顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

筑波山周辺の歴史遺産

2016年10月29日 | 水戸の観光
秋晴れの一日、筑波山周辺にボランティアの研修旅行です。

まずは国指定史跡の平沢官衙遺跡。奈良、平安時代のこの地方の郡役所跡で、その当時税として納めた稲や麻の正倉の柱跡や礎石が発見されました。筑波山を背にしたこの絶景の中の遺跡に、正倉院でお馴染みの校倉の他に板倉、土壁双倉の高床式三棟が、平成9年(1997年)から6年をかけて実物大で再現されています。

次は慈眼山三光院普門寺、日本の道100選「筑波古道」に面した真言宗豊山派の寺院、鎌倉末期に乗海大和尚の開山とされ、小田氏の祈願寺として末寺508寺を有し十万石の格式を誇り、かっては多くの檀林が開かれた古刹です。天明年間(1785年頃)再建の赤門からの参道、先に黒門が見えます。

南面の高台からは、この寺を包み込むように筑波山が大きく優しい表情を見せています。
なお、天狗党の筑波山挙兵の折、田中愿蔵の一隊がここに駐屯した縁で、彼の鎮魂碑が建っています。やがて本隊と別行動をとった愿蔵は、挙兵後半年で捕縛され久慈川の河原で斬首されました。(享年21歳)

午後からは天気予報通り、雨がちらほらの中、筑波山神社です。この場所には明治以前には中禅寺の本堂(大御堂)がありましたがが、明治の神仏分離で大御堂が廃された後に明治8年(1875年)にこの神社拝殿が建てられました。なお、本殿は筑波山の男体山・女体山両山頂に鎮座しています。

拝殿前の随神門は、間口5間2尺、奥行3間の楼門で、茨城県内では随一の規模、文化8年(1811年)の再建、神仏習合時代には「仁王門」として仁王像(金剛力士像)を安置しましたが、神仏分離後は「随神門」とされ左側に倭健命(やまとたけるのみこと)、右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像が安置されました。

参道入口そばには、藤田小四郎の銅像が建っています。藤田小四郎は藤田東湖の四男で、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した天狗党筑波勢のリーダー、翌年に越前敦賀にて志果たせず同志352名とともに処刑されました。(享年24歳)

奇しくも像の足元に季節外れの菫の花を発見、時代に魁け過ぎた若者の姿と思わず重ねてしまいました。

筑波山の東南方面、鎌倉から戦国時代に勢力のあった小田城跡、南北朝時代には南朝の重臣北畠親房が訪れ「神皇正統記」を執筆した城として有名です。源頼朝から常陸守護に任ぜられた八田知家から15代、北条、上杉、佐竹などの勢力の間で約400年続きましたが、永禄12年(1569年)佐竹に破れ、その佐竹も秋田移封に伴い廃城となりました。

廃城から400年以上経っているので、遺構は礎石、土塁、石垣などの一部ですが、国の史跡指定面積だけでも217,000㎡、本丸を三重の堀と大小の曲輪が取り囲む広大な円郭式平城です。遺跡保護などの気運が低い昭和の始めに、本丸を串刺しにして筑波鉄道の線路が横切りましたが、現在は廃線になり歴史広場として蘇りました。どこからも北西に筑波山がいい角度で見えています。

主要な入り口とされる東虎口跡、堀は障子堀になっていて、木橋がかかり東曲輪に繋がります。後ろに見える宝篋山(461m)、この山頂にも高さ2mの大きな宝篋印塔(鎌倉時代中期作)があるのを、何度か登った時に見ましたが、一体どうして持ち上げたのでしょうか。
すべての見学箇所を地元の観光ボランティアの方々に、詳しく丁寧に案内していただきました。ありがとうございました。




柘榴、珍しく実をつけた…

2016年10月26日 | 俳句
庭に植えてから30年以上、大きく育った柘榴の木、前は生った年もありましたが、ここ何年も花は咲くけどみな落ちてしまいます。リン酸系の肥料などを与えても効果はなく諦めていましたが、今年は6個、大きな実が付きました。それも直径8センチ以上もあります。

一実百花という言葉があるくらい、ザクロは花が咲いても果実が少ない果樹とか、果実になる花とならない花両方が咲く習性があるとか…、ネットの情報も悲観的です。
10年以上前、スペイン・グラナダを訪れたとき、柘榴のことをスペイン語でグラナダということを知りました。レコンキスタの最後の砦、アルハンブラ宮殿にも柘榴の木がちゃんと植わっていました。

