顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

橿原(かしはら)神宮…那珂湊(茨城県)にもあった!

2025年01月26日 | 歴史散歩
奈良県橿原市にある橿原神宮は神武天皇が即位したと伝わる橿原宮の跡に建つ神社として有名ですが、ひたちなか市那珂湊にもあるのを、近くに住んでいながら初めて知りました。


社伝によると創建されたのは元明天皇の和銅年間(708~715)といわれ、最初は涸沼のほとり石崎村升原(茨城町中石崎)というところに鎮座したと伝わります。



仁寿年間(851-854)に湊村の宮山町(明神町)に奉還され、延長5年(927)に常陸大掾の平国香が崇敬した桓武・崇道両天皇を合祀し、そのころから柏原大明神と称されてきました。
常陸大掾の祖、平国香は承平5年(935)に甥の平将門に攻められて焼死していますが、当時この一帯にも勢力を伸ばしてきた桓武天皇を祖とする常陸平氏一族の守護神としたのでしょうか。


社殿は徳川時代の寛文12年(1672)に炎上し、同年8月に富士ノ上に遷され、以来353年の歳月が経過しています。


さて海を見下ろす台地上に駐車場もありますが、急な階段を上って参拝です。


那珂湊港と太平洋を見下ろす高台で、地名が「富士の上」というのもなにか謂れがありそうですが…。


南方には関東平野に屹立する筑波山周辺の山々が連なっています。


入母屋造りの豪壮な拝殿には16菊紋が付いています。水戸藩主2代徳川光圀公、6代治保公、9代斉昭公の参拝記録が残っており、斉昭公は剣と馬を寄進し剣はいまも社宝として残っているそうです。


本殿は神明造りで伊勢神宮と同じ、冬空に鋭角に聳える姿は、厳粛そのものでした。


本殿を取り囲む瑞垣正面に建つ奥門もどっしりとした入母屋造りです、塀の隙間から撮りました。

調べてみるとこの那珂湊の橿原神宮の方がずっと昔から橿原神宮を名乗っていたことになりますが、江戸時代に火災に遭っているためか、創立時の社名や由来などの詳細は不明な点も多く、その分想像をかき立てられました。


※奈良県橿原市にある橿原神宮は、明治22年(1889)に神武天皇即位とされる畝傍山東南の橿原宮址への神社創建を民間有志が請願し、認可した明治政府は、社殿として京都御所の内侍所(賢所)と神嘉殿の2棟が下賜されました。翌年(1890)1月に移築完了、3月には社号を橿原神宮とし、官幣大社に列せられることになりました。

涸沼水鳥・湿地センター…両岸に展示施設と観察棟が完成

2025年01月19日 | 日記

水鳥など野生生物の貴重な生息地としてラムサール条約に指定されている茨城県の涸沼(ひぬま)は、鉾田市、茨城町、大洗町にまたがる面積約9.3k㎡の汽水湖です。


海水面が上昇した縄文時代には太平洋の入り江でしたが、やがて那珂川などの土砂で河口が塞がれ汽水湖としての涸沼が出来上がりました。今でも海抜は0mです。



昨年11月、環境省が約6億円かけて整備した「涸沼水鳥・湿地センター」の2施設、すでに開館している鉾田市側の湖岸にある木造屋上付き2階建ての「観察棟鈴の音テラス」に続いて、茨城町側の湖岸に木造平屋建ての「展示施設」が開館しました。


新たに開館した展示施設は、涸沼の歴史や環境、水鳥、魚類、昆虫、植物など豊かな生態系についての学習拠点として設置されました。


館内には涸沼に生息する生き物を紹介するパネルや水槽が並んでいますが、いたって分かりやすく配置、説明されているので好感がもてました。


汽水湖は全国で56か所、関東地方では唯一の涸沼は、海、川、陸から様々な栄養が供給されることで多様な環境が生まれ、様々な生き物が生息しています。


そもそもラムサール条約とは、1971年イランのラムサールで開催された国際会議で採択された、水鳥の生息地として重要な湿地に関する条約です。涸沼では、約88種以上の鳥類が確認され特にスズガモは東南アジア地域個体群の1%を超える5000羽程度が飛来し越冬しています。


汽水湖の涸沼では約108種類の魚類のうち淡水魚は約30%、残りは海水魚と海と川を行き来する回遊魚です。よくハゼ釣りを楽しんだ仙人も、セイゴ(スズキの幼魚)、チンチン(クロダイの幼魚)、カレイ、コチなどを釣ったことを思い出しました。


