顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

六地蔵寺の枝垂れ桜…境内を覆う水戸光圀公ゆかりの桜

2021年03月28日 | 季節の花

水戸市六反田にある倶胝密山聖宝院(ぐていみつざん しょうほういん )六地蔵寺は枝垂れ桜で有名な真言宗のお寺です。
開山は平安初期の大同2年(807)、その後室町時代の永享元年(1429)に、宥覚上人によって中興されたと伝わります。

中世にはこの地方を治めた常陸大掾氏の庇護下に置かれ、近世には佐竹氏、水戸徳川家代々の領主から厚遇され、江戸時代には幕府から朱印を頂く格式をもち、境内の地蔵堂、旧法宝蔵は、水戸徳川家2代藩主光圀公によって建立されました。

六地蔵寺の入り口、樹齢1100年、胸高直径6.9m、樹高約33mの大杉などに囲まれています。100台以上の大きな駐車場を備えていますのでこの時期には嬉しい限りです。

六地蔵寺の枝垂れ桜は、エドヒガン系のイトザクラで、光圀公が参詣されたときにその美しさに深く感銘したといわれています。胸高直径2.5m、樹高約10mの現在の樹はその子供で樹齢約180年、境内にはその子孫の樹が30本以上花を咲かせています。

左手、本堂前の樹が後継樹でしたが、老齢化で周りの子孫の樹の方が大きくなっています。

地蔵堂は、江戸時代中期の元禄時代の特徴である裳階(もこし)が付いて二階建てに見えますが、屋根裏の高い平屋建てで、梁に元禄13年(1700)の墨書があることから水戸藩2代藩主徳川光圀公最晩年の寄進によるものと推察されます。堂内に本尊六地蔵菩薩立像が安置されています。

塙保己一の『群書類従』に収集の六地蔵寺版『神皇正統記』など、国、県指定文化財約3000点以上を所蔵する新法宝蔵も桜に覆われています。

室町時代末期の建築様式を残している四脚門から花の世界を覗いてみました。

錫杖と如意宝珠を持つ地蔵菩薩も、いつもと違った顔に見えます。

なお境内には、水戸藩彰考館総裁として「大日本史」の編纂につとめた立原翠軒、その編纂を受け継ぎ完成させた栗田寛の墓所もあります。

三階城…遠くから3階に見えました!

2021年03月25日 | 歴史散歩

平安時代末期に常陸大掾一族の鹿島成幹は、この地を勢力圏にして長子親幹に徳宿城を築かせて徳宿氏を名乗らせました。鎌倉時代初期になると、徳宿氏2代目の秀幹は長子俊幹を隣地の安房(あんぼう)に配し、安房氏を名乗らせ三階城をその居城として築かせたと伝わります。

しかし、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱では宗家の鹿島憲幹が鎌倉公方側に与したのに対し、安房幹光は一族の宮ケ崎氏とともに禅秀側に付くも敗れて討死、200年の歴史を持つ安房氏は滅びてしまいます。その後三階城は鹿島氏の老臣、額賀大炊助が城主になったとされています。

城は鉾田川(鉾田市)左岸の北西に突き出した比高16m程度の段丘端の南北約200m東西約150mの地に築かれています。
この周辺の城は台地先端を区切った連郭式の縄張りが多い中で、この城は山頂の主郭を同心円状にⅡ郭、Ⅲ郭が囲む輪郭式で、遠くから3階に見えたことが城名の由来といわれています。
茨城県城郭研究会「茨城の城郭」記載の縄張り図を、至って大雑把にgoogle mapに落とし込んでみました。

水田と山の間の狭い道を進むと案内板のある入り口があり、そこから堀底道を進めるようになっています。

Ⅱ郭とⅢ郭間の堀は堀底道になっており、直角に曲がる工夫がなされたところもあります。

Ⅱ郭は腰曲輪のようにⅠ郭の周りを全周しています。写真右側は土塁、左側は4mほどの高さがあるⅠ郭の切岸です。

Ⅱ郭を通って直線的にⅠ郭へ向かう虎口ですが、虎口としては疑問を呈する記載も多く見られます。

中心の最高部にある平坦なⅠ郭は約40m×20m、周囲を高さ1mくらいの土塁が廻っており東西2か所の開口部があります。

台地へ地続きの東側の堀は、より深くなっているのが分かります。

平坦なⅢ郭の右手にはⅡ郭の急峻な切岸が立ちはだかります。
Ⅱ郭を取り巻くⅢ郭は、櫓台や空堀で分割されている場所が多く見られます。

西北方向を見下ろす櫓台らしき一角です。各郭の南側にも3基の櫓台が見られます。

城跡を下りた畦道は、ホトケノザ(仏の座)の群落に覆われていました。
茎を囲んだ葉が仏の座に似ていることから命名され、また、その葉が段々につくことからサンガイグサ(三階草)とも呼ばれているのを思い出しました。

