顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

散歩道の花…まるで人間嫌いになったような日々です

2020年04月27日 | 季節の花
約半世紀前に郊外の高台にできた小さな団地に住む仙人の散歩コースは、女性の方は一人歩きを避けるほどの人家のない自然の中です。

ウワミゾサクラ(上溝桜)は、葉や枝は桜にそっくりのバラ科サクラ属でも花は穂咲き、しかしよく見ると五弁の花は蕊の長い桜の形をしています。材の上面に溝を刻んで亀甲占いに使ったことからの命名だそうです。

高速道のフェンスに絡まったミツバアケビ(三つ葉木通)は雌雄同株、雌雄異花で、上が雌花で下の垂れているのが雄花です、


薄暗い一画に毎年顔を出すシラユキケシ(白雪芥子)、株がだんだん増えて楽しみですが、ネットで見ると繁殖力が強く駆除している地域もあるとか、とてもそんな風には見えませんが…。

タツナミソウ(立浪草)、北斎の描く波がしらのような花が同じ方向に向いています。まさしく名を付けた人に拍手です。

畔のアリアケスミレ(有明菫)、以前はいっぱい顔を出していましたが、今は探してもなかなか見つからなくなりました。

どこにでもあるカラスノエンドウ(烏野豌豆)、この豆鞘を食べた人のブログでは、味がなくてあまり美味しくないと出ていました。

一方、家庭菜園に蒔いたスナップエンドウは、暖冬のせいで冬も成長を続けて茂り過ぎ、豆を見つけるのに一苦労です。

この豆の茂みの中を絶好の棲み処としているのがトカゲ…、ウェブで調べるとどうもカナヘビのようですが。可愛らしいので「愛蛇(かなへび)」という名が付いたといわれています。

タケノコ(筍)も最初のうちは高値で出ていますが、だんだん採る人もなく放置されやがて足で蹴飛される運命が待っています。

田んぼの水路にメダカ(目高)の集団、農薬にある程度順応しているとはいえ、水が枯れる冬季には淀みの中でじっとして春を待っていたのでしょうか。

花あけび雄花雌花とこくうすく  山口青邨
屈み見て立浪草の濤のさま  森重昭
筍の脱ぎたる皮は一張羅  辻田克巳
筍を好きに掘れよと僧の留守  松尾緑富

照願寺と薄井友右衛門

2020年04月24日 | 歴史散歩

毘沙幢山無為院照願寺は、常陸大宮市鷲子(とりのこ)地区にある親鸞24輩第17番の浄土真宗大谷派の寺院です。

開基の念信はこの地の高沢城主高沢伊賀守氏信でしたが、本尊観世音菩薩の御告げと父の臨終の遺言により稲田に親鸞聖人を訪ね、31歳で出家し念信という法名を賜り、貞応元年(1222)小舟地区毘沙幢に草庵を結んで布教に努めたと伝わります。

この草庵に親鸞は6度も訪れ、安貞2年(1228)、一泊した朝に草庵前の桜の木が一夜のうちに満開となり、親鸞は草庵を発つ時、振り返り振り返り、称名念仏しながら去っていったので、その桜の樹を「見返りの桜」というようになったといわれています。

寺伝によるとその後、春丸の地を経て明徳元年(1390)現在のこの地に移りますが、江戸時代に藩主光圀公の命により見返りの桜もこの地に移されたと伝わります。昔の写真では大木ですが、今はその一部がわずかに残っている感じです。


本尊は阿弥陀如来立像、鎌倉時代後期から南北朝時代の作ともいわれます。

梵鐘にある寄進者名に嘉永2年(1849)薄井友右衛門という名を見つけました。
薄井家は瀬谷義彦著「水戸藩における献金郷士の成立をめぐって(1966)」には、「鳥子村薄井氏富豪にして紙を欝ぐことを業として郷中に名あり」といわれ、西の内和紙などの和紙の新問屋として、明和(1765)頃から次第に富裕化した山間の旧家で、二千両を献じて150石を給される郷士となったとあります。