湖岸の葭原に生息する昆虫の中でヒヌマイトトンボは、1971年に廣瀬誠、小菅次男両先生が発見した新種で涸沼の名前が付けられました。


シジミの産地としても知られる涸沼のヤマトシジミ、きれいな水槽に入っていますが実際は泥の中で生育し、沼で採れるのは黒色、海に流れ込む涸沼川で採れるものは茶色といわれています。


ウナギも名産で湖岸に大きな看板のうなぎ屋もあります。涸沼は海との間に魚類の溯上を遮る堤のようなものがないために、天然ウナギはシジミを除く主要な漁獲のうちで、ハゼ類の次に漁獲量の多い種類となっています。仙人の口には滅多に入りませんが…



さてひと足早く湖岸の鉾田市側にオープンした観察施設「鈴の音テラス」は、まだ知名度が低いようですが、休日には家族連れで賑わっていました。


広々とした湖岸に設置された遊戯施設、特に芝生の滑り台に人気があるようです。


3階屋上テラスからの眺望、葦原の向こうに筑波山も見えます。


テラス上からの水鳥観察には双眼鏡の無料貸し出しも行われています。



「涸沼」のワイズユース(=賢明な利用)を推進するためにつくられた二つの施設が、「涸沼の魅力を知る情報提供拠点」、「涸沼を守り継承する活動拠点」、「涸沼の魅力に触れる利用拠点」という役割を充分に果たせることを願っています。

どちらも入場無料、休館日は毎週月曜日(祝日、振替休日の場合は翌日)・年末年始です

浄妙寺(ひたちなか市)…那須与一の玄孫開基

2025年01月13日 | 歴史散歩
源平の争乱屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一(2代宗隆)の玄孫で6代那須資村の開基と伝わる松日山浄妙寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。※玄孫とは曽孫(ひまご)の子、やしゃごです。



境内にある平成11年建立の本堂改修碑によると…

那須与一宗隆5代の孫那須肥前の守資村の開基なり。資村世の無常を感じ親鸞聖人の弟子となり信願坊と号し諸国を行脚し専修念仏を広む。晩年明法坊弁円の往生を聞き墓参の帰途当地大塚浜の郷侍安藤丹羽守清信の館に立寄り弥陀の本願念仏を伝え村民を教化す。留まること3年すでに年老い建治元年(1275)3月21日81歳をもって寂す。清信は信願坊の死を嘆き悲しみ村民とともに霞ノ浦西方に葬り塚を築き信願堂を建て念仏す。時を経て永正2年(1505)2月三河国浄妙寺14代超淳の弟超義(信空)わが先祖信願の墳墓を探らんとこの地に来たり庄屋黒澤清衛門の発願により信願堂を再建す。元亀元年佐竹義重公の寺地寄進により天正2年(1574)浄妙寺創建、以来420有余年連綿として法灯は継承され今日に至る。源義公光圀の寄進保護あれども世の無常有為転変は免れず火風兵乱の災禍再三に及べり。然しながら門信徒信力結集して寺堂を再建し聞法の道場と成す…(後略)



なお下野国東北を支配した那須氏は、藤原道長の六男・長家の孫資家(貞信)を祖とし須藤氏を称していましたが、那須資隆(太郎)の時から那須氏を称しその子が那須与一で、5代目あとが資村になります。(異説あり)

資村が出家した後の那須氏は、鎌倉幕府の有力御家人となり、室町時代には結城氏や佐竹氏と並んで、関東八屋形のひとつに数えられました。その後上那須家と下那須家に分裂して争い、宇都宮氏や佐竹氏との抗争にも明け暮れ、豊臣秀吉の小田原征伐には遅参したため所領を没収されますが那須資景に5千石を宛行われ、かろうじて改易は免れます。※関東八屋形 / 宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、下野那須藩1万4千石の大名となりますがお家騒動(烏山騒動)などにより改易され、以後1千石の交代寄合として明治維新を迎えました。


写真は那須氏の烏山城祉です。ここを拠点に東の常陸国を領する佐竹氏との争いが繰り広げられました。



さて、浄妙寺の航空写真(Google map)です、東側に海水浴で知られる阿字ヶ浦が見えます。


本堂には室町時代末期作のご本尊の阿弥陀如来像が安置されていますが、会館大広間にもある阿弥陀如来像は江戸時代初頭制作で徳川家康公より寄進されたと伝わります 。


短いながらも雰囲気充分な参道が南側に敷かれています。


重厚な山門が迎えてくれます。


那須氏の家紋は「丸に一文字」ですが、軒丸瓦や懸魚にびっしり付いている寺紋は出自の藤原氏の「下がり藤」でした。


鐘楼での除夜の鐘は、一般の方にも開放しているそうです。


本堂脇には枯山水の要素を取り入れた日本庭園、手入れが行き届いていました。

鎌倉時代からの長い歴史と貴重な逸話が残っていますが、今は地域の人たちとの交流を大切にしたいろんなイベントで親しまれているお寺でした。現在のご住職は21代那須信彰さんです。