びっくりしたことに、こんな辺鄙な城跡で、仙人も愛用のガイドブック「茨城の城郭」を携えた城めぐりの女性の方お二人にお会いしました。

なお、徳宿城、宮ケ崎城については拙ブログ「大軍の前に落城…徳宿城 2018.10.12」、「宮ヶ崎城と宮ケ崎古館…広大な中世城址 2020.10.26」で紹介させていただきました。

路傍の花…今年も早いぞ、春の訪れ

2021年03月21日 | 季節の花
首都圏1都3県の非常事態宣言が今日で解除されます。国会では野党の女性議員が本当に大丈夫なんですかと強い調子で首相に迫っていました。そんなの誰も分かる筈ないじゃないですか!
自信なさそうに答えている施政者も哀れですね、そんな中、自然も急き立てられるように季節のページを捲っています。

モミジイチゴ(紅葉苺)」がもう花を咲かせていました。モミジに似た葉からの命名で、初夏のみずみずしい黄色い実は、食糧難の少年時代の美味しい思い出です。

春の陽に輝くような「ヘビイチゴ(蛇苺)」の花、真っ赤な実が生りますが、名前と味からか食用にはされません。

ミツバアケビ(三つ葉木通)」の花です。まだ蕾ですが、雌雄異花同株で枝元の大きな蕾が雌花、先端に房状の小さい蕾が雄花です。


そろそろ咲くころといつもの「シラユキケシ(白雪芥子)」を見回ったら、5,6輪咲いていました。10日前の写真と比べると季節の速さに驚きます。

ユキヤナギ(雪柳)」が名前の通り、柳のように垂れ下がった白い花を畦道に溢れ出させています。

少し足を延ばして「ショウジョウバカマ(猩々袴)」の群落を見に車で出かけました。能楽などに出てくる架空の動物「猩猩」の紅い頭の毛からの命名といわれますが、咲き進むと色がだんだん褪めてきます。

春の七草、「ナズナ(薺)」はどこにでもある雑草ですが群生になると目を惹きます。「○○が歩いた跡はペンペン草も生えない」などとあまりいいイメージで使われない別名「ぺんぺん草」は、実が三味線のバチに似ているからの命名です。

何度も登場の「イヌフグリ(犬陰嚢)」の群生もいたる所で見られます。

近所の塀から顔を出している梅は、多分「江南所無(こうなんしょむ)」です。遅咲きの杏系の大輪で花梅のため実は生りません。

ハナダイコン(花大根)」はムラサキハナナ(紫花菜)ともよばれ、江戸時代に渡来して今は各地で野生化しています。

仙人の守備範囲での「フキノトウ(蕗の薹)」はすでに花が開いていました。良さそうなのを数個摘んで今年も蕗味噌に挑戦です。

刻んだ蕗を胡麻油で炒め、そこに味噌、酒、みりんを混ぜたものを加えて水分が無くなれば出来上がり。あまり甘くしないのが仙人流、春の香りと苦さがお酒に合います。

いつもの散歩コースに「災害時生活用水協力井戸」の看板のある湧水があります。通常は水田への給水に利用されていますが、七草に時々摘ませていただく「セリ(芹)」が大きくなっていました。

菜の花摘み…暴れ川も今は穏やか

2021年03月19日 | 日記
昨年もコロナ禍中の菜の花摘みでしたが、まさか今年も!とは思っていませんでした。
この周辺の川はどこでも菜の花の群生がみられます。今年出かけた那珂川一帯は、2年前10月の台風19号で大きな洪水被害を受けましたが、今は穏やかな春の川の表情をしています。

