顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

小川城(園部城)…常陸南部の要衝の地

2020年12月28日 | 歴史散歩
小美玉市小川の比高10m超の台地先端部に築かれた平山城ですが、学校や公民館などの敷地になり遺構はほとんど消滅して、約2000m先の霞ヶ浦を見下ろす河岸段丘の地形が要害の一部を実感させてくれるだけになってしまいました。(茨城城郭研究会の概念図をgoogle mapに重ねてみました)

城の歴史は古く、建久年間(1190〜1199)に藤原秀郷の後裔下河辺政平が築城し小川氏を称したといわれます。その後小川氏の衰退に伴い享禄元年(1528)、筑波の小田氏が、府中の大掾氏に備えるために家臣の薗部兼泰を小川城主にしますがその子兼彦のとき、大掾氏との争いを避けるため娘を大掾氏に嫁がせてしまいます。怒った小田氏と園部氏による戦いが何度か繰り返されますが、その後園部城は常陸北部から勢力を拡げてきた佐竹氏に奪われてしまいます。
その佐竹氏も秋田に移封されると、小川城には慶長7年(1602)戸沢政盛が4万石で入りますがすぐに県北の松岡城に移り、この地区は水戸藩領となって水戸藩運送庁、稽医館(小川郷校)などが城址に置かれました。

旧小川小学校グランドの中央には本丸と二の丸とを分ける土塁と堀があったとされ、写真手前の二の丸側の方が現在では2mほど高くなっていますが、これも本丸側が削られたといわれています。

本丸と三の丸間の堀跡です。現在は右手本丸側に素鵞神社、左手三の丸には小川公民館や小川資料館などが建っています。

素鵞神社は享禄2年(1529)橋本源左衛門、孫左衛門の兄弟が園部川の河口で遊漁中に御神体を発見したのが始めと伝わり、明治2年(1869)、高台の旧小川城外曲輪のあった現在地に遷座され常陸國小川鎮守となりました。

境内左手には樹高35mの大欅、右手には稽医館(小川郷校)由来のケンポナシ樹高25mの大木があります。

本丸跡の校庭から見た南東霞ヶ浦方面です。城郭の高さが実感できます。

本丸付近を下から見上げると、南東側からの攻撃を防ぐ比高10m超の段丘高台がよくわかります。

城跡の小川小学校は、2019年3月に閉校し新設の小川南小学校に併合されました。校歌も新しくなったのでしょうか、碑が残されていました。

正門入り口にある小川城址の標柱、隣には文政元年(1818)建碑の藩校「稽医館」の石碑で、小川小学校校歌にも「その昔(かみ)しのぶ碑(いしぶみ)の…」と謳われています。
この地区は水戸藩の運送庁が置かれ水戸藩御用河岸として大変な賑わいを見せており、その運送庁が移転した建物跡に水戸藩で初めての郷校「稽医館」も建てられ、藩内の多くの名医を育て上げました。
しかし幕末に「小川郷校」と名前を変え天狗党の拠点になると、激しい藩内紛争の舞台になり焼失してしまいました。

山茶花の花が咲いていました。いつものように訪れる春夏秋冬…、霊長類で最も発達した人間はまだまだ弱い存在であることを感じてしまう今年でした。

この一年間、拙いブログをご覧いただきありがとうございます。
コロナ禍で先の見えない年明けになりそうですが、どうぞ平穏無事にお過ごしできますように祈っております。来年は明るい話題が多くなるといいですね。

アカザの杖…黄門様も愛用したとか

2020年12月24日 | 日記
水戸黄門や松尾芭蕉、良寛和尚も愛用していたというアカザの杖つくりに挑戦してみました。

アカザ(藜)はアカザ科アカザ属の1年草、インド原産で古い時代に中国経由で渡来したとされます。ビタミン類が豊富でかっては食用に栽培されていたものが野生化したともいわれ、また薬用としても知られ生葉を揉んで虫の咬刺傷の外用薬とし、葉の煎汁を服用すると健胃、強壮にも効くとされました。
中心部の特有の鮮やかな紅紫色が特徴です。

