顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

道の駅みわ「北斗星」…山間部の貴重な休憩所

2023年11月14日 | 旅行
道の駅は、日本の各地方自治体と道路管理者が連携して設置し国土交通省(制度開始時は建設省)により登録された休憩施設、地域振興施設等が一体となった道路施設である。(Wikipedia)

道の駅は、平成3年(1991)に山口、岐阜、栃木県へ実験的に設置されたのが最初で、平成5年には全国105か所に道の駅が登録されました。さらに平成19年(2007)に東京都初の道の駅が八王子に開設されて、47都道府県全てに道の駅が網羅され、今年8月時点では全国1,209か所になりました。

さて今回ご紹介するのは、16の道の駅がある茨城県でも、早い時期の平成7年(1995)に開設された道の駅みわ「北斗星」です。多分全国でも200番目くらいの設置ではないでしょうか。

ここは国道293号線沿いといっても完全なる山間部です。
地区のほとんどが山林で空気が澄み、天体観測に適しているので「星のふるさと」 としても知られています。また近くの花立自然公園内には天文台もあることから、親しみやすい直売所になって欲しいと、「北斗星」のネーミングにしたそうです。


ここの一番の魅力は、豊富な地元物産の販売コーナーです。地元生産者が毎朝採れたての新鮮な野菜を自ら運び陳列していますが、午後にはほぼ売り切れてしまう人気です。

開店当初から変わらない店舗内の田舎臭い雰囲気が、なぜか新鮮さを増幅しているような気がします。特にこの地域はしいたけの里ともよばれ、肉厚で、身丈も大きい絶品のしいたけが山積みされています。


飲食スペースの名は「北斗庵」、地元産の蕎麦を石臼で自家製粉したそば粉100%の手打ちそばが人気です。店の外にも多くの椅子席が設けられていますが、昼時には満席になる賑わいです。

ざるそば600円の価格は近在ではもう見かけません。しかも充分に満足できる味でした。朝一番に生産者が店舗に並べた朝採りの新鮮野菜の天ぷらも人気があるそうです。


いろんな情報発信のパンフレット類が置いてあるコーナーは、2Fギャラリーや体験館の入り口にもなっています。


清潔なトイレの天井には星空が描かれ、「満てんトイレ」と名付けられていますが、「満天」の星空と、いつもきれいで清潔な「満点」の二つの意味を込めたそうです。

周りに何もない地域の道の駅だからこそ、今ではほとんどのマイカー、営業車、観光バスなどが必ず立ち寄る場所になっていますので、利用者も運営者も充分にその恩恵を受けているのではないでしょうか。

国民宿舎「鵜の岬」…日本一の宿泊利用率

2021年12月09日 | 旅行
日立市の北部、「日本の白砂青松百選」の松林に囲まれた国民宿舎「鵜の岬」は、全国に58ある公営国民宿舎の中で宿泊利用率が32年連続第1位です。
コロナ感染者数が小康状態のなか、普段はなかなか予約が取れないこの宿に、町内のシルバー会の行事で宿泊することができました。

15ヘクタールの広大で自然豊かな伊師浜国民休養地内に建っており、白い砂と断崖が太平洋と見事な景観をつくり上げ、山側の松林では四季折々の草木や花が楽しめます。

鵜の岬はその名のとおり、「ウミウ(海鵜)」の渡来する岬で、全国で唯一ウミウの捕獲が許されています。宿泊棟の東側の断崖絶壁にある捕獲場では、囮のウミウで飛来する仲間をおびき寄せ、長いカギで引っ掛けて捕獲し、長良川鵜飼いなど全国11か所へ供給しています。
(写真は日立市のホームページよりお借りしました)

