顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

佐藤中陵と水戸藩の薬草

2018年09月30日 | 水戸の観光
水戸市植物公園で「明治維新150年記念事業 佐藤中陵にまつわる薬草展」が10月6日まで開かれています。

本草(ほんぞう)学とは、薬用になる植物、鉱物、動物などに関する学問です。
水戸藩の本草学者の佐藤中陵は、薩摩・白河・米沢・会津・松山などの諸藩に仕えたのち,寛政12年(1800)6代藩主治保公の時代に39歳で水戸藩に仕え,やがては弘道館の医学館本草教授となり,藩医の養成にもあたりました。嘉永元年(1848)87歳で没、弘道館初代教授頭取青山延于の次男で佐藤家の養子に入った延昌(佐藤松渓)が、葬儀を出すのに難儀したというほど低祿に甘んじ研究に没頭したといわれています。

佐藤中陵の著した「山海庶品(せんがいしょぽん)」は植物、鉱物、動物の効用を記述したもので、9代藩主斉昭公の命により江戸で編纂を開始し、中陵が水戸勤めとなり弘道館に医学館が開設されてからは、事業をそこに移して専門の医家が継続補遺し、数百巻に至った(一説には千巻)とされています。(写真は国会図書館デジタルコレクションより)

なお、養子の佐藤松渓は書画も能くし、実父青山延于の家塾の門下生90人の肖像を描いた「青門肖像」が弘道館に展示されています。顔に斑点のある子は、当時流行していた天然痘に罹った跡だそうです。(写真は弘道館ホームページより)

佐藤中陵が教授を務めていた藩校弘道館の開設当時の瓦を敷き込んだ一画には、水戸藩にまつわる薬草約30種類が栽培されています。

養命酒製造㈱との協働事業の薬用ハーブ園にある展示薬草の一部をご紹介いたします。

キキョウの根には去痰作用のあるサポニンが含まれており、2代藩主光圀公の救民妙薬でも痰を伴う咳、喉の痛みに効くとされています。

イネ科のハトムギ、この実は滋養強壮、美肌、鎮痛、利尿の薬として知られています。

ビナンカズラ、赤く熟した果実を滋養強壮、鎮咳の生薬にします。佐藤中陵はこの蔓性の茎を水に浸して出てきた粘液を整髪に利用したと説明書きにあります。
それがビナンカズラ(美男葛)の名の由来です。

カエルッパという名で親しまれているオオバコは、全草と種子が咳止め、利尿、消炎に効き、佐藤中陵は水腫の薬ともしています。

セリ科のセンキュウは婦人病や貧血の薬、佐藤中陵もその効果を高く評価していました。

ナルコユリの実が連なっています。江戸時代の滋養強壮薬ブームで人気の「砂糖漬けの黄精」とは、この根茎を乾燥させたものとの説明があります。

コガネバナ(黃芩)の根は胆汁分泌促進、利尿、消炎、解熱に効き、9代藩主斉昭公の書簡でも痢疾(下痢性疾患)の薬として、この根などを混ぜた「本方芍薬湯」が出てくるそうです。



園内で見つけてハンカチノキの実です。春にハンカチがぶら下がったような花を咲かせる人気の樹木ですが、実を見るのは初めてです。

水戸市植物公園は、テラスガーデン、観賞大温室、熱帯果樹温室、植物館、芝生園、ロックガーデン、湿生花園などのある洋風の庭園で、面積約80,000㎡の広い園内は、四季折々の自然が楽しめる市民の憩いの場所になっています。

