馬の背状に東に張り出した水戸の台地は、水を透しにくい第三紀層の堆積岩(水戸層)の上に、水を透しやすい礫(小石)や砂などの上市礫層が覆い、その間から地下水が湧き出している湧水が数多くありますが、その2つの層の露頭が見える場所が偕楽園の南崖斜面にあります。
七曲坂の中腹には水を透しやすい上市礫層が露出しています。河原の小石などが混ざっていて、この台地が形成されていった過程がうかがえます。
その層の下部にある、水を透しにくい堆積岩(凝灰質泥岩)の水戸層は、東南の南崖の洞窟付近に露出しており、この岩は笠原水道の岩樋、好文亭の井戸筒、吐玉泉の集水暗渠に使われたと案内板に書かれています。
さて、その「吐玉泉」は偕楽園杉林の樹齢800年といわれる太郎杉の見下ろす一角に湧き出しています。この場所には光圀公の妹芳園尼の庵、七面祠堂があった時代から泉があり、当時から眼病に効くといわれていました。
杉や熊笹の生い茂る斜面の中の十数か所から集水し、落差を利用して年間を通して15℃の清水を噴き上がるように工夫してあります。傍らには、大腸菌陰性、一般細菌ゼロの水質検査票が掲げてありますが、同じく飲料水ではありませんとの表示もされています。
茶祖・茶神といわれた唐の陸羽の茶経によると、茶に使う水は山の水が上、川の水は中、井戸の水は小とありますので、好文亭の茶席ではこの最適の水が使われたことになります。
吐玉泉の水は、小さな滝になって下方の水路に流れ込んでいます。
好文亭を設けるにあたり宋徧流の小山田軍平、名医原南陽の嫡子で石州流の原昌綏とともに設計に参画した太胡敬恵が水戸藩の御用石、寒水石の井筒を工夫したといわれています。初代の井筒は円筒型で大正3年まで72年も長持ち、これは上下置き替えて再利用したからとか、2代目も円筒形で昭和25年まで36年間、3代目は現在の形になって昭和62年まで37年間、現在の4代目ももう31年目になります。浸食が激しいのは水の成分や石の性質のせいでしょうか。
なお、寒水石の井筒の4代目の交換には約1000万の費用をかけて、西門より10トンの巨石を昔ながらのコロに載せて運んだそうです。
2代目の円筒形井筒は、偕楽園公園センターの裏手に置かれています。36年で石がこんなに侵食されるのかと驚いてしまいます。
なお、3代目の井筒に似ているとされる石が、水戸の老舗菓子メーカーの亀印製菓本社に置いてあります。真弓山で偶然産出されたものを譲り受けたそうですが、大きさはふた回り小さくても、色やイメージはそっくりだと、3代目を何度か撮った仙人の太鼓判です。
この寒水石は、正確には結晶質石灰岩(大理石)、常陸太田の真弓山から採れるので真弓石ともいわれ、その鉱脈は北に連なっているらしく、日立市の諏訪付近にも採掘場があります。当時は水戸藩の御用石で一般の採取は禁じられていましたが、今では大きな採掘場が阿武隈山地の南端にあるのが常磐道からも見えます。
採掘場への道路は、贅沢なことにこの大理石が一面に敷かれています。拾ってきた石は真っ白でキラキラ輝いています。この石は、弘道館記碑や水戸八景碑にも使われましたが、石質が柔らかく加工しやすい反面、風雨に弱く、風化しやすいため屋外に建てる碑には向かないともいわれています。
弘道館の弘道館記碑は、風化を防ぐため八卦堂という覆堂の中に保存してありますが、戦災で覆堂が消失した際に火炎で痛み、さらに東日本大震災では一部崩落、現在は補修された姿で立っています。
なお、偕楽園の杉林の崖下一帯は吐玉泉の他に、滲み出すような小さな湧水が数箇所見られます。一般的には広葉樹の方が山の保水力は高いそうですが、市街地の真ん中の公園では大きな杉が充分に水を抱えているようです。
なお、泉は夏の季語です。
胸冷ゆるまで湧泉の奥を見る 千代田葛彦
しんしんと日を押し上げてゐる泉 仲村青彦
掬はれてなほ湧きつづく山泉 鷹羽狩行
しんしんと日を押し上げてゐる泉 仲村青彦
掬はれてなほ湧きつづく山泉 鷹羽狩行