宿泊棟は客室58室、204人収容でどの部屋からも海を眺められ、8階には展望大浴場があります。

宿舎前の小さなビーチ、押し寄せる波ときれいな砂浜はまるで別天地のようです。

展望大浴場は撮影禁止ですが、2年前に昼間利用したときに無人の浴槽を撮った写真がありました。

8階からの北側の眺望、まさに白砂青松のきれいな海です。ここから約80キロ北の海岸線に福島第一原発があります。

海に面した周辺の松林の中には、断崖沿いの遊歩道が設けられています。

遊歩道のどこからも海が見下ろせます。

遊歩道の周りは自然のままの松林、茨城県以北の太平洋側に自生するハマギク(浜菊)はすでに萎んでいました。

海岸沿いに生息するトベラ(扉)も、赤い実を付けていました。独特の臭気のあるこの枝を扉に挟んで、節分の鬼除けにしたというのが名前の由来といわれています。





泊ったのは6階、部屋からの定点撮影、夜、日の出前、朝の表情です。暇ですねぇ、めっきり酒も弱くなった高齢者は、時間が有り余っています。

ロビーやフロントなど館内は、国民宿舎なので豪華ではありませんが、隅々まで細かい気遣いが感じられたのは確かです。ここの魅力は、美しい景色、季節のお料理、みんなの笑顔だとか…、景色はもちろんコストパフォーマンスも含めて他の魅力も十分納得できました。

ふたたび五浦(いづら)海岸…天心の愛した景勝地

2021年12月01日 | 旅行

太平洋の荒波に侵食されできた大小5つの入江が連なるこの海岸は、東京美術学校校長を務めた岡倉天心が日本美術院を移し、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山らが家族と共に移り住んで制作に励み、近代美術史の輝かしい1ページを残した地として知られています。

県内のコロナ感染者がゼロの日が続く秋の日、兄弟男4人の初めての集いで天心遺跡の北側の崖上に建つホテルに泊まりました。県独自の旅行キャンペーンもあり、宿泊者も多くみられましたが、浴室以外はすべてマスク姿ばかり、現在の感染者減の要因のひとつをしっかりと示していました。
泊った部屋は左側の棟の2階、眼の下が海という絶好のロケーションでした。

さて上記写真の天心遺跡は、大正2年(1913)天心没後は遺族の住まいでしたが、昭和17年(1942)天心偉績顕彰会が遺族から管理を引き継ぎ、現在は昭和30年(1955)同会会長の横山大観から天心遺跡(旧天心邸・六角堂・長屋門)の寄贈を受けた茨城大学五浦美術文化研究所の管理になっています。

長屋門を入ると、天心記念館があります。平櫛田中作の天心像や天心の釣人像などゆかりの品々が展示されています。

海に突き出した岩の上に建つ六角堂は、平成23年(2011)東日本大震災の津波で台石だけを残して流失、茨城大学中心の修復事業により創建当時の姿に再建されています。

六角堂を天心は「観瀾亭」と名付けました。瀾とは大波のこと、天心は、ここで波を眺めながら瞑想にふけり、時には海に釣り糸を垂らしたと伝わります。

六角の東屋は中国の杜甫の草堂に倣い、朱塗りと屋根の宝珠がインド仏教を表し、室内の日本風の茶室イメージと…、わずか7.7㎡ですが日本美術の源流である日中印の文化を一つの建物として表現しているそうです。

当時の天心邸は、風呂棟、客用離れ屋敷、夫妻の居室が取り壊されて、当時の半分の規模で残っています。東日本大震災では崖上の邸も床上まで浸水し被害を受けたそうです。
前庭は外国生活が長かった天心がボストンから持ち帰った種子を播いた、当時は珍しい洋風の芝生でした。

昭和17年(1942)天心偉績顕彰会が遺族から管理を引き継いだのを記念して、横山大観が揮毫した「亜細亜は一なり Asia is one」の石碑です。思想家としての天心の著書「東洋の思想」はこの一文から始まり、「日本の覚醒」「茶の本」という英文での三部作は海外から高い評価を受けました。

映画「天心」の撮影に使われた日本美術研究所のロケセットが崖の上に残っています。2013年に公開され、岡倉天心役は竹中直人、横山大観は中村獅童でした。

室内では、横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山らが制作に励んでいる様子がセットにされています。

大正2年(1913)に50歳で亡くなった天心は東京の染井霊園に埋葬されますが、同じ土饅頭型の簡素な丸い墓を遺跡向かい側の山腹に造り分骨されました。

ホテルの部屋の真下は六角堂のある岩礁です。朝6時前の撮影…遠くに漁火が見えました。

この時期一帯はツバキの花がいたるところで眼に付きました。

難攻不落…小田原城

2019年10月05日 | 旅行

15世紀半ば、西相模一帯を支配していた大森氏が現在の小田原城より約800mくらいの山側に築いた山城を、15世紀末になって伊勢宗瑞(北条早雲)が攻略し、以後北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力拡大の拠点の城として勇名を馳せました。

