴」で、佐竹氏の紋「五本骨扇に月丸」は賽銭箱に付いていました。
山頂西側は、急峻な崖で見下ろすとイワヒバ(岩檜葉)、この辺ではイワマツ(岩松)というシダ植物の群落が見えました。黄色い花は岩の上が好きなマルバマンネングサ(丸葉万年草)でしょうか。
山頂展望台から西側、さすが412mの眺望です。この狭い山頂は金砂山城の物見の役目をしたと思われます。
国土地理院地形図では山頂の西側は崖の表示になっており、等高線からも急峻な地形がよくわかりますが、この地形を利用した金砂山城は、現地案内板によると…
西金砂山は「頼朝の金砂攻め」として史上名高い金砂城址である。
もっとも城とはいえ城郭を構えたものでなく、天険の山そのものが城であった。知承4年(1180年)11月4日、源頼朝の佐竹氏討伐に、三代佐竹秀義は太田城の本城を捨てて西金砂山に篭城・応戦。要害険阻なこの山に籠もった秀義軍は、数千の強兵を相手に一歩も退くことなく奮戦、攻め手頼朝軍勢は雨霰と降りかかる矢・石にうたれて苦戦、狭小絶壁の道なき道に進退ならず、放つ矢は敵に届かず、空しく矢をつがえて機を待つばかり。兵法に迷う激しい攻防の二日後、味方のスパイ行為によってついに落城した。
尚この西金砂山は、南北朝争乱期に南朝方と激戦を交えた時の篭城の地となり、さらに応永10年から100年余にわたって繰り広げられた支族山入氏義との内紛の折、佐竹義舜が篭城して死力を尽くした地であり、佐竹家初代昌義が尊信するようになってから、佐竹が西金砂山に篭城の都度戦いが有利に展開したので、金砂山は佐竹開運の山として崇敬された山であり神社であった。
鳥居の前に長さ50mくらいの平坦な台地があり、館跡とされていますが異論もあります。いずれにしても深い山中の険しい地形そのものが要害なので、佐竹氏の詰の城として堀や土塁などの城郭は必要なかったのかもしれません。
この一帯は道路脇に人なつっこい石像が並んでいて飽きさせません。これは「田植え」という題でした。
西金砂山から下の県道までは標高差約300m、そこが参道入口で最初の鳥居が立っています。手前に石像とそば街道の石柱が見えます。
境内で見つけたマムシグサの実、まだ赤くなっていませんが不気味なトウモロコシのようです。
久しぶりの急石段に辟易しましたが、神聖な区域への参道と、敵を防御する急崖と…、ふたつの意味を味わいながら登りました。