顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

水戸藩の15郷校…延方郷校と潮来郷校

2019年01月28日 | 歴史散歩

水戸藩には、庶民教育のために藩内の各地方に15の郷校がありました。そのうち潮来市には2つの郷校があり、しかも延方郷校は2番目に古く、小川の稽医館の2年後、文化4年(1807)に開設されましたが、これは水戸藩校弘道館より34年も前です。

高台にある潮来高校の麓の藪の中に延方郷校跡の碑が建っています。立ち入るのは容易でなく、コセンダングサなどのひっつき虫の激しい攻撃にさらされてしまいました。

この地方の南郡奉行小宮山楓軒の尽力により設立され、元加賀藩士沢田平格の他に、久保木幡竜、宮本茶村なども教鞭をとり、儒学の他に医術、武術などを教え多くの人材を育成しました。

この郷校にあった聖堂(孔子廟)は、明治12年(1879)に移築され、二十三夜尊堂として現存しています。学問の神様孔子を祀るこの聖堂は、光圀公が招いた儒者、朱舜水が制作した模型を元に作られたといわれます。朱舜水は水戸藩に聖堂を建てることを夢見ていましたが叶わず、その模型により後世建てられたのは、湯島聖堂と延方聖堂だけでした。湯島は震災、空襲で消失してしまいましたので、移築後修復されてはいますがこの聖堂だけが貴重な教育遺産として残っています。

屋根には孔子廟には必ずある鬼犾頭という神獣が載っています。文政2年(1819)落成時には8代藩主斉脩公直筆の「至聖先師孔子神位」の木碑が安置されました。

延方郷校設立から50年後、水戸藩も日本も時代の大きな変革を迎える波に翻弄されていました。そんな時代に即して安政4年(1857)に建てられた潮来郷校は、南郡奉行の金子孫二郎(のちに桜田門外の変の首謀者)の肝いりで、当初は岩谷敬一郎(林五郎三郎、のちに天狗の乱リーダーのひとり)が館長を務めました。当時、小川・湊・潮来の郷校は「三館」と呼ばれ、尊王攘夷の激派が集結するようになり、諸生派と対立しました。
(潮来一中のある天王台という坂下に潮来郷校跡の碑が建っています。)

元治元年(1864)には武田正生(耕雲斎)の提言で治安鎮静を目的に潮来陣屋を設けましたが、逆に尊王攘夷過激派の拠点と化し、天狗党騒乱では、潮来郷校は陣屋ともども幕府の掃討軍により焼き討ちされてしまいました。
郷校に学んだ多くの若者たちも犠牲になり、大発勢に加わった81名、天狗党と運命を共にした61名の名が銅板に刻まれた水戸烈士殉難碑が最近建てられました。

近くの浄国寺には、これらの郷校で教えた宮本茶村の墓があります。
宮本茶村は水戸藩郷士、寛政5年(1793)生まれ、10余歳で江戸に出て山本北山に学び、帰郷後家業を継ぎ私塾「恥不若」を開き多数の子弟を教育し、延方、潮来の郷校でも教鞭をとりました。弘化の国難では斉昭公の蟄居謹慎の雪冤運動をして赤沼に3年投獄されました。幕末の志士や学者との交流も多く、数多い著作を残しました。

また吉田松陰が東北遊学で嘉永4年(1851)12月19日に水戸を訪ね翌年1月20日に東北に向かう間に、鹿島、銚子方面を回遊しその際には茶村宅を訪れて一泊しました。どちらも会沢正志斎の「新論」の信奉者なので、熱い議論の一夜だったことでしょう。
河川交通の要所として繁栄した潮来の宮本家は名主も努める名家で、光圀公もしばしば訪れ同家山荘殷湖亭は公の命名と伝わります。また水戸領内有数の分限者でも知られ、藩の要請で多額の御用金に応じたばかりでなく他藩への大名貸付も行ったともいわれています。

潮来は水運を利用した奥州方面からの物流拠点で、利根川に入る前川の界隈には東北諸藩の所有する河岸が並び、蔵屋敷や遊郭も設けられ繁栄していました。
伊達河岸や津軽河岸のあった前川の天王橋付近の風景です。

天王崎入り口で見つけた本間自準亭跡の標塔です。調べてみると、水戸藩の藩医で斉昭公から救の名を与えられた医者本間玄調の初代で、松尾芭蕉とも交流のあった本間道悦が江戸から移り住み、ここで自準亭という診療所を開いたと出ていました。
なお、芭蕉は貞享4年(1687)鹿島への帰路、曽良、宗波の三人で潮来の本間松江(道悦の俳号)宅に滞在し「鹿島紀行」はこの自準亭で書かれたといわれています。