この薄井家は幕末の水戸藩の抗争で、諸生党の市川三左衛門に資金を援助していたため、当主の6代目友右衛門自身も市川勢に従ってやがて水戸を脱出、最後は会津で死んだという説や、慶喜公に従い静岡に向かったという説までもあるそうです。弟の謹之進は五稜郭で戦死し、薄井の一族の男子には北越戦線でも戦死や自刃したものもいると伝わります。

鷲子の薄井一族も散り散りになって逃げますが、この悲劇は、友右衛門の娘ですでに江戸の酒問屋加藤家に嫁いでいたトシのところにも及びます。明治元年、天狗党を名乗る者たちに襲われて全財産を奪われ家業もつぶれたといわれます。
このトシの孫が沢村国太郎、沢村貞子、加藤大介の兄弟、そして国太郎の子が長門裕之、津川雅彦という芸能一家のルーツになります。

梵鐘には戦時中に供出されましたが、この争乱から約100年後の昭和44年に薄井一族の浄財により復元されたと記されており、一族の中に沢村兄弟の名も刻まれています。

幕末水戸藩の抗争に巻き込まれた薄井一族、その盛衰を見てきた800年の歴史をもつ古刹はひっそりとして、人影はまったくありません。シキミ(樒)の芳香が漂っていました。



春は花…徒然なるままに ③

2020年04月21日 | 季節の花
さてさて、春の花探訪のとどのつまりは外出控えてちいさな庭をひと廻り、これこそ完全に3密避けての自粛です。

アジュガは山野草のジュウニヒトエ(十二単)の園芸種で、セイヨウジュウニヒトエ(西洋十二単)ともよばれます。

リキュウバイ(利休梅)は中国原産の落葉低木、茶花として使われるので利休の名が付いたといわれます。

ニホンサクラソウ(日本桜草)のタネがこぼれて、庭のあちこちに小さな花を咲かせています。


ヤマブキ(山吹)とシロヤマブキ、よく似ていますが、バラ科ヤマブキ属とバラ科シロヤマブキ属でどちらも一族一種の別属の植物です。
大きな違いは、花弁の数でしょうか、またシロヤマブキは存在感のある真っ黒なタネが実ります。

半日蔭の環境が気に入ってもらえたのかイカリソウ(碇草)がどんどん増えています。

増えすぎて困るのはシャガ(射干/著莪)も同じ、木陰などのやや湿ったところが好きで勢力を伸ばしています。

スノーフレーク(snowflake)」は「雪片」という意味だそうです。別名の鈴蘭水仙は花がスズランに、葉がスイセンに似ていることに由来します。

毎年2,3株のニリンソウ(二輪草)が増えも減りもせずに顔を出してくれます。

ライラックはフランス名のリラの花でも知られています。香水の原料になるほどの芳香が人気の庭園樹です。


ヒトリシズカ(一人静)はすでに花は終わり、今フタリシズカ(二人静)の芽が一斉に出てきました。

ハナダイコン(花大根)はムラサキハナナ(紫花菜)ともよばれて、大根の花に似ているので名前が付きましたが大根とは違う属です。白花も咲いています。

ハナスオウ(花蘇芳)はマメ科の落葉低木で、ハート型の葉も可愛く樹形も箒立ちで広がらないために庭木に人気があります。

ワラビと山の中の城跡

2020年04月18日 | 山歩き
茨城県北部には、秋田移封まで約500年間この地を支配した佐竹氏の出城や館跡が数多くあり、常陸佐竹研究会の「常陸太田市内外の佐竹氏関連城館(平成28年刊)」には119の城館が載っています。

ほとんどが自然の地形を利用した山の中の戦闘用の城で、今はひっそりと林や藪の中に眠っていますが、一部の城址は地元の方により草刈りされたりや案内板が設置されている所もあります。

この時期にその城跡を訪ねると、陽当たりのいい郭あとにはワラビが元気に顔を出しています。
隣国との領地争いや内部抗争の戦いに明け暮れた佐竹一族の城、当時の兵士たちも戦いの合間に籠城食として摘んでいる場面を想像してしまいます。