借りている畑の塀際に植えたのは5本、土壌がいい場所ではありませんがどんどん伸びていきます。

種子がこぼれて強い繁殖をしますので、隣地に迷惑かけないように花が咲き出した頃に脇枝はすべて切り落としてしまいました。

10月半ばの収穫です、杖になるのは3本でした。この頃には一年草ながら直径20~25㎜くらいの太さになります。

竹ベラで皮をむいてから約1か月陰干しして乾燥させると、驚くほどの軽さを持つ固くて丈夫な杖が出来上がります。

持ち手側に根っこを残すのが仙人流、ニスを4回塗り重ねてバフで磨き、石突にゴムを被せて完成しました。昨年も4本作ってまだ嫁入り先の決まってないものも混ぜて記念撮影です。

すでに近所のお年寄りや友人に貰っていただけることになっていますが、もちろんわが身用の転ばぬ先の杖もしっかと確保しました。

天妃尊と東皐心越(とうこう しんえつ)

2020年12月21日 | 歴史散歩
天妃尊は1000年ほど前から中国沿海部で信仰されてきた「媽祖」とよばれる航海を守る海の神で、文化大革命ではこの媽祖信仰が禁止されましたが、今でもまだ奥深く信仰が残っており、特に台湾では篤く信仰されているようです。

さて17世紀前半に明が滅び清の時代になると、迫害を逃れて日本に渡ってきた僧侶の一人に、高僧として名を馳せた東皐心越がおります。彼は日本各地を旅したため、中国の密偵と疑われて長崎に幽閉されたのを水戸藩主徳川光圀公に助けられ、天和3年(1683)水戸の曹洞宗天徳寺に移り住みます。(水戸市河和田にある現在の天徳寺です)

天徳寺はその後城下の河和田に移され、そのあとに寺領100石の独立本山として建立されたのが現在の壽昌山祇園寺であり、心越禅師がその開祖ということになります。(水戸市祇園寺にある心越禅師廟です)

光圀公は、心越禅師が日本に渡ってくるときに航海の安全を祈って持ってきたという天妃尊(媽祖)像を3体作らせ、領内の航海・漁業の要衝に守護神として祀らせました。(小美玉市小川の大聖寺天妃尊廟の写真です)

その一つは大洗町の那珂川河口右手の天妃神社に安置されました。現在では弟橘比売(おとたちばなひめ)神社になっていますが、案内板の表示や地元では天妃神社で通っているようです。

海門橋の側の小高い山の上に建てられた社には「大きな行燈を御こしらへさせ、夜々燈明を御かかげさせ、海上より湊の目印に被成候」と伝えられています。


拝殿前の弟橘比売神社由来によると、「当社の御祭神は弟橘比売命である。元禄3年(1690)に時の水戸藩主徳川光圀公が明の高僧心越禅師の持ち来った天妃の像をここに祀り天妃山媽祖権現を創祀した。海上風波の難を救い給う神として漁民悉くこれを信仰した。天保2年(1831)藩主徳川斉昭公の代に天妃像を引き上げ御祭神を弟橘比売命と改めた。(一部省略) 」とあります。

もう一つの天妃尊像が安置された社のある北茨城市の磯原海岸に突き出した天妃山は、国土地理院の地形図に載っている茨城の山では二番目に低い標高21.2m、一番目の低山は東海村の天神山(17.4m)は拙ブログ2019.10.12で紹介させていただきました。

天妃山由来では、「その昔朝日指峯と云い薬師如来を祀ってあったが、元禄3年(1690)徳川光圀公が其の像を村の松山寺に移し唐の高僧心越禅師の奉携してきた天妃神を此処に祀り磯原大津の海の守護神とした。それより此の山を天妃山と云う。その後天保二年(1831)徳川齋昭公が日本武尊の妃弟橘姫命を海陸の守護神として祀り弟橘媛神社と改めた。依って天妃神は合祀となっている。」とあります。

北茨城市役所HPの写真、太平洋に突き出した天妃山突端にあるのは山海館という歴史のあるホテルです。晩年はスパリゾートハワイアンズの経営でしたが、東日本大震災で被災し今は取り壊されています。

もう一つは水戸祇園寺の三世、蘭山の開祖といわれる小美玉市小川の大聖寺に安置されました。
この地区は江戸時代には水運のまちとして栄え、小川城址には水戸藩の運送庁が置かれ水戸藩御用河岸として大変な賑わいを見せていました。その運送庁の建物跡に建てられた水戸藩で初めての郷校「稽医館」が、やがて小川郷校になり天狗党の拠点になると、大聖寺も志士たちの屯するところとなり幕末の動乱に巻き込まれて明治3年(1870)には焼失してしまいます。