酒列磯前神社…逆さに列なる岩礁

2025年01月07日 | 歴史散歩


酒列磯前(さかつらいそざき)神社は太平洋に面した初詣の隠れた名所、その変わった名前の由来は…。神社の東に面した太平洋の海岸は、8000万年前の中生代白亜紀の砂岩、泥岩、礫岩からなる太古の地層が褶曲隆起して、柔かい部分は波に侵食され、硬い部分が残って鋸の刃のようになり、奇妙にもほとんどが南に約45度傾いて列なっています。


この海岸岩礁は古来より神磯とよばれる神聖な場所とされ、その一部が反対の北に傾いていることから、「逆(さか)さに列(つら)なる磯(いそ)の前(さき)にある神社」となり、後に酒の神様を祀ることから「逆」が「酒」となったとされます(異説あり)。


白亜紀層とよばれるこの磯は、潮が引いたときに小魚やヤドカリなどが捕れるので、娘や孫の小さいときには遊ばせるのに絶好のポイントでした。またアンモナイトなどの化石ハンターと出会ったこともありました。


神社は太平洋に面し、東側が白亜紀層の岩礁地帯、北側は緩やかな入り江状になって磯崎港、阿字ヶ浦海水浴場、常陸那珂港、東海村原子力研究所などが並んでいます。


大鳥居をくぐると樹齢300年を越えるツバキ、タブノキ、スダジイなどが鬱蒼と覆うトンネル状の参道が300mも続きます。


参道と神社周りのこの広葉樹林は茨城県の天然記念物に指定されています。


社伝では、斉衡3年(856)常陸国鹿島郡大洗の海岸に御祭神大名持命・少彦名命が御降臨になり、「私は大名持命(おおなもちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)である。日本の国を造り終えてから東の海に去ったが、いま再び民衆を救うために帰ってきた。」と託宣され、少彦名命が主祭神の「酒列磯前神社」がここに創建され、また同時期に南隣の大洗町には大名持命が主祭神の「大洗磯前神社」が創建されました。


創建翌年には官社に列せられ、更に「酒列磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。また延喜の制では名神大社に、明治18年には国幣中社に大洗磯前神社と共に列されました。本殿の後ろにも巨木が覆っています。


海の見える鳥居としての撮影スポットが樹叢トンネルの途中にあります。


神楽殿にはさすが酒の神さまなので、地元の酒蔵の奉納酒樽が神輿と一緒に飾られています。主祭神の少彦名命は医薬、醸造の神でもあり、百薬の長である酒の神として特に崇敬を集めています。


境内社と斉昭公腰掛石、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が、境内で行われたヤンサマチという競馬祭を見物する際に腰をかけたと伝わっています。


幸運の亀といわれるこの石像は、頭をなでると宝くじのご利益があると評判です。というのは近くの超大型ホームセンターの宝くじ売り場で年末ジャンボに合わせた当選祈願祭をここの神職が施行しており、その高額当選者がお礼に奉納した亀石像だそうです。


北側の高台には、水戸藩6代藩主治保公が、当時白砂青松の海岸と西に阿武隈の山を望む風光明媚なこの地を賞賛し、寛政2年(1791)に比観亭と名付けた「お日除け」(東屋)を建てさせたという碑があります。この比観亭に掲げられた扁額は、彰考館総裁立原翠軒が筆をとり桜の板に彫刻したもので、隣地の酒列磯前神社に保管されているそうです。


比観亭跡から見える常陸那珂港は、北関東の新たな国際流通拠点として整備され、高速道路と直結した日本で唯一の港湾です。火力発電所の煙突が見えます。


下に見える小さな漁港、磯崎港は、仙人が釣りに夢中の頃に通った気に入りのポイントで、岩場に型のいいアイナメが潜んでいました。


青森県が北限のヤブツバキ(藪椿)は、この辺では海沿いに多く自生していますが、背が高い木が多いので、参道でも落ちているのを見て初めて気が付きます。

昭和38年奈良の平城宮跡の発掘調査で出土した多量の木簡の中に「常陸国那珂郡酒烈埼所生若海菜」と記された墨書文字が発見されました。今から約1300年前の昔、酒列磯前神社に奉納したこの地方のわかめを天平文化の栄えた奈良の平城宮まで頒納されていたのです(神社ウエブページ)。