猛暑の後の秋…外来種が多くなりました。

2018年09月21日 | 季節の花

秋彼岸に入りました、時期を見計らったように彼岸花(曼珠沙華)が咲き出しました。鮮やかな色で死者のイメージでしたが、最近ではいろんな色の園芸品種も出てきました。

シバクリ(柴栗)が落ちています。野生のものはほとんど虫がついてしまいます。去年はカチグリを作ってみましたが、歯が立たずまだそのまま棚に残っています。

塀の上から柿が鈴なりです。毎年この家では道路沿いの椅子の上に、「ご自由にどうぞ」という札を付けて柿を並べています。

米どころのこの辺りでは稲刈りがほとんど済んでいます。最近多くなったのが飼料用の稲を結実前に刈り取って白い円筒状に包んで発酵させ牛の餌にするものです。

ハキダメギク(掃溜菊)、牧野富太郎が世田谷の掃き溜めで発見したのでこの哀れな名前になりました。約5ミリの花は、黄色い筒状花の周りを白い3片の舌状花がきちんと5個並び、掃き溜めの貴公子のようです。一年中咲いている北米原産の帰化植物です。

マメアサガオ(豆朝顔)も、北米原産の一年草帰化植物。最近は薄いピンクのものも見かけるようになりましたが、ハマヒルガオなどとの交雑でしょうか。

蔓性の花を調べてみるとアレチウリ(荒地瓜)。輸入大豆に種子が混入,豆腐屋を中心に拡大したといわれます。1952年に静岡県で確認され、またたくまに青森以南の全国に蔓延った、日本の侵略的外来種ワースト100の特定外来生物だそうです。

オオニシキソウ(大錦草)も北米原産、肉眼では見えにくい花序周辺の形が大変面白く、白い花弁に見えるものは蜜を分泌する腺体の付属体だそうです。しかし歓迎されない雑草として、駆除方法が載っています。

ツルボ(蔓穂)は日本全国で見られる在来種で、国外では朝鮮半島、中国本土と台湾などに分布します、と何故かホッとする生態系です。春に出た葉は夏に枯れ秋にまた出た葉の間から花穂が出るユリ科の多年草です。

チョウジタデ(丁子蓼)は花弁5枚、同じ仲間で花弁4枚のヒレタゴボウ(鰭田牛蒡・別名アメリカミズキンパイ)とともに水田の難防除雑草として稲作農家の大敵です。

マメ科のクサネム(草合歓)はネムノキに似た優しい葉ですが、同じく水田の雑草では難敵のようで、特に結実した種は米粒と同じ大きさで混入してしまうとコメの等級を落としてしまうそうです。

またも大きなキノコ、傘の縦線がきれいなので目に付きました。調べてみるとタマゴテングタケモドキ、胃腸系の中毒症状を引き起こす毒キノコでした。

ここを墓場とし曼珠沙華燃ゆる  種田山頭火
曼珠沙華地下に血脈あるごとし  福田蓼汀

芭蕉ゆかりの名刹、雲巌寺   (大田原市)

2018年09月17日 | 歴史散歩
吉永小百合出演のJR東日本のテレビCMで一躍有名になった雲巌寺は、八溝山地の奥にある臨済宗妙心寺派の名刹で、筑前博多の聖福寺、越前の永平寺、紀州由良の興国寺と並んで、禅宗の日本四大道場と呼ばれています。

武茂川にかかる瓜鉄橋(かてっきょう)、緑の深山と石段を背景にお定まりの撮影ポイントです。「瓜鉄」とは「子孫が長く続いて繁栄すること」を意味しているそうです。

急な石段を登り山門をくぐると、正面に仏殿(釈迦堂)、方丈(獅子王殿)が一直線に並ぶ代表的な禅宗伽藍配置となっています。

開祖は仏国国師(後嵯峨天皇の第三皇子)で関東地方を行脚中、この地に庵を結び弘安6年(1283)に時の執権北条時宗が大檀越となり大禅寺を建立しました。

天正18年(1590)豊臣秀吉よる小田原征伐の際、烏山城攻めで住民が雲巌寺に逃げ込みました。豊臣方は北条氏を大檀那とするこの寺を軍事要塞と見なし、火を放ちましたが数年後再建されました。弘化4年(1847)にも再び火災に見舞われ、嘉永2年(1849)になって再建されています。

山門は豊臣方の火災にも焼け残ったと伝わっていますが、江戸時代前期に再建されたものと考えられます。山門二階内部には、宝暦9年(1759)に二階部分を修復したことを示す修理札が残されているそうです。かっては杮葺でしたが昭和30年代後半に現在の銅板葺きになりました。

