小美玉市小川の比高10m超の台地先端部に築かれた平山城ですが、学校や公民館などの敷地になり遺構はほとんど消滅して、約2000m先の霞ヶ浦を見下ろす河岸段丘の地形が要害の一部を実感させてくれるだけになってしまいました。(茨城城郭研究会の概念図をgoogle mapに重ねてみました)
城の歴史は古く、建久年間(1190〜1199)に藤原秀郷の後裔下河辺政平が築城し小川氏を称したといわれます。その後小川氏の衰退に伴い享禄元年(1528)、筑波の小田氏が、府中の大掾氏に備えるために家臣の薗部兼泰を小川城主にしますがその子兼彦のとき、大掾氏との争いを避けるため娘を大掾氏に嫁がせてしまいます。怒った小田氏と園部氏による戦いが何度か繰り返されますが、その後園部城は常陸北部から勢力を拡げてきた佐竹氏に奪われてしまいます。
その佐竹氏も秋田に移封されると、小川城には慶長7年(1602)戸沢政盛が4万石で入りますがすぐに県北の松岡城に移り、この地区は水戸藩領となって水戸藩運送庁、稽医館(小川郷校)などが城址に置かれました。
旧小川小学校グランドの中央には本丸と二の丸とを分ける土塁と堀があったとされ、写真手前の二の丸側の方が現在では2mほど高くなっていますが、これも本丸側が削られたといわれています。
本丸と三の丸間の堀跡です。現在は右手本丸側に素鵞神社、左手三の丸には小川公民館や小川資料館などが建っています。
素鵞神社は享禄2年(1529)橋本源左衛門、孫左衛門の兄弟が園部川の河口で遊漁中に御神体を発見したのが始めと伝わり、明治2年(1869)、高台の旧小川城外曲輪のあった現在地に遷座され常陸國小川鎮守となりました。
境内左手には樹高35mの大欅、右手には稽医館(小川郷校)由来のケンポナシ樹高25mの大木があります。
本丸跡の校庭から見た南東霞ヶ浦方面です。城郭の高さが実感できます。
本丸付近を下から見上げると、南東側からの攻撃を防ぐ比高10m超の段丘高台がよくわかります。
城跡の小川小学校は、2019年3月に閉校し新設の小川南小学校に併合されました。校歌も新しくなったのでしょうか、碑が残されていました。
正門入り口にある小川城址の標柱、隣には文政元年(1818)建碑の藩校「稽医館」の石碑で、小川小学校校歌にも「その昔(かみ)しのぶ碑(いしぶみ)の…」と謳われています。
この地区は水戸藩の運送庁が置かれ水戸藩御用河岸として大変な賑わいを見せており、その運送庁が移転した建物跡に水戸藩で初めての郷校「稽医館」も建てられ、藩内の多くの名医を育て上げました。
しかし幕末に「小川郷校」と名前を変え天狗党の拠点になると、激しい藩内紛争の舞台になり焼失してしまいました。
山茶花の花が咲いていました。いつものように訪れる春夏秋冬…、霊長類で最も発達した人間はまだまだ弱い存在であることを感じてしまう今年でした。
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コロナ禍で先の見えない年明けになりそうですが、どうぞ平穏無事にお過ごしできますように祈っております。来年は明るい話題が多くなるといいですね。