いまだに木に掛かっている漂流物が増水の目印になっています。
この辺は那珂川堤防の決壊はなかったものの、流入する支流が溢れ、浸水の大きな被害がありました。

那珂川は栃木県の茶臼岳、朝日岳西麓で生まれ、那須高原から那須塩原市をはじめ栃木県内のいくつかの市町村を貫き、茂木町から茨城県常陸大宮市に入り、茨城県を貫流してひたちなか市那珂湊と大洗町を分けて鹿島灘へ注ぐ。余笹川、箒川、荒川、緒川などを支流に持ち、全長150キロ、流域面積3270平方キロメートルに及びます。(東敏雄、栗村芳實編「北関東川紀行」)

同書によると、那珂川は関東平野では利根川に次ぐ長さにもかかわらず、人工の堤防やダムが少ないため、大都市付近では珍しく上流から河口まで清い流れを保ち、アユの天然遡上も多く大都市近郊で自然の姿を多く残している大河であると出ています。

さて「菜の花」は、春に咲くアブラナ科の黄色い花の総称で、河原などで見られるのは、西洋アブラナや西洋カラシナが交雑を繰り返して野生化した品種といわれています。

塩漬けのレシピをネットで探して挑戦…、湯通しした菜の花に塩4%、細切りした昆布、鷹の爪少々を混ぜてよく揉み、ジップロック袋に入れて冷蔵庫で一晩おくと、シャキシャキ感と春の色の残る一品に仕上がりました。

たくさん採れたので、近所にもおすそ分けして、やはり野生のものは苦みがあっておいしいとの反響をいただきました。

台風や地震、津波などの自然災害に完全に打ち勝つことはできませんが、疫病はその都度抑え込んできた歴史があります。今回の新型コロナとの戦いも、ワクチン接種も始まり光が見えてきたような気もしますので、来年こそほぼ収束状態での春を期待したいと思います。

余生とは菜の花に手がとどくなり  中尾寿美子
菜の花といふ平凡を愛しけり  富安風生
夕暮の菜の花色となつてゆく  唐笠何蝶

梵天山古墳群…久慈川流域の権力者の墳墓

2021年03月16日 | 歴史散歩
古墳時代(3世紀中頃から7世紀頃)の大型古墳の分布は、地方に伸びていった大和王権の勢力図そのものでした。服属した在地勢力の首長とその一族、朝廷から派遣された高官などの墳墓が、茨城県には1780基もあり、特に霞ケ浦、恋瀬川、那珂川、久慈川などの水上交通の要所で、政治、軍事、経済上の優位性を確保した場所に築かれていました。

常陸太田市の南西端、久慈川左岸の丘陵上に梵天山古墳群があります。主墳の梵天山古墳を中心に13基の高塚墳と「百穴」と呼ばれる横穴群で構成されています。

その梵天山古墳は、当時久慈川流域を支配していた久自国造舟瀬足尼(すくね)の墳墓と伝えられ全長は160mの前方後円墳で、石岡市の舟塚山古墳(186m)に次いで県内2番目の大きさを誇ります。後円部に対して前方部が未発達であることから、古墳時代前期の築造と推定されています。

常陸太田市郷土資料館のTHE UMEZU SHIMBUN(令和2年8月27日号)に載っていた梵天山古墳測量図です。

古墳は国土地理院地形図記載では、梵天山となっています。これは地形図に名前が載っている茨城県内で3番目の低山で標高32.6m、因みに1位は天神山(東海村)17.4m、2位は天妃山(北茨城市)21.2mで、どちらも拙ブログで紹介させていただいたことがあります。


古墳は梵天山宝金剛院性海寺という真言宗の大きなお寺の敷地裏手にあります。

本堂左手奥に墳丘への登り口があります。

後円部の真ん中に建っている天満宮の社です。

後円部から前方部を見たところ、標高差は約5mあります。



近くの中野富士山古墳は、県道61号日立笠間線道路わきに案内板があり、帰り路で偶然見つけることができました。

全長70mの前方後円墳、平成24年に発見され測量したときに多くの壷型埴輪が発見されました。前方が短い前方後円墳で、古墳時代前期後半の築造と推測されています。

地元の方が「中野富士山古墳保存会」を立ちあげ一帯を整地しているので、しっかりした階段で標高54mの墳丘に上れます。

墳丘から久慈川方面の眺望は抜群です。桜の樹も植えられていました。

この古墳群の他の古墳は、ネットでは探しても見つからなかったという情報も多い中、案内板の設置や整地などをしていただいた地元の守る会の方々に感謝したいと思います。