顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

壁面観世音(城里町)…曼殊沙華に囲まれて

2022年09月28日 | 歴史散歩

近在にこんな観音像があるのは知りませんでした。訪れた観音堂は木漏れ日のなか、一面の曼殊沙華に覆われていました。


クルマのすれ違いもできない細い道を行くと駐車スペースらしきものがあり、案内板の先の小道には曼珠沙華のお迎えです。

しばらく行くと一面の曼殊沙華です。

曼殊沙華(マンジュシャゲ)は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味だそうです。別名で彼岸花(ヒガンバナ)、または死人花、幽霊花という怖い名のイメージもありましたが、最近ではリコリスという園芸名でいろんな色の栽培品種も出回っています。


山の斜面に小さな観音堂が見えます



観世音観音堂と書かれたまだ新しい堂宇です。


観音堂の中にはなにもありません。奥の小窓を開けると正面にある壁面観音像を拝めるようになっています。別当/大山寺と書かれた札が置かれているので、近くの真言宗・高根山閑心院大山(たいせん)寺が別当寺になっているようです。


さて、お堂の真後ろの崖の岩に丸く開けた壁面に、半身約1mくらいの観音像が彫られていました。
以前は柵があり観音堂後ろには入れなかったようですが、いまは撤去されていたので拝観することができました。

伝えによると、平安時代初期の法相宗の僧で、筑波山に中禅寺、会津に慧日寺などを開山した徳一太子が当地を訪れた際に彫ったといわれています。大師は一夜のうちに完成すると仏に誓って彫り続けましたが、いざ開眼というところで一番鶏が夜明けを告げたため、大師は修業をし直すといって立去りました。片目が開いていない像は「観世音の目つぶれ観音」として知られるようになり、また、ここの集落では鶏は飼わなくなったといわれています。
目の粗い岩質と風化のせいか、片目しか開眼できていないという状態は確認できません。


崖の斜面に生えているのはイワタバコ(岩煙草)です。夏に星形をした紅紫の花を下向きに咲かせる美しい山草です。


狭い境内の斜面にも石仏などが散在しています。

城里町のホームページには管理者:観世音自治会と出ていました。1200年もの間、地元の方々の崇敬と保護で成り立っているのでしょうか、行政の適度な援助をお願したいものです。

ハギ(萩)は木、それとも草?…「閑中忙なし」

2022年09月23日 | 季節の花

近辺の野山で見かけるヤマハギ(山萩)はマメ科の落葉低木です。秋の七草に選ばれているのは万葉の時代から自生するこの萩といわれています。


落葉低木の萩は、自生種や園芸種で十数種が日本にはあるそうです。木本といっても、茎は木質化して固くなるが年々太くはならず、根元から新しい芽が毎年出るので、草本との区別が付けにくいかもしれません。(写真は筑紫萩です)


よく見かける小さな花の雑草、近寄って見ると萩の花に似ているヌスビトハギ(盗人萩)、マメ科ヌスビトハギ属の多年草です。おもしろい名は、上記写真にあるマメ科独特の実(サヤ)の形が、抜き足差し足で歩く盗人の爪先だけの足跡に似ているという説が有力です。


この実はいわゆる「引っ付きむし」で、実の表面に密生したかぎ状の毛があり、衣服や動物の毛などに付いて、種子を遠くまで運ばせ繁殖する仕組みになっています。


最近増えてきたのが、このアレチヌスビトハギ(荒地盗人萩)で、マメ科シバハギ属の多年草、繁殖力が強く従来の生態系を壊す恐れがあるため、環境省の「生態系被害防止外来種リスト」にも掲載されています。同じ「ひっつきむし」で、在来種のヌスビトハギとの違いは花が少し大きく、豆のサヤの数が3~6個になります。