幸いなことに、天妃尊像は難を逃れ壇頭家に預けられ、のちに建てられた天妃尊廟に祀られています。今は大聖寺霊園となり、お彼岸には天妃尊像が開帳されているそうです。

稽医館跡の碑は小川城址に建つ小川小学校敷地内にありますが、この小学校も昨年3月で閉校になり新しくできた小川南小学校に合併されました。

水戸ロマンチックゾーンに残る紅葉

2020年12月18日 | 水戸の観光
水戸市街地北西部のロマンチックゾーンとよばれている一帯には、水戸大空襲を免れた歴史的な遺産が数多く残っており最後の紅葉を見せていました。(15日撮影)

水戸八幡宮は紫陽花で有名、初夏には50種5000本が咲き誇りますが、杉林の中に山あじさいを揃えた「あじさいの小路」付近はまた違った晩秋の顔を見せてくれます。

重要文化財の本殿の色がまるで紅葉の色です。天正18年(1590)に水戸城主の江戸氏を滅ぼした佐竹義宣公が、慶長3年(1598)に建立したと伝わります。佐竹公お抱えの「御大工」吉原作太郎(当時15才)を棟梁に、60名程の工匠の名が本殿内墨書に記されているそうです。

壽昌山祇園寺は、明から渡来した東皐心越禅師を開祖とし、水戸徳川家2代藩主光圀公の創建になる曹洞宗の寺院です。
心越禅師は詩、書、画に優れ、琴 (きん) の師としても多くの弟子を養成、日本篆刻の祖としても知られています。

境内には幕末期の諸生派首魁市川三左衛門、朝比奈弥太郎や洋画家の中村彝、詩人の山村暮鳥などの墓所があります。

桂岸寺の仁王門です。通称谷中の二十三夜尊(三夜さん)で親しまれている真言宗豊山派の寺院で、境内の庭園「保和苑」は100種6000株の紫陽花が咲く観光スポットになっています。

最近必ず仁王像を格子の間から撮るのが習慣になってしまいました。火災のあと大正11年(1922)の再建とされますので、その頃の作でしょうか。

桂岸寺は水戸徳川家創設時からの附家老中山家の墓所香華院として天和2年(1682)に建立され、後に2代藩主徳川光圀公によって保和院と改称され、さらに宝暦5年(1755)大悲山桂岸寺保和院と称し京都御室仁和寺末となりました。
その庭は光圀が保和園(後に苑と改称)と名付けお気に入りだったようです。

本堂前には助さん格さんを従えた水戸黄門(光圀公)の石像が紅葉に囲まれています。隣接の常磐共有墓地に墓のある格さんが左側で印籠を手にしているこの像は、昭和50年(1975)に郡山在住の信者の方の寄贈とされています。水戸市内にはこの他に黄門像がいろいろありますが、これは独特の親しみやすい顔つきをしています。

赤い朱雀門を入った先の「愛染明王堂」は縁結びで人気の神様で平成元年(1989)の再建、紅い色が賑やかな一画です。

皇帝ダリアの大往生

2020年12月15日 | 季節の花
今年は長い間花を楽しませてくれましたが、きょう12月15日には日本列島に寒波の襲来…、薄氷が張り気温はマイナス2度の朝、葉が真っ黒になり数輪残っていた花も萎れてしまいました。もうこれから咲く蕾もほとんど付いてない状態なのでやり切ったという感じの大往生でした。

咲き始めはほぼ例年通りの11月11日、こんなに太い幹でもキク科ダリア属、原産地はメキシコ、中米の多年草です。その雄大な姿と美しい花から最近人気の植物ですが、霜に弱いため栽培地区は関東以西となっていますので、この辺は北限地でしょうか。

満開は11月23日頃、幹も4~5mの高さになり冬空に威風堂々と花を開いていました。

いつもの年は台風の強風で長い茎が折れ、残った花も12月初めには霜で萎んでしまいますが、この地方の今年は台風禍がなく、皇帝ダリアも初めて天寿を全うした気がします。
しかし台風禍がなくてもそれよりも強いコロナ禍が吹き荒れています。
医療関係者のご苦労には感謝の気持ちでいっぱいですので、何もお役に立てない高齢者はせめて罹らないように懸命の注意をしたいと思います。


さて明けて16日、いつまでも無残な姿を曝しておくのも哀れなため、介錯の鋸で伐り倒しました。紐で縛られた太い多年草は、燃えるゴミとしてシールを貼られ一生を終わりました。残った株からは来年新たに元気な芽が出てくることでしょう。