水戸の偕楽園では恒例の萩まつりが9月3日から25日まで開かれています。(撮影日は3分咲きでした)
地味な花ですが、「草かんむりに秋の字」の通り、この季節を代表する花ではないかと思います。今から約1300年以上前の万葉集でも、約4500首収められている中で一番詠まれた花は、萩の花で142首もあります。
この萩は、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が、天保13年(1842)に偕楽園を開設したときに仙台藩から譲り受け園内に植えたのが始まりといわれています。安政3年(1856)には、斉昭公の9女八代姫(孝子)が、仙台藩主9代伊達慶邦公のもとに継室として嫁いでいます。
萩の種類は仙台藩からの宮城野萩が中心で、園内には数本の萩を寄せ植えした大きな株が約750株もあり、山萩、白萩、丸葉萩が混ざりますが、交雑もあるのでしょうか区別は難しく一部の花しか見分けがつきません。
萩を植えたのは、風流のためは名目で、激動の幕末期のため「軍馬の飼料」や「兵の行動が萩の株に隠れて迅速にできる」も目的であったと書かれた資料もあります。しかし後者の場合、敵にも有利ではないかと思ってしまいますが。
また、万葉人が萩を好んだのは、葉を乾燥させて茶、根は薬草に、樹皮は縄、枝は垣根や屋根、箒など日常的に利用した有用植物だったからという説もあるようです。
偕楽園でも、花の終わった後に刈り込んだ萩の枝が、柴垣(萩垣)として見事に甦っています。
吐玉泉下の池の周りでは、また違った顔を見せてくれます。
ところで、萩はマメ科の落葉低木です。エンドウ豆と比べるとよく似ているのが分ります。大きな花弁は「旗弁」といって昆虫を呼び寄せる旗や幟の役目をして、その根元に蜜が用意されています。
さて、偕楽園当初に建てられた好文亭は、藩主来遊の際のお休み所とともに衆と偕(とも)に楽しむ場所として建てられましたが、外敵からの侵略を防ぐ出城的な望楼の機能も持っていたともいわれます。
写真右手の奥御殿も、藩主夫人やお付きの婦人たちの休息の場所と同時に、城中火災時の避難先の意味合いもありました。
その奥御殿の10室ある各部屋には、部屋の名前にちなんだ見事な襖絵が描かれています。
その中の「萩の間」は、襖に描かれた萩の絵と天袋の雀と日輪がちぐはぐだということがよく言われています。
というのは昭和20年の空襲で全焼した後、昭和33年(1958)に復元された際、この襖絵は東京藝術大学日本画教官の須田珙中画伯が、襖14面と天袋4面に萩と月を描きました。ところが昭和44年(1969)に奥御殿が落雷でまた全焼、幸い開館中だったので襖絵はすべて運び出しましたが、萩の間の天袋だけは消失してしまいました。3年後の復元時には須田画伯がすでに亡くなっていたので、同僚の田中青坪画伯が新たな絵で天袋を補修したのが現在の天袋でした。
その天袋の萩の絵が新しくなりました!
このほど、偕楽園開設180年を記念して、東京藝術大学保存修復日本画研究室監修で戦災消失前の写真や資料をもとに、茨城県出身で芸大助手の谷津有紀さんが描き、水戸市の表具修復工房泰清堂が仕上げた萩の間天袋が贈呈されました。須田画伯の描いた襖と天袋の構図が、月と萩でぴったりとおさまり、落雷から53年ぶりに蘇りました。(なぜか萩まつり期間中だけの展示とされています)
萩の間の襖絵は10畳の部屋の4面を囲んで14枚もあります。月といえば…兎がちゃんと萩と一緒に描かれていました。
万葉集で一番詠まれた萩の花、恋の歌が多いですねぇ、約1300年前の万葉人は!!
立ちて居て待てど待ちかね出でて来し 君にここに逢ひかざしつる萩 大伴家持
(立ったりすわったり、待ちきれずに出てきて、あなたに会え萩の花を髪にさして飾りました)
我妹子がやどの秋萩花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ 作者不詳
(あの人の家の萩のように、花のよりも実になってからのほうが、恋しさが増しました)
秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き 作者不詳
(秋萩を散らす長雨が降るころは、ひとりで起きていてあなたを想う夜が多くなります)
ところで、万葉集で萩に次いで2番目に多く詠まれたのは梅の花の119首、この2つの花を偕楽園の季節のシンボルとした斉昭公の見識を再認識すると同時に、風流ばかりでなく万一の場合にも役に立つことを考えていた幕末の世情を考えてしまいました。斉昭公は梅を植えた理由としても「種梅記」で、「花は春に先駆けて咲き風騒の友となり、実はいざというときに軍旅の用となる、備えあれば憂いなし」と記しています。
いずれにしても、万葉人のように恋の歌を詠んでいるようなご時世ではなかったのかもしれません。