仏殿(釈迦堂)は、幸いにも弘化4年(1847)の火災を免れましたが、天正の兵火後300有余年が経過したので、大正11年(1922)に改築竣工されました。その建築様式は、鎌倉末期の手法によるそうです。ご本尊は銅造釈迦如来坐像です。

方丈(獅子王殿)には「人面不知何處去 桃花依舊笑春風」の扁額が掛かっています。桃花は去年と同じように美しく咲いているが、去年相見た人はもはやいないという意味の禅語だそうです。

芭蕉が江戸深川時代に禅の教えを受けた佛頂禅師が、かつてここで修行をしたことから、芭蕉自身も元禄2年(1689)にここを訪れ、「おくの細道」に書いています。佛頂禅師は鹿島の根本寺21世住職で、鹿島神宮との領地争いの訴訟のため芭蕉庵に近い臨川寺に滞在し、芭蕉はしばしば訪ねて教えを受けていました。

「おくのほそ道」 の雲巖寺の段に「当国雲岸寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。『竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば』 と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。(中略)後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。『木啄も 庵はやぶらず 夏木立』と、とりあへぬ一句を柱に残侍し。」とあります。その佛頂禅師の歌と芭蕉の句の石碑があります。

やっと秋の気配…

2018年09月13日 | 季節の花
記録ずくめの猛暑でした。しかも豪雨や台風、大地震の自然災害も加わり、被害のあった方には申し訳なくて、暑かったなどとは贅沢かもしれません。
9月中旬、3カ月ぶりくらいで歩いてみると秋の気配がしっかりと感じられました。

今年も高速道の法面で見つけました!オミナエシ(女郎花)。秋の七草の一つですが、近頃は野山で見かけなくなりました。乱獲?、気候?…、何のせいでしょうか。

ハギ(萩)はマメ科の落葉低木、水戸の偕楽園では萩まつりが行われていますが、野山ではこのヤマハギが主役、万葉集でも一番多く詠まれた花なので、もちろん秋の七草です。

クズ(葛)の花も秋の七草、蔓延るという漢字そのままの性格で、あたり一面を蔓で覆ってしまう生命力で嫌われますが、根から取れるでんぷん質は葛粉や漢方の葛根になります。 

ゲンノショウコ(現の証拠)は、センブリとともに胃の薬草で知られています。名前は間違いなく効くよということでしょうか。筋の入った5枚の花弁に10個の雄しべは、自然の造形です。東日本に多いのが白紫色で、西日本では紅紫色だそうです。

キツネノマゴ(狐の孫)は目立たない雑草で、孫狐の尻尾に似ている命名とか…諸説があるようです。腰痛、風邪などに薬効があるとされています。

ブログのおかげで、小さい花でも気付くようになりました。ヤブツルアズキ(藪蔓小豆)、初めての撮影です。小豆の原種のひとつといわれており、この豆でぜんざいを作ったブログ記事では、皮が少し硬いけれど充分に美味しかったと出ていました。 

ヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)は北米原産で薬用として渡来、今は侵入植物データブックに載っています。根がヤマゴボウに似ていますが、全草に毒を持っているそうです。

鮮やかなオレンジ色のマルバルコウソウ(丸葉縷紅草)も、観賞用のものが野生化し、国立環境研究所の侵入植物データブックにも載ってしまいました。

タマスダレ(玉簾)が休耕田に咲いています。黒い種は風で飛ぶほど小さくないのでどうしてここまで来たのでしょうか。

畦道に出たニラ(韮)の花もよく見れば花弁、雄しべ、雌しべが整然と並んでいます。最近は花が開く前の花ニラが店に出ていますが、甘く柔らかく美味です。

あまりにも毒々しい綺麗さ、調べてみるとテングタケ科のタマゴタケ、食用になりしかも美味しいとか、とても手が出ません。土から顔を出すとき、卵のように見えるのが名の由来だそうです。