ワラビの間にハルリンドウ(春竜胆)が咲いていました。群落よりもぽつんと咲いているのを見つけると何とも嬉しくなります。

結構採れたワラビは生きのいいうちにアク抜き作業です。草木灰がいいのですが、仙人は重曹を使います。軽く洗ったワラビをボールに入れて3%の重曹をふりかけ、熱湯をひたひたに沈むようにかけて約6時間で出来上がりです。

これに鰹節と醤油をかければ、ワラビ特有のぬめりとシャキシャキ感が味わえます。おかげで何軒かに春の味をおすそ分けすることができました。

外部との接触自粛、この日も立ち寄ったコンビニでお昼を買った以外、道中誰にも会いませんでした。こんな時期にこういう過ごし方ができる環境にも、感染者や医療従事者には申し訳ない気持ちが同居してしまいますが…。

眼を先へ先へ送りて蕨採る  右城暮石
なほ奥に蕨の長けしひと所  稲畑汀子
籠城の曲輪は狭し蕨摘む  顎鬚仙人

水戸八分(はっぷん)書体

2020年04月15日 | 歴史散歩

八分書体とは、秦代(前221~前207)に篆書を簡易化し身分の低いものにも理解できるようにした隷書体が,漢代(前202~220)になると装飾的要素が加わり,線が波形で筆端をはねる波磔 (はたく)をもつようになった書体のことをいいます。
名称の由来については,「八」字のように左右均整のとれた字形であるからとする説などいろいろありますが、後に隷書と八分は同義に使うようにもなりました。

水戸藩9代藩主徳川斉昭公は書を良くし、特に隷書体の書が多く残っており、八分の特徴をさらに強調しているその書体は「水戸八分」と呼ばれるようになりました。
その特徴が顕著な斉昭公の書が水戸市立博物館で展示されていました。


斉昭公の筆と伝わる水戸八景の碑文も、典型的な水戸八分として知られています。水戸領内の景勝の地を8か所選んで、藩内子弟の風月鑑賞とそこを巡ることでの心身鍛錬を意図して天保年間に建てられました。(右から 山寺晩鐘 太田落雁 水門帰帆 巌船夕照 仙湖暮雪 村松晴嵐 青柳夜雨  広浦秋月)
水戸八景の8か所については、弊ブログ「水戸八景…斉昭公選定の水戸藩内の景勝めぐり 2020.8.18」で紹介させていただきました。


斉昭公が行った2万人規模の軍事大演習、追鳥狩で使用した「陣太鼓」と、海防のために領内の寺院の鐘や仏像などを鋳つぶして作った「太極砲」にも水戸八分書体が彫られています。
常盤神社境内にある義烈館に展示されています。(写真はホームページより拝借いたしました。)


国会図書館デジタルコレクションの「常磐公園攬勝図誌(松平俊雄 編述)」 に陣太鼓の書が載っています。陣太鼓には『天を震わし地を動かし、雲を起こし風を発す。三軍踊躍し、進んで忠を盡さんことを思う。』と、斉昭の自筆で書かれています。


弘道館に展示されている弘道館記碑と種梅記碑の拓本の文字にも、前の3例ほどではなくても、水戸八分の書体に見えます。

この水戸八分書体は、激動の幕末を駆け抜け、烈公とおくり名された斉昭公の生きざまを表すように見えて仕方ありません。


なお、大日本史の完成に携わった栗田寛の次兄、亀井有斐は嘉永4年(1851)笠間城下の豪商亀井家の養子となり家業の傍ら能書家としても知られ、弟栗田寛が「仲兄(有斐のこと)書ヲ善クス・尤モ八分ニ長ジ、名声戸遠近ニ譟シ」と語るように、有斐はとりわけ隷書体の中の八分隷という書体を得意としました。笠間近郊には今でも有斐の書といわれる墓碑などが残っており、水戸八分の影響を受けた字体のように感じました。