永禄4年(1561)の上杉謙信の城攻めと、永禄12年(1569)の武田信玄の城攻めも籠城戦で退け、豊臣秀吉の来攻に備えた拡張規模は、城下を囲む総延長9kmに及ぶ最大の総構えに達しました。しかし天正18年(1590)、約18万の秀吉軍に包囲され約100日持ちこたえましたがついに開城し北条氏は滅亡、これが戦国時代の終焉となりました。

その後、家康の重臣大久保忠世が4万5千石で城主になった時に、広大な城域は縮小され現在の場所に築城したといわれます。やがて改易になり小田原城は破却され幕府直轄になりますが、稲葉正勝が8万5千石で入封して再整備され、城の姿は一新されます。 貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。

明治3年(1870)に廃城となり、多くの建物は解体されました。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。

天守は、江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)をもとに昭和35年に外観復元された3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、延床面積1822㎡の鉄筋コンクリート造となっています。

江戸時代に本丸を囲んでいた堀の東側の水堀跡で、幅が20m以上もあったことが発掘調査で確認されました。

本丸の正面にある常盤木門は重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。
昭和46年に復元されました。

銅(あかがね)門は、二の丸の表門で、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことが名の由来です。発掘調査や古写真、絵図などを参考に、桝形門と呼ばれる形式で平成9年に復元されました。

この住吉橋を渡って銅門前の枡形に出ると、侵入した敵兵は銃口に晒されます。

馬出門は二の丸正面に位置する門で、馬出門、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造で馬屋曲輪へと通じます(平成21年復元)。

二の丸隅櫓は平屋です。関東大震災で崩落し、昭和9年に再建されたもので、崩落前より石垣も3m以上低く、隅櫓も半分くらいの大きさになったそうです。

天守閣内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。

標高約60メートルの最上階からは相模湾や天下の険といわれた箱根の山々を望むことができます。
小田原の象徴としてのこの小田原城ですが、史実に基づいた本来の工法で再現する木造天守再建の動きもあるそうです。

旧吉田茂邸   (大磯町)

2019年09月25日 | 旅行
旧吉田茂邸は戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂(1878-1967) が暮らしていた邸宅です。もとは明治17年(1884) に吉田茂の養父・吉田健三が別荘として建てたのがはじまりです。養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継ぎ、昭和20年(1945)よりその生涯を閉じる昭和42年までを過ごしました。

政界引退後も「大磯参り」と言われるほど多くの政治家が訪れ、また外国の賓客も多く招かれた近代政治の表舞台でした。昭和30年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに増築再建されましたが、平成21(2009)年3月火災により消失、その後、大磯町、神奈川県の所有として当時の復元を目指した再建整備が行われ、平成29(2017)年4月より一般公開されました。

消失を免れた檜皮葺き屋根の兜門は、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」、軒先に曲線状の切り欠きがあり兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれ、京都の裏千家の兜門と同じ製作者を京都から呼び寄せて造られました。

新館2階の金の間は賓客をもてなす応接間、部屋の装飾に金箔を用いたことによる命名で、ここから見える富士山を大層気に入って毎日眺めていたそうです

隣の銀の間は、天井に錫箔が張られているため銀色に見えることからの命名の寝室兼書斎で、吉田茂はここで最後を迎えました。

2階北側の浴室には、大磯の船大工が製作にかかわったといわれる珍しい舟形の浴槽が再現されています。

アールデコ調のローズルームと呼ばれる食堂は、ヨーロッパ的な照明や日本の木造建築が溶け合った室内空間です。吉田茂は新しく赴任した外交官補をこの食堂でよくもてなしたと伝わっています。

庭園内の七賢堂はもともと伊藤博文が建て、のちに吉田茂邸に移築された岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允・伊藤博文・西園寺公望・吉田茂の7人を祀った祠堂です。

ワンマン宰相といわれた吉田茂銅像が立つ場所は海から約150m、海抜19mの高台、その眺望は抜群で、日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けているといわれています。

昭和36年頃に完成した日本庭園は、作庭家中島健の設計で、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した、池泉回遊式の庭園ですが、数奇屋建築の本邸との調和や花を愛した吉田茂の嗜好を考えて造られています。