番外編では、盆の頃に咲くミソハギ(禊萩)はミソハギ科でマメ科ではありません。萩に似た花で禊に使ったことからの命名です。


「荒地」の名が付く外来種をもう一つ、葛の大きな葉に負けずに繁茂しているのはアレチウリ(荒地瓜)、これも「生態系被害防止外来種リスト」にも載っている厄介植物です。


ノコンギク(野紺菊)?この近辺では自生が見られなくなったと聞きますので、多分栽培種の野性化かもしれません。舌状花の上で見張っているのはハナグモ(花蜘蛛)です。花に潜んで飛来する昆虫を捕食する羨ましい住環境の蜘蛛です。


面白い名のキツネノマゴ(狐の孫)、花穂が狐の尻尾に似ている、花が狐の顔に似ているとか名の由来は不明ですが、孫のようにかわいいというのは頷ける小さな花です。


キバナアキギリ(黄花秋桐)は、名の通り「秋に咲く桐の花に似た黄色い花」…シソ科の花です。



さて、???大きな葉の陰から臆病そうな目が覗いていました。


歴史館の蓮の花が実になっていたのです。蓮の名は花托の形を蜂の巣に見立て、「蜂巣ハチス」→「ハス」となったともいわれています。


まだ最後の花を咲かせて頑張っている一群もありました。6月に咲き始めた長い花期もやっと終わりです。


ツユクサ(露草)も6月~9月の長い花期、夏のイメージが強いですがちょうど今の時期(中秋9月)の季語です。

露草のまはりの暮色后陵  長谷川双魚
露草を摘めば零るる夜べの雨  稲畑汀子
露草の瑠璃をとばしぬ鎌試し  吉岡禅寺洞
露草や未練に晴るゝ野辺の霧  石塚友二

小幡城(茨城町)…昇太師匠も絶賛の中世城址

2022年09月18日 | 歴史散歩

二度目の紹介です。敵の大軍というか、ものすごい蚊の襲来に耐え切れず短時間の攻防で退却してしまいました。

ここはお城マニアの春風亭昇太師匠もスゴイ!と感心した知られざる名城です。師匠のブログ「ザブトン海峡航海記」でも紹介されており、著書「城あるきのススメ」でも絶賛されているそうです。(縄張り図は、茨城町史より拝借いたしました)

しかし築城の主、時期などは不明で、鎌倉殿の13人、八田知家の嫡子小田知重の3男光重の築城説や、応永年間(1417頃)大掾詮幹の3男義幹による築城説などがありますが、どちらも裏付ける資料がないというのが現状のようです。

文明13年(1481)大掾氏の水戸城を攻め取った江戸氏と交誼を結んでいた小幡氏は、天文元年(1532)当主小幡義清が参拝中の大洗明神下で江戸氏によって謀殺されたため完全にその支配下になります。大規模な城の構築はこの時期の江戸氏によるものとされ、南方の小田氏、大掾氏らに対する備えとしたといわれます。その後天正18年(1590)、秀吉によって常陸国の所領を安堵された佐竹氏が、江戸氏の居城水戸城や周辺の諸城を一気に攻め立て、小幡城も瞬く間に落城してしまいます。しかし12年後には、その佐竹氏も関ヶ原の戦いでの態度を家康に咎められ、出羽の国への移封により近辺の城はすべて廃城となりました。


三方を湿地に囲まれ西に広がる南北約350m東西500mの舌状台地に築かれたこの城の特徴は、地方の小領主の城にしては膨大な土木量で築かれており、しかもその主郭部がほとんど手付かずで残存しているということです。


また、迷路のように張り巡らされた、高いところでは10m、幅も20m近くある空堀もこの城の特徴で、その大きさに驚かされます。上からの攻撃を受けながら、その切岸を攀じ登ることは不可能です。


空堀に突入した敵は必ず巨大な切岸に突き当たるようになっており、複雑な屈曲によって敵は自分の位置が分からなくなってしまい、いつの間にか城の外に出てしまいます。


Ⅰ郭を守る4郭との間は二重堀になっていて、その土塁上は凹型の変形武者走りが掘られ、兵は姿が下から見えずに塁上を移動して、堀底の敵を攻撃できます。これは他の城では類を見ない遺構といわれています。