神話の中で国づくりに力を合わせた兄弟を祀る古社、大洗磯前神社と酒列磯前神社は、太平洋に面した清冽な地に位置し、歴史も場所も初詣にはピッタリの神社と感じました。
※大洗磯前神社は弊ブログ「大洗磯前神社…海沿いに4つの鳥居」 2021.7. 18 で紹介したことがあります。

謹賀新年 2025

2025年01月01日 | 水戸の観光

明けましておめでとうございます

どうぞ今年も健康でお過ごしになられますように…  2025年 元旦




さて、春に先駆けて咲く梅の花ですが、偕楽園ではまだ早咲きや早とちりの梅が数輪咲いているだけですので、園内100種といわれる梅の中で特に姿、色、香りが優れたとして選定された「水戸の六名木」といわれる梅を以前の写真からご紹介いたします。


まずは、天保13年(1842)偕楽園を創設した水戸藩9代藩主徳川斉昭公の諡号(しごう・おくりな)の付いた「烈公梅」です。野梅系の一重、薄紅色の花弁が重ならずに凛と咲く様子は、激動の幕末を駆け抜けた公の生きざまを見るようです。さすがに花果兼用種なので、立派な実が生ります。


東京梅の会と水戸博物学会が「六名木」を選定した昭和6年に、弘道館脇で見つけた今までにない老木の花を「水戸公の名を祈念せんがために斯く命名せり(松崎睦生著「水戸の梅と弘道館」)」といわれます。



月影」は命名された方の感性が感じられます。青軸性という種類で青白い花弁が端正に開き、花弁基部には淡緑色の萼片の色が浮かび上がる…いかにも名前通りのイメージとして人気の品種です。野梅系で良果結実します。



江南所無(こうなんしょむ)」 杏性の八重大輪で雄しべは退化しているため結実しません。中国渡来の古い品種で、園内では最も遅く咲く梅です。よく言われる命名の由来は、三国時代の中国で、陸凱という人が、江南から北の長安の親友に一枝の梅を送り、後に長安に赴いたときに贈った詩の一節「江南無所有,聊贈一枝春(江南には何も贈る物がないので、とりあえず梅の一枝で春をお届けします)」から付けたとされています。



白難波」 やや早咲きの難波性八重で少量結実種、雄しべが花弁に変わる旗弁がよく見られます。



柳川枝垂」 枝垂れ系薄紅色一重の梅で偕楽園の貴重品種、あまり結実しない品種です。



虎の尾」  難波性八重でやや早咲き、少量結実します。虎の尾という名前の由来は蕊の曲がり具合、枝の模様や枝振りなどいろんな説がありますが不明です。


天保13年、斉昭公が偕楽園を開設したときに、梅を植えたことについて述べた「種梅記」の石碑が弘道館公園に建っています。



その文中に、梅は「雪を冒し春に先たちて風騒の友となり、実は則ち酸を含み渇を止めて軍旅の用となる。ああ備えあるものは患なし。(天下の魁として咲く梅の花は、花を愛でるばかりではなく、いざというときには軍旅の備えにもなる)」と書かれています。※風騒:詩文をつくり楽しむこと

ということは、開設当初に植えた梅は実をとる「実梅」で、種子繁殖された原種の白い野梅がほとんどだったのではないでしょうか。
その後時代が変わり、花を愛でる品種で実が生らない「花梅」がどんどん作出され、偕楽園でも現在では約40%が花梅といわれています。


※写真は青梅市で作出された実梅の「玉英」、青梅市に縁のある日本画家の川合堂と小説家の吉川治から名付けられました。

さて、今年で129回目を迎える水戸の梅まつりは、2月11日(火)から3月20日(木)まで行われます。梅は開花期間が長く、しかも種類の多さから早咲き、遅咲きなど次々に咲き続けますので、約1か月のまつり期間が設定されています。
100種とされる偕楽園の梅も最近では新しい品種も増えて、苗畑でデビューを待つものも入れれば200種を超えているかもしれません。満開のいろんな梅の中から「水戸の六名木」を探してみるのも観梅の楽しみ方のひとつになるでしょう。


またひとつ年を重ねるということは、恐怖以外の何ものでもありませんが、とにかく平穏無事に新年を迎えられました。

             去年(こぞ)今年 貫く棒の 如きもの   高浜虚子

今年も細々とブログ更新をしてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。