さて、花粉症の方はご用心、猛暑の翌年は花粉飛散量が増大するそうです。敵はもうすでにびっしり蕾を付け、春の攻撃の準備完了のようです。

八幡宮が2つある町…常陸太田市

2018年09月10日 | 歴史散歩
常陸太田市には、2つの八幡宮があります。どちらもこの地を治めた由緒ある佐竹氏の造営ですが、秋田へ移封後は徳川光圀、綱條の寺社改革により、水戸藩内で105社の八幡社のうち101社が取り潰しとなった、「八幡潰し」といわれる神社改めにも生き残った4社のうちの2社です。

馬場八幡宮


天喜4年(1056),源頼義が陸奥の安倍頼時鎮撫に向かう途中,源氏の氏神の石清水八幡宮の神霊を当地に分祀したことが起源とされます。(1092)賴義の子、義家、義光兄弟が戦勝を報告し馬場先にて流鏑馬を奉納、弟の新羅三郎義光がこの地に土着します。(1108)、孫の昌義の代で佐竹氏を名乗り、以後佐竹氏の守護神として崇められ大田郷の総社となりました。主祭神は誉田別命(ほむたわけのみこと=応神天皇)です。

さらに,3代目隆義の頃には,本社,礼拝堂,楼門,神宮寺,庁屋を築造しますが,天正2年(1574)に雷火のために焼失してしまいます。現在の社殿は18代義重が天正8年(1580)に造営したもので、躍動感あふれる室町時代後期の建築様式を伝えています。

天正19年(1591)、19代義宣が江戸氏を滅ぼして水戸城主になると、馬場八幡宮の分霊を水戸城中に奉斎し、これが水戸八幡宮の創祀とされています。

佐竹氏が秋田へ転封となった際は、馬場八幡宮の分霊を秋田までも勧進し、八幡秋田神社を建立して崇敬しました。



若宮八幡宮


若宮八幡宮は、「八幡宮の若宮」という意味で、多くは八幡宮の神・応神天皇の御子神である仁徳天皇「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)」を主祭神として祀ります。
この地の若宮八幡宮は直線距離で1.4Km先の馬場八幡宮と対をなす,佐竹源氏の氏神で、13代義人が応永元年(1394)に鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を,舞鶴城中に分祀したのが始まりと言われています。
この13代義人は、関東管領の上杉家から8歳で佐竹家に養子に入り、そのことが佐竹一族の山入氏と約100年にわたる抗争の発端となりました。

参道の両脇には6本のケヤキが立ち並んでおり、鳥居をくぐったすぐ右側の1本は、古くから同社の御神木として崇められてきたもので、茨城県の天然記念物にも指定されています。根回りは25m、目通りは11.4m、高さは約30mで、樹齢は約640年と推定されています。

鯨が丘といわれる常陸太田の高台は、佐竹氏の居城太田城(舞鶴城)で、その二の丸の南端にこの若宮八幡宮があります。遠くに徳川光圀が生母を弔うために建立した久昌寺と義公廟が見えます。

佐竹氏は秋田に転封となった時も、大館城に入った佐竹西家が若宮八幡宮の神霊を城内に遷し、大館八幡神社を祀り守護神としました。

佐竹氏転封以後、この地は水戸徳川家の支配となります。水戸藩2代徳川光圀、3代綱條は、「八幡潰し」という八幡社に厳しい寺社改革を行います。水戸藩内の八幡社は、寺社名を吉田、静、鹿島、香取、諏訪等に改める、他の神社に合祀させる、破却するかにしました。その中で、常陸太田市のこの2社と水戸八幡宮(水戸市)、安良川八幡宮(高萩市)の4社だけが存続が認められました。
「八幡潰し」の理由としては、八幡大菩薩という神仏習合的信仰からとか、旧領主佐竹氏の氏神でありその影響を排除するためとかいわれていますが、八幡社は源氏を名乗る徳川家の氏神にもなります。しかも水戸藩における八幡信仰の拡大は、佐竹時代より光圀の時代のほうが多かったので、藩主の氏神を村鎮守とすることを禁じたためという見方もあるようです。
いずれにしても、これが9代斉昭や明治政府の神仏分離、廃仏毀釈に続く寺社改革の始まりになります。