変形武者走りと、左手にⅠ郭下の空堀を監視する櫓台跡です。


郭との間をつなぐ土橋の跡です。


本丸は一辺が約100mの四角形で、周りを高さ5mくらいの土塁で囲まれています。空堀を5m掘り下げその土で5mの土塁を築き上げたということになります。重機のない時代の土木工事にどのくらいの人数が従事したのでしょうか。


落城の際、姫君が家宝の黄金の鳶を抱えて身を投げたと伝わる井戸が、本丸にあります。


城の鬼門の位置にある香取神社です。


香取神社から見た城跡、手前には寛政川が今も流れています。


大手門があったとされる辺りです。東関東自動車道で分断されてしまいました。


約600m東南にも外郭南堀跡が残っていて、この城の外郭の大きさに驚きます。Gooogle Earthで見ると周りを城域のように見える地形が囲んでいますので、守備兵力から見てもあり得ませんが、白い破線で囲み、暫し空想の世界に遊ばせていただきました。

広い駐車場もでき、城内の案内板も要所に建てられましたので迷うこともなく城攻めでき、お城好きの方にはおすすめの常陸国の中世城址です。時期によっては蚊の大軍が待ち受けていますので、対策をしていくことをお勧めします。

萩の偕楽園…好文亭奥御殿「萩の間」の襖絵

2022年09月12日 | 水戸の観光

水戸の偕楽園では恒例の萩まつりが9月3日から25日まで開かれています。(撮影日は3分咲きでした)
地味な花ですが、「草かんむりに秋の字」の通り、この季節を代表する花ではないかと思います。今から約1300年以上前の万葉集でも、約4500首収められている中で一番詠まれた花は、萩の花で142首もあります。


この萩は、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が、天保13年(1842)に偕楽園を開設したときに仙台藩から譲り受け園内に植えたのが始まりといわれています。安政3年(1856)には、斉昭公の9女八代姫(孝子)が、仙台藩主9代伊達慶邦公のもとに継室として嫁いでいます。




萩の種類は仙台藩からの宮城野萩が中心で、園内には数本の萩を寄せ植えした大きな株が約750株もあり、山萩、白萩、丸葉萩が混ざりますが、交雑もあるのでしょうか区別は難しく一部の花しか見分けがつきません。


萩を植えたのは、風流のためは名目で、激動の幕末期のため「軍馬の飼料」や「兵の行動が萩の株に隠れて迅速にできる」も目的であったと書かれた資料もあります。しかし後者の場合、敵にも有利ではないかと思ってしまいますが。


また、万葉人が萩を好んだのは、葉を乾燥させて茶、根は薬草に、樹皮は縄、枝は垣根や屋根、箒など日常的に利用した有用植物だったからという説もあるようです。


偕楽園でも、花の終わった後に刈り込んだ萩の枝が、柴垣(萩垣)として見事に甦っています。


吐玉泉下の池の周りでは、また違った顔を見せてくれます。


ところで、萩はマメ科の落葉低木です。エンドウ豆と比べるとよく似ているのが分ります。大きな花弁は「旗弁」といって昆虫を呼び寄せる旗や幟の役目をして、その根元に蜜が用意されています。


さて、偕楽園当初に建てられた好文亭は、藩主来遊の際のお休み所とともに衆と偕(とも)に楽しむ場所として建てられましたが、外敵からの侵略を防ぐ出城的な望楼の機能も持っていたともいわれます。

写真右手の奥御殿も、藩主夫人やお付きの婦人たちの休息の場所と同時に、城中火災時の避難先の意味合いもありました。

その奥御殿の10室ある各部屋には、部屋の名前にちなんだ見事な襖絵が描かれています。

その中の「萩の間」は、襖に描かれた萩の絵と天袋の雀と日輪がちぐはぐだということがよく言われています。
というのは昭和20年の空襲で全焼した後、昭和33年(1958)に復元された際、この襖絵は東京藝術大学日本画教官の須田珙中画伯が、襖14面と天袋4面に萩と月を描きました。ところが昭和44年(1969)に奥御殿が落雷でまた全焼、幸い開館中だったので襖絵はすべて運び出しましたが、萩の間の天袋だけは消失してしまいました。3年後の復元時には須田画伯がすでに亡くなっていたので、同僚の田中青坪画伯が新たな絵で天袋を補修したのが現在の天袋でした。

その天袋の萩の絵が新しくなりました!