季語は秋、裂けた果肉からルビー色の輝く実が顔を出す様が美しく、名句がいろいろ詠まれています。有名な三鬼の句、そして一茶の句、柘榴は人肉の味がするとかよく言われますが食べた人がいるのでしょうか。

実ざくろや妻とはべつの昔あり  池内友次郎
我が味の柘榴に這はす虱かな  小林一茶
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す  西東三鬼

大洗リゾートアウトレット

2016年10月22日 | 日記
いま大洗サンビーチ海岸で津波・高潮対策事業の防潮堤工事が始まっています。

2011年3月11日に発生した東日本大震災で,大洗町では震度5強の揺れと最大波4.0mの津波によって大きな被害を受けました。津波による浸水被害は沿岸部を中心に大洗町の約1割に上り,最大波となる第3波は岸壁を超えて沿岸域のほぼ全域に襲来し,大洗町役場周辺で約1.5mの浸水を観測しました。

役場より海側にある大洗リゾートアウトレットも1階店舗は大きな被害を受け、復興後も風評被害もありなかなか厳しい経営状況で、南欧の海岸をイメージした瀟洒なショッピングモールも苦戦が続いているようです。

空きスペースのひとつ、復興展示室で津波の写真がありました。4.0mの津波が襲来し,大洗湾では湾底が露出するほどの引き波が起こり,巨大な渦がいくつも発生したということです。上部に見えるのが、リゾートアウトレットです。

その一画にある青果、地元物産などの店「まいわい市場」では、地元の老舗寿司屋の持ち帰り海鮮丼(540円)がおすすめ、リーズナブルな美味しさで人気があります。

弘道館の山茱萸の実

2016年10月20日 | 水戸の観光

早春2月に花を咲かせた弘道館の至善堂裏の山茱萸の木に真っ赤な実がなりました。
山茱萸(さんしゅゆ)は、ミズキ科の落葉高木で、その実は熟すとつやのある楕円形の赤色でとても美しく、「秋珊瑚」とも呼ばれ秋の季語です。この実のタネを除き、酒に漬けて飲用すると強壮強精に効能があるとされ、昔から有名な薬用酒になります。
なお、民謡「ひえつき節」の「庭のさんしゅの~♪」は、山茱萸でなくて山椒(さんしょう:香りの強い葉と実が食用)という説が有力です。

山茱萸は梅花よりもひと足早く、春に魁けて黄色い花を咲かせます。写真は2月初めの弘道館至善堂付近です。
この藩校で育まれたいわゆる水戸学は幕末の思想を先導し、薩長をはじめ全国の憂国の志士たちを鼓舞し、新しい時代とつなげました。しかし肝心の水戸藩士たちは思想以前の藩内抗争に明け暮れ、維新の波には乗ることもなく若い命を散らせてしまいました。

山茱萸の風にゆれあふ実を択りぬ  飯田蛇芴   (択る:える  選び取ること)

ホトトギス(杜鵑草)

2016年10月18日 | 季節の花

仙人の好きな花、ホトトギスが咲いています。ユリ科の多年草で、あちこちで見かける日本の固有種です。山地の半日陰や湿り気のある所に咲き、地味ながらなぜか気を引く赤紫色の花、山道で見かけるクリーム色のタマガワホトトギスや、白色、黄色の園芸品種もありますが、やはりこの色が杜鵑草本来の色です。もっとも交雑が進んでいるようで、我が家でも株によって花の色が違っています。

「目に青葉山ほととぎす初鰹」と句にある、鳥のホトトギスと同じ名前ですが、名前の由来も花びらにある紫色の斑紋が鳥のホトトギスの胸の斑紋と似ていることから付けられたとされています。若葉にも油染みのような斑点があるので、ユテンソウ(油点草)ともいいますが、それが鳥の胸の模様に似ているという説もあります。なお、葉の斑点は花がさく頃には消えています。
鳥のホトトギスの方は(不如帰)、(杜鵑)、(時鳥)、(子規)、(杜宇)などいろんな書き方があります。

墓の辺や風あれば揺れ杜鵑草  河野友人
朝よりも昼の暗さの時鳥草  後藤比奈夫
林中に雨の音満つ油点草  清崎敏郎