石竈(いしくど)に桜散りしく夕かな  本間 松江 

弘道館の梅も咲き始めました

2019年01月24日 | 水戸の観光
1月21日の公式発表では、偕楽園の梅の開花は71本、弘道館は9本と出ていました。2月16日からの水戸の梅まつりでは弘道館も会場になっており、約60種800本の梅が咲きそろいます。

白壁に囲まれて陽だまりの環境のせいか、いつもの場所の水戸の六名木「虎の尾」が咲き出しました。面白い名前ですが、由来は蕊の曲がり具合や旗弁の様子、または枝ぶりを虎の尾に見立てたなどと諸説があって付けた人に聞かなければわかりません。

八重寒紅が表門に色を添えています。188年前の開設当時の門で、重要文化財に指定されています。

冬至梅の白さと正庁の漆喰の白さが碧天に浮き上がるようです。

天保12年(1841)、9代藩主斉昭公の開設した弘道館での尊王攘夷を掲げた教育は水戸学ともいわれ、幕末の全国の志士達に大きな影響を与えました。

ロウバイ(蝋梅)は花期が終わりを迎えようとしています。正庁屋根の漆喰彫刻は、東日本大震災の際全国から名工を招聘して修復されました。

最後の将軍慶喜公が謹慎した部屋として歴史好きの方に人気の至善堂御座の間です。明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いで破れ江戸に戻った慶喜公は、やがて恭順の意を表し2月12日から上野寛永寺大慈院で謹慎、4月15日から7月19日までここで謹慎し新政府の命で駿府に移りました。

大手門の完成まであと約7か月、高さ13.3mの全貌が見えてきました。斉昭公の銅像も手を上げて見守っているようです。

遺跡からみた近現代の水戸  水戸市埋蔵文化財センター

2019年01月22日 | 日記

考古学というと縄文・弥生などを思い浮かべますが、時代の制約はなく人類の営みを語るモノの研究だそうで、今回は明治から戦前までの遺物を通してその時代をみる企画展が2月24日まで水戸市埋蔵文化財センターで行われています。(月曜休館)

明治から昭和初期まで水戸城跡から発見されたガラス瓶類です。廃城後の水戸城跡は、いろんな学校の他に図書館や武道館などがありましたが、どこで使われたものでしょうか、多様な色やデザイン、エンボス(陽刻)模様入などが見つかりました。

水戸城跡で発見された銃弾は弘道館戦争のものと推定されます。藩内抗争の最終章、藩士同士が戦って約200人近くが亡くなりました。本丸御殿に居た斉昭公の正室貞芳院の近くまで銃弾が飛んできたといわれています。

併設して2017年度の市内発掘調査の出土品も展示されていました。

中世の水戸を支配した江戸氏の支城、河和田城の出土品です。江戸氏の重臣春秋氏が守る河和田城は、1590年佐竹氏の水戸城攻略の翌日に攻められてわずか一日で落城、その後は廃城になリましたが、城主や主な家臣は水戸城攻防戦に出て既に戦死していたとも伝わります。

今から200年前の私塾日新館跡から発見されたオランダ陶器の碗と日用陶器、便器などです。北関東でも随一の規模で1000人以上の塾生を育てた加倉井砂山の蘭学との関係を示すものといえます。

水戸藩9代藩主斉昭公の藩政改革のひとつ殖産興業で挙げられるのが七面焼です。偕楽園下に陶器製造所(七面製陶所)をつくり、水戸藩ブランドの製陶を目指しました。

台渡里官衙跡遺跡群は、7世紀後半から10世紀初頭時代の那珂郡の政治の中枢、郡衙跡です。郡衙の付属の寺院跡から瓦が多数出土するいまだ謎多き遺跡です。

薬王院東遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期の集落跡です。古墳時代の竪穴建物跡から弥生土器が多数出土する、過渡期の珍しい事例になるそうです。