このほど、偕楽園開設180年を記念して、東京藝術大学保存修復日本画研究室監修で戦災消失前の写真や資料をもとに、茨城県出身で芸大助手の谷津有紀さんが描き、水戸市の表具修復工房泰清堂が仕上げた萩の間天袋が贈呈されました。須田画伯の描いた襖と天袋の構図が、月と萩でぴったりとおさまり、落雷から53年ぶりに蘇りました。(なぜか萩まつり期間中だけの展示とされています)

なお、この襖絵は拙ブログ「偕楽園好文亭奥御殿の襖絵「萩の間」16.12.28」でも紹介したことがありました。


萩の間の襖絵は10畳の部屋の4面を囲んで14枚もあります。月といえば…兎がちゃんと萩と一緒に描かれていました。


万葉集で一番詠まれた萩の花、恋の歌が多いですねぇ、約1300年前の万葉人は!!

立ちて居て待てど待ちかね出でて来し 君にここに逢ひかざしつる萩  大伴家持
(立ったりすわったり、待ちきれずに出てきて、あなたに会え萩の花を髪にさして飾りました)

我妹子がやどの秋萩花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ  作者不詳
(あの人の家の萩のように、花のよりも実になってからのほうが、恋しさが増しました)

秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き  作者不詳
(秋萩を散らす長雨が降るころは、ひとりで起きていてあなたを想う夜が多くなります)


ところで、万葉集で萩に次いで2番目に多く詠まれたのは梅の花の119首、この2つの花を偕楽園の季節のシンボルとした斉昭公の見識を再認識すると同時に、風流ばかりでなく万一の場合にも役に立つことを考えていた幕末の世情を考えてしまいました。斉昭公は梅を植えた理由としても「種梅記」で、「花は春に先駆けて咲き風騒の友となり、実はいざというときに軍旅の用となる、備えあれば憂いなし」と記しています。
いずれにしても、万葉人のように恋の歌を詠んでいるようなご時世ではなかったのかもしれません。


鎌倉殿の13人…八田知家と常陸の宍戸氏

2022年09月07日 | 歴史散歩

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市原隼人が野性的な役で演じている八田知家は、藤原道兼を祖に持つ宇都宮氏2代宗綱の次男で源頼朝に仕え、常陸、下野と安芸高田郡に所領を与えられ、常陸守護職にもなりました。本拠地の小田城(つくば市)に嫡子の知重を入れ、四男家政を宍戸荘(笠間市)に配しました。(写真はNHKのホームページより)


小田城の知重はやがて小田氏を名乗り一帯を支配する一大勢力となり、一方家政は侍所別当の和田義盛との和田合戦で戦死するも、子孫は代々宍戸氏を称して400年近く宍戸の地を領しました。
(写真は現在の小田城、再建された土塁と遠くに筑波山です)

さて今回はその宍戸氏の話です。

その居城山尾館(宍戸城)があったとされる涸沼川を望む高台に、江戸時代の明和6年(1769)、宍戸氏の子孫一木(ひとき)氏が作ったと伝わる八田知家と宍戸家政供養の五輪石塔が建っています。


代々墓碑には、「八田四良左衛門尉筑後守常陸介知家」から「宍戸四良左衛門尉安芸守常陸介家政」、その後の歴代宍戸領主が記されています。

古い石塔などが約400年近い一族の歴史を語っているようですが、詳細は不明です。
鎌倉時代の宍戸氏は無難に乗り越えましたが、戦乱の時代には南朝支持から北朝へ転じたり、また近辺の大勢力の上杉氏や後北条氏、佐竹氏、大掾氏、江戸氏などの間で離合集散せずには存在できず、最終的には江戸氏に味方した宍戸義綱は佐竹氏に滅ぼされてしまいます。庶流の宍戸義利が佐竹氏に従属して海老ケ島城に配されますが、佐竹氏の秋田移封には従わず、一族の宍戸源左衛門秀知などが随従し秋田佐竹氏直臣として代々仕えたといわれています。