大変地味な企画ではありますが、先人の暮らしや戦いの歴史を語りかけてくれる貴重な遺物の数々が身近で展示され、水戸の大地に思いを馳せることができました。

水の都…、水戸の湧水を訪ねて⑤ 高枕亭のお茶の水

2019年01月18日 | 歴史散歩
千波湖方面から西側の緑ヶ丘と呼ばれていた台地に上がる坂道は、水戸藩2代藩主光圀公の時代にその奥行深い山水の景から窈窕坂と呼ばれていました。この緑ヶ丘は昔から筑波山や日光連山を望み千波湖を見渡せる景勝の地で、光圀公のお気に入りの場所でした。(※窈窕とは山水の景が奥深いこと)だそうです。
光圀公は寛文5年(1665)帰国したときここに「高枕亭」という質素な茶室を建て、政務の余暇に古今を考え、朱舜水を招いて儒学を学び道を論じ、詩歌の会を楽しんだといわれます。
現在、この一帯は徳川ミュージアム、彰考館と徳川邸があり、いまの窈窕坂はミュージアムへの私道になっており、上がりきったところには茶室「得月亭」が建っています。
「得月亭」は光圀公が帰藩のおり度々訪れた家臣の茶室の名前で、文人として名高い6代藩主治保公も訪れて得月の文字を破風の扁額に揮毫したといいます。その後、跡地に昭和24年(1949)、銀行家亀山甚氏が新たに茶室を建て、親交のあった13代圀順氏が治保公の例にならい得月の文字を揮毫し、彫刻家後藤清一氏が破風の扁額にしたと伝わっています。後に亀山氏の遺族から寄贈を受け、かって「高枕亭」のあった一画の現在地に移築されたと徳川ミュージアムのホームページに出ていました。
高枕亭の時から茶の湯に用いた「御茶ノ水」湧水が往時と同じように湧き出しています。水戸の湧水は水戸層と呼ばれる水を通さない凝灰質泥岩とその上の礫層との間から出ているのが多いのですが、ここは台地上の大きな石の井筒から出ています。
なお当時この西側には、茶の湯に使う茶を育てる茶園もあったと伝えられています。
徳川ミュージアム前の広場に置かれた光圀公と家康公の銅像は、ベンチに座っており一緒に撮影できる親しみやすいものです。
徳川ミュージアムの入り口になっている現在の窈窕坂の門(午後3時で閉門)には、お茶の水湧水の石碑が建っています。
確かに名に違わない奥深さを感じる山水の景が続く坂道です。
坂の下の窈窕梅林と名付けられた梅林では、早咲きの梅が数本、花を咲かせていました。
(この梅林は旧制水戸高等学校創立70周年を記念して募金により整備されたので「水高梅林」とも呼ばれています。)


築城詳細は藪の中…大館館と小館館 (大洗町)

2019年01月14日 | 歴史散歩

大洗町成田町の涸沼東岸に中世の城館跡が藪のなかに埋もれています。
大館館は標高約5mの湖岸にある比高20m前後の平坦な台地上に位置し、対をなす小館館はその北隣に位置し、同じく比高20m前後の舌状台地の先端にあります。

築城者や時期などは不明で、南北朝時代までに使用された城郭遺構という説や、この地区を領した江戸氏の涸沼の水運支配の拠点などいろんな説があり、裏付ける記録や古文書などが見つかっていないため詳細は歴史の闇のなかに眠っています。

右が大館館、左が小館館です。
館と城の違いはよくわかりませんが、館は近世における権力者の居館のあるところが時代とともに必要に応じた一定の防御力を備えたもので、戦闘を意識したつくりの城と同じ規模になっても名前は館で通したところも見られますので、明確な区別は難しいようです。




大館館の郭部分は農地になっていますが今は殆どが休耕地で藪のなか、踏み入ることも困難です。空堀や土塁は確認できますが、全体の区画は確認できず、茨城城郭研究会の「図説茨城の城郭」掲載の縄張り図を大まかに引いてみました。

小館館は小規模な単郭で出城か見張り櫓の役割を担っていたと考えられます。遺構は大館館よりははっきりと分かり、周りに空堀を巡らした主郭は土塁で囲まれています。
大館の間にある谷津は涸沼からの船着き場跡と思われるという説もありました。
築城者も時期もよくわからず、幽かな遺構だけの城跡は県内にまだまだ残っているようです。500年以上前のその場所で密かに空想に遊ぶしかありません。

すぐ近くの涸沼湖畔には「夕日の郷松川」という交流体験施設があり、筑波山の見える美しい夕日が評判をよんでします。
この涸沼は涸沼川により太平洋とつながっている汽水湖で、最大水深は6.5m、平均2.1mと浅く、湖沼水面は海面と同じで、標高(海抜)は0mだそうです。