佐竹氏と入れ替わりに、慶長7年(1602)出羽国秋田より秋田実李が5万石で移封され、近世の宍戸城が新しく北東に築かれました。安倍貞任の後裔を称し平安時代後期から出羽、津軽地方を領する名族が、この地に新しく築城しなければならない不満があったようですが、5万石にふさわしい城下町をつくりあげました。しかし正保2年(1645)秋田俊季のとき陸奥国三春へ転封となり、その後は幕府直轄領となりました。

宍戸歴史民俗資料館にある秋田氏時代の宍戸城絵図に、宍戸氏時代の宍戸城を置いてみました。説明文には、初めに新善光寺跡に館を造り、のちに古舘に移したと書かれています。
この場所には、建仁3年(1203)家政の弟七郎朝勝が新善光寺という堂宇も建て、善光寺式阿弥陀三尊像を安置しました。小田氏や宍戸氏は篤い善光寺信仰を持っており、八田知家は「新善光寺殿」という法号で呼ばれることもあったそうです。
長野善光寺信仰は平安時代末期から全国的に広まり、鎌倉時代には各地に「善光寺」という名前の寺院が多く建てられ、阿弥陀如来像(善光寺仏)が祀られるようになりました。現在でも「善光寺」を正式な寺名とする寺院は全国に119寺もあるそうです。
なお最後の当主宍戸義利が、佐竹氏の命で配された海老ケ島(筑西市)に移した新善光寺は、現在も時宗の寺として残っています。


また、笠間市住吉の教住寺には宍戸氏7代朝里を供養した五輪石塔が残っています。朝里は鎌倉末期の徳治元年(1306)生れ、南北朝の激動の時代に勢力を拡大し、初代八田知家の菩提を弔うこの教住寺を建てたと伝わります。


住吉山教住寺も長野善光寺ゆかりの時宗のお寺です。前述の新善光寺本尊の阿弥陀三尊像は、ここに伝えられているという情報もありました。


そういえば宗家の小田氏の建立した善光寺が石岡市にもありました。現在は廃寺で、数年前に訪れた時には本堂は崩れ落ちた無残な姿でしたが、裏手に小田一族の墓といわれる五輪塔がひっそりと並んでいました。
拙ブログ「荒れ果てた寺…善光寺楼門 2018.8.7」で紹介したことがありました。

この善光寺の楼門は国指定重要文化財です。文亀元年(1501)小田城主13代の成治が小田家菩提寺の山之荘村小野の「新善光寺」を深く信仰していた母堂が出家の身となった時、その願いでこの地に「月光山無量寿院善光寺」を建立したと伝わっています。


ところで中世宍戸城の約1キロ北にある唯信寺は、宍戸家政の弟宍戸義治が、近くの稲田草庵に住まわれていた親鸞に帰依して唯信の法名を賜り、弘長元年(1261)に開いたと伝わる真宗大谷派の古刹です。

以後歴代の住職は宍戸姓を名乗り、現在の住職は家政から数えて26代目になるそうです。昭和20年に空襲により本堂が全焼、戦後再建されて、今は桜の名所としても知られています。

秋田氏が三春へ転封となった宍戸の地は、天和2年(1682)水戸藩2代藩主徳川光圀の末弟松平頼雄が1万石で立藩、本丸跡に陣屋を設け、以後松平氏が代々宍戸藩を治めましたが、幕末の天狗党の乱に巻き込まれ、悲惨な歴史を残しました。
拙ブログ「宍戸城から宍戸陣屋へ…悲劇の宍戸藩 2018.1.16」で紹介させていただきました。